中国の春秋戦国時代の王家(公家)の子孫はどうなったのでしょうか。
秦の始皇帝が天下統一の際ほとんど殺戮してしまったのでしょうか。
羊飼いをしていた楚の懐王の子孫(懐王・義帝)なんて話もありましたが、公式な記録で判明しているケースはないのでしょうか。
(太公望、管鮑の二人、晋の重耳等々、天下に名をなした人の子孫は絶滅ってのはさみしい気がします)

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A 回答 (1件)

太公望の子孫は、斉王家でしたが、秦の成立よりも前に田氏に国を乗っ取られた際に滅亡しています。



管鮑の二人は、管仲については子孫が三国時代(魏呉蜀)に子孫が出てきますし、鮑叔の方も斉の名家として、地味に生き残っています。

有名どころでは、本当か嘘か孔子の末裔が今も生き残っていたりしますね。三国時代に孔融という名で子孫も出ています。

春秋時代の王家は、少なくとも直系は大部分が始皇帝と、その後の項羽と劉邦に殺され、生き残りも相当部分が呂氏に殺されています。
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Q秦の始皇帝暗殺事件

秦の始皇帝の暗殺事件についてくわしく知りたいです。
流れは掴んだのですが背景などがあまり出てきません。
詳しい方、よろしくお願いします。
また、そこで関わってくる荊軻についても詳しく知りたいです。

ご協力よろしくおねがいします!!
なるべく早く知りたいです。

Aベストアンサー

始皇帝は有名なもので3回刺客に襲われています。
いずれも未遂なので、暗殺未遂事件です。

・荊軻

前提1
秦王政(始皇帝になる前)は幼少時に人質として趙の人質として
すごしていましたが、その時に同じ人質として燕の王子である丹は
友人としてすごしていました。
時代が変わり、丹が燕の人質として秦にやって来たとき、
旧交を懐かしむ丹に秦王政は冷淡で、待遇もよくありませんでした。
このことで丹は人質の身分にもかかわらず逃亡しました。

前提2
秦王政が経済的理由などで軍制改革の一環として少数精鋭を勧め
これを実践した王翦が、苦戦していた趙の城をあっさり落としました。
これにより、大量の軍人が解雇されることになりました。
しかし、解雇される人々のことを考え、樊於期将軍が反対しました。
解雇された兵が樊於期を頼って反乱することを危惧した秦王政は
樊於期の処刑を命じますが、偶然出かけていた本人は燕に逃亡、
しかし、樊於期の家族は全員処刑されました。

燕は秦による脅威を感じていましたが、有効な打開策がなく、
丹は田光という老人と相談、田光は暗殺を示唆して荊軻を紹介して
もらいます。田光は直後に機密の漏えいを憂い自害しました。
しばらく荊軻は丹に厚遇されましたが動きませんでした。
その後、秦が趙を滅ぼし、目前に危険がせまりました。
荊軻は樊於期の首と督亢(燕の肥沃な土地)の地図で秦王政の
関心を買うことで近づいて暗殺することにして、樊於期に相談し
樊於期は自分の首が役立つならと喜んで自害しました。
地図に毒を塗った短剣を隠したとか、易水で句を詠んだとか
豪傑と勧められた副使の秦舞陽が怖気づいて動かなかったとか、
いろいろお話はありますが、暗殺は周知のとおり失敗し、
激怒した秦王政は燕を攻め、逃亡した丹は部下に討たれました。



・高漸離

荊軻の親友。筑(楽器)の名手として、たびたび秦王政に召されて
演奏していましたが、荊軻の親友であることで目を潰されました。
筑に鉛の棒を入れ、演奏中に秦王政へ投げつけましたが失敗し、
処刑されました。



・張良

張良は何代も韓の宰相を輩出した名家でしたが、韓が秦に滅ぼされて
若かった張良は逃亡し、その財産の全てを報復に使いました。
このため、弟の葬式も出せなかったそうです。
博浪沙で配下が石を投擲しますが失敗して逃亡します。
この暗殺未遂事件により、秦はより弾圧政治へと進み、
民衆の怨嗟をうけることになります。
張良自身は、その後に漢の劉邦の参謀として秦の打倒で活躍します。



・嫪毐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%82%A4

暗殺ではありませんが、有名な反乱。
始皇帝を救出したことで出世した呂不韋は、実は秦王政の実母と
不倫関係にあり、嫪毐はその関係を清算するためにあてがわれた男。
宦官に偽装していましたが、密告により露見して反乱を起こします。
しかし、予め準備していた秦王政により返り討ちにあい、車裂きの刑に。
この後、呂不韋も失脚しその後自害しました。

始皇帝は有名なもので3回刺客に襲われています。
いずれも未遂なので、暗殺未遂事件です。

・荊軻

前提1
秦王政(始皇帝になる前)は幼少時に人質として趙の人質として
すごしていましたが、その時に同じ人質として燕の王子である丹は
友人としてすごしていました。
時代が変わり、丹が燕の人質として秦にやって来たとき、
旧交を懐かしむ丹に秦王政は冷淡で、待遇もよくありませんでした。
このことで丹は人質の身分にもかかわらず逃亡しました。

前提2
秦王政が経済的理由などで軍制改革の一環として少数...続きを読む

Q旧華族の子孫と使用人の子孫、旧大名の子孫と家来の子孫の様に、今も主従関

旧華族の子孫と使用人の子孫、旧大名の子孫と家来の子孫の様に、今も主従関係が続いているケースはありますか?(例=会社社長と社員、主人と使用人など)ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

>今も主従関係が続いているケースはありますか

ありますよ。
旧華族については、不明ですが・・・。

愛知県犬山市にある「犬山城」は、旧名古屋藩付け家老である成瀬家が2004年まで個人所有していました。
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他にも、旧藩主が持っていた古文書・美術品などを保存管理している「○○家公益会」「○○家美術館」などに、旧主従関係が続いている事があるようです。

幕府旗本家臣団の子孫の集まりである「柳営会」は、今でも徳川宗家と交流を続けています。

Q春秋戦国時代について小説を書きたいと思っているのですが春秋戦国時代につ

春秋戦国時代について小説を書きたいと思っているのですが春秋戦国時代について小説が書けるほど詳しく説明してる本はありませんか 歴史書とか史記の翻訳とかでもいいです

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春秋戦国時代について書かれた本は、それほど多くないのですが、次の本はお勧めできますね。

司馬遷(著)/小竹文夫、小竹武夫(共訳)『 史記 』(ちくま学芸文庫)全8巻

参考URL:http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B2%E8%A8%98%E3%80%881%E3%80%89%E6%9C%AC%E7%B4%80-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%

Q公家衆法度と禁中並公家諸法度

公家衆法度と禁中並公家諸法度
の内容と作った理由を一言か二言のような短文で教えて下さい。


公家衆法度
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理由 武士が荒れてたから

禁中並公家諸法度
内容 農民のルール決め
理由 農民のルールがなかったから

的な感じでお願いします。
私は理解してないので2つともの説明はあってないですが、書式としては上の例でお願いします!

Aベストアンサー

Erdbeerkegels さん、こんばんわ。


公家衆法度
内容 朝廷内の廷臣や女官の進退について一定の
幕府の干渉が可能になった。
理由 猪熊事件において女官と廷臣の風儀が乱れていたためその矯正のため。



禁中並公家諸法度
内容 天皇や朝廷に対する行動の制約
理由 朝廷や天皇の公家の行動に対する干渉、内部統制を強めるため。

詳細は下記のURLを参照ください。
禁中並公家諸法度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6

公家衆法度五ヵ条
http://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%A1%86%E6%B3%95%E5%BA%A6%E4%BA%94%E3%83%B5%E6%9D%A1



猪熊事件

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Q有名人の娘の子孫の方は「我は誰々という有名人の子孫なり」といわないのでしょうか

あるとき、公家の子孫が会話の話題になったとき、私は近衛文麿を母方の祖父に持つ細川護煕の名を上げた時に、その会話に入っていた人間の一人が、「ああ、ガラシャの子孫ね。」と言ったので、私は「そうか、明智光秀の子孫でもあるんだな。」と言って会話に花を咲かせていたのですが、考えてみると、「我は織田信長の子孫、織田信成なり。」と言うように、よく耳にするのは有名人の息子の子孫が誰々の子孫と言うものばかりです。

通常、有名人の娘の子孫は誰々の子孫とは言わないのでしょうか。

例を挙げると、宇喜多秀家と豪姫の子孫の方が「我は備前宰相宇喜多秀家の子孫なり。」とは言っても、「我は加賀宰相前田利家の子孫なり。」とは言わないのでしょうか。

Aベストアンサー

日本に限らず、たいていの社会は「父系社会」です。

即ち、歴史のある家系であれば、父、祖父、曽祖父、高祖父…と家系を「父系」で辿っていけるわけですが、母系は「父の妻はAの娘」「祖父の妻はBの娘」程度しか分からず、それ以上に母系を辿れないのが普通です。即ち、母系では一代しか先祖を辿れないのが普通、ということです。

大名家のように、相互の家系がはっきり分かっている場合は別ですが。この場合、「父の妻はA伯爵の娘。A伯爵の家系は・・・」と、
「母系を、妻の父の父系で辿る」ことになります。
やっぱり「先祖は父系で辿る」ことになるわけです。

質問文の

「近衛文麿を母方の祖父に持つ細川護煕の名を上げた時に、その会話に入っていた人間の一人が、「ああ、ガラシャの子孫ね。」と言ったので、私は「そうか、明智光秀の子孫でもあるんだな。」と言って会話に花を咲かせていた」

という話も、結局は
「細川護煕は、熊本藩54万石の細川家の現当主である」
「細川護煕の先祖を辿ると、細川忠興・明智玉(通称;細川ガラシヤ)夫妻に行き着く」
と、「細川護煕氏の『父系の先祖』の話」をしているに過ぎないわけです。
(※ 大名家は江戸時代の途中で養子が入って血が途絶えていることが多いのですが、細川家は忠興・玉の血筋が分家を経由しながらも絶えずに明治を迎えているようです)
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/kyushu/kumamoto.html
を参照して下さい。

明智玉は、明智光秀とその正室の間に生まれたのは間違いないようですが、光秀の正室の出自が良く分からないので、母系をそれ以上辿ることは出来ません。

私の家は某藩の上士の家系でして、江戸時代初期まで先祖を辿ることが出来ます。ただし、母方の先祖は、大正以降に嫁いで来た人の実家のことが分かる程度で、それ以前は系図に「妻は**氏」と書いてあるだけです。

私の祖母は1899年生まれで2000年に亡くなったのですが、祖母の生家との付き合いは、祖母の死をもって終わっています。世の中はだいたいそんなものではないでしょうか?

日本に限らず、たいていの社会は「父系社会」です。

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