アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 つぎの評言について解説してくださいませんか。

 ▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~

 ( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。

 ( b )  ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。

 ( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。

 ( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。

  ・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
   (1925~ 民族芸術学 美術史学)

 ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~

 ( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。

 ( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。

 ( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

  ・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。

 ( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。

 ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
 ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。

 ( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。

A 回答 (122件中21~30件)

101個目の投稿にしようと思っていたのですが、なかなか仕事が終わりません。



まず
☆ 《この「初めの一人の者の美の体験」が成立するために》 その人が生きて来ているという条件があればよい。という見方です。そのほかに何も要らないという考えです。ここでは真っ向から向き合っています。
 ですが この対立を解きほぐすなら こうなります。
 ○ その人が生きて来ているという条件
 ☆ ここに《人類としても個人の人間としても社会を形成した上での・自然との対話をとおしての文化のさまざまないとなみ》という条件を含むかどうか。含むとわざわざ言うかどうか。ここで見解は分かれるのではないでしょうか?
 ですが この対立は不毛ではないですか? 《美を感じるその時点までにどういうふうに生きて来たか》その文化としての中身や歴史的意味合いを条件とするとわざわざ言うかどうかの違いだけではないですか? それともわざわざ言わなければ 美の感動は得られないというご見解でしょうか?


まさに条件としていると私は考えています。それを直接に語るかどうかではありませんが。

さらに

【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】への投稿を引用した部分です。
 ☆☆(No.26補足欄) ~~~~~~~~
  ● (投稿者: iacta_alea_est さん) 近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。
 私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 要するに美術鑑賞は 昔とは変わってしまったと言おうとしてるようです。
 これに対して質問者のわたしは いやいや作品がすべてという見方であり立ち場であると言い張っています。《作品を見たままで美を感じる。または感じない》 これで鑑賞は完結するのだと言っています。

bragelonneさんは、美を感じるのは非思考の「共同主観ないし共通感覚」であると主張していると私は読んでいます。
これに対し私の主張しているのはこの「共同主観ないし共通感覚」は、歴史的に形成されたものであり、現在の人々の現実の交通の中にしか認められないと言っているものです。
したがって、作品を前にした態度は上記のiacta_alea_est さんの言に賛成します。
作品を媒介とした感動を「共通」のものと確認していかなければ(この確認の過程が、「自らが考察し、つかみとり、咀嚼する」ことだと思います)、美は美として定着しないのです。
この過程が昔と違うのではないかというのは、現代の人間のありようからすれば当然だとは思います。
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この回答へのお礼

 cタカさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 おっしゃる意味がよく分かりません。もしおっしゃるとおりに理解すれば つぎのように受け取ることになります。
 ○ ~~~~~~~~~~~~
 カンディンスキーのコンポジションなる絵の前で時間をかけてその絵と対話をおこなう。さまざまな思索をたどり自分の納得するような美をその絵にふさわしい概念として認識する。これが 美の鑑賞である。
 同じように火炎状の飾り(?)のついた縄文土器を前にしてじっくり眺める。さまざまな思考を重ねその美を概念としてつかむ。これが 美の体験であり感動である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ これは 美の鑑賞ではなく 美の解説・評論であるとわたしは見ています。明らかに別ものです。
 もし《論理でわかる》ものであれば それは何も絵画ないし美術作品でなくても構わないはずです。絵の語りかけるものを 文章で表わせば済みます。
 絵があってこそ いろんな解釈を生みいろんな《鑑賞》があるのだと言うとすれば それは もはやまったく別々の解釈であるはずで 個人個人によってばらばらの美だということになるでしょう。一つや二つの評論に多くの《鑑賞者》が同調するのは おかしいはずです。じんるいの歴史的な文化経験が共有されているとしても 個人にとっての文化経験は一人ひとり違っているはずです。それを少数の評論家の解説で同調するとなれば むしファッショに近い美学だと考えられませんか?

 縄文土器のたたえる美は 人びとにとって共通感覚なのです。(百人が百人という意味ではありませんが)。ただしその美の感覚にまつわる個人の歴史としてのお話は 別個にあるはずです。それは 解説であり評論という別個のジャンルのものです。そしてこの評論は 鑑賞者の数だけあるはずです。いや 一人の鑑賞者も人生の過程で成長します。そのつどの解釈や評論を持つと言ってもいいでしょう。
 つまりそれらを少数の評論家が代弁するかのように 人びとみんなの見解が そのいくらかの数のものに まとまるというかたちを取ることがおかしいでしょう。そんなかたちで《美が美として定着する》のでは そらおそろしいと思いますが いかがでしょう?

 縄文人は みづからが作った土器を そのままうつくしいと思ったのではないですか? 評論は別ものです。カンディンスキーの初期の絵は そのままうつくしいと感じる。後期のものは 分からないと感じる。こういう見方です。
 つまりコンポジションは その絵と対話をしつつ思索し論理で分かるものだと言うとすれば それは 絵でなくてもよいことになります。つまり共有される《美》としてその絵があると言うとすれば その論理的な解説と評論で人びとを縛ることになる。そんな美学はないだろう。これです。

お礼日時:2011/01/27 00:51

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> ポール・K・ファイヤアーベントのお話についてきちんと留意出来ていなかったこと おわびします。

 こちらこそ、適当なご返答をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。

 ファイヤアーベントの著書では、この文章の後に、以下の文章がございます。
「<中略> 彼(プラトン)がやりたかったのは、彼流の言い方での「生きた交流」ですね。知識を決めていくのは、まさにそうした類の交流であって、それを合理化し、整理してしまった後の断面図ではないんです。当然プラトンは対話対を採用した、科学的散文体も当時すでに存在していたし、成熟もしていたけれども、それは採らなかったのです。しかも、知識を内包しているのは、対話自体というよりは、その対話を産み出した論争であり、またそれに参加したものがその対話を読むことによって思い出すはずの論争の方にあると思うんですよ。」
 
 おそらく、ファイヤアーベントの主張としましては、「その結果としての”整理された知見”」の背後には、何かしらのものが存在する ということを言いたかったものと思われます。

> ぎゃくに言いかえると
 ◆ 結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」
 ☆ つまりはこの《出逢い》としての直観ヒラメキを得たという事件ごとに 一段高い次元へと移行し そういう洞察の深化をともなってあたらしい整合性の世界を垣間見ることになる。――でしょうか?

 はい、仰る通りかと存じます。これは、量子物理学者とは意見的に対立していましたが、次の言葉を遺したアインシュタインにおきましても、同様のことが言えるかと思われます。
「理詰めで物事を考えることによって、新しい発見をしたことは、私には一度もない。」

 少なくとも、一段と高められた次元、そして、それから得られた整合性が得られた背景には、「必ず直観ヒラメキを得たという事件・契機がある(あった)」と考えられます。
 
> ☆ へえーっ そこまでの規制がかけられるのですか。
ぢゃあたしかに美術と同じようなのですね。

 仰られますように、つい最近までは、その傾向が見られたかと思われます。

> ブーレーズは名前は聞いていましたが。でもこれぢゃ感覚としては 生徒が校則を破るために校則を破って遊んでいる・実験しているというように受け止めてしまいました。

 さらに追記させていただきますと、「校則を破ること以外は許されない(=校則を守ってはいけない)」という風潮もあったかと思われます。

> いい音楽はいい。バッハは たまに楽器の音が強すぎるように感じるときがありますが ぜんぶ心地よいです。

 バッハの時代は、平均律がまだ完成されておらず、“純正律(厳密には”ウェル・テンペラメント“かもしれません)”が存在しておりましたので、その当時の楽器・音階を用いれば、耳には非常に心地よく響くものかと推察されます。もちろん、現代の楽器を用いましても、じゅうぶん楽しめるかと思われます。

> ぢゃあ 《ロゴス》の図式は あれでよかったでしょうか?

 ANo.60のお礼欄の図式でございましょうか。“ロゴス”を「神の言葉」と解するか、もしくは「論理的に語りうるもの」と定義するかにより、大きく変わってくるものと思われます。もしかしますと、各々により、場合分けする必要があるやもしれません。後日、再度、ご報告できれば と思っております。

> とうとう100件になりました。

 どうもお疲れ様でございます。現代アートの否定的見解を掲げられるには、相当の勇気が必要だったものと思っております。
 http://dell-support.okwave.jp/qa4689800.html のご質問者様にも、ぜひともご一読いただきたい質疑・応答内容かと思っております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ブーレーズは《神様》だったんですか。つまり
 ★ さらに追記させていただきますと、「校則を破ること以外は許されない(=校則を守ってはいけない)」という風潮もあったかと思われます。

 ★ おそらく、ファイヤアーベントの主張としましては、「その結果としての”整理された知見”」の背後には、何かしらのものが存在する ということを言いたかったものと思われます。
 ☆ これは 何でしょうね。もしヒラメキでないとすれば ただしヒラメキに似ていますが ちょっとした問題意識のようなアイディアでしょうか。これこれの見方から切り込めばおもしろいかも知れないというアイディアが思い浮かぶことがあったように思います。さらなる問い求めへの糸口であるような。
 
 ★ バッハの時代は、平均律がまだ完成されておらず、“純正律(厳密には”ウェル・テンペラメント“かもしれません)”が存在しておりましたので、その当時の楽器・音階を用いれば、耳には非常に心地よく響くものかと推察されます。もちろん、現代の楽器を用いましても、じゅうぶん楽しめるかと思われます。
 ☆ そうですか。いろいろありそうです。サラバンドとかジーグでしたか そういう意味でのいろんな演奏も聞きましたが 背後の理論はとんと分かりません。追い追いです。

 ★ ・・・“ロゴス”を「神の言葉」と解するか、もしくは「論理的に語りうるもの」と定義するかにより、大きく変わってくるものと思われます。
 ☆ No.60お礼欄のよりは つぎのまとめをたたき台にしてくださるとよいです。

 ☆☆(No.38お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
 まづ《ロゴス》の段階的区分(といったヘンな分析)をあらためて見ておきます。

  ☆☆(No.34お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神
   ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ
         (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明)
   ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ☆ そしてこれにもとづき 《イメージ》などに即して書きかえてみます。


  ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
   _____________________________
   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
   ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ○ 【Q:突き詰めるところ、「芸術」とは何なのか?】
 ☆ どうも現代芸術の《主流》についてどう捉えたらよいか困っている人が多いようです。そんなものが芸術か? になるようです。


 ★ 現代アートの否定的見解を掲げられるには
 ☆ けっきょく現代アートが そもそも芸術の死を言うことから発しているとすれば 芸術ないし美に対する反措定なのですから それに対するさらなる反措定であるなら 総合になるはずです。というよりも はじめに総合は 芸術として美として成り立っているという立ち場ではあるのですが。

 もう少し見守っています。

お礼日時:2011/01/26 23:40

物体造形的芸術から観念造形的芸術へ移行せしめたのが


超越的存在への畏敬への意識という木村さんの説について
ですが、すこしだけ反論したくなりました。

まず、餌となる動物や何らかのものに愛情をもつというのは
もともと人間に原始的に備わっていると思うからです。
フェティシズムというやつです。幼児が信号に「信号さん」
と言ったり、動物に話しかけたりする、そういう素朴な本能
的な部分は否定できないなと。

またシンメトリーが意味のあるコンポジションかということ
ですが、デザイン(直接人間に働く)の面からいうと、
三半規管が備わっていれば、右と左が同じにすれば、バランス
がいいという感覚は、鹿の角が左右対称だとか、人間の形など
から、観念的とまでいかなくても、原始的にも人間が求める形
だということ。またそれを枠で囲うという行為も、洞窟の中で
くらす人間の安心感からくる極めて原始的なデザイン的な要素
だからです。ですので抽象化やコンポジションが全て、そういう
超越的な存在の象徴と関連させてしまうのは早急かと。

ですので、原始的なアニミズムも、案外本能的なフェティシズム
にそうとう近かった可能性も否定できないかもと。
つまり、フロイトがいういわゆるリビドー的な(海の灯台の形に
潜在的にひかれる少女)感覚は、全く否定することはできないん
じゃないかなと

例えば、縄文土器だったら、「おなべちゃま」ぐらいの、おいしい
シチュー作ってねって気分で土こねて作ったんじゃないかと。

「美術製作は生活の余暇の単なる手すさびではなく、生きるための
本質的な活動」

というのも、そうかな、案外手すさび的側面もあったんじゃないの
かなと、もし危機迫った気持ちで作ったらやっぱり、そういう作風
になったわけだし、
それこそ昭和の高度経済成長の世知辛さからパースペクティブに
考察するとそうなるのかなと。

ちょっと木村さんに反論してみたくなっちゃいました。

自閉的な作品というのは、具体例を昨日思いついたけど忘れました。
例えば、それだけを見るより、それに対する説明文があると、
ああやっぱり天才的なインスピレーションで作られてるんだなと
感心させられる、そういう作品のことなんだけど。

そっちの本も読みたいと思っています。

この回答への補足

 はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 木村重信は けっして――三四の著書を読んだ結果――聖書の《はじめにロゴスがあった》という命題には触れていません。触れるかたちで 批判をするということはないようです。
 ただし 批判しようというつもりがまったくないかと言うと そうでもないらしい。
 しかもけっきょくは 《宗教》を批判したい。らしい。とにもかくにも《教義》の言うとおりに何もかもがこの世に現われそのロゴスによって人間と世界がいとなまれるといった世界観に異を唱えているらしい。

 たとえばわたしも 《ロゴス》という言葉で表わされるその内容を図式にしてみました。これも或る種の仕方で――仮りに考えるのによさそうなので持ち出すのですが―― 教義にされるかも知れません。いま現在の教義は とにもかくにも《ロゴス(ことば)がはじめにあった》という内容です。そしてその場合には 思考としてのコギトなるロゴスが 直観につうじる直感ヒラメキとしてのイメージよりも先にあったと捉えられています。そういう〔まちがった〕教義です。
 まぁ 一般に《おしえ》と言えば ゆるいものもあるでしょうが 組織宗教における教義と言えばそれは信徒のいわば絶対命令にひとしい戒律のようなものです。そこが 個人の信仰における非思考としてのロゴス(α)との違いにもなります。

 ですから要するに 木村は 宗教における教義としての《ロゴス(ことば)先行説》を イメージ先行説によって批判しているらしい。
 したがってその結果ここでわれわれが評言をあたえようと思えば なるほど直感イメージは論理や思考のロゴスに先行していますよ。ただし そもそもはおそらく《無根拠としての――非思考の場における――ロゴス(α)》も想定されるのではないですか? そのロゴス(α)にイメージもほかの経験的なものごとの一切も先行するとは思えません。想定上それはありえません。となります。

 フロイトはこの無根拠のロゴス(α)のことを何とか表わそうとして――というのは最大限に敬意を払って言っているのであって ホンネとしては その無根拠の想定が一般に受け容れられる現実をいいことにしてと言いたいのですが―― 《無意識》をわざわざ想定して来たのです。
 その問題点は ひとつにこの無意識はあくまで経験的なことがらであること。それなのに 人に分からないことがあればつねにこの無意識のしわざであると解釈するまでに 無意識を持ちあげ《アイドル》に仕立て上げました。
 しかもわるいことに 無意識は 独語 エス es(ラテン id ;つまり英語の it: 《それ・あれ》のことです)と言い換えており これだと《いと高きところにましますそのお方》といった《ロゴス=無根拠=神》と同じものに取り違えることが出来るようになっている。
 日本語でも得体の知れないものが自分に降りかかって来たときには 《あれえええーっ》と言ったりします。この《あれ(エス=無意識)》が 何か分からないモノゴトの原因であると言おうとしたものです。もしどうしても何ものかに結び付けたいのなら まづは《なぞ》という言葉で表わすことでしょう。
 それを或る人は単純に《神》と言ったり或る人は《非科学的だ》と言ったりするというわけです。その隙間を縫ってかどうか知りませんが 《無意識》を持ち出して来ました。ヒット商品になりました。大ヒットです。副作用も大きいでしょう。
 神もしくは無神という《なぞ》に執着した人びとのその思潮の中で 無意識なるいはイド(心の井戸?)あるいはリビドーといった概念を持ち出してくると すでに神もしくは無神に憑かれたかのように反応するクセがついてしまっている場合には あぁそれだ! という直感ヒラメキがはたらき 同じ筋道ですから 流行現象の広がるのは早い。
 たとえば日本人もこの《無意識教》が広まっていますが どうなんですかねぇ。つまりどこまで その筋道が クセとなって強固なものであるかです。
 それにしても 美術も音楽も文学(たとえば 村上春樹)も芸術全般あるいは資本主義の経済社会の全般にわたって そして思想もポストモダンとくりゃあ いったいどうなりますかねぇ。

 《あそび》を 《生活》からは一たんでも離れるかのような別の領域だと見るその分離の視点がおかしい。《手すさび》などというとき ほんとに戯れ事として・つまり自分の意志や心に明らかに逆らうと分かっていて敢えて行なうモノゴトとして負のあそびも入るかも知れません。ですが 生活が 全体としてあそびだという視点も大事ではないですか。
  

補足日時:2011/01/26 15:51
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この回答へのお礼

 生きること この全体を《あそび》と捉えるということ。なぜなら 人と人とのあいだには マが広がっていて そのマには一般に 言葉の表現による意思疎通というコトが横たわっているからです。
 この表現は およそ自由だからです。

 もっとも 感性をつうじての意思疎通(以心伝心?)・つまりあるいはイメージをつうじての交通(まじわり)もあって それだとマは詰まっていて まじわりはきわめて直接的であるようにたしかに感じられます。そうなのですが ところがここで ぎゃくの見方もそもそもの初めにそなわっていると考えられます。
 人間の意志です。自由意志です。そのために《ことば》があります。その意味のかぎりで コギト(思考)もあり 思考の結果として意志による判断を持ちます。この意志表明をつうじて 互いの存在を認め合いつつ 意思疎通を図るということになっています。

 つまり 《口説く》という行為は――その際には 感性やイメージが強くはたらくと思われますが それでも―― 互いの合意によって成り立つことになっています。たとえ感じだけで結ばれたとしても・つまりはその合意にかかわる言葉がなかったとしても 意思表示が互いにあってそれに合意したと見なすかたちに成ることになっています。

 それゆえにも 最高の《無根拠=神》を わざわざ言葉を意味する《ロゴス》にしたのかも知れません。《イメージ》では ちと困る。世の中てんやわんや。めちゃくちゃのくちゃになってしまいます。あるいは のっぺらぼうの世の中になります。メリハリがなくなります。一人ひとりの意志や心はどうでもよく 犬や猫の世界が繰り広げられます。

 ところがさらに――この事項のおしまいとして―― この最高のロゴスにしても 無根拠であり非思考なのです。《考えても分かるか分からないかが分からない》なぞです。だから信じる(つまり それからのノックを受け容れる。あるいは信じない)のですが その際には 日本語にいいことばがあります。《甘え》です。
 イメージや感性のみによって甘えるのではありません。海の上の波風にあたる心理の動きによって 互いに依存関係になることではありません。存在・あるいは意志とそのちから これ自体が コギト(思考)やイメージ(感性)を超えて かの無根拠なるものにみづからをゆだねます。それによって みづからの意志も心も感性も論理思考も持てる力のあらゆるはたらきをみづみづしい初めの状態に戻して 生きることになるでしょう。
 これは きわめておごそかな――しかもわれら人間にただであたえられためぐみであるところの――《あそび》だと考えますが どうでしょう?

お礼日時:2011/01/26 16:09

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> 無調音楽も オクターヴ内の音を使うのだとすれば 和音と同じ世界にはあるという
とでしょうか?
 それでも 違った感覚を与えられるわけですね。

 12音技法の和声は、非常に複雑だったかと記憶しております。申し訳ございません。愚生の理解を肥えております。おそらくこの辺の知識をマスターしているのは、作曲専攻を修了し、本格的な作曲家を目指す人たちぐらいかと思われます。

> 和音というのは 或る種の仕方で――光速のようにでしょうか?―― 絶対的なものなんでしょうか?

 元来、以下のように決められております。ただ、時代が経つにつれて、増加してきたものと記憶しております。

ハ長調の場合です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E9%95%B7% … 

> でも日本やアジアにも別の音楽はあるというかたちになるのでしょうか?

 原則、日本音階は5音階となっていました。例えば、江戸時代に作曲されました「さくら」は、5音階のみの曲となっております。ですが、明治になりますと、例えば「赤とんぼ」、「村祭り」等は、西洋音楽の影響を受けまして、(日本元来の)5音階以外の音も含まれています。

> けっきょくこのシェーンベルクを聞きますと ちょうど現代絵画と同じように 実験をしているというように感じましたが どうなんでしょう? バッハのようなここちよい感じではないですよね。わざと いらいらした感じを出しているようで。

 確かに、一種の実験だったかと思われます。従来の和音からは離れ、(厳密には異なるのでしょうが)不協和音の嵐となっています。
「調性からの開放」とは申しますものの、実は、少なくとも作曲技法上は、調性の成立を回避すべく、極めてシステマティックなものになっております。

 以下に、20世紀を代表する傑作といわれる、P. ブーレーズの「ル・ マルトー・サン・メートル」を載せさせてもらっています。
 
 もちろん、1980年頃までは、この曲を理解できないものは、「芸術を知らないもの」というレッテルが貼られていました。おそらく、理解するには、楽譜を読めることを前提としまして、相当の和声学を含みます音楽学の知識がなければ、困難かと思われます。
 

> ☆ これは けっきょく―― ctaka88 さんの口調に引きずられてしまっているようなのですが―― 何か心に引っかかっていたりすると美にも気持ちが向かないというようなことがあり そこで少しの余裕を持つことはよいと思われること。これだけを言っているとしたほうがよさそうです。
 言いかえると 《感性が磨かれる》のは すでに美の感動を得つつあり 得て来ている経験の上で ますます感性が肥えて来ることを言うとしたほうがよいと思いました。

 なるほどですね。納得致しました。

> 《思索や思想》にしても むしろ美の体験のあとにそれらが練り直されて行く。こう捉えたほうがよいようです。感性は先行しているように思われます。侮れないはずです。その体験の中からこそ 理論や論理が現われて来るとさえ見られると思います。
 
 これは、愚生も主張し続けてきたものでございますが、もちろん、愚生もロゴスを全否定するものではございません。再掲させていただきますが、以下のファイヤアーベントの文章に見られますように、偶然性により、かつ、その感性に訴えられた、はたと”ヒラメク”現象というものは、ロゴスの習得以上のものがあると思うのですが。

 ・ポール・K・ファイヤアーベントの「知についての三つの対話」から、
「トム[トーマス]・クーンが量子力学の革命に直接関わった人たちのなかで現存する科学者にインタヴューしたことがあります。その際彼らの最初の反応は、成書にあることをただ繰り返すことだった。でもクーンの方が一枚上手だった。前以てクーンはその人物に関連する書簡類や私的な覚書などの類をよく読んでいた。それらは成書に書かれていたこととは随分違う内容だった。クーンが論点に触れていくうちに、相手も実際にはどんなことが起こっていたたのかを少しずつ思い出していった。この話はニュートンにも当てはまりますよ。研究をするということは。結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ポール・K・ファイヤアーベントのお話についてきちんと留意出来ていなかったこと おわびします。
 コギトとしてのロゴスが決してそのコギトの主体にとってその主体の内面において文字どおりのロゴスとして整合的に連続しているわけではない。そのような類型を示そうとしている話として分かればよいでしょうか。
 ぎゃくに言いかえると
 ◆ 結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」
 ☆ つまりはこの《出逢い》としての直観ヒラメキを得たという事件ごとに 一段高い次元へと移行し そういう洞察の深化をともなってあたらしい整合性の世界を垣間見ることになる。――でしょうか?
 
 ひどっちさん お早うございます。すみませんでした。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 20世紀を代表する傑作といわれる、P. ブーレーズの「ル・ マルトー・サン・メートル」を載せさせてもらっています。
 
 もちろん、1980年頃までは、この曲を理解できないものは、「芸術を知らないもの」というレッテルが貼られていました。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ へえーっ そこまでの規制がかけられるのですか。ぢゃあたしかに美術と同じようなのですね。そして美術では ctaka88 さんがちょうどそれに対抗するような写実画の実例を示してくれました。新聞記事でもちょうど昨日でしたか そのホギ美術館の話を読みました。写真と同じようには画かない人も出て来ているとか言っていました。
 ブーレーズは名前は聞いていましたが。でもこれぢゃ感覚としては 生徒が校則を破るために校則を破って遊んでいる・実験しているというように受け止めてしまいました。たとえ実験でも それならまだサティのほうが わたしには感じがよいです。もっともサティはイライラしてくるという人もいましたが。


 和音など音楽についておしえていただきありがとうございます。そういえば先日 坂本竜一がテレビで講義をしていたのをぼやっとして聞いていました。まぁ わたしにとっては最後の結果としての作品だけの話になるのかも知れません。いい音楽はいい。バッハは たまに楽器の音が強すぎるように感じるときがありますが ぜんぶ心地よいです。

 ぢゃあ 《ロゴス》の図式は あれでよかったでしょうか?

 とうとう100件になりました。

お礼日時:2011/01/26 05:37

拝読しました。



>原始美術も、火炎土器も2、3百年前までは、単なるガラクタして扱われていたのです。

 これらを美しいと主張する人間が多くなって、初めて美術品となったのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも どの時点を捉えて言っているのかで どちらも成り立つ話だと見ます。
 すなわち(1) 縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。(2) それにつづいてほかの人間も美の感覚をおぼえた。(3) 共同主観ないし共通感覚をそこに見てもよいことになる。
 つまり 縄文土器は 初めからあったのですから そのままで美を湛えていたはずです。発見がどうであったかの問題だけだと思いますよ。


私の言っているのは「縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。」という、この「初めの一人の者の美の体験」が成立するためには、それまでの人間の歴史の積み重ね(文化的社会的状況)とその者の個人的歴史成長が前提としてあるということです。
物が「そのままで美を湛えていたはずで」はないのです。
「そのままで美」というのは、明らかに「美」というイデーがあるということになります。

bragelonneさんがいう、審美眼の劣化は、現代の人間がこの「真『美』」を直接に感じられなくなったということになりますよね。

私が考えているのは、このような 「真『美』」はなく、美は人間の歴史的現実的な関係の中でしか成立しない、したがって、何が美しいかということもその鑑賞方法も歴史の中で動いていくという意味で、進歩も劣化もないということです。

bragelonneさんは、このような作品についてはどう思われますか。
http://www.hoki-museum.jp/collection/index.html
好き嫌いという点でいえば、私はこのような作品はどちらかと言えば嫌いです。
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この回答へのお礼

 いやあ なかなか紛糾しますね この主題は。
 cタカさん ご回答をありがとうございます。

 まづすでにやり取りした事柄ですが 確認します。つまり
 ★ bragelonneさんがいう、審美眼の劣化は、現代の人間がこの「真『美』」を直接に感じられなくなったということになりますよね。
 ☆ というような《審美眼の優劣》を持ち出しているのは 近現代の美術についての専門家や業界のほうです。

 【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】への投稿を引用した部分です。
 ☆☆(No.26補足欄) ~~~~~~~~
  ● (投稿者: iacta_alea_est さん) 近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。
 私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 要するに美術鑑賞は 昔とは変わってしまったと言おうとしてるようです。
 これに対して質問者のわたしは いやいや作品がすべてという見方であり立ち場であると言い張っています。《作品を見たままで美を感じる。または感じない》 これで鑑賞は完結するのだと言っています。そのとき
 ★ 「そのままで美」というのは、明らかに「美」というイデーがあるということになります。
 ☆ というふうな別の副作用と言いますか語弊も出て来ます。まづ大きくは そういう情況だとご理解ください。

 その前提で
 ★ 物が「そのままで美を湛えていたはずで」はないのです。
 ☆ になお異を唱えます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 私の言っているのは「縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。」という、この「初めの一人の者の美の体験」が成立するためには、それまでの人間の歴史の積み重ね(文化的社会的状況)とその者の個人的歴史成長が前提としてあるということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《この「初めの一人の者の美の体験」が成立するために》 その人が生きて来ているという条件があればよい。という見方です。そのほかに何も要らないという考えです。ここでは真っ向から向き合っています。
 ですが この対立を解きほぐすなら こうなります。
 ○ その人が生きて来ているという条件
 ☆ ここに《人類としても個人の人間としても社会を形成した上での・自然との対話をとおしての文化のさまざまないとなみ》という条件を含むかどうか。含むとわざわざ言うかどうか。ここで見解は分かれるのではないでしょうか?
 ですが この対立は不毛ではないですか? 《美を感じるその時点までにどういうふうに生きて来たか》その文化としての中身や歴史的意味合いを条件とするとわざわざ言うかどうかの違いだけではないですか? それともわざわざ言わなければ 美の感動は得られないというご見解でしょうか?

 あるいはこういうふうに言いかえればいいのかも知れません。
 ☆☆ つまり 縄文土器は 初めからあったのですから そのままで美を湛えていたはずです。
 ☆ これを 次のようにです。 
 ○ そのモノに美を初めて感じたその時点で その縄文土器はさらにその前からあったという限りでは 《そのままで美を湛えていた》んだなぁと思った。あぁ 知らなかった。
 ☆ という話です。別に《真の美がある》とも――あるいは ないとも――言っていないわけです。その誤解は 現代美術派の主張にまどわされた見方ではないかと考えます。
 それに 考えてもみてください。その土器をつくった人たちも 別に見憎いものを作ろうと思って作ったわけではないのですから その《作品》をうつくしいと思ったのでしょう。そのはずです。だったら《初めから美を湛えていた》のです。《美のイデー》うんぬんという話をそこに差し挟むこと それも現代美術派による悪影響ではないか。こう思います。

 ★ ホキ美術館の写実絵画
 ☆ これが 写真で済むぢゃないかと言われてしまう画法ですね。
 ○ 森本草介:《横になるポーズ》 ――この種の絵は 感性が人格全体としてのそれか または感性のみを言っているのか。ここで見方が分かれると思います。
 ☆ あとは《静物》画を除いて写真ですね。好き嫌いというより 写実画だなぁと。
 静物画は 習作でなければ ねらいをしっかりと定めて画いて欲しいと感じます。うつくしいと言えばうつくしいの部類に入るのですかねぇ。四点のうちバラははっきりしません。

お礼日時:2011/01/25 13:24

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> 《調性》の何たるかについて 弱っています。

 説明不足でございました。ANo.54のお礼欄におけます「音楽は、調性から解放され、旋律・和声・リズムの法則を失なった。」から、”調性から解放され”の逆の意味でとりました。つまり、
”調性”が存在している = 旋律[メロディー]・(美しい)和声が存在している
 と解していただければ、幸いでございます。誤解を招く表現を用いてしまい、深くお詫び申し上げます。

 なお、12音音楽(調性を欠いた音楽:無調音楽)につきまして、少しばかりお話させていただきます(シェーンベルクの曲を聴き、カンディンスキーが「印象・コンサート( 1911年)」描いたといわれています)。
 この技法はシェーンベルクにより体系化されました。まず、調性とは、その前提に「主音・主和音に基づいている」というものがあります(ハ長調ですと、ハ音=ドを中心とし、ド、ミ、ソ等の和音から構成されております)。
 しかし、12音技法では、オクターブ内の(半音階も含めた)12の音を均等に用います。つまり、ド、ソが来ますと、次には、この2つの音以外の音が来るようにします。そして、12の音全てが現れなければ、これらド、ソの音が来れないようにします。そうすることにより、各音が均等に扱われことになり、その結果、主音が消し去り(調性の前提を崩し)、 理論上、調性が存在しない ということになります。以下に、一例を挙げさせてもらっております(今回は、勝手ながら、弦楽器を用いた曲を選ばせてもらっております)。

A. シェーンベルク「弦楽4重奏曲第3番」
 

 先程の、ctaka88様のご意見を拝読させていただきましたが、確かに現代人は「目が肥えた」、換言致しますと、「評論する能力は高くなった」可能性はあるかもしれません。
 ですが、”美”を愚直なまでに、感じ・喜び・感動を見出す「”感性”のようなものが劣化」する傾向にある と愚生には思われたのですが、いかがなものでしょうか。
 
 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ですが、”美”を愚直なまでに、感じ・喜び・感動を見出す「”感性”のようなものが劣化」する傾向にある と愚生には思われたのですが、いかがなものでしょうか。
 ☆ ううーん。確かに 美の体験は無条件だとしたほうがよさそうです。

 次のようにわたしは書いています。
 ☆☆(No.97お礼欄) ~~~~~~~ 
 感性が磨かれるという過程が確かにあるということ。そのときに理性をつうじての思想(生活態度)の練り直しとしての思索も 間接的には美の感覚を磨くのに 寄与していると思われる。
 ただし 美の体験は そのときそのときの理性や思考を超えた一瞬の出来事であるとわたしは考えます。どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは けっきょく―― ctaka88 さんの口調に引きずられてしまっているようなのですが―― 何か心に引っかかっていたりすると美にも気持ちが向かないというようなことがあり そこで少しの余裕を持つことはよいと思われること。これだけを言っているとしたほうがよさそうです。
 言いかえると 《感性が磨かれる》のは すでに美の感動を得つつあり 得て来ている経験の上で ますます感性が肥えて来ることを言うとしたほうがよいと思いました。
 《思索や思想》にしても むしろ美の体験のあとにそれらが練り直されて行く。こう捉えたほうがよいようです。感性は先行しているように思われます。侮れないはずです。その体験の中からこそ 理論や論理が現われて来るとさえ見られると思います。
 このように見直します。



 ★ 12音音楽(調性を欠いた音楽:無調音楽) / A. シェーンベルク「弦楽4重奏曲第3番」
 ☆ ありがとうございます。少し分かった気がします。
 無調音楽も オクターヴ内の音を使うのだとすれば 和音と同じ世界にはあるということでしょうか?
 それでも 違った感覚を与えられるわけですね。
 和音というのは 或る種の仕方で――光速のようにでしょうか?―― 絶対的なものなんでしょうか?
 でも日本やアジアにも別の音楽はあるというかたちになるのでしょうか?


 けっきょくこのシェーンベルクを聞きますと ちょうど現代絵画と同じように 実験をしているというように感じましたが どうなんでしょう? バッハのようなここちよい感じではないですよね。わざと いらいらした感じを出しているようで。
 ★ カンディンスキーが「印象・コンサート( 1911年)」
 ☆ なるほど 分からないではないですね。その音楽を聞いたあとに この絵を見ると。こう画きたくなるということは。ううーん。だからと言って そのまま・このままで 作品だと言われても。
 次で見ました。
 ○ ヴァシリー・カンディンスキーの「印象 場L(コンサート)」 
  http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-183.h …


 音楽よ おまえもか。と言わねばならないような感覚ですが。

お礼日時:2011/01/24 23:42

書き洩らしました。



「理性や思考の入る余地のない原始美術」もありえません。

原始美術も、火炎土器も2、3百年前までは、単なるガラクタして扱われていたのです。

これらを美しいと主張する人間が多くなって、初めて美術品となったのです。
製作者は意識に関係なく、芸術作品は鑑賞者なしに成立しません。
そして鑑賞するときには、歴史的な「理性や思考」の積み重ね(この積み重ね=進歩とは思いません)が、美を美として認識させる基となっています。
火炎土器も岡本太郎が言わなければ、もう少し美術品としての評価が低かったかもしれません。

そういうことで、審美眼は変貌し、発展ではないかもしれないが劣化もあり得ない
というのが私の結論です。
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この回答へのお礼

 つづいてですね。

 ★ ~~~~~~~~~
 原始美術も、火炎土器も2、3百年前までは、単なるガラクタして扱われていたのです。

 これらを美しいと主張する人間が多くなって、初めて美術品となったのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも どの時点を捉えて言っているのかで どちらも成り立つ話だと見ます。
 すなわち(1) 縄文土器の火炎状のかたちが美しいと見るのは 初めに一人の者の美の体験があった。(2) それにつづいてほかの人間も美の感覚をおぼえた。(3) 共同主観ないし共通感覚をそこに見てもよいことになる。
 つまり 縄文土器は 初めからあったのですから そのままで美を湛えていたはずです。発見がどうであったかの問題だけだと思いますよ。

 感性が磨かれるという過程が確かにあるということ。そのときに理性をつうじての思想(生活態度)の練り直しとしての思索も 間接的には美の感覚を磨くのに 寄与していると思われる。
 ただし 美の体験は そのときそのときの理性や思考を超えた一瞬の出来事であるとわたしは考えます。どうでしょう?

 ★ そういうことで、審美眼は変貌し、発展ではないかもしれないが劣化もあり得ない / というのが私の結論です。
 ☆ ところが 近代以降の現代人は すでに審美眼が劣化しているとの見方が 美術界におけるコンセンサスを得ているのだそうです。だから 作品だけでは 美の鑑賞が成り立たないのだそうです。鑑賞者を必要とするだけではなく その作品をめぐる作家や制作事情や時代背景やその作家の交友関係やその思想的な情況などなどを評論として解説し理解しなければ 美の体験は完結しないのだそうです。よ。

お礼日時:2011/01/24 16:50

bragelonneさん



いつの間にか書き込みが100近くになっていますね。

> その作品じたいの美は やはり画家本人にとっても 一瞬のうちに見て感じるものである。
> こう言い張りつづけています。どうでしょう?

この主張については、私は最初から言っていますが、絶対に同意できません。
ここでいう「一瞬のうちに」とはどのようなことを言っているのでしょう。
私は、それまでの自分の情緒・理性の積み重ねと、共感するものが感動すると理解しています。
したがって、一度見たときは良いと思わなかったものが、何度か目にすることによって美しいと感じられることもあります。

「一瞬のうちに」を強調すると、他の方も言っていますが「絶対的な美の規範」がどこかにあることになってしまい、何度も見る必要はないということになってしまいませんか。

これは良く言われることですが、良いものをたくさん見ることによって鑑賞眼は高まっていきます。
一定の約束事を前提として、すなわち人間のそれまでの歴史的な営みを伴って美術品は成立しています。
「一瞬のうちに」を強調しすぎると、単なる好き嫌いと区別がつかなくなってしまい、歴史的知的蓄積を否定しかねないことになりませんか。
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この回答へのお礼

 スィータカさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ いつの間にか書き込みが100近くになっていますね。
 ☆ わづかに具体例が欲しいと言っていたのが ここまで来ました。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 ここでいう「一瞬のうちに」とはどのようなことを言っているのでしょう。
 私は、それまでの自分の情緒・理性の積み重ねと、共感するものが感動すると理解しています。
 したがって、一度見たときは良いと思わなかったものが、何度か目にすることによって美しいと感じられることもあります。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《目にすることをつうじて美しいと感じられる》こと これは その視像を得たというやはり一瞬のことではないですか? つまりそれまでに鑑賞の訓練と言いますか いろんなふつうの(あるいは負の)美の体験を経たあとのことであっても これはという美の体験を得たというのは その見た一瞬のことではないですか? しかもそのとき 《うつくしいと感じる》ことに 理性も思考も あるいはいわゆる理屈の一切が要らないと思うのですけれど どうでしょう?
 ★ それまでの自分の情緒・理性の積み重ね
 ☆ というのは なるほど美の鑑賞のための訓練のようですが その積み重ねがなくても 美しいと感じるときには感じるのではないですか?
 ★ 理性の〔思惟の〕積み重ね
 ☆ これについては 別個に考察しなければならないかも知れません。たぶん情緒を感じるところの感性の磨きには けっきょく理性による思索といった思想(生活態度)の練り直しもかかわっていると考えますが それはどうも直截のかかわりであるようには思わないのですが どうでしょう? 
 これこれの理屈に合っている ゆえにこれは美しいというような感覚のはたらきであるようには思わないのですが どうでしょう?

 その美の体験のあとにそこから派生するかのごとく その作品なら作品についての評論は与えられることがあります。でもその評論は 美の体験から来るものであったとしても 評論ゆえに美の体験を得ると言えるか? 
 もし言えるというのであれば それは その評論家の見方に沿ってその作品についての美の体験を持ったという事件であると考えます。排斥はしませんが ほんとうに美しいのか? と問いたいとは思いますが どうでしょう?

 ★ 「一瞬のうちに」を強調しすぎると、単なる好き嫌いと区別がつかなくなってしまい、歴史的知的蓄積を否定しかねないことになりませんか。
 ☆ すでに述べましたように《歴史的知的蓄積を否定》することはあり得ません。美の鑑賞のときにも はたらくに任せておくのですから。ただし美を感じるのは 一瞬のうちにであるということは けっきょく《単なる好き嫌い》のことであるとわたしは思います。そのことに何ら問題はないとも思います。

 ★ 「絶対的な美の規範」がどこかにあることになってしまい
 ☆ は ないと考えます。
 (1) 初めに《わたし》の美の体験があった。
 (2) その美しいという感覚は どうもその同じ作品を見てほかの人も得ているところを見ると その感覚は人びとに共通であるのではないか? きっとそうである。
 (3) この共通の感覚が 絶対的に・つまりすべての人間にあてはまるかどうか? それは分からない。分かろうとも思わない。たとえば三人に共通であれば そこには主観の共同性があると見なす。この共同主観が 常識である。


 こんなところですが。

お礼日時:2011/01/24 16:37

>その作品じたいの美は やはり画家本人にとっても


>一瞬のうちに見て感じるものである。
>こう言い張りつづけています。どうでしょう?
>美は 理性や思考を超えていると言いたいわけです。

これは、その通りだと思います。だから理性や思考の入る
余地のない原始美術にもひかれるわけですよね。
ピカソだって岡本太郎さんだって、それから伝わる、
ストレートな生命力のようなものに魅せられたわけですから。

ただ、私の考えていた象徴のとらえかたは、
「はじめにイメージありき」にでてくる象徴よりもすこし
広義だったことがわかりました。

呪術的な意味合いが強い時代は「イメージの記号」って記載されて
ますね。だけど、「きわめて原始的な象徴」といってはいけないの
かなとも、思いましたけど。

じゃあいつから象徴といっていいのかっていうと、実存主義的な話に
なるわけです。つまり、内側からの私と、外側からの私、という自覚
が少し芽生えた頃、人間が亡くなった際に、うわー動かなくなっちゃ
った。お祓いしなくちゃって時代はまだ、「イメージの記号」です。
その時は記憶がもとに描かれている。動物を描く時も、今度、これ
とって食べようってことで、現実感まんまのイメージで即物的です。

だけど、いつかはだれでも死ぬのか、じゃあ自分も死んだ時どうな
るのかな、肉体を離れて、あの世に行くのかな、ということで、
つくられるオブジェは、超越的な存在とリンクさせるような意味がこ
められるようになって、とすこし観念的な意味が込められていること
を象徴と言っているみたいですね。

もう少し読みたいと思います。
また「現代美術論」も手に入ったら読むつもりです。

頑張ってください。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~
 だから理性や思考の入る
 余地のない原始美術にもひかれるわけですよね。
 ピカソだって岡本太郎さんだって、それから伝わる、
 ストレートな生命力のようなものに魅せられたわけですから。

 ただ、私の考えていた象徴のとらえかたは、
 「はじめにイメージありき」にでてくる象徴よりもすこし
 広義だったことがわかりました。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここからはいくつかの主題が見て取れます。
 (1) 《象徴》の時代になったあとも けっきょくは《美は 理性や思考を超えていて 見たときの瞬間におぼえる》ものである。それでよいか?

 (2) その《象徴》が人びとの観念に加わるというのは 《抽象》としての表象とどう違うか? 
 お日さんとお月さんから《ひかり》を一般的な観念として抽象したというとき それはたぶんまだ《象徴》にはなっていない。
 したがって人びとの考えにおいていい考えがひらめいたというとき そのヒラメキを《ひかり》にたとえることが起こる。《ひかり》は 頭脳の象徴になりうる。
 このように抽象化や象徴化を経ても 美の体験そのものが理性や思考を超え その視像の一瞬の獲得において得られるというのは 変わらないであろう。それでよいか?

 (3) つまり原始美術もその後の知性人間の時代の美術も 美の体験のあり方としては 変わりない。か?

 (4) それでも岡本は みづからの美術作品は 抽象的な作風であった。ピカソは みづからの《そのものから伝わるストレートな生命力のようなもの》を そのままには再現せずに 別の画法であらわした。

 * なお《知性人間》と言ったのは 
 ★ 人間が亡くなった際に、うわー動かなくなっちゃった。お祓いしなくちゃって時代はまだ、「イメージの記号」です。
 ☆ を超えて出て来た人間のことです。
 ★ いつかはだれでも死ぬのか、じゃあ自分も死んだ時どうなるのかな、肉体を離れて、あの世に行くのかな、ということで、
 ☆ というふうには必ずしも考えていません。みづからの生についての限りある時間をさとったという意味での(それだけでの)歴史知性を得た人間を言いました。

 * 《オブジェ》という場合には たぶんその作品がまだそれだけでは(あるいは 作者の主観においては完成されていたとしても 観衆に見られることによってあたかも作品が作品として世に出たというような捉え方をするのでなければ) 作品ではないと見る場合を称して言うようですね。
 わたしの見方は 作者の主観においても その見た瞬間に完成しており 美の体験が起こると見ますし 鑑賞者が見たその瞬間にも美が感じられるのだと捉えています。つまりわざわざオブジェと言う必要を見ません。どうですか?

お礼日時:2011/01/24 16:14

たぶんそういうことでいいと思います。

だから

1.作品がオブジェとして即自的に完結することと、
2.普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、
この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

1.と2.は、今後のテーマであると言いたいのだと思います。
それで個人的には今は2.に特に注目してみたい気分ということです。

何か進展ありましたか、あったら教えてください。
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この回答へのお礼

 ★ 何か進展ありましたか
 ☆ わたしも知りたいところです。いまは水面下に潜って動きがあるのかも知れません。ないかも知れません。

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~
 1.と2.は、今後のテーマであると言いたいのだと思います。
 それで個人的には今は2.に特に注目してみたい気分ということです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから そのような《いばらの道を芸術家は歩むことになろう》と見ているのは 木村です。
 わたくしや ひどっちさんの見方としては ただいまこの場で即時に一瞬のうちに 美が美なら美は感じられるというものです。

 画家がその美をあらわすためには 描くということだけでも時間がかかります。つまり画法などの技術を含めて苦労するのは たしかに時間過程をたどるということですが その作品の完成にいたれば その作品じたいの美は やはり画家本人にとっても 一瞬のうちに見て感じるものである。
 こう言い張りつづけています。どうでしょう?
 美は 理性や思考を超えていると言いたいわけです。

お礼日時:2011/01/23 15:51
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