No.34ベストアンサー
- 回答日時:
> 大乗仏教、小乗仏教。
一つの説は、大乗は国家や、社会を救い、小乗は個人を救う。> もう一つは、大乗は、出家者、在家者すべてを救い、小乗は、出家者だけを救う。
竹村牧男 『大乗仏教入門』
十地の道程を進めば、やがて仏になるはずです。そして、そこに菩薩の究極の目標があるはずです。しかし、菩薩のなかには、仏となることを拒否する者もいます。あえて仏にはならずに、菩薩のままでいたいというのです。それは、いつまでも衆生とともにいて、そして衆生救済に励みたいからなのです。[...]
一般に、仏になりえない者を「一闡提」といいます。大乗仏教では、本来、仏になりえない者はいないのですが、あまりにも煩悩が深重で善を修める能力のないものや、正しい教えと真理を誹謗する人などは、仏にはなりえない、一闡提と呼ばれるのだとあえていうのです。その一闡提のなかに、菩薩の一闡提もいるのです。それは、仏になる能力を欠くからではなくて、大悲によって自ら仏にならないからです。そうした菩薩の一闡提を、大悲闡提といいます。
大悲闡提の菩薩は、自分から進んでわざわざ苦しみ悩む人のそばに赴きます、むしろ自ら願って苦悩の深い世界、悪趣に生まれようとするのです。十地を上ってさらに仏となるよりも、あえて人間界やさらには地獄界に往って生まれようとします。自ら求めて困難の多い、重苦ののしかかる世界に生まれ、働こうとするのです。こうした菩薩を、願生の菩薩といいます。 [...]
仏になったからといって衆生救済の活動ができなくなるはずはありません。しかし大乗仏教徒たちは、あえて涅槃に入らない菩薩、仏にならない菩薩という考え方を提示したのです。ここにともかく、自ら悪趣に生じてまで、一切衆生を救済するのだという菩薩の理想が示されています。『法華経』の法師品第十には、「大願を成就せるも、衆生を愍むが故に、この人間に生れたるなり。」「清浄の土を捨てて、衆を愍れむが故に、ここにうまれたるなり」ちにあります。この切なる願いに、菩薩道の本義があると考えられます。
十地の菩薩道は、菩薩がいかに向上していくか、ということを描くだけが本意ではありません。むしろ、どのように一切衆生救済の主体となっていくかが主題であるともいえます。そして、その究極は、仏となることを自ら拒否し、あえて願って悪趣に生まれる菩薩となることにあります。ここに大乗仏教の核心があるのです。
No.33
- 回答日時:
> 大乗仏教、小乗仏教。
一つの説は、大乗は国家や、社会を救い、小乗は個人を救う。> もう一つは、大乗は、出家者、在家者すべてを救い、小乗は、出家者だけを救う。
竹村牧男『インド仏教の歴史』
[大乗仏教には]仏の理解に関して、単に煩悩の苦しみから解脱した覚者というだけではなく、人々を救い出す覚者であるとの理解がある。覚者の意義の理解が、部派仏教とは異なっているのである。その源は、仏伝文学の『燃灯仏授記』の物語に求められよう。そこでは、釈尊のはるか過去世の前身が、スメーダ青年として描かれている。それによれば、
その昔、インドのある都にスメーダというバラモンの青年がいた。スメーダ青年は若くして両親を亡くし、多くの財産を相続することとなった。しかし、その財産も両親も死ぬときに持っていくことができなかったことを想い、人生の意味を考えてしまう。[...]
その頃、弟子を従えて諸国を歴訪していたある仏が、山のふもとのある町にやってくるということがあった。スメーダ青年はそのことを知って、ぜひその仏に会いたいと思い、町の人とあたりを美しく飾って迎えることとした。特にスメーダ青年は、町の人に修行者と知られていたので、道がぬかって汚くなっているところを割り当てられて、その補修に一心に当たっていた。しかし、道の修理が終わらないうちに、仏が町へやってくることになった。
スメーダ青年は、仏がどろどろの道にはまらぬよう、自分の背中を渡って頂こうと思い、長い髪を投げ出し、うつ伏せになって身体を泥土への橋とした。仏が自分の背中を渡っていかれる姿に触れて、スメーダ青年はハッと気づくものがあった。
「私一人が力を得ても、私一人が迷いを渡ったとしても、それに何の意味があろう。むしろ一切の人々を迷いから渡す人に、自分もなろう」。こう覚悟を定めずにはいられなかったのである……。
一般に、釈尊は、「四門出遊」の話に代表されるように、自己の生・老・病・死の苦からの解脱を求めて、修行に入ったと伝えられていた。しかし、仏伝文学での釈尊の前身、スメーダ青年の覚者を目指す動機は、それをくつがえすものとなっている。むしろ、他者の苦からの解放を自己の第一の願いとするように変換されている。その覚悟は、近くに現れた仏の姿を目のあたりにしてのことによるのであった。
この仏は、スメーダ青年の心に菩提心をともした仏として、燃灯仏(ディーパンカラブッダ)といわれる。こうしてスメーダ青年は、同じ仏となる修行をしようと思って八つの願を立てるのであり、このときディーパンカラ仏は、「かれは遠い世に、きっとゴータマという覚者になるであろう」と予言し、かつその保証を与えるのである。これを授記(記別を授ける)という。
No.32
- 回答日時:
救いということ とくに現生正定聚をめぐって
をGoogleで検索してみてください。
ものすごく良い文章です。
感動しました。
質問者さんとやりとりさせていただく中で、私もこのような素晴らしい文章にであうことができました。
大変ありがとうございました。
この文章を書かれた方、おそらく浄土真宗本願寺派の方ですね。少なくとも真宗大谷派の方ではないと思います。真宗大谷派の方であれば、ちょっと違う話になるであろう部分はあります。そういうことはありますが、にもかかわらず、全体として、素晴らしい文章であると思います。
こちらこそ詳しくいろいろ教えていただき感謝しています。
救いということ とくに現生正定聚をめぐって
読ませていただきました。親鸞さんの人間に対するやさしい視線がよくわかる気がします。
親鸞の人はすでに罪深い存在である、という考え方に感じるものがあり、きいてみると、親鸞は法然の弟子であるとわかり、ではなぜ、親鸞が法然以上にこれほど取り上げられることが多いのかという疑問から質問を出してみました。
大まかに把握することができました。ありがとうございました。
また、大乗、小乗については改めていつか質問を出します。
最後の回答をベストアンサーとさせていただきます。ありがとうございました。
No.30
- 回答日時:
これである程度分かりやすいですか?
真宗の外部から、哲学・思想として見た場合に一般的な意見
現生正定聚:
法然上人は言っていない。
親鸞聖人は言っている。
(但し、信仰としては、親鸞聖人ご本人の主観としては、現生正定聚の考えは、既に、法然上人の考えにあったのだ…と心から信じておられた…という可能性はありえます。)
信因称報:
法然上人も親鸞聖人も言っていない。
これを初めて言ったのは覚如上人。
これを広めたのは蓮如上人。
(但し、信仰としては、覚如上人も蓮如上人も浄土真宗本願寺派も真宗大谷派も親鸞聖人の考えの中に既に元々、信因称報という考えはあったのだ…と信じている、実感としてそう読める。)
よくわかりました。
ただ、このあたりをつめていくといわゆるスコラ哲学的になっていくような気がします。
解釈よりも、私たちの生き方にどうかかわってくるのか、の視点で見たいという気持ちもあります。
No.29
- 回答日時:
> 念仏はその感謝の表現だということですね。
いいえ、それは信因称報と言って、もしも、信仰を離れて、哲学・思想の文脈で言うと、本願寺の覚如上人が最初に言い、後に、本願寺の蓮如上人が広めたものです。
哲学・思想の観点からすると、親鸞聖人は、信因称報は言っていないというのが一般的な理解です。
けれども、これは、信仰の観点とはどういう意味かの、期せずして、非常に良い例だと思います。
ご質問者さんは、ああ、だから、念仏はその感謝の表現だとなるんだなぁ、つながるなぁ、肯けるなぁと思われたわけですね。
それは、浄土真宗本願寺派および真宗大谷派の門徒の信仰としての理解に近いです。
つまり、親鸞聖人は信因称報は哲学・思想の立場からすると言っていない。
が、本願寺の蓮如上人が親鸞聖人の真意は信因称報だったんですと言われて、そう思って親鸞聖人の書かれたものを読むと、読み手の主観、意味づけ、読み込み、実感として、ああ確かにそうだなあ、それで、腑に落ちる、それで理解できる、それで分かる…と心から肯けるわけです。
親鸞聖人は信因称報を言っている…と読めるんですね。実感として。親鸞聖人の文章は信因称報を意味しているように読める。無理矢理そう読めるのではなくて、こじつけではなくて、本当にそう感じられる…。
(当たり前ですが親鸞聖人の文章、テクストそれ自体には「信因称報」という単語はありません。あったら、さすがに、哲学・思想の観点と、信仰の観点と、二つの観点は出ません。信因称報という単語があったら、それは異論の余地なく、言ってます。客観的事実です。主観が二つに分かれる余地がありません。)
それが信仰という観点です。
が、それは、何しろ、本願寺の蓮如上人の読みですから、多分、真宗の十派の中で、本願寺系の浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の2派では、そう本当に読める、実感ですが、他の人からみたらそうは読めない、親鸞聖人は信因称報は言っていないという意見が一般的でもあるのです。
おうおうにして、思想は生み出したその人の真意をはかって、弟子もしくは信奉者が広めるということはよくあることでしょう。
広まった考え方と、原思想が全く乖離してしまうということもよくあることです。
この場合、そのような乖離はなく、信因称報=報恩感謝と考え、これを親鸞の教えと考えてもそう間違いではないでしょう。
No.28
- 回答日時:
> 現生正定聚が親鸞の独自の教えの一つだとすると、これは前に出たと思いますが、法然の念仏の概念とちがうわけですね。
現生正定聚は、親鸞聖人ご本人は、法然上人の仰ったことの「真意」であると、主観的には確信しておられた可能性はゼロとは言えませんが、そういう信仰の問題ではなくて、真宗門徒以外から見ると、第三者から哲学・思想として見た場合、法然上人は言っていないというのが一般的な意見です。
ただし、「念仏の概念とちがう」というのはよく分かりません。
法然上人は現生正定聚までは言ってないだろう、というのは、思想・哲学として見た場合、真宗門徒が信仰としてではない場合には、一般的な意見です。
が、現生正定聚は「念仏の概念」ではないと思います。
この違いを大きいとご質問者さんが思われるのであれば、大きいと思うでまったく問題ないと思います。
私は細かいこと、微妙なことだと思っているということは一切ありませんので誤解のないようにお願いします。
法然上人と親鸞聖人の「思想」の違いが分かって良かったですね。
どうも貴兄は研究者的な視点で見ておられるように思うのでわかりにくいのですが、ここまでの時点では、法然と親鸞の人間観の違いと考えてみたいと思います。
No.27
- 回答日時:
> 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)これは全く知りません。
Googleなどで検索してみてください。もし現生正定聚がなければ、現生不退でもOKです。
浄土真宗本願寺派および真宗大谷派の門徒であれば、現生正定聚も、法然上人の真意であるというようなことを信じていても決しておかしな話でもないし、間違いでもなく信仰というのはそういうものですが…
けれども、そういう宗教、信仰ということを離れて、思想・哲学だという観点からすると、法然上人は言っていない、親鸞聖人は言っているというのは、非常に一般的な理解です。
(「悪人正因」や「他力」は、法然上人が言ったことを親鸞聖人はそのまんま言っていて、同じというのは、宗教や信仰を離れても、おそらく誰が見ても一般的ではあります。)
ウイキペデイアによれば、信心を受容すれば、その時点で往生は約束される。
念仏はその感謝の表現だということですね。
現生正定聚が親鸞の独自の教えの一つだとすると、これは前に出たと思いますが、法然の念仏の概念とちがうわけですね。
このちがいは、そう小さなものとはいえないのではないでしょうか?
念仏の時点で、すでに救われているのと、救いはこれからだ、というのでは、心の持ち方としては、大きな違いのようにも思えますが。
、
No.26
- 回答日時:
> 浄土宗、真宗本願寺派、大谷派でセクト主義のような対立はあまり耳にしませんが、それなりにあるのでしょうか?
わかりにくかったようですみません。
単に一般論として、ある信仰があった場合、その信仰で全ての人が救われると本当に信じているなら、キリスト教徒から見たら全世界の全ての人がキリスト教の同朋、イスラム教徒から見たら全世界の全ての人がイスラム教の同朋……
ということになるはずだという考え方もありますよね
というだけを言い換えただけです。
浄土真宗の場合、全ての人間が御同行、御同朋というところまで思わないと本当ではない…
という言い方をします。
そうでないセクト主義があってはいけないよね…
という続き文句で決まり文句のようなものがあるのです。
No.25
- 回答日時:
> また、二派の違いは何かという問いは、
> 親鸞と法然の違いに変容し、
> 1.法然と親鸞の教えの違いは全くない。
> 2.法然の思想は親鸞に受け継がれ、
> 今の浄土真宗の教えとなっている。
> 今の浄土宗は、法然の思想とはかけ離れたものだ。
まったく全て繰り返しになりますが…
( 1) 親鸞聖人ご本人は、法然上人のみ教えをただ100%信じていただけで、何も足さず、何も引かず、そのまんまであると思われていたと考えられます。
( 2) 仏教というのはそういうもものです。先人の教えに何も足さず、何も引かず、そのまんま相続していくものです。新たな発見とか、思想革命とかはないものです。
( 3) まったく別の観点、仏教ではなくて、信仰ではなくて、思想・哲学として捉えた場合でも、少なくとも「他力」とか「悪人正因」は法然上人の仰られたことを親鸞聖人は何も足さず、何も引かずそのまんまただくり返しているだけと思います。
( 4) まったく別の観点、仏教ではなくて、信仰ではなくて、思想・哲学として捉えた場合、「現生正定聚」は、親鸞聖人は仰っていますが、法然上人はそこまでは仰っておられないという見方はあり得ます。この信仰、宗教とは別の観点からすると、法然上人と親鸞聖人とは異なります。「他力」や「悪人正因」は異なりません。けれども「現生正定聚」は親鸞聖人にはあっても、法然上人にはありません。
( 5) 法然上人と親鸞聖人は「信因称報」であり同じであるが、現在の浄土宗は違う、現在の浄土宗は「念仏往生・称名正定業」であるというご意見が他の方から出されました。そのご意見は、浄土真宗本願寺派の門徒あるいは真宗大谷派の門徒としての信仰としては分かりますし、尊重しますが、浄土真宗本願寺派の門徒あるいは真宗大谷派の門徒でない人からみてもそうなのかどうかについては、留保はあり得ると思います。なぜならば、浄土真宗本願寺派(+)真宗大谷派以外の人からみれば、「信因称報」は、浄土仏教の歴史の中で、本願寺の覚如聖人が初めて言われたことであり、本願寺の蓮如聖人が広めたことではあるが、浄土仏教の中で他の誰も言っていないという観点はあり得るからです。つまり、曇鸞大師も、道綽襌師も、善導大師も、源信和尚も、法然上人も、親鸞聖人も、「信因称報」とは言っていない、これらの人々は全て「念仏往生・称名正定業」と言っているという観点です。その観点からすると、法然上人も親鸞聖人も現在の浄土宗も、真宗十派のうち本願寺系の浄土真宗本願寺派と真宗大谷派を除く八派も、、「信因称報」とは言っておらず、全て「念仏往生・称名正定業」であるとなります。現在の浄土宗=法然上人のみ教え=親鸞聖人のみ教え(但し現生正定聚は親鸞聖人だけが言っているという見方は可能)。違っているのは真宗の本願寺系2派だけとなります。
============
よって違いを仮に強調すると…
法然上人と親鸞聖人の教えの違い:
法然上人が言っていない現生正定聚を親鸞聖人は言っている。
浄土宗と浄土真宗の違い;
上記、現生正定聚を除き、浄土宗と本願寺系を除く浄土真宗は念仏往生・称名正定業であまり違わない。但し、本願寺系の浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の2派だけは、法然上人にも親鸞聖人にもない信因称報。
”仏教というのはそういうもものです。先人の教えに何も足さず、何も引かず、そのまんま相続していくものです。新たな発見とか、思想革命とかはないものです。”
法然と親鸞に限れば言われる通りかもしれません。が、私は仏教も思想、哲学であり、人間の根源の真理を究めようとするものだと思います。
現に、密教系の修行、専修念仏、また、道元など自力、禅の世界などは全く違う方向だと思います。ここは、細かな教義の解釈の差とはいえないはるかに大きなちがいです。
私は特定の宗派に帰依しているわけではないので、信仰としてみた場合、思想としてみた場合と分けて考えることはできません。
現生正定聚!これはどういうものでしょうか?
あえていえばここがちがう、大した違いではないが、というニュアンスのようですが。
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