薩摩藩では男が男に夜這いをかける風習があったそうで、これは一種の通過儀礼的な物で体の交わりがある薩摩藩の結束力はとんでもなく強かった。
っと2chかどこかで見たんですが、本当でしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

素人ですが…


2chの情報は玉石混合なのであまり信じない方がよいと思います。夜這いの習慣なんて全国的にありましたし。
まあ、それも一つの理由だったのかは分かりませんが。

薩摩藩が強かった理由はやはり経済的に豊かだったことにあるのではないのでしょうか。
宝暦治水で散々痛めつけられたにも関わらず、密貿易などの力でわずか三十年で薩摩藩の財政は完全に回復、むしろさらによくなっていますし。
それから、薩摩は関ヶ原の戦いで幕府にすさまじい憎しみを抱いていました。だから、いつでも幕府を倒せるよう武芸の稽古を怠らなかったのです。また、示現流という薩摩独特の剣法が編み出されたことも、薩摩藩の強かった理由ではないでしょうか。

私の話はすべてみなもと太郎さんの「風雲児たち」というマンガから得たものです。マンガですがかなり詳しくかいてありますよ。おすすめです。

この回答への補足

当時としては男色も普通だったという事は知ってますが、男が男に夜這いをかけるのも普通だったんでしょうか?
言われてみれば確かに経済的な理由のほうが大きそうですね。
みなもと太郎さんの「風雲児たち」ですか。覚えておきます!

補足日時:2010/12/05 11:30
    • good
    • 0

 個人同士のことを、いきなり薩摩全体に適用するのは変。


 むしろ薩摩の場合、女の強さが重要な気がする。つまり、メソメソした男を許さない風土。
    • good
    • 1

その話は眉唾モノですが、正真正銘、本当の話を教えてあげます。



古代ギリシャ時代の最強陸軍といえば映画「300」でも有名なスパルタ。そのスパルタ軍と互角の戦力で唯一勝利したのが、名将エパミノンダスです。
そのエパミノンダスが指揮する切り札である精鋭部隊が「神聖隊」です。
神聖隊はみなゲイの男性たちで構成された部隊(本当)。古代ギリシャのファランクスでの盾は、隣の兵士を守るためのものです(だから、自分を守る盾がない右端最前列が最も名誉ある位置でした)。彼らは「恋人」を守るために必死で盾を振るい、もし斃れる者がいたらみな恋人を殺された復讐の鬼になるという恐ろしい精鋭部隊です(本当)。
エパミノンダスがスパルタを打ち破ったレウクトラの戦いでも、神聖隊は決戦戦力として決定的な役割を演じました。
    • good
    • 1

戦国時代は両刀使いが普通で、お寺など女色を断った集団では男色も普通だったと思います。


薩摩の場合、郷中制度で若者たちが集団組織に入って成長し、男らしさを奨励されたので、どうしても女性を遠ざける空気はあったと思います。
それと明治以前は「友情」という観念が無く、男と女の間でも肉体関係が信頼の証とされるように、信頼できる仲間とは肉体関係が必要と考えたのかも知れません。
戦国武将も自分の周囲には元愛人を置いており、武田信玄も浮気したので高坂虎綱に詫び状を書いたという話もあるくらいです。
薩摩は田舎ですから、戦国の空気が残っていても不思議ではないです。
    • good
    • 0

偽造通貨で、貿易しましたから…



寛永通宝六文を溶解して天保銭を鋳造すると100文になります。
薩摩藩はこれをやりました。今でも薩摩天保銭として古銭業界では取り引きされてます。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q島津藩?薩摩藩?

NHKの大河ドラマを見ていてふと思ったのですが
島津藩?薩摩藩?どちらが正しいのでしょうか?
そもそも島津藩と薩摩藩は同一のものでしょうか?
それともまったく別のものなのでしょううか?
薩摩藩、藩主、島津氏これは分かるのですが・・・

Aベストアンサー

そもそも、江戸時代当時には「**藩」という言葉はありませんでした。明治以降に、歴史学者が便宜上作り出した言葉です。

別に江戸幕府が公式に決めたわけでも、現在の法律で決まっているわけでもないので、お尋ねのことについては

1) 「鹿児島藩」
2) 「薩摩藩」
3) 「島津藩」

どれでも間違いではありません。特に、薩摩の島津家は日本第二の大藩ですから、1から3のどの表記でも間違える人はおりません。

ただし、現在の歴史の本では、(1)のパターンで「藩の政庁の所在地」藩、即ち「鹿児島藩」と呼ぶのが標準です。

なぜかというと、
A) この表記なら、日本に数百あった藩を全て識別できる。
B) (2)の表記では、一つまたは複数の国を全て領地とする僅かな大名しか表現できない。
C) (3)の表記では、同姓の大名が多数いたので、識別できない藩が多く出る。

例えば、
仙台の伊達家(62万石の大藩)
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutudewa/sendai.html
を1から3のパターンで表現してみましょう。

1) 「仙台藩」でOKです。
2) 「陸奥藩」と呼ぶわけには行きません。陸奥国には多くの藩がほかに存在しましたので。
3) 「伊達藩」と言えば普通は「仙台の伊達家」の事を指します。
ただし、
伊予国・宇和島10万石の伊達家
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/shikoku/uwajima.html
も「伊達藩」と呼ぶことが出来ますので、混乱が生じます。

(1)のパターンで呼ぶのが一番分かり易いことがご理解頂けたでしょうか。

ただし、何事にも例外があります。
長門国・萩(幕末には周防国・山口に政庁を移す)の毛利家36万石
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/hagi.html
は、歴史の専門書でも、一般にも、「長州藩」と呼ぶことが普通です。萩藩と呼ぶ方が例外と言えます。

そもそも、江戸時代当時には「**藩」という言葉はありませんでした。明治以降に、歴史学者が便宜上作り出した言葉です。

別に江戸幕府が公式に決めたわけでも、現在の法律で決まっているわけでもないので、お尋ねのことについては

1) 「鹿児島藩」
2) 「薩摩藩」
3) 「島津藩」

どれでも間違いではありません。特に、薩摩の島津家は日本第二の大藩ですから、1から3のどの表記でも間違える人はおりません。

ただし、現在の歴史の本では、(1)のパターンで「藩の政庁の所在地」藩、即ち「鹿児島藩...続きを読む

Q薩摩藩ってすごい藩?

「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。

島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。

このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。

Aベストアンサー

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょうか。
 関が原の戦いでは負けた西軍にいながらまったく唯一お咎めも無く60万石の石高もそのままでした。2度の朝鮮出兵で、三十倍の敵を殲滅し、鬼石曼子(おにしまず)とも呼ばれた武力もその外交力の裏づけにあったと思います。
 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょ...続きを読む

Q 薩摩藩・薩摩の国

 薩摩藩・薩摩の国

 1. 薩摩藩の領地と令制における薩摩の国の範域とはほぼ一致しているでしょうか?
 2. 令制における薩摩の国は西街道に属するようですが、江戸時代の五街道ではどこの街道となるのでしょうか。九州には五街道は通っていなかったのでしょうか?

 すみません。よろしくお願い申しあげます。

Aベストアンサー

2.についてですが、「西街道」ではなく「西海道」です。
いわゆる「官道」自体を指すこともありますが、北海道とか東海(道)とか地方名、行政区画に対して言われることが多いです。「西海道」は今の九州地方を指す言葉ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93

これに対して、江戸時代の「五街道」は、江戸幕府が整備した街道自体を指す言葉といえます。
日本橋を起点とする「東海道」「中山道」「甲州街道」「奥州街道」「日光街道」の五つです。
したがって、九州薩摩の国には五街道は通っていないというのが正解です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93

Q明石藩の中の薩摩藩の飛び地

 明石藩の中に薩摩藩の飛び地があったと聞いた事があります。それは事実でしょうか?またあったとすれば、現在の明石市のどのあたりになるのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代より前の豊臣政権下のことなので、
薩摩藩の飛び地というより、島津家の化粧領地ということですが、ありました。
 豊臣政権下で姫路城には豊臣一門の木下家定が入り、姫路周辺には太閤蔵入地と称される、伏見の秀吉直轄領の村が多数ありました。
 文禄の役の最中に秀吉は島津領の検地」を石田三成・細川幽斎を派遣して実行します。朝鮮にある島津義弘に対して秀吉は「虎狩り」を行なって後、伏見に赴くように命令しています。
 この文禄4年(1595)に伏見に於いて朱印状を与えられ島津大守の地位を保証されていますが、この時に秀吉は、姫路の太閤蔵入地のうちから庄屋井上惣兵衛茂一の管理する一郷村百町歩千石を島津義弘に与えたと伝えられます。伏見に置かれている島津家の京都人質(1587年の島津征伐後より、義久三女亀寿以下、北郷・伊集院・新納の実子など)の生活費用として使用するように秀吉が与えたものではないかと言われています。
 残念ながら大坂城陥落の際の火事で、多くの古文書が失われ、現在のどこかは、定かではないですが、関が原までは伏見の島津屋敷に年貢が、納められていたようです。なお井上惣兵衛茂一は、善政をしき伏見の島津家中にも親切に尽くしたので、義弘より、島津姓・家紋旗指し・脇差を、与えられたそうで、その子孫が島津製作所創設者・島津源蔵氏です。

 

江戸時代より前の豊臣政権下のことなので、
薩摩藩の飛び地というより、島津家の化粧領地ということですが、ありました。
 豊臣政権下で姫路城には豊臣一門の木下家定が入り、姫路周辺には太閤蔵入地と称される、伏見の秀吉直轄領の村が多数ありました。
 文禄の役の最中に秀吉は島津領の検地」を石田三成・細川幽斎を派遣して実行します。朝鮮にある島津義弘に対して秀吉は「虎狩り」を行なって後、伏見に赴くように命令しています。
 この文禄4年(1595)に伏見に於いて朱印状を与えられ島津大守の...続きを読む

Q薩摩藩が強かった理由

薩摩藩では男が男に夜這いをかける風習があったそうで、これは一種の通過儀礼的な物で体の交わりがある薩摩藩の結束力はとんでもなく強かった。
っと2chかどこかで見たんですが、本当でしょうか?

Aベストアンサー

素人ですが…
2chの情報は玉石混合なのであまり信じない方がよいと思います。夜這いの習慣なんて全国的にありましたし。
まあ、それも一つの理由だったのかは分かりませんが。

薩摩藩が強かった理由はやはり経済的に豊かだったことにあるのではないのでしょうか。
宝暦治水で散々痛めつけられたにも関わらず、密貿易などの力でわずか三十年で薩摩藩の財政は完全に回復、むしろさらによくなっていますし。
それから、薩摩は関ヶ原の戦いで幕府にすさまじい憎しみを抱いていました。だから、いつでも幕府を倒せるよう武芸の稽古を怠らなかったのです。また、示現流という薩摩独特の剣法が編み出されたことも、薩摩藩の強かった理由ではないでしょうか。

私の話はすべてみなもと太郎さんの「風雲児たち」というマンガから得たものです。マンガですがかなり詳しくかいてありますよ。おすすめです。

Q江戸時代後期の薩摩藩における家老について

江戸時代後期の薩摩藩における全ての家老について、その姓名が書かれている文献、あるいは書籍を知っておられる方がおりましたら教えて下さい。
なお、城代家老及び国家老、江戸家老はもとより、家老職を出せる家格の家についても知りたいのですが、無理でしょうか。

知っていらっしゃる方はぜひ教えて下さい。

Aベストアンサー

下記にかなり詳しくでています。いかがでしょうか。ウィキは信頼性の点で問題が残るので、それを承知の上でお使い下さい。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/薩摩藩家臣

Q歴史小説 ※西郷隆盛又は薩摩藩を中心に描かれたもの

歴史小説 ※西郷隆盛又は薩摩藩を中心に描かれたもの

幕末の良い歴史小説を探しています。
西郷を中心に書かれているものか又は薩摩藩を中心に描かれているものでお薦めなものはないでしょうか?

薩摩藩が大好きな方。是非、紹介してください。

Aベストアンサー

1.「西郷と大久保」  海音寺潮五郎著   新潮文庫 昭和48年6月発行
2.「兵児一代記」 (へこいちだいき)  海音寺潮五郎著  講談社 昭和51年2月発行
海音寺潮五郎は「わたくしは、1901(明治34)年に薩摩の山村に生まれました。先祖代々の薩摩人です。明治34年と申せば、西南戦争から24年目です。当時の薩摩には西南戦争に出たおじさん達が多数いました。ですから、その頃の薩摩の少年らは、その人々から西南戦争の話を聞き、西郷の話を聞いて育ちました。聞かされても、そう感銘を受けない人もいたでしょうが、わたくしは最も強烈深刻な感銘を受けつづけたようです」
と書いていますように、実際に体験者から自らが聞いた事をもとに小説にしています。

3.「人斬り半次郎 幕末編」 「人斬り半次郎 賊将編」  池波正太郎著 新潮文庫 平成11年8月発行

Q薩摩藩は、隠密に国情を知られないために方言を強めた?のである

薩摩藩は、隠密に国情を知られないために方言を強めた、という説がありますが、事実でしょうか?
鹿児島の人から聞いた説ですが、まゆつばものと思っています。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>薩摩藩は、隠密に国情を知られないために方言を強めた
・・・仰せの通りウソです。そういうことはありえません。いくら藩政府が方言の使用を強制しても無理ですね。
 有名な民俗学者、柳田國男が『方言周圏論』というものを発表しました。新しい言葉や表現方法は、情報の流通が激しい都会で起こり、ちょうど池に石を投げ込んだときにできる波紋のように、同心円状に徐々に周辺に伝わっていく、ということです。したがって、辺地ほど古い言葉が残り、それが方言になっているということになります。
 実際、琉球地方の方言を聞きますと、まるで奈良時代のような感じがします。
 薩摩は辺地で方言が残りやすく、また人の出入りを制限したために、余計に都などの新しい言葉が入らず、結果として「方言が強まった」ということだろうと思います。

Q幕末の薩摩藩について

私の勉強不足のせいで、この様な質問をしてしまいましたが
申し訳ありません。

質問なんですが幕末の薩摩藩の動向について分からない事が
あり質問しました。

元々、薩摩藩は「公武合体派」であり幕府を生き残らす
事が目的であったのにも関わらず何故、西郷隆盛は
倒幕を決意し、また他の薩摩藩の人間達も彼に着いて行こうと
考えたのでしょうか?

元々、西郷隆盛は公武合体に反対しており薩英戦争
などの影響で開国論(攘夷論はないと思いますが)
が強まったと思いますが、それが何故統幕に繋がったのか
理由が良く分かりません。

徳川慶喜も「家康の再来」とまで言われた聡明な人間ですし
異説もありますが篤姫を大奥に送り慶喜を将軍にする
為に働いた事もある西郷隆盛なので疑問に思いました

Aベストアンサー

薩摩は公武合体派というのは正しくありません。
島津斉彬は徳川幕府を助け富国強兵策を推進しこの間に薩摩の発言力を高めようとしていたのです。  列藩同盟派とでもいえるでしょう。
西郷はこの斉彬の思想の忠実な実行を推進する立場でした。

しかし斉彬の急死によりその役目を失い、さらに島流しにされその間の社会の変遷を見て独自の考えを持つようになったのです。

既に弱体化した幕府の体制では日本は保てないという考えから統幕維新に進んだと思います。
諸外国の強力な武力を見せつけられ富国強兵が急務と考えたのです。

徳川慶喜個人はまだ徳川幕府の存続を主体に考えていましたから西郷にとっては邪魔な存在だったのです。

Q日本の歴史認識についてお願い致します。幕末期に活躍した藩は、薩摩 長州

日本の歴史認識についてお願い致します。幕末期に活躍した藩は、薩摩 長州 土佐でした。

この三つの藩はなぜいろんな多彩な人材を輩出する事ができたのでしょうか?

現代では、この三つの藩つまり鹿児島県 山口県 高知県はたいした産業も無くて
現代文明から取り残された典型的なダメポ♪地方の代表ですが
どうしてあの幕末期には幕府(国)を動かすような大それた事ができたのでしょうか?

今でも鹿児島は、警視庁には鹿児島閥のなごりがありますし、山口は多くの首相を
排出しています、土佐は自由党が根強い基盤をきづいています。

これらは幕末期のなごりであります。

でもお金儲けの産業やビジネスではさっぱりアカン券でもあります。

幕末期の最大の謎をしりたいので
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

No4です。

このような背景の下、長州藩(毛利)は当然アンチ徳川の家風になります。
徳川より、朝廷と深く関係を結びます。(これ以前からそうでしたが)
水戸の思想(将軍より天皇がえらい)を大きく受け入れ、、尊皇攘夷・倒幕に
なるのは、自然の流れでしょう。
幕末期の殿様である毛利敬親は、家臣の進言に対して「そうせい、そうせい」
となんでも好き勝手にやらせていました。
家臣内にも穏健派はいましたが、過激派(吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、
久坂玄瑞など)が実権をとり、倒幕の道まっしぐらです。


土佐は山内含む上司は、当然徳川あっての自分たちと思っています。
長宗我部の残党の子孫たち(坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山など)は、
徳川や山内に対して、なんの恩恵もさずかっていないので、自分たちを
人間扱いしてくれる思想に傾向します。
外人と結ぶ、腰抜け幕府はあてにならん、日本を自分たちで守ろう、命を
かけようと、自分の国(土佐)を捨てて、活動するモチベーションが高かった
かと思います。


薩摩は関が原以降、幕府が一番目をつけている藩でもあり、何度もお家
断絶の憂き目にあっています。幕府からのムチャ振りで、財政困難におち
いり、それを立て直すため、密貿易を行い、国を豊かにします。
また、海外の情報や文化を多くとりいれ、歴代の殿様はそこそこ切れる
人物ばかりでした。
幕末期の島津斉彬はまさに、奇跡の人で薩摩人でありながら幕府に取り
入られ、外様では許されないような進言を行い、内政を変えてゆきました。
斉彬の秘蔵っ子が西郷であって、大久保利通や小松帯刀など、有能な
人材が育っていきました。
(最終的には、この混乱期を幕府は治める能力がなく、倒幕になりますが)


他の国は、そのほとんどが事なかれ主義であって、信じられないことですが
日本の混迷期においても、ほとんど危機感を感じません。
外様は牙を抜かれており、徳川に対して、薩摩や長州のような強い遺恨も
ありません。反発して取り潰されるより、自国を守っていこう、という保守的な
考えが、当時のあたりまえの対応でした。
親藩大名も徳川の顔色を伺うのが常であって、譜代にしても当然徳川支持
です。(水戸藩を除いては)


徳川が日本を統一してから、ちょっとした反抗した藩は取り潰す。という荒治療
を行ってきたので、穏便にすませることが生きるための術でした。当然、反抗し
ようなんて藩は出てこないのが、当たり前です。

奇跡的な交渉で、土地の没収を免れ、密貿易によって自国の国力を上げた薩摩。
徳川に末代まで恨みをかうような裏切られ方をし、朝廷と結んでいた長州。
この二藩は必然的に倒幕の流れになったように思えます。
いうならば、土佐藩のみ異例で「命をかけて世の中をなんとしたい!」と思えるほど、
郷士たちは虐げられていたことが想像できます。結局、上司たちは(板垣退助、
後藤象二郎、福岡孝弟など)世の中が倒幕の流れになってきて、なんとかその
流れに乗りたいがために、郷士たちを利用したにすぎません。


長ったらしい説明ですいません。
ただ、質問者さんの質問は、関が原まで遡らなければ答えが見えないような気が
しましたので。。。

No4です。

このような背景の下、長州藩(毛利)は当然アンチ徳川の家風になります。
徳川より、朝廷と深く関係を結びます。(これ以前からそうでしたが)
水戸の思想(将軍より天皇がえらい)を大きく受け入れ、、尊皇攘夷・倒幕に
なるのは、自然の流れでしょう。
幕末期の殿様である毛利敬親は、家臣の進言に対して「そうせい、そうせい」
となんでも好き勝手にやらせていました。
家臣内にも穏健派はいましたが、過激派(吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、
久坂玄瑞など)が実権をとり、倒幕の道まっし...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報