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 つぎの評言について解説してくださいませんか。

 ▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~

 ( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。

 ( b )  ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。

 ( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。

 ( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。

  ・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
   (1925~ 民族芸術学 美術史学)

 ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~

 ( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。

 ( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。

 ( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

  ・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。

 ( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。

 ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
 ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。

 ( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。

A 回答 (122件中91~100件)

zakky74でございます。



こんばんは、bragelonneさん。ご無沙汰しております。

>> ★★(回答No.21) ~~~~~~
> ☆ こうであれば ・・・
> ☆ と言われても 上のように《判断基準の問題点2.》がわれわれの前に横たわっていると言うかぎり 何も出来ないのではありませんか? 言いかえると どこから話を始めても・また判断基準を引っ込めようが引っ込めまいが すべて同じことになると考えるのがふつうではないですか?

そうですね。ふつうはそうでございましょう。

> でもね これまでわたくしが 相手の言おうとするところを出来るかぎり汲んで そのあと自分の考えを差し挟むという順序でやり取りをして来なかったことがありますか? いまあなたはわたくしがそうしていないとおっしゃっているわけです。そしてそれは あなたの言いたいことがわたくしに伝わらなかったからだと。
> わたくしにピンと来ないこと 理解しようとしても理解が得られないこと にかんしては どうすることも出来ません。

そうです。そのままではどうすることも出来ませんね。
ですから、僕からは代案を申し上げておりました。

> だから ほかのご文章にて 話をすすめるために 応じたというところです。まさか ほかの質問への投稿は ご自分の考えとは別だということではないでしょうから。

この作業が、bragelonneさんにとっての意味ある事なのは分かります。僕もそこに付き合う選択肢もありますが、仮にbragelonneさんにとっての無意味であったとしましても目的の為に疎通・交流を計ろうとするのかに、その時は関心がございました。

> わたしが勘違いをしたのは 一回きりです。しかもそのことについては きちんと直しました。

そうでございましょう。bragelonneさんの仰る通りです。
bragelonneさんの判断基準から見てそうでございます。

では、僕の判断基準から観たら何回だと思いますか?

>> ★ 言葉遊び
> ☆ うんぬんについてですが いいですか わたくしはすでに
>  ○ クレド=非思考=直観=ヒラメキ⇒感覚および思考
> ☆ このように基本的な認識を示しています。いいですか?
>  ○ 非思考
> ☆ ですよ? 思考に非ず です。思考は言葉でおこなうものです。だったら基本の命題において《言葉遊び》をするわけないぢゃないですか。仮りに表わすならば 《たとえ》としてこれこれの図式が ことばをつうじて 得られる。これも或る種の仕方で《イメージ》であるかと思う――こうお伝えしています。言わば代理表現なのです。

そうですね。

ですが、KnowとDoとAmは、それぞれ段階が違うものとも認識しております。

それと、Knowであっても、無知の知という事もございます。僕がお伝えした言葉遊びという話の展開において、「bragelonneさんが明確に理解している事は何一つないのではないでしょうか?」との投げ掛けが最もキーワードなのでございまして、

>  ○ クレド=非思考=直観=ヒラメキ⇒感覚および思考
> ☆ このように基本的な認識を示しています。

という認識を示していらっしゃいますが、例えばですが「そもそも、クレドさえも明確な理解がなく、ロゴスさえも明確な理解が無いのではないでしょうか?」という事がお伝えしたかった事の種でございます。

bragelonneさんにとって、とても受け入れ難くて聞きにくいお話かもしれません。一体どういう意味で、「明確な理解が無い」と言われているのか、まで関心が行きませんよね。

> いくら人と人とは分かり合えないからと言って これほどはっきり述べていることが素通りされているようぢゃ 何をか言わんやとなりませんか? 

ふつうはなるかと思います。
bragelonneさんもやはり不快でしたか?

もしそうでしたら済みませんでした。

人と人が分かり合えない事を、仕組みとして確認し、代案をもって臨む事に関心がありましたが、その為には明確な自覚が必要であろうと判断し、人と人が分かり合えていない状況を浮き彫りにさせたかったのでございます。

> ctaka88 さんとは 美学のあり方で真っ向から互いの見方が異なっているにもかかわらず コミュニケーションは取れているとお思いになりませんか?

どこをどう観るか、観点によって判断は異なります。

判断基準の事を一切気にしなければ、勿論コミュニケーションは取れておりましょう。

ただ、判断基準の問題性は、人間だったら誰もが皆、共通にして抱えている問題性です。判断基準が全く違うctaka88 さんとbragelonneさんのコミュニケーションが図れている道理がございません。

字数制限が^^;
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この回答へのお礼

 早く回答を書きなさい。

お礼日時:2011/01/10 08:27

自己完結的に劣化するアートという定義をもうすこし考えてみたい


と思います。

創造する側が陶酔して停滞することと考えたらどうでしょうか。
例えば、音の粒をそろえることにとらわれすぎるあまりに、全体の
メロディーの美しさがかえってパサパサしてくることもあるでしょ
うし、またメロディーを創出中にその創出する本人が酔ってしまっ
たら、迷子になってしまいます。いずれにしても独りよがりになっ
てしまっている状態ですよね。現代の劣化の特徴はこの辺じゃない
のかなと思ったりします。社会問題や経済低迷要因とリンクしてる
みたいですね。

ゴジラのテーマは4分の4拍子と4分の5拍子の交互に繰り返すという
正統的な西洋音楽に反したものでしたが、大地の地響きのような、
迫力のあるサウンドに知らず知らずに引き込まれてしまいます。
決して、自己完結的とも独りよがりとも思えませんが、日本の当時
の音楽アーティストは認めようとしませんでした。けっきょく、
これだって逆輸入の評価からなんですね。

自然を感じる自由な感覚を近代社会という枠の中で頭で考えすぎて、
マーケットに反映できないジレンマです。おつきあいを優先させすぎ
た結果おつきあいにのみこまれて、もともとは何が大切だったかをわ
すれてしまう。問題はそれほど難しいことじゃないのに。
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この回答へのお礼

 なるほど。《独り善がり》のもんだいであるようです。――はあとまいんどさん ご回答をありがとうございます。

 いま ひどっちさんとのやり取りでは サイコパスあるいはそこまでひどくなくても モラルハラスメントないしいぢめの問題が持ち上がりました。
 わたしは知らなかったのですが このいぢめは 本人は自覚がないというぢゃないですか。知らずにおこなっている。むしろ自分は被害者であるのだと。
 そういう閉じられた世界がつくられているのですね。あるいは 自分の世界をつくってその中に閉じこもっているという状態のようです。しかも あたまはしきりに動いていると言います。弁も立つのだと。それを武器にして そうしようと思えば議論を吹きかけるのだと。

 芸術家もしくはアーティストが ひとに対して攻撃的であるかどうか分かりませんが あたかもこの自分の世界の中にどっぷりと浸かっているという状態として捉えると分かりやすいでしょうか。
 村上春樹の世界は 決して攻撃的ではなくむしろあたまの中がつねにというほどモヤモヤした状態にある人物が登場すると見るのですが そして作家は 読者に対して そのモヤモヤ・ワールドでよいのだからその場での現状維持ですすみなさいというメッセージを伝えようとしているとやはり読むのですが いまの《独り善がり》と共通であると思われることは けっきょく《蚕が繭の中に自分の世界を見出しているかたち》ではないかと ふと思いました。
 そしてこのモヤモヤ・ワールドの住人たちは むしろおそろしいほど真面目なサラリーマン・タイプであるようだとも言います。
 ★ おつきあいを優先させすぎた結果おつきあいにのみこまれて、もともとは何が大切だったかをわすれてしまう。
 ☆ というような情況も 案外似ているように思いました。あるいは 
 ★ 自然を感じる自由な感覚を近代社会という枠の中で頭で考えすぎて、マーケットに反映できないジレンマです。
 ☆ たぶんこの《自然》ということも あくまで《繭》の中にいて繭の中の世界には反映させようとは思っているのではないか こうも思いました。《おつきあい》も《自然もエコ》も あるいは最先端の技術も製品も 大いに採り入れているのだという生活態度なのではないでしょうか。
 閉じたかたちで――と知らずに――《自己完結的》な生き方をしているということかも知れません。何もかもを引き受けるかたちで あたまの中はモヤモヤになるほど世界を構成するものごとの概念がいっぱい満ちていることでしょう。
 ここまでがんばったのだからという思いで《自己陶酔》にまで到っているかも知れません。
 ★ 社会問題や経済低迷要因とリンクしてるみたいですね。
 ☆ の側面でした。

 やっぱり エポケーですね。

お礼日時:2011/01/09 16:29

 こんばんは、ご返答ただきましてどうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> ☆ これは こうなりますと――たぶん なおまだ表面上の現象と言うべきなのでしょうが――《善をすっかり欠如させた究極の悪》という状態があたかも想定されているかのようです。
 関係性をまだなお保っているなら 人間であり善であると言えるでしょうか?


 善であるとは断じかねますが、人間であるとは考えてございます。

> ☆ 《分かった》と思う反面で どうでしょう 《精神異常者》という規定は 更生にとって・つまり人間にとって 建設的なのでしょうか?

 
 《精神異常者》という表現は、単に、以下のソースから採ったものでございます。なお、この述語におきましては、まださらなる研究が必要なものとも考えております。

ソース:Wikipedia 精神病質

> 先ほどの《精神異常》という規定と同じような問題かと思うのですが 要するにこれは《いぢめ》ですよね? だとしますと 本人は自覚しているのではないか? まづこの疑問が思い浮かびます。

 香山リカ著「知らずに他人を傷つける人たち」からご紹介させていただきます。
 これは、フランスのイルゴイエンヌ医師の「モラル・ハラスメントー人を傷つけずにはいられない」(高野優訳)の日本語ー紹介本となっております。そこで、p.106からでございます。
「イルゴイエンヌ医師は言う。
 (中略)これを治療することによって、モラル・ハラスメントがなくなるわけでもない。(中略)もちろんこの人々が、自分のなかのその悪意の存在に悩んで、精神科医を訪れるわけではない。この人たちは、自分達の行動がまったく正常なものと思っているからだ。だから、治療を受けにくるなんてとんでもない」
 そこで、対策としまして、イルゴイエンヌ医師は「法律に訴えること」を勧めています。
 以上から、「自分は正常であり、むしろ自分がしているのは”いじめ”ではなく、むしろ、自分が”犠牲者”だと考えている」人が多いようなのです。つまり、いじめの自覚はないようなのです。

> 《自信のなさや甘え》から自由な人はこの世にいるのでしょうか? 《自己顕示欲》を持たず その振る舞いからまったく自由な人間は いましょうか?
 

 ペニシリンを発見した偉大なフレミングも”自己顕示欲”があったろうかと思われます。 もし”自己顕示欲”なるものを全否定してしまいますと、抗生物質なしでの生活を甘受する覚悟が要求されるものと推察されます。

> わたしの勘では嵐の前の静けさといった雰囲気がまだただよっています。


 公の場所で、ある特定の個人様を”非常識”と独断的に前提にした上で、同じ考え・感想を持つ人達をつのる というのは、ある意味、「集団リンチ」に通じるものがあるものと考えております。愚生もされた経験がございますが、これを認めることはできかねます(単に、愚生の器が小さいのかもしれませんが.....)。

> ☆ どうなんでしょう こういったロゴス重視そしてさらには〔単純なる・一面的な見方に片寄るところの〕ロゴス優位の考え方は 独善的なアマアガリと同じ根を持つのでしょうか? どうでしょうか?
 
 一面的な見方に片より過ぎてしまいますと、仰るとおりかと存じます。

 少し話が異なりますが、ポストモダニズム全盛の頃には、へんてこりんな記号、複雑怪奇な数式をもちいられておりました。そして、「これを理解できないお前の方がバカだ」という風潮がございました。(結局これも例のカーソル事件にて自ら墓穴を掘ってしまうのですが) もしかような姿勢の硬直化がはびこってしまいますと、これは、もう「独善的なアマアガリと同じ根を持つ」と解するのが妥当かと考えております。 

 

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ちょっと重箱の隅をつつきすぎました。

 《集団リンチ》をわたくしも認めていません。たぶん 中性子爆弾か何かのように それを受けてもわたくしの場合その身を素通りしてしまうのでしょうか(つまり 脳天気です) これでも《人を愛し 欠陥を憎む》つとめをおこなっているつもりです。
 ただし 相手にしないというのも けっきょく相手の心の中に炭火のくすぶるにまかせて 効果があると思います。ただし この取り合わないという手は それをつらぬかなくてはならない手だとも思います。わたしは ただちに欠陥に対して憎むことをおぼえますので それなら 出来る手立てを考えなくてはなりません。

 ★ もし”自己顕示欲”なるものを全否定してしまいますと、抗生物質なしでの生活を甘受する覚悟が要求されるものと推察されます。
 ☆ おもしろいですね。なるほどですね。

 ★ ・・・以上から、「自分は正常であり、むしろ自分がしているのは”いじめ”ではなく、むしろ、自分が”犠牲者”だと考えている」人が多いようなのです。つまり、いじめの自覚はないようなのです。
 ☆ そうだったんですか。たとえば最近のいぢめは 昨日いぢめる側だった者が きょうはいぢめられるという目に遭っているといった事例がよくあるようになったと聞いていたものですから 自覚はあるものとばかり思っていました。
 年少の子どもたちの場合をいうよりは 社会の中での問題として捉えなければならないでしょうか。
 ★ モラル・ハラスメント――人を傷つけずにはいられない
 ★ 知らずに他人を傷つける人たち
 ☆ なんですね。これは いったいどういう事態になるでしょうか。たしかにそこまでのことでしたら
 ★ そこで、対策としまして、イルゴイエンヌ医師は「法律に訴えること」を勧めています。
 ☆ という事務処理としてのごとく扱ったほうが よいように思われます。というか それしかないと思われて来ます。ふうむ ですね。

 例の質問でも わたしの質問のほうでも 嵐ではありませんが つづいています。これをたのしむわたしがいます。不謹慎にも。(つまり こんなことは 世界観の問い求めの前提領域でけんかをしているようなことですので 何がたのしくてこんなことをやっているのかと 連中に問いたい。こういう意味です。意見の相違があれば そしてさらなるつき合わせや歩み寄りをしたくないのであれば それとして合意しておけば済むはずなのに)。


 つぎの問題も どうしてどうして 重大です。
 ★ 少し話が異なりますが、ポストモダニズム全盛の頃には、へんてこりんな記号、複雑怪奇な数式をもちいられておりました。そして、「これを理解できないお前の方がバカだ」という風潮がございました。(結局これも例のソーカル事件にて自ら墓穴を掘ってしまうのですが) もしかような姿勢の硬直化がはびこってしまいますと、これは、もう「独善的なアマアガリと同じ根を持つ」と解するのが妥当かと考えております。 
 ☆ ちりも積もれば山となるです。ささいな振る舞いだけの流行現象にすぎないのでしょうが。
 独善的なアマアガリを成した者ほど カリスマを帯びるかのごとく(なぜでしょう?) みづからもカリスマのごとく振る舞い周りからもちやほやされ 総じて言って《裸のアマテラスさま〔もどき〕‐ふつうの人間スサノヲ》連関としての――後者にとっては実質的に《無縁慈悲》に近いような――《アース役はつらいよ現象》が

後を絶たないようです。
 まづは この理論的な分析とその認識から始めて 燎原の火を広げて燃やしつくすように持って行きましょうか。

お礼日時:2011/01/09 07:28

例えば子供がひくようなモーツアルトの練習曲は、普通に聞いたり


楽譜を見る限りでは、難しい曲の様にも思えないし、また高度な
技術も必要ない様に思えます。しかし、音の粒をそろえるいう基礎
技術が出来てないと意外に難しい。単純で簡単な曲ほど、技術の差
が出てしまいます。
一方ショパンの情緒的な曲は手が大きく開けば情緒に任せて、案外
解釈の幅も自由で、それなりにはひけてしまいます。
また、シンセやエレクトーンは、タッチもくそもなく、どっちかっ
ていうと作曲ツールに近い。自動演奏機能はたぶん機械のように正
確で厳密なタッチを要求されるモーツアルトの方が得意かもしれま
せん。だからといって、アコースティック楽器を弾くロボットが、
人間のかわりができるとは思えません。厳密な中のわずかな揺らぎ
の美しさは出せないからです。
アートの創造には、作曲技術も演奏技術も必要だと思いますが、どち
らも、基礎技術は必要です。作曲は泉のように出てくる知恵のあうと
ぷっと作業とすると、演奏は五感をあうとぷっとする職人の作業とい
えるかもしれません。演奏には作曲の知識は必要ですが、作曲には、
演奏の技術の知識は必要ですが、技術そのものは必要ではない。
作曲技術と知識は、スピード感のある商業的な現代アートにはかかせ
ません。それを踏まえたうえでの、演奏技術の鍛錬であれば自己完結
におちいることを避けられるかもしれません。
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この回答へのお礼

 ふうむ。むつかしいですね。ご回答をありがとうございます。

 芸術は やはり歴史のあるもので 伝統のよいところは 何だかんだと言っても 公然とであれ隠然と暗黙のうちにであれ 受け継がれて来ているのだ。むろんこの伝統というのは 昔からの《原初の美》の系譜なのだ。いろんな幅があるにしても。
 いま音楽の演奏という芸術創作を例に取って考えるに 基本の筋は この伝統に立つし伝統の中身を身に受け継いでさらに伝えようとするのだし しかも一人ひとり演奏家のそれぞれ《わたし》の――ちょっぴりとしてでも《わたし》の独自の自己表現としての――創作なのでもある。
 筋道をきちんとわきまえつつ 演奏する《わたし》は自由にゆらぐのだ。

 そのようにして芸術するわたしの創作が 現代アートとしてはお呼びでないというのであれば それもよかろう。――と言うのか? それとも 出来るだけは 現代人の要請するような現代アートの要件に合わせようとするのか?

 それにしても 美術は 作曲と演奏とが一体となった芸術作業ですよね。

 どうぞ添削を。

お礼日時:2011/01/08 17:12

 こんばんは、ご返答ただきましてどうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> ちょっと前に もはや《あらし》も止んだかと口走ったら 案の定と言わんばかりのタイミングで やって来ましたおとっつぁん。(いや まだ 若いですかね)。


 相変わらずの「上から目線」には.......   おそらく、まだお若いかと思われます。

> 持論としましては  どちらかと言えば 感性はスサノヲであり 理性がアマテラスという捉え方になっています。理性は 感性という土壌の中から 自己の姿をあらわすと見ています。

 了解致しました。

> 言いかえると アマテラスの単独分立そして果ては独立したかのごとくの《観念の帝国》の樹立――つまりそういう意味での(逆立ちをするような)アマアガリ――は いただけない。と見ます。


 意見を等しく致します。


> サイコパス( psychopathy )という術語を初めて知りました。

 モラルハラスメントとほぼ同じようなものかと思われます。ただ、サイコパスは”精神異常者”として、一方、モラルハラスメントは犯罪者(フランス等)として扱われる違いがございますが......

・サイコパス:http://www.psy-nd.info/ 
・モラルハラスメント:http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/gyakutai/morah … 

> チャオポルポさんは アメリカ在住の画家でいらっしゃるのに わたくしは 脳天気でやり取りをしています。

 
 ”インタラスサノヲイズム”、つまり、スサノヲ間の関係性を重視するお方(bragelonne様)に、別段問題があるとは思えないのですが......

 

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

ひどっちさん いつもお答えくださってありがとうございます。

  
 ★★(回答No.28) ~~~~~~~~~
 「主人公グスタフ・アッシェンバッハの芸術論」
 美と純粋さの創造は精神的な行為であり、努力を要するものである。精神への到達は、感覚を通してなど絶対に不可能。感覚への完全な優位を保つことによってのみ、真の英知に到達できる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょう こういったロゴス重視そしてさらには〔単純なる・一面的な見方に片寄るところの〕ロゴス優位の考え方は 独善的なアマアガリと同じ根を持つのでしょうか? どうでしょうか?
 ☆☆ 言いかえると アマテラスの単独分立そして果ては独立したかのごとくの《観念の帝国》の樹立――つまりそういう意味での(逆立ちをするような)アマアガリ――は いただけない。と見ます。

 ★☆ チャオポルポさんとのやり取り
 ☆ では たとえば面談しているなら もっと何か細かいところにも気がついて話が出来るのかなぁと思うものですから。(でも ありがとうございます)。

 ☆★ サイコパス
 ▼ (サイコパスとは何か) ~~~~~
 私たちはどんな悪人も少しくらいは良心を持っているだろうと信じていると思います。しかし、世の中にはそんな考え方が全く通用しない「サイコパス」と呼ばれる人間が存在しているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは こうなりますと――たぶん なおまだ表面上の現象と言うべきなのでしょうが――《善をすっかり欠如させた究極の悪》という状態があたかも想定されているかのようです。
 関係性をまだなお保っているなら 人間であり善であると言えるでしょうか?

 ★ モラルハラスメントとほぼ同じようなものかと思われます。ただ、サイコパスは”精神異常者”として、一方、モラルハラスメントは犯罪者(フランス等)として扱われる違いがございますが......
 ☆ 《分かった》と思う反面で どうでしょう 《精神異常者》という規定は 更生にとって・つまり人間にとって 建設的なのでしょうか?

 ★ モラルハラスメント
 ☆ 割りと――と言っては 自分の不明を暴露するだけになるのですが―― しっかり詳しく分析されているのですね。
 ▲ (モラルハラスメント) ~~~~~~
  § 4.加害者とは
 (4)生育歴
 加害者がこのような傾向をもつ原因は、まだ、はっきりとはわかっていません。
 ただ、加害者の生育歴や過去の経験が、強い影響を与えているようです。

 加害者は以前、何らかの形で虐待を学習したことがあり、しかもそれを、
 虐待だったと認識していないことが多いのです。
 それだからこそ、虐待を切り抜けてきたつらさを、虐待の形でしか
 出せないのかもしれません。

 そのうえ、自分がかつて受けた苦しみに対する復讐であり、
 そういう人間関係しか知らないことの表れともとれる自分の虐待行為にも、
 加害者自身はまったく気づいていません。

 今までに対等な関係の経験がなく、今も安心して本音を語る場所を
 持っていないであろう加害者にとっては、そのように自分の加害行為に
 無自覚でいないと、生きてはいけないのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほかにもおそわりましたし この引用箇所は 少しあたまを回せば分かりそうとも思える内容ではありますが その目で かのお若い質問者とその回答者連について見ますと なるほどとそれぞれについてうなづけます。その上でなお まだまだ しっくり来ない感覚があります。
  先ほどの《精神異常》という規定と同じような問題かと思うのですが 要するにこれは《いぢめ》ですよね? だとしますと 本人は自覚しているのではないか? まづこの疑問が思い浮かびます。
 そうして このような《生育歴》の情報にもとづきその相手をながめたりしつつ 話し合わざるを得ない情況になったとき その情報にもとづく《あぁ かわいそうな人なんだ》という同情をこちらが持つことは どうも美の感覚の回復にとって建設的なことではないように思えるんですが 果たしていかがでしょうか?
 

補足日時:2011/01/08 07:58
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この回答へのお礼

 かの質問において ki さんは もはやすでに受信についての鎖国状態にあると考えます。発信のみの人間性(善)であると。
 kr さんはほかの人たちにおつきあいしているかたちだと見ます。
 特に ma さんへのですが その人はここまでのことを言うのなら 直接にわたしに向かって 《なんぢゃおまえ 話がせこいやないか》とでも言ってくればよいのに。推論を示しているようで まだ印象批評に終わっているところがくやまれます。

 《自信のなさや甘え》から自由な人はこの世にいるのでしょうか? 《自己顕示欲》を持たず その振る舞いからまったく自由な人間は いましょうか?
  けれどもたとえばここで質疑応答に参加しているということは 《ほめられる》ことを目的としていると見るべきでしょうか? あるいはぎゃくに いわゆる承認欲望のない人間――社会の中でその人間関係を持てているという自覚とその自己の位置づけをのぞまない人間――は いましょうか?
 ▲(モラルハラスメント) ~~~~~~
 2)言葉は武器

 加害者は最初のうちは、敵とみなした人間に直接何かを言うことは
 ほとんどありませんし、相手が何かを訊いたとしても、会話は成立しません。

 しかし、加害者が何も話さないわけではなく、話すのが苦手なわけでも
 ないのです。

 それどころか、むしろ、論争が好きなのではないかと思えるほどの
 雰囲気を持って言葉を使います。

 しかし、その話は自己完結的であり、その言葉は、相手とのコミュニケーションの
 ためのものではなく、勝つための武器なのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん人をあげつらうには 《真に賢明であれば》というように《賢明》という言葉を使えば《勝てる》と思っているのでしょうか。

 
 わたしの勘では嵐の前の静けさといった雰囲気がまだただよっています。

 ひどっちさん いつもいつもありがとうございます。

お礼日時:2011/01/08 08:15

 こんばんは、Hidocchiでございます。



 皆様のご意見を拝読していく中で、ふと映画「ベニスに死す」を思い出しました。
 主人公アッシェンバッハの回想シーンで、友人のアルフレッドとの論争場面がございますが、彼ら二人の芸術論を想起した次第でございます。

「主人公グスタフ・アッシェンバッハの芸術論」
 美と純粋さの創造は精神的な行為であり、努力を要するものである。精神への到達は、感覚を通してなど絶対に不可能。感覚への完全な優位を保つことによってのみ、真の英知に到達できる。

「友人アルフレッドの芸術論」
 美は自然に発生するもので、努力とは関係なく、芸術家の自負以前に存在する。美は感覚だけに属するものである。どうして、アッシェンバッハ先生ともあろう方がそれを理解しないのですか!

 この回想シーンの後に、アプリオリな美を持つタッジオの顔が映ります。そして、ギリシャ彫刻を彷彿させるタッジオに惹かれ、ほとんど、ストーカーのような行動に出てしまいます。
 そして、ラストシーンでは、アッシェンバッハが、海辺で地平線彼方を指差すタッジオを見つめながら、毛染め液が顔から流れ出るという醜い姿で倒れます。つまり、自身の芸術論は完膚なきまでに崩壊させられてしまう訳でございます。

 上記の2つの芸術論には、愚生は自身を持って回答を寄せることはできませんが、トーマス・マン、そして木村重信氏は、この「アルフレッドの芸術論」に近いものと察せられます。

 直接の回答にはなっておりませんが、ご参考になれば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ちょっと前に もはや《あらし》も止んだかと口走ったら 案の定と言わんばかりのタイミングで やって来ましたおとっつぁん。(いや まだ 若いですかね)。
 おまけに今度は 仲間をつのっている。やっと(8番目で) 良識派の登場となりました。
 今回は 別の意味の嵐の前の静けさというような雰囲気にもなって来ました。(そういう感じがします)。

 トーマス・マンは ト二オ・クレーガーでしたかは読みましたが(でも 覚えていません) 魔の山も ヨセフの物語も 途中で――どういうわけか今でも分からない理由にて――投げ出しました。ヱ゛ニスに死すも 読んでいません。(というよりも 世界の小説をしっかりとまんべんなく読むという方針をしっかりと立てなかったのが 敗因だと思います)。

 うかがう限りでは 〔直観につうじる〕直感による美と論理による美との対比であるように思われます。
 考えてみれば このような対立する二項の比較というやり方も あまり生産的ではないように ふと思いましたが 要は 感性の側面をないがしろにしないということではないでしょうか? 直観に通じるとすれば すでに思考によってもものごとの本質を見抜くという中身を得ているか 得ることになるということですから  論理を排除しているわけでもない。こうも思われます。

 持論としましては  どちらかと言えば 感性はスサノヲであり 理性がアマテラスという捉え方になっています。理性は 感性という土壌の中から 自己の姿をあらわすと見ています。言いかえると アマテラスの単独分立そして果ては独立したかのごとくの《観念の帝国》の樹立――つまりそういう意味での(逆立ちをするような)アマアガリ――は いただけない。と見ます。



 サイコパス( psychopathy )という術語を初めて知りました。


 チャオポルポさんは アメリカ在住の画家でいらっしゃるのに わたくしは 脳天気でやり取りをしています。
 ほかのみなさんとのやり取りについても おぎなうところなどありましたら よろしかったら おしえてください。

お礼日時:2011/01/07 21:20

こんにちは、



もうひとつの質問からこちらのほうに飛び込みいたします。

具象から抽象への移行(イメージによる美からロゴスによる美への移行)は美意識の劣化を意味するか?

判りやすいたとえで行きますと、

古事記、万葉集、伊勢物語などの歌物語の詞書が不要になり、
時代を経て、勅撰和歌集、私選和歌集が盛んになり、
連歌の時代がやってきて、
最後には俳句にたどり着いてしまう、

そのプロセスに似ているように思います。

ギリシア神話や聖書の物語をフレスコ画などの手法で描いていたのは、詞書の間にいくつもの美しい和歌を挟んで物語を進行させていった手法に似ています。

和歌だけを並べてそのメリハリを楽しんだ和歌集は、印象派の絵が直接的に人間の感覚に語りかけてくるのにそっくりです。

連歌は、過渡期ということで、現代美術の変幻自在さを思わせます。

俳句にいたると、これは省略の美。”菜の花や月は東に日は西に”。他のものは隠されてしまいます。

歌は世につれ、世は歌につれ。
ピカソは芭蕉と考えられてはいかがか。

柿本人麻呂は芭蕉翁よりも優れているか?
芭蕉に至る道は劣化の道か?
いかが思われますでしょう。

一度、川柳、俳句に行き着いてしまったら、歌物語に逆戻りをするのは、一考、不可能のように思われます。

アメリカでも、現代はinstant gratification(今すぐ出来ないのは無価値である)とvirtual reality(コンピューターの中の現実)の時代であると言われます。

先の回答者さんの仰ったように、写真やコンピューターグラフィックが幅を利かせている時代に、油絵を描くことが果たして価値のあることか、疑問に思うこと頻りです。

演劇と音楽に比べて、絵画、彫刻は芸術として認められるのが遅かった。演劇と音楽に比べて、手業による制限の多い表現形式であるからでしょう。絵画は画題に依存する、そして一度描いてしまったら、いつまでもそこに存在する。重い鎖を首にかけられたようなものです。現代には向かない芸術形式なのかもしれません。

この回答への補足

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 少し質問の趣旨を忘れていました。あるいはその底にあったと思われる趣旨にあらためて気づきました。
 ★ 具象から抽象への移行(イメージによる美からロゴスによる美への移行)は美意識の劣化を意味するか?
 ☆ このように問うたのも 実際ですが いちばんの勘所は つぎです。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~
 現代の芸術観としては 具象よりは抽象 イメージによる美よりはロゴスによる美がそれぞれ とうとばれる。そういった変化そのものについては 歴史的な自然環境の変化や社会情況の複雑化といった避けられない要因があるかも知れない。
 ただし もし《論理によって分かる美》が現代の美意識であって それでなければ現代のものとしては美ではないというのであれば これは おかしい。
 古典的な美のかたちにしか美を感じないのは 美意識の劣化だと そういう現代美学派のほうが言おうとしている。
 それについては 抵抗する。論理による美にしか美を捉えられないとすれば それこそが 美の感覚の劣化なのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もともと こういう趣旨にて問いを起こしています。

 でも今回のご回答は どうでしょう? 少し違った意味合いが添えられていましょうか?
 ★(質問者によるご回答の要約) ~~~~~~~~~~
 ロゴスによる美への変化は もはや避けられないし 元に戻れるような変わり方ではないのだ。歴史的な趨勢であり 社会の情況も舞台も段階も――ときには 人間のあり方も――すっかり変わってしまった。
 古典的な美の感覚にしか美を感じない場合を貶めて言うのではなく そうではなく現代人は その昔の情況からはまるで違った世界に突入して来ているのだ。古典的な人間観による人間性に訴えその昔の美意識を守ろうといった努力だけでは何ともし難い情況の中に追いやられるかのごとく入ってしまっている。
 このような現実認識から始めなければ 美学も何も話は成り立たない。まづは素直にこの歴史的変化を受け止め受け容れることから始めなければならない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて 細かく見てまいります。
 ★ 演劇と音楽に比べて、絵画、彫刻は芸術として認められるのが遅かった。
 ☆ 《芸術として認められる》ということに ふたつの次元があると考えます。二つ目の次元というのは 社会の有力者によって認められること・あるいはもっと即物的に言って生業として成り立つということを意味する場合です。
 ですから第一次のふつうの次元というのは 日常生活の次元です。絵画・彫刻について 木村重信も《( c )・・・美術の本質は変貌であって、発展ではない。》と言うように たとえばわたしはアルタミラ洞窟の野牛の絵を例に出したのでした。これが 第一の次元での美術であり それとして《芸術としても認められている》ということを言いたいためです。生活の中に溶け込んでいれば それとして認められているという意味です。
 原始時代のであるからではなく ひとりの人のヒラメキにおいて得られたそのときの美であり 原初の美と言いました。この《原初の美》に――なぜなら 《わたし》たちのあいだに共通の感覚( sensus communis )があると信じられるからです―― すべてのイメージないしパトスとしての感覚やさらにはロゴスにまつわる論理思考や想像力が発するという見方です。
 つまりは このような美の感覚の歴史は――つまり《原初の美》の主題とその系譜については―― 人間が人間であるかぎり変わらないという見方です。 

 ★ 写真やコンピューターグラフィックが幅を利かせている時代に、油絵を描くことが果たして価値のあることか、疑問に思うこと頻りです。
 ☆ そういうふうに捉える分野――古典的美あるいは伝統的美の見方からすれば 感性の表面的な分野ですが――における美の感覚もそれとして現象するとは言わなければならない。こう思うのみです。次のご指摘についても 同じことが言えると考えます。
 ★ アメリカでも、現代は instant gratification (今すぐ出来ないのは無価値である)と virtual reality (コンピューターの中の現実)の時代であると言われます。
 ☆ 英文――英語という言語の文の構造(じつは 無構造)――という言語慣習からして そういうキハ(際・極)への振り子の振れは どこよりも大きいのだと受け止めています。

 ★ 一度、川柳、俳句に行き着いてしまったら、歌物語に逆戻りをするのは、一考、不可能のように思われます。
 ☆ これには 長い議論が要ります。

補足日時:2011/01/06 13:31
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 判りやすいたとえで行きますと、

 古事記、万葉集、伊勢物語などの歌物語の詞書が不要になり、
 時代を経て、勅撰和歌集、私選和歌集が盛んになり、
 連歌の時代がやってきて、
 最後には俳句にたどり着いてしまう、

 そのプロセスに似ているように思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。《俳句》が文学あるいは少なくとも詩学の中で 歴史的に現代にまで来て その到達点であるということならば うなづくことも出来るかも知れませんが どうでしょうねぇ。
 おっしゃるように《うた》は 社会的・公的な認知としては確かに歌物語の中に置かれて初めてそれらが貴ばれています。たとえば わたくしの別の質問の中に採り入れた次のうたも やまとたけるの物語の中に――もともとは それとは別にうたわれ覚えられていたに過ぎないものが――置かれて初めて 公式には日の目を見たわけです。
 ▼ (記歌謡31) ~~~~~~~~~
  やまとは くにのまほろば   倭(山処)は  國のまほ(秀)ろば  
  たたなづく あをかき     たた(畳)なづく 青垣
  やまこもれる         山隱れる   
  やまとしうるはし       倭しうるはし
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただしつまりは 逆に言えば もともと――第一の次元において―― 日常生活の中からヒラメキが得られそれの言葉による表現も与えられるようになったものです。《原初の美》がありますし 保たれていると言ってもいいほどです。やまとたけるの話とは切り離して受け取ることが出来るからです。

 あるいは と言うよりも おそらく《うた》は 独りいるときの自己表出のほかは 相手があって呼びかけ答えるというかけ合いの――互いの――自己表現だったと思われます。また いまもそうであると考えられます。
 ということは ウタも詩も芸術も 国家(あるいは豪族の家系)の正式な歴史書や歌集として編まれるという第二次の社会的認知によりも 第一の日常生活の次元におけるその息吹きのほうが うんと大事であると考えられます。原初の美の中核の部分です。
 ★ 連歌
 ☆ は どうでしょう? 市民のたのしみとして 第一の次元にとどまっているでしょうか? 第二の・社会権力(ないし権威)による認知の次元と足して二で割ったような成り立ちをしていませんか? いやいやあくまで市民の次元においていとなまれる芸術であると言われれば おそらくそれは生活日常とはすでにかけ離れてしまっているのではないか? と問うことになるでしょう。
 求愛のウタやあるいは冠婚葬祭での呼びかけ・問いかけとしての生活のウタからは 一たん離れてしまったあとだと考えられます。(実際にそのようにウタがうたわれることがあったとしても それは風流なことですねと受け答えられておしまいになるのではないでしょうか?)
 
 では
 ★ 俳句
 ☆ は どうか? じつはこれは現代では 生活日常の中に溶け込んでいます。無名の俳人がたくさんいます。ただしその表現の形態もしくは中身は どうか? 十七文字という形態にも制約され 中身ははっきり定義することもむつかしいのではないでしょうか?
 別に言いかえると 《わたし》がその自己表現の動態を生きるとき――《わたしがわたしである》ことを うんうんと推しながら 表現し切って行こうとするとき―― 確かにその一人ひとりは 正真正銘の芸術家であり しかも その中身はこの《自己還帰》の過程の全体(つまり一生)において捉えるかたちの芸術となっている。つまり 一つひとつの作品じたいには その内容があまり見るものはない。(そもそも 定型の容量が短すぎて表わしがたい)。

 ★ 俳句にいたると、これは省略の美。”菜の花や月は東に日は西に”。他のものは隠されてしまいます。
 ☆ わたしの見方から行けば こうです。《省略》していようがいまいが 《原初の美》もしくはその言葉への翻訳ないしその加工 これが表わされ伝えられ得れば それは芸術だと認められるのではないでしょうか?
 ★ ”菜の花や月は東に日は西に”
 ☆ そうですね。《原初の美》を凝縮したと言えましょうか? どうでしょうか?
 ▼ (人麻呂 一・48)~~~
  東(ひむかし=日向かし)の
  野に かぎろひの立つ見えて
  かへり見すれば 月かたぶきぬ
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうでしょう? 社会的な権力もしくは権威があたらしいものと交替するというような――それとしての日常性の出来事――とかかわっているようには思います。(ぎゃくに言うと 美術の問題ではなく 社会力学をどう生きるかという美学のもんだいに成り変わっているかも知れません)。

お礼日時:2011/01/06 14:33

仕事が立て込んでいて、遅くなってしまいました。



まず、北の海辺で育った私には「うに」と「海鼠」は全く違ったにおいのものなので、これを誤読すると印象が全く違うものに感じられます。
少なくとも、海鼠は裸足で踏んづけると気色が悪いだけですみますが、うには裸足で踏んづけると怪我をしてしまいます。

bragelonneさんは普遍的な「原初の美」を想定されていますが、私にはそのような普遍的な「原初の美」があるとは思えません。これでは「美」そのものが存在することになってしまいます。
自然の中に美を見出すのも、芸術作品の中に美を見出すのも、自分へとつながる存在を感じるからだろうと思います。しかしながら、「自分へとつながる存在」は、それまでの自分という人間存在から離れてあるわけではないのですから、「美」そのものがあるから美しいと感じるわけではないはずです。

製作の側からいえば、無明から浮き出た泡のようなものをとらえ直し、存在そのものとして自己の外に生み出されたものが「作品」だろうと考えまます。何らかのものとしてあることで、作品そのものは自然に在るものと同値かもしれません。そこに美を見出すかどうかはあくまでも鑑賞者の側の問題です。

芸術作品をそこまでの歴史を背景に、(鑑賞されることを待っている)存在そのものとして出現します。 そこに美を見出す人間がいる以上、審美眼に優劣はあり得ません。

なお、私は人間の歴史については徹底した楽観主義者なので、長期的に見て人間の歴史に退歩を見ない人間です。

この回答への補足

 くたかさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。お互いに歩み寄りが出来たのではないでしょうか?
 というのも おそらく次の二つのことをお応えすれば ひとまづの合意を見たというところであるように思います。

 ・《原初の美》は 一人ひとりの《わたし》の感覚に生じるものです。ただしその主観がひろく共同性を持つとも考えます。センスス・コムニスつまり 共通感覚であり 共同主観です。コモンセンスとして 常識とも訳されて用いられているようにです。

 ・《審美眼に優劣がある》と 暗黙の内にであれ 言おうとしているのは 現代芸術の――みづからの主張としては 主流を行くというところの――専門家や関係者たちのほうです。質問者としてわたくしがここで《現代芸術は劣化したのではないか》と言っているのは その主流に対するささやかな抵抗であるに過ぎません。

 ☆ ですから 推論の出所は違いますが 
 ★ なお、私は人間の歴史については徹底した楽観主義者なので、長期的に見て人間の歴史に退歩を見ない人間です。
 ☆ というお考えとも何ら衝突するところはないのです。平俗的に言えば 《〈ゲルニカ〉の美を分からない者は 芸術音痴だ》という風潮に異を唱えているのみなのです。それが通れば 人間の歴史をつうじて美の歴史も ふつうに――共通感覚が生きたかたちで――つらぬかれて来ていると見ることができるというものなのです。
 わづかに残る――と言っても おおきな案件ですが――相違点としては 《共通感覚》派からすれば カンディンスキーの抽象画にも現代美術としては 《これが分からなければ おまえは美の感覚がマヒしているのではないか》というメッセージが込められているのではないかとおそれるというわけです。

 【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6353509.html
  ▼ (その回答No.9) ~~~~~~~~~~~~~
 (1) 芸術の自己否定
  ・・・ヘーゲルが「芸術の死」を宣告したように、近代芸術とは自己否定することによってしか自らが芸術であると証しだてられなくなったのです。・・・
  ▼ (回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~~~
 近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。
 私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。そして直感で認識できる美を求めるなら、事例は現代アートを避け、古典的な美術を上げるべきでしょう。古典的なアングルの裸婦は見るからに美しく、男性の欲情を冷ややかに煽ります。青みがかった背景に理性的に若い女の裸体が提示されることで欲望は客観化され、容易に同化しきれない冷やかさがエロスを生みます。画家は文化的であるとは何か、美とは何かを丁寧に鑑賞者に教えてくれます。
 しかし近代美術は違うのです。問題を提起するだけです。鑑賞者が作品を前にし、思索し、思考し、そこで初めて美のイメージを生むのです。鑑賞者と芸術家のコラボレーションであるといってもよいでしょう。この質問欄でやってらっしゃるように徹底的に問うていいのです。しかし答えるのは自分なのです。

 美とはコラボレーションであるという思想は「開かれた作品」というもので、西洋独特のものかも知れません。芸術家にしてみれば自己を表明し、それを他者に鑑賞され解釈されることで、自分の埒外にある認識と融合します――そして一次元高い段階に登っていく、というものです。キリスト教的です(ただこう書くと今度は宗教批判に議論が飛びそうで頭が痛いのですが。私は一つのことに集中して議論するのが好きなので)。
 結論的には、bragelonneさんが美だと感じている認識は、近代美術には当てはまらなかったということになるかもしれません。ただし議論する事例に対し転換期を踏まえて適切に分類しないと議論が定まりません。さもなくば論難になってしまうのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 鑑賞者が 見て何らかの直観につうじる直感を得たあと思考に移るのは これまたとうぜんのことです。その部分が共通であることを除けば 《審美眼に優劣がある》という見方を持ち込むのは このような現代芸術派だと考えます。この回答のあとは 質問者であるわたしからの問いかけに対する答弁をすでに放棄したかたちになっていますので この今のような問いをもうけています。

補足日時:2011/01/06 10:11
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この回答へのお礼

 上の引用は あらましにまとめたり省略したりすると意味を曲げるおそれが出て来ますので 長くしました。

 ★ 「うに」と「海鼠」
 ☆ は 忘れづらいですが うまく取りまとめづらくもあります。楊貴妃は 遠く離れた海からなまこを取り寄せて食べていたそうですね。この味覚にしても好き嫌いがあります。ただし 美容にいいとか健康のためであるとかと言えば おっしゃるところの《躍動感》やみづみづしい力につながるというところで 普遍性があると言えばあります。
 そういうかたちで 原初の美ないしそもそも美ということにも――あくまで個人の感覚を基礎として そしてまた今度は個別の対象についてではなく必ずしもそうではなくすべての対象に共通の要素として《美をめでる》ということの〔あくまで個人の心における〕動きである――何がしかの普遍性を捉えてもよいのではないでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 自然の中に美を見出すのも、芸術作品の中に美を見出すのも、自分へとつながる存在を感じるからだろうと思います。
 しかしながら、「自分へとつながる存在」は、それまでの自分という人間存在から離れてあるわけではないのですから、「美」そのものがあるから美しいと感じるわけではないはずです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《自分へとつながる》という《あくまで個人としてのわたしの感覚》が基礎です。主観に発します。そして《自分へとつながる存在》というのは――じつは カンディンスキーならカンディンスキーという――個々の対象そのものでは必ずしもなく そうではなくそれは《〈わたし〉の感覚が じつは・じつに 人びとにとって〈共通の感覚〉でもあるというそのこと》なのではないでしょうか? そういう《原初の美》です。
 象徴的にそして極論して言えば 《ゲルニカ》にはこの原初の美がないのではないか? 
 なくてよいし ないのが《近代》以降では 《ただしい》という風潮が蔓延しているのではないか?
 ――こういう問いにこの質問は発していましたし 結論も同じその問い自体なのです。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 製作の側からいえば、無明から浮き出た泡のようなものをとらえ直し、存在そのものとして自己の外に生み出されたものが「作品」だろうと考えます。何らかのものとしてあることで、作品そのものは自然に在るものと同値かもしれません。そこに美を見出すかどうかはあくまでも鑑賞者の側の問題です。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは いわゆる写実ないし写生という技法について言われているのではないでしょうか。つまり《作品そのものが自然に在るものと同値》という技法なのであり 作者はそれとして そこに美を見出しているものと思います。あるいは美を見出す可能性としての美を提示したというかたちです。
 人間や世の中は だいたい《無明》の状態にありますから
 ★ 無明から浮き出た泡のようなものをとらえ直し
 ☆ なのでしょうが その中にあっても一瞬のヒラメキあるいはカガヤキを作者は捉えたということかも知れません。
 観衆から言えば このヒラメキを芸術作家は捉えていて欲しいし 捉えたからこそ表現したと思いたいと思うのです。ゲルニカには感じませんが カンディンスキーの場合にはそういうことなのでしょうし かれはその抽象画の場合にはわづかにこのヒラメキをそのままの象(かたち)では表わさなかった。そうではなく 実際に目にみえたものを棄ててしまって おそらく心の目に見えるものを表わそうとしたのであろうとは見ます。
 そこで ここからあとは お願いのようなものですが 《心の目に見えるかがやき》を連想し類推して行って人びとが会得しうるように――人びとのほうが自由に抽象することができるようなかたちにおいて――見て分かるほどの具象を残して欲しかった。それなら 原初の美を 共通感覚においてわれわれも共有することができるようになるはずです。
 だからと言って その美あるいはそのイメージそのものは われらには表象しえない。なぞに留まる。でも美術としての芸術としての美の追究は つづく。


 おあとがよろしいようで。

お礼日時:2011/01/06 10:59

あけましておめでとうございます。



どうお答えしていいのか、まだよくわからないままなのですが、

例えば、対位法やフーガなどの作曲技法の理論や知識が十分理解
されていなければ、美しい音楽を作り出せないかといえば、そう
ではないのだと思います。

しかし、私たちが美しいと感じる音楽には、それがまったりとし
たロマン派のものだろうと、またどれほど深い部分の情緒に訴え
るものであったとしても、やはりそういった歴史的な理論の積み
重ねが知らず知らずのうちに、含んでいるし、聴衆も求めてしま
うものではないだろうか。

ていう結論を持っていきたいっていう潮流がある様に思いますが、
ただそうであっても、

もう少し人間の自由な感覚は現代にはもっと必要だと思えてなら
ないのです。もちろん安っぽく身をくねらせるだけのものが、いい
とは思いませんが、ただ自己完結的になりすぎているものには、
パワーはありません。
心を自由にするというおおらかさは今の時代だからこそ求められて
いると思うのですが。
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この回答へのお礼

 おめでとうございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ どうお答えしていいのか、まだよくわからないままなのですが、
 ☆ とおっしゃる割りには どうもひねりを効かせたご回答のようで 焦点をどこに取ればよいのか戸惑います。いろんなふうに解釈できる内容のようです。

 ★ 心を自由にするというおおらかさは今の時代だからこそ求められて / いると思うのですが。
 ☆ この結びの言葉に関しては おそらく参加いただいているみなさんの納得する思いであろうかと考えます。
 そのつてで まづ次の考えが来ます。
 ★ もう少し人間の自由な感覚は現代にはもっと必要だと思えてなら / ないのです。
 ☆ もし仮りに美の感覚が劣化しているようであれば こころを開いていくようにとのことだと思います。
 ただし
 ★ ~~~~~~~~~~
 もちろん安っぽく身をくねらせるだけのものが、いい
 とは思いませんが、ただ自己完結的になりすぎているものには、
 パワーはありません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひとつに《身をくねらせる》ことも必要であろうと。たぶん いろんな可能性を試すという実験も必要であろうと。
 ひとつに さりとて作品としてはそのつどその自己表現ということにおいて その作品が完結していることも大事である。中途半端なものとして提出するものではないであろうと。
 ただし もうひとつに
 ★ ただ自己完結的になりすぎているものには パワーはありません。
 ☆ このあたりが むつかしいですね。《自己完結的になりすぎる》とは 作品ごとに完結し独立している姿をあらわすことが大事だからと言って 縮こまってしまっては 元も子もないということでしょうか?
 予算を組むときに 出ると入るとを数字の上で辻褄合わせをするだけに終わるかのようなかたちで自己完結的になっても しかたがないではないかと。それならいっそのこと飛び跳ねるごとく 試行錯誤を正直に愚直に繰り返すのもよいだろうと。

 質問者が回答内容を復唱してすすむのは 対位法なのでしょうか?
 とは言え ひねりの効いた文章をまだ消化し得ていないうらみが残りました。さらに発展させて行ってくださるならありがたいです。

お礼日時:2011/01/03 14:51

 あけまして、おめでとうございます。

Hidocchiでございます。


 愚生におきましても、さらにあたらしいあゆみをともに進めて行きたいと思っております。ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。



> ★ ジョン・ケージ・・・の作品には、「4分33秒」というものがございます。
 ☆ おそらく 変化ないし劣化が起こっていても この《動態》――つまり飽くなき尽きざる探究――が大事であるというように考えます。
 

 仰られますように、”飽くなき尽きざる探究”は大切かと思います。ただ、「”アヴァンギャルド的”な要素を含んでいない作品は、芸術ではない」という風潮が非常に強かったのが、残念だったかと思っております。

> 現代芸術の主流がその昔とは変化した状態にあって いま存続しているのは おもには資本主義社会にそれとして合っているからであろうと思われます。そうでないと売れないからなのでしょう。そして一般人の審美眼は その声がかぼそい。そのことに甘んじなくてはならない状態にある。・・・

 

 昔(19世紀以前までです)では、画家と申しますと、おもに”肖像画”、”教会から依頼された絵画”の創作で(パトロンの存在下で)、生活していたものかと思われます。もちろん、そこには、依頼主の趣向に会わせた当時の流行に従ったものと推察しております。ただ、そのような状況におかれましても、たとえ金銭的には恵まれなくとも、自分の作風(美)を高めていこうとした画家はいたように察せられます(レンブラント等でございます)。また、ゴッホにおきましても(デッサン力はしっかりしておりましたので)、当時の”はやり”に従い作品を描いていれば、あんなにも貧しくはなかったようにも思われます。
 一方、現代におきましては、資本主義経済のもと、”たんに一時的にでも売れればいいもの”を産出しているのが現実とも思われます。そこではやはり、薄っぺらくなってきているのはやむを得ない状況なのかもしれません(評価は百年後ぐらいに、しかるべきものが下されるのでしょうけれども)。


> ★ 海老沢敏 礒山雅(NHK・ETVで市民大学のような講座を開いていました) 皆川達夫
 ☆ の名を知っています。


 よくご存じなのですね。昔、FM クラシックアワーの解説者もつとめていたかと記憶しております。


> ★ 詳しくは分かりませんが、アプリオリな美的感受性のようなものが備わっているものかと思っております。
 
 ☆ そう言えば《美学》というきちんとしたジャンルがあるわけですよね。そういえば読んだこともあったかも知れません。新書版程度のものでしたか。倫理学や哲学にけっきょく近いのでしょうし 究極の美論はむつかしいのでしょうか?

 

 美学は、カントやヘーゲルによる著書もございますため、哲学とはかなり関連の深い学問分野かと考えております。ですが、残念ながら、愚生の勉強不足のため、何も申し上げられません。誠に申し訳ございません。

> 小林愛美というピアニストが 天才だと言われていますが どうですか? よいと思って聞いております。最後の決定打として何かまだ分からない感じです。 

 ショパンの練習曲op.10-4をYouTubeにて聴きましたが、テクニックに関しましては、申し分ないと思います(粒の揃った洗練された音、指周り等です)。ですが、愛美ちゃんの師匠二宮裕子氏は、PTNAの副会長で、実質上のピアノ実務のトップでございます(責任者は専務理事の福田氏でございますが)。もちろん、PTNA傘下の株式会社東音企画が、愛美ちゃんをバックアップしてくれています。そこで、もし、二宮裕子氏等のバックアップ力が弱まった際には、未知数となります。ですが、将来を見守るべき逸材であることは確かだと感じました。

ソース:
http://www.piano.or.jp/info/about/organization/ 
http://www.to-on.com/about/
http://www.to-on.com/artistpromotion/artists/aim …

 末尾ではございますが、bragelonne様はじめ、愚生の拙い文面をお読みの方々におかれましては、さらなるご活躍を心よりお祈り申し上げます。
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この回答へのお礼

 あたらしい年のおよろこびをつつしんで申し上げます。
 ご回答をありがとうございます。

 小林愛美をめぐって
 ★ 師匠二宮裕子 PTNA 傘下の株式会社東音企画
 ☆ などお詳しいのですね。PTNAでは 名誉会長が羽田孜と知って そういう政治力の問題もあるのかなと思いました。
 ★ 粒の揃った洗練された音
 ☆ と聞きますと ワ゛イオリンの鈴木理恵子を思い出しました。うっとりとさせる音色でした。(ヱブ上では演奏を聞けないかも知れません)。

 ★ 美学は、カントやヘーゲルによる著書もございますため、・・・
 ☆ 必要に応じて 就いて学ぶこともあろうかと思います。(ただちには食指が動きません。何故だか です)。

 ★ 仰られますように、”飽くなき尽きざる探究”は大切かと思います。ただ、「”アヴァンギャルド的”な要素を含んでいない作品は、芸術ではない」という風潮が非常に強かったのが、残念だったかと思っております。
 ☆ 変な類推に飛びますが タモリも《アワ゛ンギャルド的な要素》がいっぱいでしたが 江頭2:50のそれとは違って 一皮剥けて抜けだして来ました。ですから実験というとすれば あらゆる可能性を追求するわけですから これはひどい!という場合も入るかとも思いますが 固定されてしまってはもう いただけないですよね。(江頭2:50は それなりに需要があるのかも分かりませんが)。

 変な言い草をひとくだり:
 歴史知性を見出した古代人の美とその系譜にルネサンスを!

 (でも 縄文人の美もありますね。どうしましょう?)

お礼日時:2011/01/03 10:25
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