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浮世絵師の号は、どういう理由で、どういう時に、つけられたのでしょうか?

浮世絵師に沢山の雅号があることを最近知りました。例えば、歌川国貞(二代目)には梅堂、一寿斎、梅蝶楼、宝来舎、香蝶楼、一陽斎といった号があります。

いつ、どういう理由で、号を変えていたのか知りたいのですが、浮世絵師に関する書物やインターネットで検索しても、雅号を「いつ、どういう理由で」変えていたのかといった部分の解答を見つけることができませんでした。

どなたかご存知の方教えてください。

A 回答 (3件)

前回答者のyagusawa改yagusawa2です。



読み返していたら浮世絵師についてのご質問だったんですね。すいません。

しかも、あとで勉強しましたら御用絵師の内容について間違いもありました。ご質問とは関係ありませんでしたが訂正いたします。

ただの弟子が師家の別号をもらえるのは、弟子として入門した時ではなく、大変な修行を積んで最後の段階を終了してから。それで師家の一字をもらえ、それから二年たって師の名の一字をもらえたそうです。それまでに早い人でも10年ほどはかかったそうなので簡単ではなかったみたいです。
家督を継ぐものにまで、このシステムが適用されていたか分かりませんけど。

ちなみに幕府の御用絵師は、いろんな家に別れているので、すべてがこの体制を取っていたのかもよくわかりませんが。

では失礼しました。
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昔は農民の子供は農民。

仕事は生まれたときから決まっていましたよね。
御用絵師も、家で任されている仕事なのでそこに生まれた子供は親の一文字を受け継いだり、何代か前の人の名前をそのまま付けたりはありますね。
あと、家督を相続する際、兄弟で本家、分家にわかれますとき、分家になるひとが移り住んだ地名を頭に付けるなどもありますが、名前というより商標みたいな、これはまた違う話かもですが。

元々絵師になる家に生まれた人はそのまま使えるいい感じの名前がついていますよね。

ただ、別の家に生まれた人が御用絵師として働くには、(町絵師は下請け)家に入らなきゃいけませんので、養子になるときに絵師の一家の一員になるケジメというか…偉い人から一字を貰って名前を付けられるというのが、名誉だったように…別身分の名を捨てる、家長より名前を賜る、みたいな意味含むんじゃないかなぁと思います。

それと、政府お抱えなので別名も持てたんじゃないでしょうか。

一般人はそんなことがゆるされなかっただけ、みたいな。

ちょっと憶測の多い話ですみません。
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 現代のペンネームとかハンドルネームと同じで、特定の理由というのはなく、個々それぞれの事情で変えていただけだと思われますが。


 例えば版元を移ったので以前の号が使えなくなったり、心機一転で新しい号に変えたり、あるいは画風を変えて別の絵師を装っていたり、あるいは贔屓の旦那とか有名な先人から名前をもらったり。場合によっては師匠から襲名した場合もあるかもしれません。
 江戸時代でも狩野派に代表されるような日本画は伝統芸能として権威があったので、その絵師の号にも重みがありましたが、浮世絵は今で言うポップアート、いわばポスター絵みたいなものなので、権威も何もありません。絵師も画家というよりはイラストレーター的な存在です。だから、好きなときに好きなように号を変えていたんじゃないでしょうか。
 ま、売れれば号自体がブランドになりますから、そう簡単に変えることはなかったでしょうけど。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なんとなく、浮世絵師の気持ち上、腕前が上達したなって思ったころに号を変えてたのかな、とは思っていたのですが、版元を移ったからとか、画風を変えたからとか、ひいきの旦那とかから名前をもらったりとか、「なるほど」と思いました。

そうですね。狩野永徳なんかは、武士のご用達の絵師ってイメージがあります。

ありがとうございました!

お礼日時:2010/11/01 14:02

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