つぎの評言について解説してくださいませんか。
▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~
( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。
( b ) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。
( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。
( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。
・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
(1925~ 民族芸術学 美術史学)
▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~
( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。
( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。
( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。
・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。
( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。
( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。
( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。
No.93
- 回答日時:
zakky74でございます。
>> ところで、bragelonneさんが仰る「いい画家」というのは、僕の判断基準によるいい画家という事だったのでございましょうか? それとも、一般的に言う判断基準によるいい画家という事だったのでしょうか?
> まったく無条件で問うています。もしどうしても特定してくれということでしたら たとえば
>> 美を感じる事もございますが。 / 感じない事もあります。
>> 平面的な絵と言うんですかね?
> というような場合にすでに用いている《判断基準》でいいわけです。
なるほどですね。
>> 《イメージ》について答えをお持ちだとうかがったのですが この質問は《審美眼》と言っていますから イメージについても美の問題から明らかにしてもらえるとうれしいです。
イメージについて答を持っている僕ですが、判断基準の問題性を超える姿勢をbragelonneさんに感じた時には自然と伝達が起きている事でございましょう。現段階では、bragelonneさんはご自身の判断基準を横に置いておく事をしないと選択していると、僕は判断しております。ただ、人間の判断基準には不完全性がありますから、判断基準に対する判断が働く時にはいつでも判断基準は変化するものでございます。
審美眼ですが、僕は美しく観る目の事だと思っております。
観る目と言ったものの、五感覚的な目で見る事も含みますが、美しく観ようとする心によって積極的に美を感じにいく認識センス、感動センスの事を特に審美眼だと理解しています。
本当は、美しい存在も美しくない存在も、存在しません。存在は、存在しないからです。存在が存在している事そのものが、錯覚の世界でございます。
存在が存在している事が錯覚なのですから、美しい存在、美しいモノというのは存在しません。
ですが、まるでそれがリアルであるかの様に成り立たせている仕組み・メカニズムが、存在が存在しているという錯覚を創り、存在が存在している様に見せてくれています。
存在は存在しないものなのに、まるで存在しているかの様に見せてくれている・・・これは素晴らしいアートでございます。神秘そのものでございます。
ところで、ゴッホの絵やいい画家について尋ねられましたが、僕は絵を通しての美を語るには余りに材料を持ち合わせておりませんで、中々に恐縮なところはあるのですが。
似顔絵を描く人がいます。
似顔絵を観ていると、僕からは精密に見れば同じものとはとても思えないのに、似てる!と驚かされる時があります。そうした時、フッと笑ってしまったりするのですが、形で見た場合には似ていないのに似てる!と心が判断が動かされている事に気付き、これは僕自身でも明確に捉え切れてはいないけれども、しかし十分に感じていた世界はあって、それを似顔絵を描く人がうまく捉えて描いたのかしら・・・などと。
一体、どうしてそんな事が可能になっているのでしょうか?
ここには、幾つかのキョリや格差が存在しています。そんな、キョリ間や格差があるものを超えていこうとする姿勢にも、美を感じます。
この回答への補足
誰にというのでもありませんが。
わがこころのよわさとゆがみをみそなわすほどに
ためらいたまうことなかれ。
けれども みこころのままに。
ご回答をありがとうございます。
★ ここには、幾つかのキョリや格差が存在しています。そんな、キョリ間や格差があるものを超えていこうとする姿勢にも、美を感じます。
☆ これは 《似顔絵》について述べておられます。絵画については どうでしょう? というのがこの質問の趣旨です。
これまでこの質疑応答で触れられた作品については どうですか? それぞれの判断基準の違いを超えて いわば人びとに共通の美の感覚があるでしょうか? あると思われるでしょうか? あるとは思われないでしょうか?
○ ワシリー・カンディンスキー
http://art.pro.tok2.com/K/Kandinsky/Kandinsky.htm
○ フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3% …
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gog …
○ 装飾古墳データベース:文様一覧表示
http://kyuhaku.jmc.or.jp/index.php/1/-/-/-/-/-/- …
☆ 多くなるとご面倒でしょうので このあたりで。どうぞごゆっくり。
No.92
- 回答日時:
ひどっちさん、わざわざありがとうございました。
どういたしまして、お気になさらずにいてください。さて、ブラジュロンヌさん、
わたしも、ちょうど今ヤナーチェクを聴きながら調性について考えていましたよ。
懐かしいリンクがいくつか貼られていますので、聴きながら開けて眺めてみましたが、
【なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】
ああ、アレクサンドリア図書館の話を書いたな、とすぐに思い出しました。
キリスト教権力によるヒュパティアの惨殺はご存じですか? ぜひウィキペディアご参照を。
ご存じと思いますが、
ヨーロッパの歴史には、キリスト教権力が追い払った、悟性と哲学と科学の別の歴史がありますね。
歴史が、澄んだ水の一直線に流れているようなものではないのはあたりまえで、
掻き回した沼のように濁った時期が、通史を編めば要所要所にあります。
これが、「歴史の濁り」とわたしが言ったもので、あの文脈の場合、新プラトン主義の学問を捩じ伏せたことです。
「濁った精神」とは、キリスト教会の教えや、キリスト教徒の盲信の精神のことです。
つまりあの質問者さんが回答を引き出そうとしているキリスト教の精神です。
歴史の濁りと濁った精神というのは、間違った真実と正しい嘘、のようなことを念頭に置いているのです。おわかりですか。
わたしの呟きが、ブラジュロンヌさんのことであるように響いていたとは、驚きだな。
なるほどあなたは人並みに濁っているかもしれませんが、歴史と並べて評されるほどの器じゃないでしょう。意味不明でしょう。
あなたの世界には、きっといろいろな響きが沸いているのでしょうね。
少しはご自分のことにがっかりしたなら、わたしを「さん」付けでお願いしますよ。少しはがっかりしてほしいですね。どうせ体は元気なんでしょう。
No.91
- 回答日時:
こんばんは、Hidocchiでございます。
今回は、ご質問者様、雨合羽様にお詫び申し上げたく、投稿させていただきました。
先程の、ANo.87の回答欄にて、雨合羽様に対する愚生の一方的な誤解がございました。この場をお仮し、深くお詫び申し上げます。
誠に申し分けござませんでした。
Hidocchi 拝
《調性》の何たるかについて 弱っています。
聞いても捉えられません。と白状しなければならないかと思います。
ヰキぺは読みましたが 少しづつでもまなんでいければよいと思っています。
ありがとうございました。
No.90
- 回答日時:
おや、ひどっちさん、あらためましてこんにちは。
それは誤解でしょう。
お挙げになっているリンクは、3と25がわたしの書き込みです。
ブラジュロンヌさんは、ちょっと悪い癖だと思うのですが、ましゅまろさんとわたしのあいだに、
何かを読み間違えたのだと思います。
3でとんちんかんな応答をブラジュロンヌさんから補足にいただいてしまったのです。
猪突さんまでひっぱりだしてきています。ザビーヌに関する質問で何かを読んだように感じたらしいです。
そこで、わたしは何をどう書くか迷いましたが、25に、優しい言葉を選んで思い違いに気付くようにと配慮しているつもりです。
猪突さんとえらく仲良しに見えたらしいことについては、物理屋さんとは結婚しなかったが交友は好きである、と自分の身の回りの話をして濁しました。猪突さんは物理屋さんでしょう。ちなみに直接お話ししたことは一度しかないのですがね。
ひどっちさんのお書き込みは、申し訳ないですが読ませていただかなかったのですが、何かお気にさわりましたか。お話の機会があればどうぞ今後ともよろしくお願いします。
No.89
- 回答日時:
「はじめにイメージありき」はもう少しじっくり読み進めたいと
思っています。「現代美術論」は人気があって、手に入りにくい
かもしれません。
崇高へのベクトルの話ですが、象徴となりえないオブジェがあると
言う話なんですが。
カテゴライズ大好き人間じゃないけど、なにを象徴しうるかという話
A.どういう感じ、感覚、精神状態、こと、
B.もの
C.直接なにかを象徴しないけど、直接的に人間の内面に働きかけてくる
デザインに近い作品、だけど、その作品の出会いのエピソード自体が、
象徴なりうる
それ以外に
D.何だろう、と問い続けるしかなく、何らかの感覚は喚起されるが、
それがなんであるか分からず、今まで体験したことであるか、
体験したこともないのかもこたえられず、ただそれは孤独に閉じている
こういうものは象徴なりえません。でも、これはこれでもう、いっちゃってる
からいいのです。科学や分析が追い付きいつかは象徴なりうる可能性を秘めて
いますので。
ただ、「象徴なりえないこと」だけを目指しているだけの作品を自閉的と
いいたいのです。
ですので、例えば昔昔はただ神秘で物質だと認識されていなかった、光や、
その媒体となるガスと光の関係が分析され、色との関係が明らかになった
としてもじゃあそれを現代人がみて、神秘的だなあと思わないかっていえば、
思うわけで
遠近法や、写真技術が発達して、空間を2Dに展開する技術が発達しても、
ダビンチの緻密な画法には感嘆させられるわけで、
そういう懸念よりもやはり、自閉的になりすぎていることの方がより、
懸念されると、個人的には思うのですが。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
ふううむ。もう一回 ふううむ。
たとえばこうですか?
○ 絵も自己表現として自分の美の体験を表わして行けばよい。よいのだが その描いた結果として 何も見る人に分からないようでは あまりにも自己閉鎖的である。
ぎゃくに自己閉鎖的な気分でいたとしても 自分にとって確かな美の体験にもとづき画きたいものを画く。その結果が 見る人にその美をやはり伝えているということもあるかも知れない。
いづれにしても 人をも感動させうるとみづからの自信のある作品を発表してくれ。
☆ 《象徴が通じる》というのは こういうことを言うのですか? そして通じない場合は 問題だと。
No.88
- 回答日時:
私は敵も味方もないという立場です。
凹ませる気もありません。これで投稿文を何度か考え、時には数時間使っているのです。が、貴方を咎める以上の内容になりませんでした。それは無意味だと思い、草稿は何度か破棄しました。どう応答したものか、迷っています。リンク先も読み、正直、納得できず、貴方に呆れました。雨合羽さんの記述が論理としてダメというのではなく、人間として雨合羽さんの記述には信頼が置けないと述べているように私には思えていますが、そういうことなのですか。しかし彼女は貴方がバッシングに合っている時、嗜めてくれた人ですよ(「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)。
貴方はこのような点に一切触れないで、彼女が上目線で答弁した箇所だけ集めてらっしゃる。そして雨合羽さんに関する限り、貴方を攻撃したらしい質問欄よりも、ひどい誹謗中傷になっています。というのも、その設問者は貴方の個人名を挙げてもいないし(お礼欄のやり取りで、わかる人にはわかりますが)、貴方の過去の質疑応答を具体的に示してもしていません。
更に貴方にとって悪いことに、貴方が私のお礼欄に書いてしまった理屈だと、様々な人が貴方の質問欄に出入り禁止になってこそいないが、「犯罪者」のような対応を受けると最初から決まっているように見えています。嘘でしょう?と思いましたが、他の設問欄の「へらず口」の回答を見て、どうも本当らしいと思いました。いや、慎重になることをお勧めします。
貴方がこの投稿に対して「へらず口」を書くのなら、むしろ私に応答しなくても構いません。それは私が嫌だというのではなく、貴方の信用力がこれ以上落ちても、何にもならないからです。私は基本的に、設問者のためにしか投稿していません。当初の私の目論見を改めて書いておくと、私が「いけないことですよ」と嗜めた時、敵に回るつもりではなく、貴方がちゃんと応答なさると思っていたのです。そしたら貴方の信用も戻るだろうと思ったのです。折も折、貴方をバッシングする質問欄が立っています。あそこに書いてあることを、再度やったら貴方にとって致命的です。しかし雨合羽さんに関して、貴方は身をもって証明してしまったと私は見ています。私は補正するつもりでした。しかし失敗しました。貴方はいかに彼女が信頼に足らないかを力説し始めましたが、主観的なルサンチマンにしかなっていません。残念です。
ひょっとしたら、貴方は疲れているのではありませんか。貴方は「罪を憎んで人を憎まず」であり、コミュニケーションのためではなく、情報交換をしたくてこのサイトに来ていたはずです。であれば、惜しみなく仮説を開陳した雨合羽さんは上客のはずです。それなのに個人の人間性を問題にするとは、何かが変です。別に私生活を話す必要はないですが、何か大変なことでも起きたのではありませんか。だとすれば、一カ月くらい、カメラでも片手に旅行して、休んだ方がいいでしょう。もう少し貴方は慎重な方だと私は思っていましたが、ここまで波風を立ててしまうとは、この設問の「フィナーレ」を貴方はご自身の退会をもって締められるのかな――とさえ思いました。いやいや、それでは陶片追放されたようなものですから、貴方も潔しとなさらないでしょう。
回答者を敵とみなすことについてですが、聖書の「放蕩息子」のエピソードはご存じでしょうね(第三者が閲覧しても放蕩息子で検索すればすぐに見つかる話なので説明は省略しますが)。出て行って舞い戻った息子に、父は「この息子は死んでいたのに生き返った」と祝福して迎え入れたのでした。貴方がこの父のように振舞うことができないのはなぜなのでしょう。人を「ゾンビ、亡霊、敵」=信頼できない相手だとか決めつけても、何もなりませんよ。そんなレッテル貼り、誰でも出来ることではありませんか。生かそうとする時に、その人が問われるのではありませんか。
この回答への補足
るせえっ! と言われるのを承知の上で つぎの質疑応答をお知らせします。抱腹絶倒となっても わたしは知りません。
○ 【Q:ザビーヌ事件について】 ~~~~~~~~
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html
[回答]
amaguappa :No.3&8&12&16
cyototu :No.9
mashumaro2 :No.13
ri_rong :No.15&17&18
Hidocchi :No.11&14&19&20
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お考えになっていますね。という表現を使うと茶化すことになりますが まづはご回答をありがとうございます。
今回は ところが茶飲み話で済みそうです。中身は高尚ですよ。
《放蕩息子》の話が出て来るのでしたら 確かに話題は 論理をたたかわす次元を超えて
★ それなのに個人の人間性を問題にするとは、何かが変です。
☆ の次元に移っているのです。
★ 私は基本的に、設問者のためにしか投稿していません。
☆ もしこの基本に従うというお話でしたら わたしの場合には 以前に思惟と境地とのふたつの領野を指し示したとおりに 上の《人間性の問題》に触れることを避けていません。相手に向かってしゃべっているという意味です。
荒らし屋の話が出ましたが かれらは言わば好んでわたしの質問にやって来ました。その最高(?)記録は 回答数が三百件を超えたものです。(あとでは 削除がなされて 百件が残ったかどうかですが)。何が言いたいかと言いますと わたしは《相手に合わせてものを言っている》ということです。鐘になって 相手の撞き方に応じて鳴ります。それを連中はおもしろがったというところでしょう。
何が言いたいか? 人間性の問題に触れることを避けないで じっさいあなたも指摘されるように しかるべきときには 触れている。そういうふうに鐘を撞いて来ている。これを言うのみです。
感性と理性を離すべからずですが 思惟と境地とをも しかるべきときには 切り離す必要はない。こう考えて実行しています。すべての人に対して それぞれその人のようになります。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
雨合羽さんの記述が論理としてダメというのではなく、人間として雨合羽さんの記述には信頼が置けないと述べているように私には思えていますが、そういうことなのですか。
しかし彼女は貴方がバッシングに合っている時、嗜めてくれた人ですよ(「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 第三者であるあなたやほかの方々に分かるかどうか
■ (「他人をつかまえてそうやって病気とか言わない」)
☆ この命題は 《病気である者に対しては そのように病気のことを出すことは控えよ》と言っているのです。これは クリヤさん絡みの質疑応答で それまでウラでくすぶっていたこの発言者の思いが オモテにも出てしまった。その途端そのわたしの質問は 削除されてしまった。(でも前回出した【Q:思想としてのゴロツキや・・・】は その削除質問に近いものです。内容にしても回答者の顔ぶれにしてもです)。そういうふうに事態は推移して来ています。
雨合羽というのは 森進一のおふくろさんの歌にあるように 困っていて弱っているひとに――この質疑応答の場でも あるいは この場でこそ――傘を差し出すという意味があると いちどその説明を本人から聞きました。わたしはそのこころざしを思って 何度かゆづるということを行なって来たのです。いたづらに。
つまり 鐘の鳴り方を 撞き方に応じないで この蓑笠に対する場合には 控えて来たのです。
まぁ どういういきさつか知りませんが このたび晴れて 大団円を迎える。こういう運びになっています。
わたくしの信用も省みず あるいは ほかの方々の問題〔があるとすればその問題〕もほっぽり出して このひとつの問題にのみ――九十九匹よりも一匹を重んじ その人と同じようになって―― 対処している。これのみです。
★ 出て行って舞い戻った息子に、父は「この息子は死んでいたのに生き返った」と祝福して迎え入れたのでした。貴方がこの父のように振舞うことができないのはなぜなのでしょう。
☆ 舞い戻って来ていないどころか 心に還り見ることもしていないからです。ただし 人間であるわたし自身が《父》だというたとえは ズレているでしょうね。
さいころくん どぢゃ?
No.87
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでございます。勝手ながら、「小休憩」を挟むご無礼をお許しください。
> ベートーベンのパテティックは 最近なかなか面白いと思って来ているのですが 何か聞き方といったようなことがありますか?ベートーベンの余韻を残して エリック・サティを聞くとじつによろしいと思っています。
今回、聞きなおしてみました。第一楽章はとても重苦しく、強弱を付けたベートーベンらしい曲かと思われます。悲愴感、絶望感を訴えておりますが、ソナタ形式という“形式”がかろうじて、その爆発を押しとどめているように思われます(これは個人的印象でございますが、ハ短調と申しますと、例えば、ベートーベンの第五交響曲等、特有の緊張感があるように見受けられます)。
次の第二楽章でございますが、前楽章とは対照的に、やさしく語りかけてくるような曲想かと思われます。おそらく、ベートーベンの曲という知識を取っ払って聞きますと、“中期ロマン派”の曲だと言われましても、納得してしまいそうな旋律美が見られます。
そして、終楽章は、第一楽章と同様ハ短調に戻り、緊張感のある曲へと戻ります。
全体的に、緩急を巧みに取り入れた曲で、様式的にも非常にしっかりとした、決して飽きがこない名曲かと推察されます。ですが、これがサティともなりますと、ぐっと自由度が増します。これらの緊張感からの開放、もしくは、第二楽章からさらに自由化された曲想等が強く印象に残るかと推察されます。
もちろん、以上は愚見でございます。ご質問者様が、さらなる感動ができるよう切に願っております。
> ワーグナーの調性問題につきまして
以下に、数曲列挙させていただいておりますが、調性は存在しているように思われますが…..
なお、作曲の順は、ローエングリン → トリスタン → ジークフリート →(この間に“神々の黄昏”がきます)→ パルシファル となっております。
お暇なときにでも、BGMのつもりでお聴きいただければ幸いでございます。
ローエングリン 第一幕への前奏曲
トリスタンとイゾルデ フィナーレ
http://www.youtube.com/watch?v=qGbmjX7AYyU&featu …
ジークフリート 第二幕から
http://www.youtube.com/watch?v=6egZr8-8k2k&featu …
パルシファル 第三幕から
http://www.youtube.com/watch?v=DwdYZWFrBBM
> その他
雨合羽様のお話が出てきましたが、以前のご質問「思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが」http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6092710.html にもございましたが(かような公的な場所での発言でございますので)、愚生に対しましては、あまり良い印象をお持ちでないように見受けられました(嫌われているのかな?)。女性に疎まれるのは慣れておりますので、別段気にはしておりませんし、直接衝突したこともございませんので、別段愚生自身は不快な感情は持っておりません。ただ、今まで以上に悪い印象も与えたくもございませんので、可能な限り直接の意見交換は避けるようにはしております。たらこさんにしてもそうでございます。以前、直接の意見交換をしたことがありましたが、モメただけでしたもので..... 何か建設的なものが得られる可能性があれば、たとえモメルと分かっていましても、お話をさせていただくのですが。
とりとめのない話に終始してしまい申し訳ございませんでした。
駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
【Q:思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが】
これについて思い出させてくださってありがとうございます。そこで書いたいきさつは ヤクタアレアエストさんに おぎないとして書きこみました。くわしい説明になっていると思いましたから。
★ ワグナ― 調性
☆ は 時間をかけて聞きます。
★ 第一楽章はとても重苦しく、強弱を付けたベートーベンらしい曲かと思われます。悲愴感、絶望感を訴えておりますが、ソナタ形式という“形式”がかろうじて、その爆発を押しとどめているように思われます。
☆ これがですね 初めのダーン ダダダダーンのところからみんな たのしい調子で聞こえてくるものですから。軽い調子と言いますか 明るくたのしい感じです。重苦しい中にと言うべきでしょうか。重苦し感じと重なったかたちと言うのでしょうか。
これは 楽観の音楽だと思うようになったものですから。まったくただの感覚としてです。すみません。そんなあやしい聞き方で。
ときの満ちるのを俟ちます。
No.86
- 回答日時:
もうひとつ。
過去の質問者さんとのやり取りで、「本当に許せなくて」回答したことに対して「じゃれ付いている」という発言をした、ということに尽きますね。「じゃれついている」に対しては「憤りがある」と言っていることを理解してください。
塵だのなんだの他者を貶めることをしないで、まず自分の頭の上のハエを追い払うことに専念したほうが良いと想いますよ、amaguappa君は。
抑圧されたが故に生じた支配欲による情動が働き、それらが今までの作文となっているようです、自覚はないでしょうけど。親の罪が子に伝わり。
基本的な理解力をつけられますよう、参考までに。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6430103.html
No.85
- 回答日時:
ああ、それからamaguappa君の勘違いと挙げ足取りを防ぐために書いておきますが、憤り、「本当に怒っている」と表現したのは、amaguappa君が「じゃれついている」と評した回答群に対するその当時の言とその当時の姿勢であって、現状のことではないということだけを伝えておきたいと想います。
まあ、こんなことは普通言わなくても理解できるはずだと思うのですが、念のため。それから、似たもの同士は普段は基本的に気が合うが、似ているが故に部分的、そして一時的に反目もしあうのではないか、とも想います。
それから、ついでにもう一つアドバイスを。
>われらが審美眼は 劣化したか
われら ではなく、個人単位で考えるのが正解だと想います。個人差もあり、時代によって環境も芸術作品も変わっていますので...。
No.84
- 回答日時:
いましがたの投稿との間に何かの塵がはさまっていますがそれはいいとして、
ひょっとするとブラジュロンヌさんは、
「作家のうちで、弁証法的過程は済んでいすると、わたしも思いますよ」
を、
「作家のうちで、あなたのおっしゃるような弁証法過程は済んでいると、わたしも思いますよ」
と思ったのですね? ちがいますか?
弁証法的過程などは、制作において、作品を客観的に自律させることにおいて、済んでいるのが当然のことです。主観性から、作品の自律が招かれるのではないはずです。これは美術史上の重要な議題で、モダニズム考の要となっている事柄です。objetをめぐる自律性についての議論は、演劇性などの用語を生みだしており、緻密に扱おうとするととても難しいものであると思います。自律性そのものが神話幻想であるとする議論もあるでしょう。しかし、わたしは、主観を否定するように屹立してくる客観性というものが作品にはあると考える者です。
こういう、あなたのご質問には触れない問題圏をふまえて、わたしは、作家のうちで弁証法的過程は済んでいるとわたしも思う、と言うのですよ。
あなたのお考えを敷衍したところは、わたしの論説には微塵もないのですから、あなたのお考えをわたしが取りあげていないことは、お読みになればわかると思っていました。
こんなところですか? ここに誤解があるのでなければ、もはやわたしにはあなたの思考回路における理屈の出所がわかりません。
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