つぎの評言について解説してくださいませんか。
▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~
( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。
( b ) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。
( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。
( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。
・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
(1925~ 民族芸術学 美術史学)
▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~
( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。
( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。
( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。
・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。
( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。
( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。
( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。
No.12ベストアンサー
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでございます。> ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。
☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。
おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。
> ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。
木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。
これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、
> われらが審美眼は 劣化したか?
われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。
> ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。
☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。
《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。
以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901 …
最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。
次のご見解に膝を打ちました。
★ ~~~~~~~~~~~~
> われらが審美眼は 劣化したか?
われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。
★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?
☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。
抽象美術について
★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。
☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。
そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。
★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。
☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。
音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。
ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。
J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。
▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。
☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか?
▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔
☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。
▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。
☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか?
☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか?
まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?
No.121
- 回答日時:
回答の回答の回答になりますが、
近代の美術を憂う理由として確か
1.個性的になろうとするあまりに、奇抜に奇をてらうことばかりを追求してしまう。
2.純粋な造形を追求するあまり、現実からかけはなれて、人間性を排してしまう。
のようなことだったとおもいますが、2.は分野によっては肯定の余地があるのかな
またまだ面白くなる可能性があるんじゃないかなと思ったのでそのように回答させて
もらいました。
また、歴史をリスペクトするといっても、業界の権威の顔色をうかがうこととは
全然違うと思いますし、
キャッチーであろうとするといっても、ただの受け狙いではなく、時代を見つめて、
人間が何を考え何を求めて何を感じているかを考えて同調したものを創造すること
だと思うのですが、
いじわる言わないで楽しんでみればいいじゃんという意見は
それはそうだと思いますが、
本当に論点てそんなんでしたっけ。
たとえば No.119の回答とそれへの応答 これを読んでください。
ちょっと いくらはあとまいんどさんでも ここまでやって来て 今回の投稿はふざけています。
No.120
- 回答日時:
抹消質問のほうから、わたしの投稿でご希望のものがあれば引き写しましょうか?
ご自分の思考の軌跡を辿り直そう、という昨晩のメッセージ、ごらんになれました?
まさに、ご自分の発言がどんな思考に基づいていたかを確認するのが、大切なことなんですよね。
既出の応答で、いちばん見なければならないところは、ご自身の思考がどんな焦点から発しているかなのですが、
自分のことは自分が知っているというつもりだと、なかなか自分の軌跡というのは意思集中できないものです。
注目ポイントがまとめてあって、整頓しやすかったでしょう?
次の点は、とくに意義のある気付きに繋がりませんか。
n わが主観
-n 主観は自律的に成立しない
m 作家の主観
-m 主観は自律的に成立しない
ご自分で既出の応答を整頓する場合、
たとえばwindowsをお使いでしたら、ブラウザ上部の「編集」ボタンから「このページの検索」でamaguappaと入れると、簡単に投稿がピックアップされます。
そこで何よりもご自身の返答を見直すことで、独りで走った部分を思考から削ぎ落とすことができ、前進する力が蓄えられると思います。
引き写しの件、もしあれば、ご遠慮なくどうぞ。
No.119
- 回答日時:
>美術作品についての感覚による第一次の鑑賞にも 感想や批評のことばがつく。
この第一次の鑑賞に属する批評の言葉が そのまま第二次の評論に用いられることがある。>第一次の鑑賞では あくまで・飽くまで・あるいは飽いても わが主観のうちにすべてはおさまっている。
>第二次の評論は 一般に第一次の感想にもの知りと見られるような知識や背景事情などなどの情報を交えたものである。
→美術作品の鑑賞時における感想や批評、評論には第何次といった深化の過程を想定し得る。
個人の内面に照応し物語性を追う鑑賞にはじまり、個人の内面、主観性をできるだけ排し、客観的な作品批評を文献で紐解いていき、あるいは他作品または社会情勢へと想起し得る鑑賞へと段階を経るあたりはもちろん千差万別である。
>ところがこれが 第一次の感想すなわち《初発の美の感覚とそれより派生した言葉での批評》 こういうみづからの前提条件を突き破って その評論内容こそが・つまりおのれこそが 美の――第一次の――感動であり体験であると言い張ろうとするようになる。
すなわち《美は論理で分かるものであり 論理でしか分からないものだ》と。
>似ても似つかないふたつのいとなみが現われている。
→「美術」とて、明治以降に西洋より概念が輸入された「造語」であるのだから、「審美眼の劣化」という主題に立ちかえるならば、私たち日本人が今現在用いる「美」について再考すべきである。
それ以前の私たち日本人の祖先は不感症だったのだろうか、いやそんなことはあるまい。
古典古代のギリシア美術に端を発した「美」は普遍的な性質を帯び、調和、均衡、比例を重んじアルゴリズミックな造形表現を用い、自然に内在する数学的法則で形態化しようとする科学主義的観想上に少なからず立脚していたことなどから「論理で美をわかる」性質を帯びていると言えよう。
でもだからといって「論理でしか分からないもの」と飛躍する必要などどこにもない。
一方日本では自然と人間との関係が支配被支配の範疇にあらず、明治以降に導入された遠近法など洋学全般が日本の表象システムに君臨してゆくことになるのであるが、
我が国においては似ても似つかないふたつのいとなみが現われているとすれば、そのもう片方には何が見い出せるであろう。
日本人の想起する「象徴」とはいったいどのようなものだろう。
美を「知る、わかる」ではなく、美とは「ふれる」もの、のほうが相応しいのはなぜか。
現代美術におけるテクスチャーとの対話は盆栽などのアニミズムに連なるのだろうか。
>《評論》説は 現代美術界のコンセンサスを成すと思われるが それによって一般に審美眼の劣化を意味するしその劣化をもたらしたという見方をせざるを得ない。
→「19世紀半ば印象派の成立以降、フリードリヒ・ニーチェによって提起された主観の際限なき拡大路線の確立(「神は死んだ」)以降、絵画が次第に抽象化単純化してゆくに従って遠近法の独占的支配に疑義が呈され、ついに相対化されたこと(主観の拡大、価値の多様化、「人間」という共同体幻想に基づく支配的視点の崩壊)」を経て、世界規模の政治経済環境問題から労働と競争、消費と欲望までのあらゆる主題を暴き批評する役割を現代美術界は担っている。
その根源はおそらく産業革命やロマン主義に遡ることができるのだが、従前の古典的な美の希求だけでは済まされないという意味においては「審美眼の劣化」とも言えるかもしれない。
でも、劣化とばかり批判してばかりいるのではなく、新たな価値観の創出がいま求められているのではないか。
これほどまでの人物、技術、情報が膨大に流れ交わされている状況は、私たちが「美」をはじめとした洋学を理解し易いという点では《開闢》以来の好機であろう。
従来の「美の墓場」美術館とインスタレーション、国際美術展、マーケットなどの関連性を鑑み、欧米に追随しないためにはマスコミや行政はおろか、当の日本人の観客に負うところが大きいのである。
それに付随し言葉の問題、つまり翻訳の意味付けや解釈を通じて、母国語たる日本語に対しより一層の細かな考察が求められ注意が喚起されているのであり、またさらに、芸術と技術、自然や人間を取り巻く環境との付き合い方の見直しの方策の一つとしての"esthetique"、従前に留まらず、感覚や感性全般を扱い重んじていくべき文法と修辞学とを含むあらたな方便、感性学的論理の開発が必要ではないだろうか。
既存の哲学や美学にある概念や語彙を借り援用ないし批判していくだけでは事足りないだろう。
こどもたちが読むので用語を省き、極力そちらの仮説に寄り添ったつもりです。
拙文の印象批評につきごりんじゅうとは、審美眼の主題と関係があるかもしれないと思い、伺っておこうと思った次第です。
この回答への補足
ご回答をありがとうございます。
通史と言いますか 内外の美術史についてまなんだことはありませんので その点申し訳ありません。
★ ~~~~~~~~~~~~~
古典古代のギリシア美術に端を発した「美」は普遍的な性質を帯び、調和、均衡、比例を重んじアルゴリズミックな造形表現を用い、自然に内在する数学的法則で形態化しようとする科学主義的観想上に少なからず立脚していたことなどから「論理で美をわかる」性質を帯びていると言えよう。
でもだからといって「論理でしか分からないもの」と飛躍する必要などどこにもない。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《飛躍する必要などどこにもない》 これが聞けてよかったわけですが 専門家のあいだでは 《論理でしか分からない》という見解を持つのだと思います。素人の声がしっかりと聞けるようになることを まづはのぞみます。
細かいことですが:
《論理が作品の基礎づけのようになっている(つまり 美は見たまま感じたままである)》ことと《論理で美を分かる》こととは 微妙に違うようにも思うのですが でも創作家は 両方で分かっているということでしょうか?
日本人の美の歴史は 《見たまま感じたまま》が基調であっただろうと思うのですが それをきちんと言うには美術史の素養が要るかも知れません。
★ ~~~~~~~~~
日本人の想起する「象徴」とはいったいどのようなものだろう。
美を「知る、わかる」ではなく、美とは「ふれる」もの、のほうが相応しいのはなぜか。
現代美術におけるテクスチャーとの対話は盆栽などのアニミズムに連なるのだろうか。
~~~~~~~~~~~
☆ これも残念ながら 保留とします。しゃれたことを言えるほどは知りません。
★ 「人間」という共同体幻想に基づく支配的視点の崩壊
☆ これは 木村の評言と呼応しているでしょうか
▲ (木村重信:現代絵画の変貌) ~~~~~
現代人は神の概念から一切の擬人の試みを排除し また人間から一切の擬神的なものをはぎとった。かくして人間が純粋な人間に成った――そう思ったとき 人間は自動機械に化してしまった。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 木村は図式的に捉えて身も蓋もないかたちで述べているようですが。
★ 支配的視点の崩壊
☆ が ふつうの生活日常の《人間》をも崩壊させることもないと思うし 言わねばならないと考えますが。
★ ・・・あらゆる主題を暴き批評する役割を現代美術界は担っている。
☆ これも然る専門家が言っていましたね。一方で或る程度は 資本の側に依存しつつ しかも批評・批判する視点を持ち続け うまい具合いにそれを実行するのだと。
そういう行動について別に反対もあまりしませんが たぶん《美》については 一点よい絵を創作できれば それによって一点突破することが出来るとも考えたいのですが?
★ 従前の古典的な美の希求だけでは済まされないという意味においては「審美眼の劣化」とも言えるかもしれない。
☆ あれっ? これはじつはぎゃくなんですけれど? つまりは時代思潮として《人間》の支配的視点を崩壊させすぎた結果 機械的な要素が入り実験ばかりがおこなわれること これを《審美眼の劣化》と見ています。ですから そのときには 生活日常のふつうの人間という視点を取り戻して 《古典的な美の希求》をもあらためて含みつつ あらたな美の表現を問い求めて行って欲しいとは思うのですが?
つまりは 次のお考えにつながるはずなのですが。
★ ~~~~~~~~~~~~
でも、劣化とばかり批判してばかりいるのではなく、新たな価値観の創出がいま求められているのではないか。
これほどまでの人物、技術、情報が膨大に流れ交わされている状況は、私たちが「美」をはじめとした洋学を理解し易いという点では《開闢》以来の好機であろう。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 実験の経た結果 画法などを極端なほうへと振れさせる必要もなくなっている。ゆえに 《ふつう》の人間画が描けるのではないかと。
★ ~~~~~~
それに付随し言葉の問題、つまり翻訳の意味付けや解釈を通じて、母国語たる日本語に対しより一層の細かな考察が求められ注意が喚起されているのであり、またさらに、芸術と技術、自然や人間を取り巻く環境との付き合い方の見直しの方策の一つとしての"esthetique"、従前に留まらず、感覚や感性全般を扱い重んじていくべき文法と修辞学とを含むあらたな方便、感性学的論理の開発が必要ではないだろうか。
既存の哲学や美学にある概念や語彙を借り援用ないし批判していくだけでは事足りないだろう。
~~~~~~~~
☆ これはもはや掲げるのみ。
No.118
- 回答日時:
こんにちは、
皆様の反感を買うことを承知で最後にひとこと、
1)絵画の鑑賞には練習や訓練がいること。
2)目の前にある評判の高い絵の良さがわからないのは、貴方の方に問題があること。
3)宗教画があったとして、そこに描かれていることの意味がわからずに、絵そのものの美しさがわかっても何の意味があるのだろうか。無意味である。
確か白州正子さんのエッセイ(芸術新潮)だったかで、日本は他国の文化を輸入して保存する天才である。保護者になり、まるで自分がそれを作り出したかのように感じてしまう。そしてその創造者の後継者を批判し始める。
という趣旨の評論があり、まさか、と思っていたことが現実に、目の前で起こっており、深く頷いています。あの人は偉かった。
以上、私のささやかな感想でした。お記に障りましたら、お許しください。
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
そうですね。反感を買うというよりは 感覚がずれていると感じるのではないかと思います 率直に言って。
★ 2)目の前にある評判の高い絵の良さがわからないのは、貴方の方に問題があること。
☆ 日本人は 値段が高いからよい 安いからわるい とは単純に思わないと思いますよ。
今回のトヨタの騒動にしても パーフォーマンスがよいからそれはすばらしいし価値が高いとか その逆だとかは 日本人は夢にも思わないでしょうね。
スサノヲ市民のど根性にも似たやわらがしめられた世界への願いと志があります。田舎者でもいいから よい社会を築きたいのです。
ピカソの子孫が ピカソの絵を或る人間が何点も盗んだとか いやゆづられたのだとかと騒動を起こしています。値打ちのあるものだ 返せとか言って。ちゃんちゃらおかしい。屁の河童。だと日本人は心の底から思っています。その人間のたましいすら なおまだちいさい。
わたしはわたしのたましいに向かってくづ折れた。
わたしは あなたに向かって起きあがった。
(詩編 42:7)
No.117
- 回答日時:
こんばんが、Hidocchでございます。
もう既に意見を出し尽くしておりますため、ハートマインド様へのご返答という形となってございます。この旨ご了承いただければ、幸いでございます。
> 視覚効果を狙う芸術も、デザインの根源的な目的であるはずで、そう考えると「標的」や箱を縦に並べるとか、ボロックだって、芸術は実物的なデザインだという主張的な芸術や、またコンセプチュアルアートは広告デザインに近い。
”デザイン”と申しますと、どうしても、実用的、商業的側面が強いと思われます。実際我が国におきましても、”意匠法”なるものにおいて、保護されておりますし、さらにまた、条文におきましてもかような定義付けがなされています。つまり、文化的側面を持つ著作権法とは異り、必ずしも、文化的要素を必要としないものと考えております。
意匠法
第一条 この法律は、意匠の保護及び利用を図ることにより、意匠の創作を奨励し、もつて”産業の発達に寄与する”ことを目的とする。
> 詩情を排した純粋な造形にしたとき、そのそばで生の人間同士が向き合う装置だとすれば、つまり、クレドを生の人間や生の自然に求めるための、縁の下の力持ち的の役割とすれば、それはそれで時代みつめたキャッチーなものでありたいという意に沿うものとなるんじゃないのか。
もちろん、技術論としましては、当てはまると思われます。ただ、現代アート(特に抽象絵画におきましては)では、単なる”模様”、”記号”との区別は極めて困難かと推察しております。
当OKWaveにおきましても、”ピカソ” + ”わからない”で検索しますと、相当数ヒットしてきます。おそらく”鑑賞方法”がわからないから、ご質問されていると思うのです。
それに対する回答と致しまして、
「そもそも、感受性がない者には分からない」、「このような鑑賞方法があり、こうすれば楽しめますよ」等、いろんな回答の仕方があろうかと思われます。愚生ならば、後者の方で回答するかと思います。つまり、”美をそのまま感じる”といったものではなく、”楽しみ方”の問題として回答を寄せると思います。さらに申しますと、「美を感じ取れ」と言うのは酷かと思われますが、いかがでしょうか。
最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ご回答をありがとうございます。
はあとまいんどさん どうですか?
わたくしとしましては
★ つまり、〔* ピカソにかんしては〕”美をそのまま感じる”といったものではなく、”楽しみ方”の問題として回答を寄せると思います。
☆ ここで 単純な類型化をしますと 第一次の美の鑑賞とそして第二次の解説としての美の評論とに分かれるということだと思います。
No.116
- 回答日時:
ヒドッチさんのリンクを昨日読みました。
要約すると、
近代は美術の自律性を目指すあまり、評論家を介さずには、
大衆の理解しずらいものになってしまった。
原始美術から宗教画の時代までは、その精神性や概念を象徴で
伝えることを担っていた頃と比べると大きく変貌してしまった。
しかし、その歴史を作った先人は間違っていたわけではなく、
その時代に抵抗し真摯に芸術に向かい合っていた意味のある
歴史的の遺産ともいえる。それは、芸術なんてアホだという
立場のダダでさえ意味のあることなのだ。
現代はそれらの遺産を財産としてポジティブにとらえて、
今の時代だからできる時代特有の問題や希望を人間的に表現す
ることができるはずだ。
-------------------------
ここからは感想ですが、
造形的になったことは否定的なことばかりだとはいえないんじ
ゃないのかな。
何故なら、視覚効果を狙う芸術も、デザインの根源的な目的で
あるはずで、
そう考えると「標的」や箱を縦に並べるとか、ボロックだって、
芸術は実物的なデザインだという主張的な芸術や、
またコンセプチュアルアートは広告デザインに近い。
ルネッサンスだって造形の理想を求めることで精神性を表現して
いたわけだから。
むしろ、デザインに近づくということは、日常生活に入り込むと
いうことであって、現実の生の人間の人間性を否定するものでは
ない。アースアートやヨゼフボイスのような考え方もむしろ歓迎
すべきであって、
詩情を排した純粋な造形にしたとき、そのそばで生の人間同士が
向き合う装置だとすれば、つまり、クレドを生の人間や生の自然
に求めるための、縁の下の力持ち的の役割とすれば、それはそれ
で時代みつめたキャッチーなものでありたいという意に沿うもの
となるんじゃないのか。
勿論、映像芸術や絵本、パフォーマンスや舞台芸術は、著者のよう
な方向が一番いいのかなと思いますが。
そうですね。この問題――現代芸術についてのおおよその見方捉え方――については 今の時点での結論は出ていると思います。
ご回答をありがとうございます。
1. 宗教画なら宗教画というようなシュジェ(主題)が初めに決まっているという事態に対して自由になろうとした。
2. けれども シュジェが最初から決まっているなどと誰が決めたのか? むろん誰も何からも自由である。はずだ。
3. ところが粗筋で言うとしたら 人びと(創作家たち)は この抵抗するという筋道に血道を挙げた。その結果は あらゆる方面あらゆる方向での《実験》となった。
4. 全体としての美 人間の生活に根ざした美から離れ――離れたほうが 人間という存在を純粋に捉えることができると思ったのでしょうか―― 画法としてだけの追究やあるいは部分的な主題もしくは無主題の追求といった方面で どんどん進んで行った。
5. このような《実験》そのことは 芸術のいとなみとしてありうることであるかも知れない。たとえ失敗だったとしても肥やしにすることができる。
6. ただしそのとき美術論ないし芸術観が ひっくり返ったという一面がある。作品にその内容を見るそして求めるのではなく そうではなく 作品についての評論の中にあたかも美を見出すといった《論理主義》派が現われてしまった。
7. 《見たまま感じたまま》の美の感覚から 《評論による論理によってのみ分かる》という美学へ移って行ってしまい 美学はあたかも逆立ちしてしまった。のではないか?
☆ こういったところではないでしょうか?
★ ~~~~~~~~~~
詩情を排した純粋な造形にしたとき、そのそばで生の人間同士が
向き合う装置だとすれば、つまり、クレドを生の人間や生の自然
に求めるための、縁の下の力持ち的の役割とすれば、それはそれ
で時代みつめたキャッチーなものでありたいという意に沿うもの
となるんじゃないのか。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 一点にかかっていると思います。その《クレド》は かなり経験的な思考や日常生活にたずさわるときの思想や信念信条のことだと思いますが もしそれだとした場合 それだとしても その内容が《感覚にもとづく》かそれとも《論理優先》か いづれかであることによって 美学はおよそ百八十度ちがってくるものと考えるのです。
あとはいろいろな美あるいはさまざまな分野での美に触れておられますが いま上に述べた出発点ないし原点をどう取るかでそれらも決まってくるというように思います。そのように十把一絡げにして言うことはややおおげさであるかも知れませんが いまここではそういう理論的な領域での話を互いに共通の見解もしくは見解の相違での合意 これに持って行こうとしています。どうでしょう?
ひどっちさんからも 評言が聞かれると思います。
No.115
- 回答日時:
zakky74でございます。
>( b )のごとく悟りを得ていない状態では誰もに共通の美の感覚が感じられるのは むつかしいとしますと
むつかしい・・・のではなく、僕の表現では共通の美の感覚が無い!と言っているのであります。ここには大きな意味の格差がございますが、bragelonneさんが「むつかしい」という意味を選択し僕のお伝えしているイメージを曲げるのは構いませんが、応えには窮するのでございます。
>( a )のような《誰もが皆触れられる美でありたい》というのは けっきょく《皆が悟りを得る》とおっしゃっていましょうか?
それは、bragelonneさんの判断基準によって、その様に論理を結びつけたのかもしれませんね。bragelonneさんの論理展開(がどういうものかは明確に分かりませんが、そこ)からは納得のいきにくい箇所かもしれませんね。
僕が、誰もがみんな触れられる美でありたいとお伝えしたのは、その前段階にある交流を受けたものです。審美眼を、僕は絵画の路線から語る事はしませんといいました。審美眼は絵画や画家を対象とするものではなく、68億人に開かれたものですから、その68億人誰もが皆、触れる事のできる対象や素材で審美眼を語りたいとする姿勢や意志を表現しました。
>けっきょく《皆が悟りを得る》・・・
話には順番がございます。これは、次の段階ではないでしょうか?
そもそもbragelonneさんが、審美眼を語る際に絵画や画家でない対象や素材を扱う事について前向きでないのでしたら、その先の話は無いのではないでしょうか?
先にそこを伺いたいものです。
> まぁ もっとも( c )《共通の美っぽく思えてしまう感覚》でも構わないと思いますけれど。つまり うそでもよろしい。一瞬のヒラメキにみちびくような――美の欲求に応えるような――美であれば うそでもよろしい。こういう美学です。
こういう美学です・・・というのは、bragelonneさんの美学と受け取って良いですか?
ここでは、その様に受け取って話を進めますが。
宇宙自然の仕組み・メカニズムを語る際に、多様な理解方式・認識方式がございますよね?悟りの世界から観ますと、選択としてはどれを扱っても良い事にはなります。
僕自身が選択したいのは、68億人誰もが皆、幸せで生きられる社会の実現に、意味・価値がある理解方式・認識方式でございます。もちろん、審美眼についても理解方式・認識方式と深い関わりがございますから、審美眼についても68億人誰もが皆幸せに生きられる社会の実現に向けた審美眼でありたいし、美の共有共感でありたいと思っています。
68億人誰もが皆、幸せで生きられる社会の実現に向けて、まず超えなければならない限界は、人間は自らが生み出した錯覚の仕組みを1秒も、1回も超えていないという事でございます。
>うそでもよろしい・・・
映画『MATRIX』に観る、アンダーソン君が青いカプセルを選ぶシーンの様なものでしょうか。
(観ていなかったとしたらゴメンなさい)
錯覚に甘んじた生き方の選択ですね。
その状態は人間として生まれてきた事の使命を果たしておりません。
脳に支配された人間の生き方です。
ですが、その理解方式・認識方式からは68億人誰もが皆、幸せに生きられる社会の実現に、一体どれくらい意味・価値があるのだろう・・・とクビを傾げる僕がいます。
そして、人類歴史の多くの先輩たちが生まれては滅し、生まれては滅しながら、(無意識に)後世に託そうとしてきたものを、一つも有効活用できないままに、またこの時代も過ぎ去っていく事に、同じ時代、同じ地球に生まれている存在として寂しさを感じます。
僕側の背景はそれです。
そんな背景から、前回の投稿を行いました。
質問に対するお応えでした。
これはお応えになっていますでしょうか?
★ 僕が、誰もがみんな触れられる美でありたいとお伝えしたのは、・・・68億人誰もが皆、触れる事のできる対象や素材で審美眼を語りたいとする姿勢や意志を表現しました。
☆ 《誰もが皆 触れる》《語る》というときにも
★ 共通の美の感覚が無い!
☆ ということなのですね?
わたしはてっきりさとりを得れば 誰もに共通の美の感覚が現われると取ったものですから。
さて それでは わたしたちはいったい何をしゃべるとよいのでしょう?
和光同塵といった思想や人への接近の態度は 持ち合わせておられないのですね?
でしたら いったいどういうふうに話をすればよいでしょう?
No.114
- 回答日時:
前回の回答に一応のご理解をいただきまして、ありがとうございました。
絵画は構造の美と心情の美を現すことができて、日本人の心は心情の美に傾きがちであり、構造の美にちと、弱い。ということを踏まえまして、ここでいきなりピカソが出てきます。
http://www.artic.edu/artaccess/AA_Modern/pages/M …
ご存知、青の時代のギタリストです。ここでピカソは人体を使って、大胆に画面の構築をしています。色を極端な寒色のブルーに抑えて、ギターを中心にした人体の再構成に見事に成功しています。相当理論武装された画面です。うまいなぁ。私にはこの人、激しい恋の歌を歌っているように思えるのです。それでこんなに痩せちゃったのかな。
http://www.flickr.com/photos/christinyca/4648494 …
そして、人気の高い鏡の前の女です。ギタリストでは、”人体を使って”だったのに、ここに到っては、人体をバラバラにして組み立てて、女と鏡の関係を描いています。私たちの脳が見たものを認識する時に、3Dではなく、2Dで画像を受け取っていると考えて、平面的な表現方式をとっているように思います。これを描いている時のピカソは、面白がっていただろうな、と想像できます。この方式が発明できたら、次から次へと描けるでしょう。多作だったのはあたりまえです。という訳で、これも構図の面白さ、美しさに負うところの多い作品です。
ですから、日本の人によさがわからないのは、納得できる気がします。
もうひとつ、岡本太郎さんはその日本人の限界を打ち破ろうと必死だったでしょう。ですから、セザンヌ(世界は、丸と三角と四角で出来ていると、主張して、またその通りに構図を決めていた)に感動するのは当たり前であるといえます。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
押し付けがましくなければ良かったのですが。
分かりました。美の体験のその中身が 自分にとっては想像の世界としてですが 或る程度は広がった感じはします。でもそれは どちらかと言うと 心情をやや無理に伸ばしている・広げているという感触もなきにしもあらずなのです。
そんな感覚を持ちましたが ご回答をありがとうございます。
つまりけっきょくこれは おのおのの主観のもんだいにおさまる出来事かと思います。互いに言わばぶち明けているといったかたちであろうと思います。互いにです。
★ もうひとつ、岡本太郎さんはその日本人の限界を打ち破ろうと必死だったでしょう。
☆ わたしはこの点 つまりあらゆる可能性をためして見るという志向性という点について 日本人に心配をしていません。たとえば世界のあらゆる料理が日本には来ています。と言いますか 日本人が積極的に味わおうとして取り寄せています。まなんでいます。
絵画の構図や構造としての美に苦手意識があるのかも知れませんが たとえ少数派であったりほんの一部の人びとであったりしても フロンティア開拓の精神は旺盛であると思いますよ。
あぁ たぶんもしそうだとは感じられないとしたら 日本人は《実験をする》というふうな動きには出ないかも知れないですね。つまりすでに初めにその結論を見越してしまっていて 自分がむろん主観的にですがつまらんと思ったならその実験はしないかも知れません。
つまり ずばりぶっちゃけて言って キュビズムというような画法の実験はしようとは思わないでしょう。ちゃおぽるぽさんの分析用語で言えば その《構造の美》の追究によって《心情の美》が置いて行かれる つまり 心情の美は消えてなくなると初めにさとってしまうからではないでしょうか。
★ 『鏡の前の女』
☆ これを見て 鏡の前に立つ女の顔の部分は――つまり見る角度を二つに取って描いているところですが―― なにかしら美を感じました。やや悲しげななにげない顔つきであるところです。ただし鏡は 泣いている心の中を映しているのでしょうか? 色彩の配置もほかの作品とはちがって うったえるものがあるのではないですか。でも どうでしょう 全体として だから何を表現したかったか?
つまり――これはわたしだけのことかも知れず たぶん少数派なのでしょうが―― 心情の美は何か? と思って止まってしまいます。分からないという答えを出さざるを得ない。こんなところです。
★ これを描いている時のピカソは、面白がっていただろうな、と想像できます。
☆ はっきり言うことになりますが その方面では心情の美から離れる この一点で峠を超えることはないのではないでしょうか 或る程度多くの日本人は。その使う文が《主題提示》を明確に推し出す構造を持つからには 絵画にも《シュジェ(主題)》を要求すると思います。フォルムだけの美は どうも世界が違うと感じてしまいます。
★ 青の時代のギタリスト
☆ これは抽象画ではなく まして立体派の手法の作品ではないですよね。だとしたら シュジェはありましょうか?
★ 私にはこの人、激しい恋の歌を歌っているように思えるのです。それでこんなに痩せちゃったのかな。
☆ 言わば《心情の美》をおっしゃってますよね。そしてそれは わたしもあり得るとは思います。
そしてよく見るとですが 左の手はその指がギターを弾こうとしていますが どうも右の手は そうではないようなのです。歌をうたう・音を奏でるということでしたら 右の手も指を弦に引っかけさせて欲しかった。
そうしたあと 手が離れてしまったという場合 そういう場面を描いたのだとしたら 主題は変わって来ます。もう老いぼれたとつぶやいていることになります。
それもそれですが そしてその老境に甘んじているのだというような主題も考えられますが その点では中途半端であるように感じます。どっちつかずなのではないでしょうか?
もう少し説明をついやさねばならないかも知れません。
《まだ弾けるぞ》か《もう弾けなくなった》か? 前者であっても《だが ギター弾きだけの人生ではなかったはずだ》とか《おれのギターには まだ他人(ひと)には分からないうつくしさがあるはずだと思っている》とか あるいは後者であるなら《だがもうじゅうぶんである。弾きつくしたのだ。悔いはない》というのか《いやいや まだまだ追究したいことがある。老いさらばえてたまるものか》というのか・・・。わたしが見た限りでは どっちつかずだと考えます。共感の状態に入りがたい。という情況ではあります。
そうですね。人体は オブジェではないという頑なな信条がありましょうか。
でも別にこういう信条が先にあったのではなく 自然にかたちづくられて来ただけだとは思っています。
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