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 つぎの評言について解説してくださいませんか。

 ▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~

 ( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。

 ( b )  ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。

 ( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。

 ( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。

  ・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
   (1925~ 民族芸術学 美術史学)

 ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~

 ( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。

 ( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。

 ( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

  ・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。

 ( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。

 ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
 ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。

 ( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。

A 回答 (122件中81~90件)

>一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。

そして どう生きたか で善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感 じるかが千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

一部では賛成で、一部では反対です。多くの美術品を許容するというところに賛成し、「かたちが整わない醜いもの」という主観的な用語に反対です。ともあれ、貴方は、一人一人の美は別物だから、統合的な理論は必要ないし、わからないものは、わからないままでよいというお考えなのでしょう。
私が統合的な話をしたがったのは、一つには、これが美学の話だと思ったからです。上述なら、美学の議論というより、日常的な相談の要素を含んでいたと思います。つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。そうしてみると、余計なことを忘れて、自分の意識に集中しろという回答の仕方もあったでしょう。全部に目を通せませんが、そういう回答者の方もいたのだろうと思います。ところが私は愚かにも、美学や歴史の話をし、牛刀をもって鶏を割いていたのかもしれません。
私の議論は貴方への有益なアドヴァイスにはならなかったかもしれないが、しかし貴方が上述の引用のように、個々の美意識の尊重を認めるのであれば、貴方が「わからない美術品」も他者にとっては大切であり、それを「劣化」と呼ぶ気はないという視野へ貢献したと考えてみることはできそうです。というのも、ゴッホが好きでない人にしてみたら、愛好家は審美眼が無いということにもなるでしょう。ピカソを嫌いな貴方にしてみたら、ピカソ愛好家は審美眼が無いということになる。しかし、そうではない視野をもう貴方はお持ちなわけですから、審美眼の「劣化」という言葉を手放すのに、やぶさかではないはずです。劣化も何もないということでしょうから。

「われらが審美眼は劣化したか?」という問いについては、以上から、「劣化もなにも最初からなかった」と答えることができそうです。白黒をつけたいのではなく、貴方が議論して有益であったら、私はよかったと思うので、まとめるのです。

さて、最後にチラッと書いてありますが、貴方が「躓きの石」と呼ぶ理解不可能な芸術は、私にとっては試金石なのです。つまり理解できないものに向き合う経験を対自的と捉えるのなら、即自とあわせて原初的な直感へと近づいく弁証法的な契機と考えられるのです、
簡単にいえば、私のような考え方をする者は貴方より貪欲であるか、完全なものを求めたいのでしょう。自分が理解できる美では満足せず、より統合的な「全」である美を理解したいと思えば、弁証法を繰り返して、より完成された形に近づいて行けるとも考えるわけです。これは、昔、私の師が言っていた話ですが、その時に言及されたのが、聖アウグスティヌスのSi fallor, sum「あやまつれば、我れあり」でした。理解できないものを糧として、さらに自己の確立をしていくという解釈です。貴方の解釈とはまた別かもしれませんが。

P. S.
最後にナチスのホロコーストの延長にある退廃芸術という排除運動と、アスベストや受動喫煙の禁止を同列に置く議論に、驚いたので、追記しておきます。二つは全く別物です。ナチスは骨相学のように疑似科学pseudoscienceを用いて、特定の民族を劣等とみなし、断種をはかっていました。退廃芸術 という排斥運動も「劣等」とみなしたものを排斥する流れにあるものです。一方、受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動ではなく、健康への配慮というものでしょう。「どちらも近代合理主義」と同列に議論できるものではないはずです。私がナチスの話を持ち出すまでもなく、日常的な雑感という範囲で議論を留めておいて欲しいという話だったのかもしれません。こういう牽制の仕方は、知識がある常識人ならブラック・ユーモアとして笑えることなのでしょうが、第三者も閲覧可能なものだから、気をつけたいところです。
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 文献学を重んじその合理的で妥当な判断基準に則ろうとすることと 人が生きること――これが 美の体験につながります――とは やはり別であると見るのでしょうね。

 美術作品の鑑賞とその評価とは 第一次と第二次以降の作業との違いに当たりますが じつは ここで《審美眼》と言っているのは――今頃定義しても始まらなくて申し訳ないのですが―― 第一次の美の体験のことです。そして美の鑑賞と言えば それだけだという見方をしています。コギトによる情報や知識は 美の体験にとって 必要条件とはならない。これです。

 美術作品を《退廃芸術》であると《評価》することは ですから ここで問題にしていないことになります。そのようなナチス関係とはまったく別個に それぞれの作品を見ていけばよい。こういう趣旨だと理解します。

 わたしが 《おあとがよろしいようで としたいのですが》と言ったのは もはやあなたには言わずもがなであるはずだと踏んだからです。
 わたしはそのことを いまもまだうたがっていませんが おへその位置やいまの生活等のご状態が――これは わたしにまだ詳しくは分からないみたいです――このご回答をあらたにみちびいたとは思います。

 端的に 《Si fallor, sum「あやまつれば、我れあり」》の解釈の違いにも 文献学によるご議論と生きるときの美の体験からの会議との違いが見て取れるようです。

 でもその違いは 乱暴に言ってしまえば どちらに力点を置くかの違いだけだとも見られます。問題はそれがあるとするなら 今回あなたは 人の審美眼がのっぺらぼうでよいとわたしが考えていると受け取ってしまったことにあります。
 んなわけないでしょう。

 《あやまつなら》 《 α 直感〔そしてそこからヒラメキ直観とその言葉による表現および伝達 それによって 互いに――見解は違っても――同じ人間ぢゃわいとまでは分かり合えるということ〕》を わたしは我れに還ることによって・《わたしがわたしである》ことを取り戻して 実現させ得るという解釈を出しているのですから  この広い意味での美の体験を 言ってみれば――原理主義だとあざけられても これだけは人が人である限りにおいて――必須のことであり至上命令でさえあると 内心は思っているわけです。
 このことは 対話の進み具合いに応じて 追い追い――つまり相手とのシンライ関係の構築にともなって―― お話するということになっています。
 《 α 直感》を普遍的な理論として打ち出すには 無神論者をも説得することが出来るように これからまだまだ知恵をはたらかせ表現にも工夫をこらさなければならないことでしょう。
 でももうその思いはゆらいではいないわけです。その工夫としては 歴史の事実やそれについての人びとそれぞれによる見方としてのやはり事実がありますから それらの事実認識からまづ始めなければならないというときに 右往左往するということにもなりましょう。浅田彰は ポストモダンの一辺倒ではなかったというひとつの事実認識は これを見過ごしたら致命的な傷を自分に負います。人間の能力から言って 右往左往しないほうが めづらしい。

 ★ つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
 ☆ んなわきゃない。
 ○ 《無根拠》なる石につまづくとすれば それは審美眼の劣化につながっている。 
 ☆ とはっきりと宣言しています。感受性は これも与えられるものだと捉えておけば 間違いは起こらないでしょう。

 ★ 個々の美意識の尊重を認めるのであれば
 ☆ 一人ひとりの《わたし》の自由意志による判断を尊重します。どれだけ〔仮りに言って〕劣化した審美眼による鑑賞ないし評価だとしても その個々の判断自体はとうといものです。またその同じ自由意志をつうじて同時に 《 α 直感》としての境地に到ること――つまりそのことをつねに願っているわけですが――でなければ 何にもならないわけですから。

 かみほっしたまうならば うつくしき世界が三分の一の部分において現われて来るでしょう。


 * ★ 「かたちが整わない醜いもの」という主観的な用語に反対です。
 ☆ 漢字がいけなかったようです。《かたちが整わない》のは 《見にくい・見づらい》と言っても それは一般性を持っており ひとり主観的な見解に立った用語だとは見られないはずですから。

 * たぶんこれ以上わたしがあなたを説得するというような調子でものを述べ続けるなら それは《同情》になります。

お礼日時:2011/01/13 09:54

私としては「現代アート」という大きなくくりではなく、もう少し細分化して議論する余地が残っていると思ったが、それでは、これで終わりにしましょうか。

いつものパターンに戻ってしまったように思います。「いちゃもん」なのでしょうが、実際、あまり反論にはなってらっしゃらないのです。

>キリスト・イエスの出現と死を境にして この直感および直観の喪失もあるいはいまどしどし言っていきますが 原罪もぜんぶきれいにちゃらになりました。(中略)α の直感も回復されました。(中略)心の明けと伸びとを自覚しないなら 理論どおりには行かないことがあるということになります。

>直感しなかったときには 二次的な方法を取ってもいいですし 採らないで放っておいてもよい。となります。

最初の引用で(αとは原初の直感を示すとここで取り決めた言葉ですが)、貴方は原罪がαの喪失の要因と見定めて、キリストの出現で既に回復されていると考えたというわけです。これは宗教的な根拠によって正当化されています。しかし後の引用で、直感されない場合があるとも、貴方は認めているわけです。この矛盾をどう考えましょうか?
私自身は、原初的直観αが今は不完全で、喪失されたと考えています。そこで直感による美術作品の鑑賞の限界があるとみた上で、私は二次的手段によって補い、即自且つ対自の段階にまで高めるのがよいと考えたのは前に述べた通りです。
しかし貴方にしてみたら、直感的鑑賞には限界など無いわけです。特に貴方は、直感を回復しており、且つ心が解放されているのでしょう。
ところが、ここでわからないのは、それなら、なぜ貴方が全ての芸術に見開かれていないのでしょうか?ピカソにも何でも、心打たれて鑑賞することができることになるのではないでしょうか?そこで貴方のおっしゃることは矛盾しています。
この矛盾から見ると、αは完全に回復されたと言えないか、credoと美学を別個のものとして分けないとならないといえます。あるいは、貴方は神credoに対してまだ十分に見開かれていないということであって、さらなる宗教的な修練なりをもって、原初の直感を回復するべきということなのかもしれません。どちらにせよ、美学の議論を終わりにし、宗教の議論であるわけです。宗教の議論とは、いかにして原初の直感を回復できるか?という原理主義に近い方向でしょう。

全体の感想を述べておきましょう。貴方は美学について専門外でしょうからあまりピンとこないかもしれないが、ナチス云々は「劣化」であるとか、審美基準の確立という時に、やはり考えざるを得ないものです。井戸端会議であるとおっしゃるのなら、なるほど、楽しい会話だけすればいいわけです。美を鑑賞するのに基準など無い、心のままに鑑賞すればよい――と言うのは愉快でしょう。貴方にしてみると宗教的直観の回復にあたって、「その他」は無用なことになるでしょう(ただこれが私には、原理主義に見えるわけです)。
私が井戸端会議をせず歴史性の考慮を促したのは、貴方を学術的な流れに関心のある研究家として扱ったからです。別に貴方の自由を制限しているつもりはないし、自分の見方を押しつけているわけでもないのだが、貴方の反応は過剰に身を固くしてしまうので、私としてはやりにくいのです。私とて、貴方が有益な反例を挙げてきたら、それは認めたでしょう。
しかし貴方の場合は実践と学術が分けられていないらしい。「右往左往」は議論ができなくなります。たとえばlogosの説明はきちんとなさったが、木村を支持するのか否かも、かなりぶれていて、議論がしにくかったというところはあります。実践と統合してもよいが、もう少ししっかりしていただきたいと申し上げましょう。こういう時に、真価が問われるのではありませんか。

追記)
神の無根拠は、パウル・ティリッヒの「存在への勇気」の項目を参照してください。彼は一例で、同様のコンテクストは、その当時の神学者らを調べて行くと浮かび上がるのです。原理主義は歴史的視点と相いれないのかもしれませんが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6% …

>ティリッヒは信じるということは疑うことと切り離すことができないと考えている。神は対象として確かめることができないから、もちろん理論的に証明することはできず、信仰は実存的な決断にならざるを得ない。(中略)サルトルは「神が存在するとしてもたいしたことではない」と言った。人は結局は孤独に、神とは関係なく実存を決定しなければならないというのが彼の考えだが、ティリッヒの考えはその逆である。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 すでに理論上は 《 α 直感》は回復されている。けれども現実はその理論通りにはなっていないし ちょっとやそっとでは ならないらしい。
 この《理論》について述べます。

 生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。

 さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。われわれは記憶の中からあれこれを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときむしろ精神の秩序作用としての記憶に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりすると われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。
 これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。
 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。しかも 基本的なかたちで 《うそ・いつわりを言わない》が善であり《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。

 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞とともなる)動きだと考えます。
 実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。

 けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか?
 それは 生きた過程としての《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてなぞの美ないし真理〕を求めているかが違って来ます。審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。

 一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。そして どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 これが 理論です。理論どおりに行くかどうかの分かれ目を説明しています。簡単に言えば へその曲がり具合いによって その人の美学が そのつど おのれの姿(もしくは心)をあらわすかのように決まって来るものと考えます。
 蛇足ですが 神学は要らないわけです。神学の以前に 決まったかたちに そのつど現われるという見方です。

 どうか無根拠なる石につまづか・・・。

お礼日時:2011/01/13 01:05

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。

Hidocchiでございます。

 また、iacta-alea-est様におかれましても、きめ細かな解説をしていただきまして、どうもありがとうございました。

> ☆ このところ わたしはひとつ思うところがありました。わたしのこととしてその人が言うには ここへ書き込むのは《至福の時間》だろうと決めつけています。ということは その本人が けっきょく何だかさびしそうな人なんだと思ってしまいました。

 このようなご事情があったのですか。ご心中お察し致します。
 何分、群集心理が惹起されますと、必然的にそれがエスカレートしてしまい、おそらくは当の本人すらも、する前には想像だにしなかった行動もとってしまうものかと思われます。
 ですが、一時期のように、ご回答欄への複数によるアラシはなくなったかと思われます。残念なことではございますが、ある程度のアラシは覚悟しなくてはいけないものかと愚生は諦めております。

 まず、ここで問題となっております“ロゴス”の定義について少しばかり言及させていただきます。以下のWikipediaにもございますが、愚生は“3”の意味、つまり、「(論理的に)語りうるもの」、もしくは“1”の「理論・論理」と定義し、前回の回答をさせていただいた次第でございます。
 
ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4% … 

1. 概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。
2. キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
3. 言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。

 木村氏がこのロゴスを如何様に定義したのかは不明でございますが、氏の著作からは、キリスト教関連のものが一切ないため、“1”もしくは“3”と推察致しました。

ソース:http://www.shikoku.ne.jp/isp/ethno/ethno01/minge …

> ★ シュルレアリスム美術 および キュビスム
 ☆ そんなことまで考えて絵を画いているのですか。でも 作品は 一枚の絵ですよね。それらのつながりに《発展》があるから見てみろと言っているのですか? 厄介なことですね。

 愚生も、「いちいち、頭で考えなくっちゃ、いけないんだ」と思いますと、鑑賞するのにも憂鬱感を覚えてしまいます。

> ★ 一方、( b )の「その結果として哲学や科学などがうまれた」とございますが、科学におきましては、次のアインシュタインらの言葉から、類推可能と思われます。
 ☆ こちらは わかりやすいと思います。あれですかね つまり線形におけるような思考のつらなりから新しいものを得るというよりは 非線形においてヒラメキなどをつうじて得られるのであると。

 まさしく仰るとおりでございます。

> ☆ 即自において → 《対自的な〈わたし〉》 → 《即自かつ対自》のすがたを取ったおのれを発見する。
 
 はい、“主義”に陥りますと、おのずから“弁証法的展開・発展”(=ロゴス中心的志向)を考慮せざるを得なくなってしまいます。
 ですが、確かにナチスは、クレーなどを退廃芸術と呼んで排除したのは史実でございます。一方、ナチスは当時の近代合理主義の象徴的存在でもありました。世界で始めてアスベストを禁止したのも、また、他の国々に先んじて“受動喫煙”の害を主張したのもナチスでした。(おそらく)これらを否定する日本人は余りいないかと思われます。従いまして、現代美術に批判を加えることは、たとえナチスがそうであったとしましても、避ける必要はないものと愚生は考えております。全くの自由かと思っております。

 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 木村氏がこのロゴスを如何様に定義したのかは不明でございますが、氏の著作からは、キリスト教関連のものが一切ないため、“1”もしくは“3”〔* すなわち 《ことば・概念・論理》などの意味〕と推察致しました。
 ☆ 木村は クリスチアニズムとは特別に関係ないとおっしゃるのですね?

 ▼ (木村重信) ~~~~~~~
 このような意味において我々は、初めにロゴスがあったのではなく、初めにイメージがあったというのである。(『はじめにイメージありき』(pp.209-211)――【Q:《常識のない高齢者》・・・】回答No.20)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように書いていれば 一方で確かにヨハネ福音の冒頭の文を思い浮かべるものですが 他方で それだけを言っているのみであって ほかに聖書について考えたり論じたりしてはいない。

 ▼ (同上・承前) ~~~~~~~
 そしてこのイメージが可塑的な石や土や布のような物質に移されたとき、イメージは永続的な記号ないし象徴となって、自らの存在を延長し、時と場所を隔てた他の人びとにも影響を与えて、経験の他の多くの部分をも活気づける。
 精神の成長とは精神の領域を拡大していくことであるが、それはイメージの働きによって拡げられ、鋭くされ、生命づけられるのであり、従ってイメージの働きこそが文化一般の先行条件なのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういった調子ですすめて行っているようです。結びの一節の引用ですので ひとことくらいクリスチアニズムに関係するのなら触れていてもよいとは思われますね たしかに。
 きょうは図書館に行けませんでしたが あとは実際に読んでみての判断ないし確認になります。

 ▼ イメージの働きこそが文化一般の先行条件なのである。
 ☆ というような言い方であれば 論理や言葉のはたらきとしてのロゴスより前に このイメージが作用するのだと言っている。となれば いわゆるキリスト教と張り合おうとしているようには見えない。らしいですね。

 次はそっくりそのままを引用すかたちの復唱になります。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 ですが、確かにナチスは、クレーなどを退廃芸術と呼んで排除したのは史実でございます。一方、ナチスは当時の近代合理主義の象徴的存在でもありました。世界で始めてアスベストを禁止したのも、また、他の国々に先んじて“受動喫煙”の害を主張したのもナチスでした。(おそらく)これらを否定する日本人は余りいないかと思われます。従いまして、現代美術に批判を加えることは、たとえナチスがそうであったとしましても、避ける必要はないものと愚生は考えております。全くの自由かと思っております。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ナチスを出されると何かとビビります。こちらがビビらなくとも 言おうとすることが相手に通じなくなるという結果が多い。となると 話が厄介になる。したがってややもすると ナチスという言葉にかかわるものはすべて悪い・忌み嫌うべきだという風潮になる。これも むろん まづい。
 主題ごとに是々非々で扱って行ってよいのだと。
 この点は 復唱せずにわたしは来ましたので ここに掲げておきます。

 いやぁ ひどっちさん ぶれないですね。イメージの取り扱いで今回わたしは 右往左往でした。非思考のクレドと思考のコギトとの位置づけでは基本がありましたけれど。
 ありがとうございました。

 もうしばらく続くと思います。まとめに入ると思います。

お礼日時:2011/01/12 21:04

貴方の立ち位置は、かなり明確になってきました。

貴方はキリスト者としての側面を出すのがためらわれたようだけれど、私としては、やはりヨハネ福音の話を振ってよかったと思います。ImageはLogosに含まれると貴方はお考えだという意義が、よくわかりますから。あの図はよく示されていたと思いますし、私にもわかります。神は無根拠であるから、信じるも信じないも、「サイコロを振って」奇数と偶数の目が出る確率のようなものです。だから信じようと呼びかけたのが大戦後の宗教者で、だから信じないと言い出したのがサルトルらといえるでしょう。貴方が説明を気になさっていた無根拠の辺り、私はよく承知しています。――さて、審美眼の劣化の話でしたね。

貴方はどうやら、バベル以前にあったであろう、直感的αによってコミュニケーションを目指す造形を芸術と認定なさっているようです。それは新しい意見ではありません。象徴主義symbolismeがそれを目指していました。一般的に日本で象徴主義はsymboleという言葉の語源に沿って、割符AとBが合致するような記号体系であり、コンセンサスに加わるための教養なり素養がないとならないと思われているようですが、これは誤解なのです。むしろA=Bと記号的に解読できない、一が全である次元を目指しているのです。

>そういう意味で 《シュジェ(主題)からフォルムへの移行》を見るだけではなく もともと《決まった主題からも固定したフォルムからも ひとは自由である》という視点を いま・ここで・だれもが・つねに 言い張っていてもよい。こう考えます。

同意するところです。ただ、こうなるとゴッホのみならず、ピカソにも認められるところがあってよいといえるでしょう。貴方は直感しなかったが、他の人は直感するかもしれません。というのもlogosの原初の姿は、全てを含みうるのでしょう(この理屈で極論をいえば、ゴミ箱アートもまた、ある人にとっての美なのでしょう)。

問題は、直感しなかった時に、それを芸術じゃないと呼んで退けるか、別の理解の仕方を模索するかなのです。直感しなかった時に、私は貴方がいう「αより後の二次的な認識方法」があってもよいだろうと思います。それは教養であって感性とは別物であり、なるほどそればかりだと劣化だけかもしれません。しかし切り返してみますが、一次的なものだけに陶酔する美意識こそ即自的であって、未熟であると言えないでしょうか。対自的(つまり直感で理解できない)アートに触れてこそ、即自且つ対自という次元に美意識を洗練させることができると考えられないでしょうか。

自分が好きなものを好きと言い切るのは子供にでも出来るし、子供の方がはっきりしているでしょう。しかし、子供がαに最も近い存在なのでしょうか。子供は無垢だというが、それはこういう意味ではありますまい。我か強い人ほどαに近いという話にしかなりませんから。Si fallor, sumというように、自分の審美眼が磨かれるのは、好きなものを好きだと声高に主張するからではなく、誤りも積極的に認め、対自的に自分の美意識を考える視点を獲得するからでしょう。
同じことで、歴史をもちだすことは受け入れられないとおっしゃるが、それは立場によりけりです。貴方が芸術家の立場に身を置いて「歴史や流派などを超越して私は美を追求している」というなら、考えない自由を主張するのもまたいいでしょう。しかし美術史を考える立場であるなら、歴史を横に置かないわけにはいきません。実際、「審美眼は劣化したか」という設問は「われわれ」という集団を問うものであって、美術史的な視野を収めるべき問題提起です。

まとめると、貴方が劣化していない審美眼というのは、αにこだわることであり、好きなものを好きと言い切る子供の純粋さに近いのかもしれません。それはcredoとして純粋であるという根拠があります。しかし美の認識はcredoだけで語れるものではなく、社会的・歴史的多重性を考慮するべきであると私はお答えすることにしたいと思います。もとより芸術は、宗教とは別個の体系をもっていたのですから、credoと共通点もあるが、相違点があってもよいでしょう。いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

 今回は 俗に言うひっかかったところについて評言を述べますので いちゃもんをつけるみたいになります。
 まづはご回答をありがとうございます。

 ★ 神は無根拠であるから、信じるも信じないも、「サイコロを振って」奇数と偶数の目が出る確率のようなものです。だから信じようと呼びかけたのが大戦後の宗教者で、だから信じないと言い出したのがサルトルらといえるでしょう。
 ☆ 後者の無神論派については 問題ないですが 前者については きびしく妥当性を求めてまいります。
 自分から《信じる(つまり 無根拠を受け容れる)》をおこなってもいいのですが・自由なのですが たぶんキリスト・イエスの指し示した神の場合の非思考(つまり信仰)は そのようではないでしょうね。或る晴れた日にかれのほうからやって来るということだと思います。ノックされたとき あなたは受け取って領収証を切るか それとも見過ごすか どちらかになります。いづれの場合も そこで信仰が始まります。すでに始まっていたでしょうが 自覚的に始まることでしょう。

 参考に:
 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~~~~~~~~
 自然といふは
 自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
 然といふは しからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
 
    * 爾(に・じ):しかり。そうである。

 ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~
 自己を運びて万法を修証するを迷とす。
 万法進みて自己を修証するは悟りなり。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ バベル以前にあったであろう、直感的 α によってコミュニケーションを目指す造形
 ☆ 《バベル以前と以後》ですか。たとえ同じ言葉をしゃべっていても もはや互いに他者どうしというのは 相互理解が容易ではなくなったということでしょうか? 
 でもその事件を境に考えるよりは もともとアダムとエワがエデンの園で神に背いた(つまり おのれに背いた)ときから ウソでない心とウソの心とが生じたわけで 意思疎通のむつかしさもその時からのものだと思うのですけれど どうでしょう?

 直感的 α というのは 非思考の場においてわたしに心が開いた境地――心の明け・伸び――をもたらすものと捉えるのですが そのあと この境地が人間どうしのコミュニケーションにはたらくということを見ようとしていますか? 分かり合えるという交通のあり方をみちびくこととして。

 象徴主義に行く前に この《直感的 α 》を得るというのが 美の体験だといまは言っているのですが いづれにしましても(バベル事件によって断層が出来たかどうかを別としましても) キリスト・イエスの出現と死を境にして この直感および直観の喪失もあるいはいまどしどし言っていきますが 原罪もぜんぶきれいにちゃらになりました。
 心の窓をノックする何ものかに対して 諾否のいづれを答えようと 心の明けと伸びとは 得られました。原罪などはへっちゃらのちゃらです。なかったことになりました。α の直感も回復されました。

 ということは 象徴主義であろうとするか否かにかかわらず 人は神につながり 人どうしとして――理論的には――つながっていると言っていいと思います。心の明けと伸びとを自覚しないなら 理論どおりには行かないことがあるということになります。

 では 次の命題に移ることができるか?
 ★ ただ、こうなるとゴッホのみならず、ピカソにも認められるところがあってよいといえるでしょう。貴方は直感しなかったが、他の人は直感するかもしれません。というのも logos の原初の姿は、全てを含みうるのでしょう。
 ☆ 理論どおりに行くかどうかということ この問題がここでも起こります。しかも それではその《理論》とは何を言うのか?
 ★ 貴方は直感しなかったが、他の人は直感するかもしれません。
 ☆ このはずです。つまり 理論は 人それぞれだということになりかねません。どうなりましょうか?
 ★ 問題は、直感しなかった時に、それを芸術じゃないと呼んで退けるか、別の理解の仕方を模索するかなのです。直感しなかった時に、私は貴方がいう「α より後の二次的な認識方法」があってもよいだろうと思います。
 ☆ たぶん 《直感したとき その美の体験をかさねて行くこと》なのでしょうね。直感しなかったときには 二次的な方法を取ってもいいですし 採らないで放っておいてもよい。となります。

 おあとがよろしいようで と行きたいのですが どうですか?

お礼日時:2011/01/12 17:35

今までは貴方の問題意識を明らかにするための議論だったのですが、目的は果たしたので、そろそろ劣化の議論をした方がいいのかもしれません。

まず議論を整理してみましょう。
(1)貴方はlogosとはヒラメキであり、善悪や美醜の区別をすぐにつけるものであるとした上で、木村がlogosの一要素であるimageを強調しているに違いないと考えた。むしろ自分の議論と木村は似ていると当初思っていた。「はじめにズレがあった」というデリダの差延をもじった浅田彰の議論に比べたら、まだlogosを理解しているではないか、と思った。
(2)しかし木村の議論はlogosを否定してimageを顕在化させているのであり、根本的に貴方と違うことを言っているのではないかという疑問が一方ではあった。

さて、(1)の場合は考える方向性が同じなので、劣化というのは変ではなないでしょうか。項目gの解釈も「囮になった」=「あまり重視せずともよい」ということらしいので、根拠がよくわかりません。(2)であるなら話はわかりますが、貴方は必ずしも同意しきれるわけではないとお考えらしい。
私は本が手元に無いので、これ以上は水掛け論になってしまう危険があります。そこで木村は横において、見方を変えてみましょう。仮に最初から最後まで徹頭徹尾imageしかないのだ、symboleもない、という議論をしている論者がいたとします(デリダと言い切っていいのか不安ですが、彼の差延はそういう要素があるかもしれません。判断決定を保留させますから。それにアンチlogosなのは確実です)。こういうX氏がいたとして、彼の美意識は劣化しているのか?と改めて問うてみましょう。議論の対象を変えるわけです。

作者のsujetがダイレクトに伝わらないという意味では、imageだけの世界は勘違いに満ち溢れているでしょうね。バベル以降の状態です。何かパッと作ってしまったガラクタが「見ようによっては、深い美を表現しているかもしれない」などということが起きたり、精巧な作品の意匠が伝わらずにガラクタとみなされたりするでしょう。現実にそれは起きているかもしれず、子供の作ったオブジェがMoMaには飾られているそうです。あるいは私の質問欄で問題になったように、ただのゴミ箱がアートとみなされているという事態でしょう。――これを美の判断基準の劣化であるとみなし、imageを信奉は何かがおかしいと述べるのは、それはそれで有意義な問題提起です。

ただimageの議論の射程にはlogos中心主義が生んで来た弊害を打ち崩すという議論があるはずです。Logos信奉は極端には、キリスト教的な古典主義が美の絶頂でそれ以外は評価に値しないということにもなりかねません。ヘーゲルが象徴段階と呼んだ古代は、即自の段階に留まっている芸術とみなされていました。何かモヤモヤっと太陽のような神を表現したいと思ったら、千手観音像のように手を大量につけてしまったのは、表現をあまり考え抜いた上のことではない――などという議論にもなります。貴方は寛容であるように気を遣ってらっしゃるらしいけれど、logos中心主義に基づく審美眼は排他的なのです。実際、一瞬にして美醜が判断できるのでしょう?

そこでlogosとは思いこみではないか?十全に美について考える機会を失っているのではないか?logosの方こそ、即自に留まっており、自らの知りえないものに見開かれていないのではないか?と問えるかもしれません。
ただし、この議論が説得力を持つのは、場合によりけりです。千手観音像や精巧な中国美術を非キリスト教なので受け入れられないと考えた十九世紀の評論家を前にした時、木村的なimageの反論があってもいいでしょう。
逆に現代で、本当に意匠のないゴミ箱を前にアートだと騒いでいる集団を前にして、彼らがlogos中心主義を脱構築するimageを見出したと言っても、あまり面白くないでしょう。1970年代辺りにいうならそれは説得力をもっていたかもしれませんが、もう十分に脱構築された後です。今はむしろ、審美眼とは何かを再考し、新たな規範を模索する時期だとも言えるかもしれません。

貴方がこういう流れを考慮に入れて「審美眼が劣化したか」と問い、logos復興をお考えになるなら、議論は有意義でしょう。すなわち、logosという概念はもっと広いのであって、ポストモダンの思想家が批判したような狭いものではない、など。より具体的に、劣化しない審美眼がどういうものかは、貴方が個々の美術品を論じて示してくださることと思います。ただ一つ言えば、ナチスはギリシア的なlogosを称揚し、パウル・クレーなどを退廃芸術と呼んで排除したのです。二の轍を踏まない議論を望みます。
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この回答へのお礼

 ご議論がつづいています。ご回答をありがとうございます。

 ひとつ断り書きが必要だとふと記憶がよみがえりました。
 浅田彰は 《はじめにズレがあった》という命題を 断定し切ってはいなかったという記憶です。生命存在のはじめから《ズレ》があったかどうかは分からず 仮説であるとことわっていたのではないかと思います。ところが その『構造と力』がどこを探しても見つかりません。ほかの本はあるというのにです。取り敢えず このことをしるして公平を期します。

 ★ (2)しかし木村の議論はlogosを否定してimageを顕在化させているのであり、根本的に貴方と違うことを言っているのではないかという疑問が一方ではあった。
 ☆ これは 木村の文章にあたるほかないとなりますが わたしの解釈としては こうです。
 ○ 経験思考(コギト)としてのロゴスよりも前にイメージがある。
 ☆ だとすれば ロゴスを否定しているのではないとなります。そしてそのあとは 《ロゴス(α)》を何と呼ぶかの違いの問題になるのだと。どちらでもよいであろうというのが わたくしの捉え方でした。

 審美眼の劣化を見るというのは どこにかと言えば とにもかくにも《ヒラメキ》を見ない・とうとばない というところにです。ロゴス(α)に達するようなヒラメキのことです。
 このヒラメキは 《直観につうじる直感》としてのイメージであり得ますが 《直観として本質を見抜くヒラメキ》でもあり得ます。後者は そこに論理――あるいはむしろ観想=テオーリアからみちびきだされる理論=テオリ――をともなっていることもあり得るはずです。
 と言うよりも イメージを先行させつつ 本質をめぐる理論をみちびく直観というふうに 全体をまとめて言ったほうがよいかも知れません。
 しかも美術作品にあっては これを《美》というかたちで瞬間ワザとして与えられると捉えられます。音楽を聞いているとき あるいは小説にせよ論文にせよ文章を読んでいるときに得られるヒラメキも それ自体は 一瞬のコトでしょうけれど。
 このヒラメキを――なぜなら それこそが《無根拠》という《はじめ(α)》との関係から来ると想定しているからですが―― ないがしろにするのは 美の感覚を劣化させる元だと見ています。

 さらにそして もしこの大文字のヒラメキについて はっきりとした根拠がある・つまりそれは人間に理解できると言うのであれば それも或る種の劣化を美学ないし世界観に対して引き起こすものと思われます。
 つまりたとえばイメージにしても・本質にしても・実存にしても・愛とか慈悲とかにしても あるいは真理とか至高の善とか創造主とか これらの代理表現で指し示しているに過ぎないその《なぞ》を 人間の経験合理性によって分かるのだと言うとすれば それは《非経験の無根拠(α)》をないがしろにしていることですから――世界はこの経験世界しかないと決めつけることですから―― その存在のあり方が縮こまっていると思われます。世界の見方が小さくまたのっぺらぼうになってしまうはずです。
 ★ 作者の sujet がダイレクトに伝わらないという意味では、image だけの世界は勘違いに満ち溢れているでしょうね。

 ☆ もしくは 非経験の領域が 人間の理性によって分かったと言っていることですから 有限な人間が勝手に存在のあり方を膨らませてしまったことになります。表象し得ぬものを表象し得たとうぞぶいているに過ぎないわけですから 世界観のバブルのようなことになります。すなわちさらに それしかないと思い込むならば
 ★ logos 中心主義に基づく審美眼は排他的なのです。

 ☆ このように――学問の流儀から行けば ずるい行き方なのですが―― エリアーデもそしてかれに拠って木村も《超歴史的世界》と言ってもいましたから―― 超然的な超越論的な(ひどっちさん言うところのアプリオリな美の感覚を想定するかたちの)美学から行くならば
 ★ 今はむしろ、審美眼とは何かを再考し、新たな規範を模索する時期だとも言えるかもしれません。
 ☆ という問い求めの姿勢は つねにその場その現在その《わたし》において問い求められてしかるべきであるし じっさい知らず知らずのうちにでも問い求めているものとさえ考えられます。
 そういう意味で 《シュジェ(主題)からフォルムへの移行》を見るだけではなく もともと《決まった主題からも固定したフォルムからも ひとは自由である》という視点を いま・ここで・だれもが・つねに 言い張っていてもよい。こう考えます。
 むしろそうしないで そこに歴史的な弁証法過程をわざわざ見ようとするのは それだけでも 劣化とは言わずとも縮こまった見方に立っているというように 思われます。

お礼日時:2011/01/12 12:22

2. 即自且つ対自


さて木村の「即自」云々の方ですが、貴方は、「結果的に囮になってしまった」とおっしゃるので、あまり設問の項目gに関する貴方の解釈は重視しないでも良いという許可が出たと思うことにしましょう。私は木村のモデルを、次のように考えています。
1. imageなる虚即と本質が混じった様態が原初αにあった。
2. この即自に対して、対自であるオブジェが現れる。
3. imageとobjetが即時且つ対自という様態に至り、symboleが生まれる。

私の推測ですが、木村は実存主義の影響下にあったのかもしれませんね。事実、貴方のリンク先でも、木村は次のように述べたとなっています。「(論考の目的は)つまり、先史人や未開人の造形活動が外的世界と内的世界に関する人間 の実存的な意識化を明らかにしていることを証明することであった」。著作は1971年なので、年代的にも実存主義が日本で流行った時代でしょう。

そこで実存主義に即して、木村のモデルを説明したら、実存であるimageは本質に先立つのであり、ある芸術家の主観でしかなかったimageは対自によって、symboleへと生成されることになると言えないだろうかと私は考えるのです。これは「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」と同じ定式です。即自のimageだけでは交流などできないから、即時且つ対自のsymboleが今度は並行して必要だというのです。
なるほど貴方のいうとおり、imageでは「無根拠に躓くから劣化だ」というが、並行して、木村はそれもわかって別の段階を提示もしているのです。そこで批判の矛先があまり的をえていないと私は感じたのでした。

また上記の議論でHidocchi氏へのお答えにもなっているでしょう。同系統の議論なので、反論ではなく、私の議論を補足してくれたと思います。
ご指摘のように、こうした対自且つ即時が個人のレヴェルではなくグループ間で起きた結果、ブルトンという教皇が君臨したシュルレアリスムにおける体系化-ismeに結びつくというのはその通りでしょう。別にシュルレアリスムに限らず、流派や様式があれば、同じことは起きます。木村はさすがに大研究者だから、議論は多角的で、imageについて極論をぶつ一方で、綿密なフォローも入っていると考えられるのです。つまりimageしか原初に無いとしてその効用を述べたが、原初以降ではimageと別のものがあると言っても矛盾はないわけです。
さて科学の例は、言葉で考えるのではなく、何か別の要素が必要だという趣旨でしょう。しかし、これは二つの別々の例があがっていますね。いきなり正答するのがアインシュタインで、煮詰める中で答えがわかっていくのがクーンと読めますから。繰り返しかもしれませんが、木村の「はじめにイメージありき」という説でも、聖書的な「はじめにlogosあり」のどちらのモデルでも、「言葉=理詰め」ではない要素があるという話ではあるのです。直感的に閃いて正解がわかる――というのなら、図式的に分類したらlogos支持なのでしょう。何か思い浮かんだが、やってみる中で別の確固としたものが生まれてきた――というのなら、imageだったのでしょう。二つはよく似ていますが、全体では大きく違います。アインシュタインはlogosなのでしょうが、クーンはimageの人かもしれません。ともあれレスポンスありがとうございました。

さて話の相手をbragelonneさんに戻して、最後にゴッホはお手上げということですが、古典主義云々はさておいても、質問の趣旨は貴方のαで何が起きているかを聞いているのですから、もう少し頑張っていただきましょう。何を直感するのかを分析して、そこに虚飾imageが混じっているのか、いきなり本質が来るのか――それが問題なのです。おそらく後者だとお答えになると思いますが、それがどのようなものなのか。気になるところです。もし既にどこかで議論していたら引用してください。眼は通しても、もう追いきれる量ではなくなっていますから。

この回答への補足

 つぎの文章におぎないを添えます。

 ☆☆(お礼欄) ~~~~~~~~~~~
 すなわち 第一次つまり美の鑑賞そのもの――しばしば 瞬間的なコト――において おそらく《ロゴス(α)》のクレドをおこなう《わたし》にまで わたくしが広がり深まるのだと考えます。そのあと第二次以降の美の解説というのは ロゴス(β)のイメージの直感やら (γ)の本質・シンボルなどの直観やら あるいは(δ)の文章にあらわした理解やらを言うのではないかと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《ロゴス(α)》へと突き抜けるような体験 これは きっかけとしては結局(β)の直感イメージであったり (γ)の本質を見抜く直観であったり あるいは(δ)のふつうの散文のごとき論理的な文章であったりすると考えます。
 言いかえると 非思考の場の成り立つのは 経験世界におけるあらゆる経験をきっかけとしてであると考えます。比喩としては 《なぞの何ものか》が 或る日或る時わが心の窓をノックするといった体験なのだと。(δ)の理詰めの思索の途中においても どこか上から斜めからその線形の論理を一たんさえぎって ヒラメキが起こるといった感じだという説明になると思います。

 イメージ・直感・シンボル・ヒラメキ・直観・本質・論理などについて 非経験の領域(α)と経験世界におけるそれら(β~δ~・・・)とをやはり区別するのがよいと考えます
 (β)以降の下位概念としては あらゆるモノゴトが(α)のクレドのきっかけになるということでしょうし この(α)のクレドの対象(もしくは非対象)である《なぞ》のことを どういう呼び名で呼ぶかは すべて自由だと考えられます。鰯の頭でもよいはずです。要は その呼び名が あくまで仮りの表現であるということだと言えるはずです。
 ぢゃあ仮りではないそのモノ(物自体?)は何だと言われても 表象し得ない・無根拠だとしか言えないわけです。それゆえ《霊》という言葉をも当てることがあるわけです。
 ・・・

補足日時:2011/01/12 11:12
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 ここ(=No.38)は つぎのNo.39へのお応えの前置きのようなことがらを拾って述べます。

 まづ《ロゴス》の段階的区分(といったヘンな分析)をあらためて見ておきます。

 ☆☆(No.34お礼欄) ~~~~~~
  
   ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神
   ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ
         (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明)
   ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そしてこれにもとづき 《イメージ》などに即して書きかえてみます。

 ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~
  
   ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
   _____________________________
   ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
   ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ですから 前置きと言いましたが これほど(自分で言うのもなんですが)明快な見方はないとも思うのですが どうでしょう?


 【Q:《常識のない高齢者》・・・】のほうで ましゅまろさんから ゴッホの作品《マルメロ、レモン、梨、葡萄 1887年》をおしえてもらったとき(回答No.16) 実際に〔ヱブ上でですが〕見たときわたくしにも 強烈にその絵は・あるいはむしろその色彩は 飛び込んで来ました。同じくヱブ上で ゴッホの絵はすべて見ているのですが 初めて見たもののように新鮮な力をもって迫って来ました。
 ひと呼吸ないしふた呼吸をおくと その黄色が単調ではないかとも感じました。あるいは葡萄がなんで白いのかなどなど。
 ところがいづれにしましても 美を感じることは 個人個人にとってそれぞれ絶対的なコトであると見ます。《第一次》というような熟さないだけではなく 実際の内容としては違うはずだとすら思われる言葉を使っていますが この第一次の感覚が すべてだということを言いたいわけです。
 そのあと その美の言葉による分析やら作家のこと・作品創作の背景また時代背景などなどの解説やらが 第二次以降にともなわれますが 同じく言いたいことは この第一次と第二次とのあいだには カテゴリの区別があるのだと思われることです。はっきり言えば 第一次のみが 美の鑑賞であり 第二次以降は 広い意味でのお勉強だと考えます。教養というのでしょうか。

 すなわち 第一次つまり美の鑑賞そのもの――しばしば 瞬間的なコト――において おそらく《ロゴス(α)》のクレドをおこなう《わたし》にまで わたくしが広がり深まるのだと考えます。そのあと第二次以降の美の解説というのは ロゴス(β)のイメージの直感やら (γ)の本質・シンボルなどの直観やら あるいは(δ)の文章にあらわした理解やらを言うのではないかと。
 言いかえると イメージと対立するようなかたちを取る狭義のロゴスは (γ)の概念・言葉なのでしょう。
 あるいは あなたの場合には 《なぞのロゴス(α)》をも 《本質》と呼ぶ人もいれば それに対抗するかたちで《イメージ》と捉える人もいるという前提で話をされていましょうか?
 それは 呼び方の問題だと思います。要は 《無根拠・表象し得ぬもの》という大前提を置いておいてもらえば かまわないということでしょうか。
 その《無根拠》にしても 《クレド》というならすでに人間である《わたし》の経験行為も含まれている。ならば それは《本質》と言うよりは《実存》なのである。と説く向きもあるでしょうね。
 なにはともあれ この《ロゴス(α)》は 神は有ると言って表わしても神は無いとして表わしても どちらも互いに同等に人間にとっての《非思考の場》であるという想定なのですから。

 このあたりで次に続いて行きます。

お礼日時:2011/01/12 09:49

さて、私の問いが波紋を呼んだようです。

Bragelonne氏の質問欄なので、彼に語る形をとりますが、問題の所在を貴方はおわかりになってらしたようですね。長いので二つに分けて投稿します。

1.ヨハネ福音
ご指摘のように「はじめに~~ありき」のような表題の論考は、探せばいくらも見つかります。したがって木村の論を特に聖書に結ばなくても、インパクトのある表題として選ばれたに過ぎないのかもしれません。ただ貴方の場合、imageの位置についてcredoと関連させて、考察しているわけだから、私から見ると、ヨハネ福音を引用して議論した方が明確に貴方の位置がつかめるだろうと思ったのです。
ロゴスの段階で示されたことは私も考えていました。言語化される前に、曖昧な直感があるのかもしれません。これを直感αと呼んでみることにしますが、貴方の議論は、原初のαでは、すべてが混然一体となっているので、imageだろうと何だろうと、含まれていてしかるべきとお考えなのでしょう。

しかし、本が手元にないのだけれど、木村はlogosにimageが含まれていないと考えていると読めるわけです。つまり木村は「credoにあるlogosの前段階にある命名し難い様態αをimageと呼ぼうなど」という甘いことはいっていないはずです。木村はむしろ logosとimageを対立させ、原初の状態では、credoだとかlogosだとかは存在しないと言っていると考えるべきでしょう(「初めにロゴスがあったのではなく、初めにイメージがあったというのである」)。
「存在しないものを西欧のキリスト者が後付けで作った」ととまでいったかどうかわかりませんが、少なくてもlogosは自然状態では発生しないのです。だからこそ、本質であるlogosが堕して虚飾imageが生まれたのではなく、最初にはimageしかないから imageはlogosに従属などしようが無い、というわけです。

こうした挑戦をしておいて木村の関心にあると見えるのは、原初にimageしかないモデルにおいて、logos中心のキリスト教圏では見過ごされていた利点を明らかにすることと思えます。エリアーデの次の一節を引用しているようですね。

>「文化を《開かれたまま》にしておくものは、イメージとシンボルの現存であり」、「超歴史的世界への《入口》を構築するイメージのおかげで、異なった《歴史》が互いに伝達可能となるのである」(エリアーデ)

イメージは、完全に意思を伝達する様態ではないし、logosの基準からすれば劣ったものかもしれないが、誤解を含めて解釈の多様性を許容し、違ったコンテクストをもつ時代や文化をつなぐことになる――として評価しているわけです。極論すれば誤解もまた面白いじゃないか、というわけでしょう。
ここまででシンボルの議論は残していますが、象徴主義との関連でいうとまた複雑だけれども、まずはsymboleの語源通り、割られた符号AとBが合致す るという意味で考えていいでしょう。このA=Bという規則があって誤解のない伝達手段も並行して存在することは認めるが、木村はimageに力点を置くわけです。

これを貴方がポストモダンと感じて、善悪の判断を放棄していると憤り、話を一貫させたいのなら、虚飾であるimgaeは原初に無く、原初には本質しかなかったと主張しないと本来はならなかったのではないですか。しかし貴方は寛容にも、次のように書いてしまっていますね。「《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します」。繰り返しですが、木村は貴方が期待するような意味でのimageを論じているとは思えないのです。この意味では貴方は、反対するべきところを反対なさっていないと私には見えています。

続く。
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この回答へのお礼

 ううーん。そりゃあ そうなんでしょうけれど。それは おっしゃるような対立がきれいな図式となって描かれるようなんですけれど。

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。この主題は おもしろいのですが――ゲーテのファウストでの思索に触れたときには 何日も考えつづけましたが―― もう答えは決まっていると思うのです。
 きわめて非合理な言い方をしますと:
 ☆☆(No.34補足欄) でも 《無根拠》の石につまづくのが 現代人であると〔言うと〕すれば それは審美眼が劣化しているおそれがあります。よね。
 ☆ ということになるはずです。
 たとえロゴスに代えてイメージと言おうとも それは《無根拠――表象し得ぬもの――》と相場は決まっていると思うのです。なぜなら 非経験の領域であるということと かたちとしては一元論であるしかないからです。《一》は 《全体》という意味でもあります。

 もし《本質》にかかわるロゴスに代えて 虚飾であいまいなイメージを持って来ても 《無根拠》のことに変わりはないからです。
 本質と言っても 表象し得ないのですし イメージと言い切れたとしても じつはその曖昧さということについて表象し得ているということはあり得ません。
 経験世界における《はじめ》のことではないからです。
 経験世界を超えていると想定されるわけですが 《超えている》ということは じつにその超えたという対象である経験世界を覆い包むことさえあると考えられます。まったくの推測ですが 想定にもとづくなら 非経験の領域が 経験世界をすべて包んでいたり貫いていたりすることが考えられます。
 そのあと 経験世界における出来事として ヒラメキやらそれと同じような段階においてイメージやらが 経験存在である人間にあたかもあたえられる。

 おそらく《ロゴス(ことば)》という言葉を用いたのは その《無根拠(つまり 神のことを言っているのですが)》にかたどって人間の存在があるということを言いたいためだと考えられます。
 《非経験》にかたどって《経験存在である人間》の姿がある。
 あまり例として出すのもどうかと思いますが それでも分かりやすいと思われるので出しますが 《仏性が 人間にやどる》といったそれこそイメージで捉えるとよいと考えます。そのように《ことばが 人間にそなわる》というかたちです。それに同じくふさわしい言葉は やはり《愛》なのでしょう。


 もし どうしてもあいまいさにつながる《イメージ》という言葉を これら《ことば》や《愛》のほかに――しかもそれらを追い払って――使いたいという場合には その理由はかんたんであるように思います。つまり 《仏性》にしてもそれを宿していても そのままではその知恵がはたらくというわけではない。万人にそなわる《ことば》にしても それを用いて意思疎通を図っても つねに話が通じるとは限らない。《愛》にいたっては いったいどこにそんな人間にとって普遍的な愛などがあるのかとうたがわねばならないほどの情況が 現実なのである。
 といったマ(間・間合い)の違いや混沌・混乱の姿をこの《はじめ》である無根拠の内に写してみたいという心つもりではないか。

 かつて そう言えば 浅田何とかという人は

  はじめに ズレがあった。

 とか言ったのではなかったですか。ズレという語の上に バツ印が置かれていたような。デリダか誰だかの影響があるのかどうかも知りませんが 《無根拠》のことをこのように《ズレ》と言ってしまうと おそらく《イメージ》の持つあいまいさや虚飾性ですかそのような意味あいではなく そのほかにそれこそ ソシュール=丸山圭三郎の《人間世界は 非自然つまりその意味での文化のみによって成る》という大きくはポストモダンの思想に行き着くように思われます。《ヒラメキ》はあり得ないことになるはずです。

 ですから この《はじめの無根拠=イメージ》説の場合には 《自然(特に感性)》を容れているはずですから 単に《ロゴス》を別の言葉で言いかえただけだという見方が かろうじて出来るのではないですか? そういう感じで受け取ったのだと思いますが。・・・

お礼日時:2011/01/11 22:54

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiでございます。

> つまり こんなことは 世界観の問い求めの前提領域でけんかをしているようなことですので 何がたのしくてこんなことをやっているのかと 連中に問いたい。

 以前は、単に日常生活の「憂さ晴らし」と思っていたのですが......

> つぎの問題も どうしてどうして 重大です。

 ご参考にしていただき、厚くお礼申し上げます。

> ――《アース役はつらいよ現象》が後を絶たないようです。

 仰る通りかと存じます。
 なお、以前、krya 1998様のご回答に”寅さん”の名前の由来があったかと記憶しております。以下に、その概略を示させてもらっております。

・寅さんの誕生日:昭和15年なのだそうです。つまり、“辰”のようでございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF% …
・寅さんの由来は、映画監督の斎藤寅次郎 からきているようです。


 ANo.34のご質問者様から質問がございましたので、愚見を述べさせていただきたく存じます。
 なお、これは、ANo.34様に対する“反論”といった主旨ではなく、ヘーゲルを持ち出しました愚生の補足説明でございます。

 まず、( g )の件ではございますが、例えば、“シュールレアリスム”でございますが、ここには、その名の通り、“ism(ismus)”、つまり“主義”が含んでいるかと考えられます。そして、“主義”である以上は、ある境地・目的地なるものが前提として、存在するかと考えられます。従いまして、この“主義”には、必然的に、弁証法的展開・発展が要求されるものと解されます。つまり、「即自(an sich)」である未熟な段階から出発し、「対自(für sich)」という「即自」内での相反するものの認識を経て、「即自かつ対自(an und für sich)」というものへと展開・発展していく、つまり、その“主義”のある到達点・境地へと目指していくものかと察せられます。もちろん、そこには、“ロゴス”が存在致します。
 このことから、“現代美術”には、(その他のキュビスムにしましても)必然的に展開・発展の作用が存しているかと考えられます。このことが、( c )の「美術の本質は変貌であって、発展ではない」と矛盾するものとして、木村氏が述べている(異議申し立てをしている)ものと思われます。
 一方、( b )の「その結果として哲学や科学などがうまれた」とございますが、科学におきましては、次のアインシュタインらの言葉から、類推可能と思われます。

・アインシュタイン「理詰めで物事を考えることによって、新しい発見をしたことは、私には一度もない。」

・ポール・K・ファイヤアーベント著 村上陽一郎訳「知についての三つの対話」p.21から、
「トム[トーマス]・クーンが量子力学の革命に直接関わった人たちのなかで現存する科学者にインタヴューしたことがあります。その際彼らの最初の反応は、成書にあることをただ繰り返すことだった。でもクーンの方が一枚上手だった。前以てクーンはその人物に関連する書簡類や私的な覚書などの類をよく読んでいた。それらは成書に書かれていたこととは随分違う内容だった。クーンが論点に触れていくうちに、相手も実際にはどんなことが起こっていたたのかを少しずつ思い出していった。この話はニュートンにも当てはまりますよ。研究をするということは。結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」

 ご参考になれば、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 いちど もう閉めようと思った時点から ずいぶん続いています。《迷宮化》とは決して思いませんが(その批評に反論をしませんでしたが)。

 ★ 以前は、単に日常生活の「憂さ晴らし」と思っていたのですが......
 ☆ このところ わたしはひとつ思うところがありました。わたしのこととしてその人が言うには ここへ書き込むのは《至福の時間》だろうと決めつけています。ということは その本人が けっきょく何だかさびしそうな人なんだと思ってしまいました。
 わたくしは以前にいちどここを去ろうかと思ったことがあります。以前は 教えて! goo で入会していたのですが あまりにもわたしの質問が 通報によって削除されるものですから そしてとうとう始末書のようなものを書いて 会員としての活動をつづけて欲しいと運営部からメールで言われたものですから それほど通報ですべてが決まるのなら もうやめると言って退会しました。そのとき 続けるかどうかを思案しました。
 BIGLOBEで再入会して続けていますがそれは別として ここへの書きこみを その本人は 憑かれたかのようにおこなっているのではないかと思ったのでした。
 つまり 《憂さ晴らし》以上の憑きもののように感じたという話でした。(わぁ 落ちがありません)。

 ★ ・寅さんの由来は、映画監督の斎藤寅次郎 からきているようです。
 ☆ ありがとうございます。単純なんですね。

 ★ “ism(ismus)”、つまり・・・“主義”である以上は、ある境地・目的地なるものが前提として、存在するかと考えられます。従いまして、この“主義”には、必然的に、弁証法的展開・発展が要求されるものと解されます。
 ★ シュルレアリスム美術 および キュビスム
 ☆ そんなことまで考えて絵を画いているのですか。でも 作品は 一枚の絵ですよね。それらのつながりに《発展》があるから見てみろと言っているのですか? 厄介なことですね。
 ★ このことが、( c )の「美術の本質は変貌であって、発展ではない」と矛盾するものとして、木村氏が述べている(異議申し立てをしている)ものと思われます。
 ☆ ううーん。(読んでみなくてはいけなくなっているのですが いまひとつ気がすすまないのは なぜでしょう)。

 ★ 一方、( b )の「その結果として哲学や科学などがうまれた」とございますが、科学におきましては、次のアインシュタインらの言葉から、類推可能と思われます。
 ☆ こちらは わかりやすいと思います。あれですかね つまり――まちがっていたらごめんなさいですが―― 線形におけるような思考のつらなりから新しいものを得るというよりは 非線形においてヒラメキなどをつうじて得られるのであると。

 分かりました。気が進まないのは もともとヒラメキしかないと思っている人間にとっては こういう主題について議論すること自体に疑問を感じる・・・ですかね。
 ★ 「即自(an sich)」である未熟な段階から出発し、「対自(für sich)」という「即自」内での相反するものの認識を経て、「即自かつ対自(an und für sich)」というものへと展開・発展していく、
 ☆ 即自において その未熟なままながら ただしヒラメキがある。その直観によって 対自のあり方もすでに含まれてしまった。ゆえに 自己表現をおこなう。作品として仕上げる。その結果 その作品に《対自的な〈わたし〉》も表現された。他者からその批評を聞いて 作者は その段階でみづからの《即自かつ対自》のすがたを取ったおのれを発見する。らせん状の発展のようでいて どこか一時点において一瞬のうちに 垂直的な突き抜けが起きている。
 いやぁ ちょっと分かりませんが。
 もしそうだとすれば ひとつの作品ごとに それに先立つ上への突き抜け事件(ヒラメキ)があって その結果を反映して 作品はそれとして完成している。ううーん。試行錯誤と行きましょう。

お礼日時:2011/01/11 21:05

もう話は自己完結してしまいまたが、改めてお聞きしますが、


木村重信さんの主張のどういうところが疑問なのでしょうか。

もしよろしければ頭だけで考えるよりも、
「言語をちょうど覚えようとしている幼児の観察」を実体験
してみてはいかがでしょうか。個人的にはポストモダンは、
そこからはじまると思っているのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 《自己完結》って 質問者が答えを見つけたってことですか?

 そりゃまあ 木村重信の文章にかんするあらたな問題提起については――わたしの中では――そうですけれど。

 ヤクタアレアエストさんの問うているところは 聖書の文句に木村は挑戦しているのではないかというかたちです。
 わたくしは そこまでのうたがいを持たなかったのですが 《はじめにイメージがあった》というふうに言いきってしまうと コギト(論理思考)としてのロゴスよりも前にあると思われるイメージよりもさらに前にあると想定するクレド(非思考)が見えなくなってしまうとは 初めから(趣旨説明のときから)思っていて そのことまでは問うていました。
 言いかえると イメージの代わりにクレド=直観=ヒラメキを置いて考えるなら ほぼ木村の言うとおりであろうと見なしていました。回答No.34のお礼欄で 《ロゴス》にも――変な話ですが――段階があるだろうという捉え方を出しました。それが わたしからの答えです。(まだ 対話の途中です)。

 聖書(ヨハネ福音)の《はじめにロゴスがあった》というのは 神のことですから 《イメージ》というようなあいまいなものではなかろうという疑義です。
 昔の日本人は 八百万の神々を言っていたので そのようなあいまいさは――きわめて平俗的な解決策ですが―― 《神》の下位概念として(つまり 唯一神の分身のようなものとして)とらえれば どうですかと言ったわけです。
 言いかえると 多神教というのは 唯一神の別名であろうという意味になります。でも多神を多元と言ったり特には 善悪の二元論として唱えることになれば それには きっぱりと反対しなければなりません。善神もいれば 同等の存在として悪神もいるということになれば 世の中ひっちゃかめっちゃかになります。他人の島を他人のものとしてとうとぶのもよし それをだましてでも・あるいは力づくででも獲るのもよし 何をやっても 善でも悪でも すべて世の中やりたい放題ということになります。善は悪 悪は善という考えだからです。

 善悪の二元論は 古くは古代ペルシャのザラトゥシュトラ(ゾロアスター)が説いたと言います。その後 それと聖書とを融合させて マニという男が説きなおしましたが これは ほぼ絶滅しました。
 ただし クリスチアニスムの中では グノーシス主義(総称で いくつかの派に分かれる)は この二元論に立ち続けています。異端と見なされていますが 信仰(クレド=非思考)としてというより 思考・思索として有力となっている流れがあるようです。

 ポストモダンというのは むろん二元論ではありませんが 一元論をしりぞけるという点では 実際には善悪の判断をあたかもどうでもよいというふうに見なしているところがあるのではないでしょうか?
 わたくしが 《無根拠》と言ったとき それなら《一元論》をもしりぞけて 何事も決めつけないのだと取る場合に ポストモダンに近いと思われるかも知れません。ですが これは まったく違います。無根拠を クレドの中になぞとして抱いているというかたちだからです。コギトないし理性で決めつけるような一元論ではないというのみです。

 めんどうですが 重要だと思いましたので。

お礼日時:2011/01/11 13:55

もう既に議論はいろいろ出て、他の質疑応答とあわせて迷宮化しており、私は追えないところもあります。

ただ私とのやりとりで出現した問いなのは確かだし、前は議論が生産的になりませんでした。少し落ち着いてやることにしましょうか。最初に正直に断っておくと、失望させるかもしれないが、私は外国にいて手元に木村の文献が無いから、貴方が設問で書いていることを額面通りには、応えきれないのです。木村の引用箇所をどう解釈するかということなら答えられても、木村が何を言いたいかを責任をもって答えることはできません。
しかし他の方との質疑応答を見ていると、貴方も別段木村の文献にこだわる気はないようです。そこで木村の文献は、貴方の美意識を明らかにするための素材程度に考えても、いっそよろしいのでしょう。ただ私はせっかくの素材を生かし切っていないと考えるので、少し質問をさせていただきます。議論が重複する場合は、引用を遠慮なくお使いください。

Q1. イメージについて
まず表題の「最初にイメージありき」ですが、これはヨハネの福音書の「最初に言葉ありき」のもじりなのでしょう。ヨハネの福音書における言葉Word, Verbeですが、これと比較してimageがあるわけです。

>Au commencement était le Verbe, et le Verbe était en Dieu, et le Verbe était Dieu.
>初めにみ言葉があった、み言葉は神とともにあった、み言葉は神であった。

木村は明らかに「最初に言葉ありき」のモデルに対して異論を唱えるために、imageという語を使用しています。ここでいうimageとは虚飾と本質がないまぜになったものというくらいの意味か、虚飾そのものという意味でしょう(おわかりでしょうが、仏仏を引くとimageはreproduction visuelle d’un objet sensible「感覚的なものの視覚的再生産」とあるように、惑わす幻影などのニュアンスを含んでいます)。
しかし聖書的な原初の「言葉」とは本質を捉えたものであって、虚飾など含まない純粋なものなのではありませんでしたか。神なのですから。これを念頭に置いて、ヨハネの福音書の出だしをimageに置き換えてみましょう。スキャンダラスなことが起きるはずです。こうなると聖書を全否定するといってもよいかもしれません。貴方にとって、暴論なはずですが、この転倒をどうお考えですか。貴方は聖アウグスティヌスの研究家なのだから、私より深く考えていることがおありでしょう。

Q2. 劣化と考えた根拠について
設問文に書いてある貴方のgの項目の解釈が、私はまったく、わからないのです。もう一回説明してもらえないでしょうか。「即自的」と「対自的」はヘーゲルの用語で、「即自」は全部の様態を含んでいる未熟な状態です。「《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます」というのは、即時の理解として正しいでしょう。
しかしこれが理由で、劣化という結論になるのは私には飛躍に思えるのです。というのも木村が書いているのは、「即自」ではなく、対自との統合が起きたan und für sichの段階だからです。貴方が批判している箇所は、木村の引用箇所の文意を外しているように思えてしまうのです。私の日本語力の問題かもしれませんが、かみ砕いて説明してください。
おそらく木村とすれば、cで造形は発展するものではないと看破している以上、進歩も退化も最初からなく、imageの移り変わる様態に過ぎないものをロゴスに基づいて、芸術だとか、芸術でないとか、進歩だ退化だと判断していたに過ぎないと「常識破り」をする立場なのでしょう。

Q3. 劣化でない芸術について
その要件を端的に教えてもらえませんか。他の回答者との応答を見ると、古典主義的なものというのが鍵になるのでしょう。そこでたとえば貴方が、CredoをもたらすVerbeが本来の原初に位置するべきであって、これを想起させてくれるのが古典主義芸術だとし、木村がそのモデルを否定していることに憤りを覚えているなら、実に一貫しています。
ただそれだけでは単線的で、面白くはありません。キリスト教と芸術が未分化ということにもなります。むしろ問題は理論を拡張し、古典主義以外の作品をどうやって評価するかにかかっているといえましょう。そこでゴッホがお好きというのは、なぜですか。古典主義的な美意識と照らして回答してくださると、議論が一貫しますが。

ゆっくりお答えください。申し訳ないけれど、私は即お返事できないのです。

この回答への補足

 お礼欄のつづきになります。

 ほんとは木村の本を読んで考えを述べたほうが筋でしょうが 今回は ほのめかしに任そうと思いました。お礼欄の発言で 基本は事足れりと考えますという強引な応えです。

 懸案のようなかたちで残る主題を取り上げておきます。
 いちばんわたしにとって申し訳ないながら分からないのは ゴッホがどういう流儀や派閥に属すると見なされているか これを知らないということです。
 ★ そこでゴッホがお好きというのは、なぜですか。古典主義的な美意識と照らして回答してくださると、議論が一貫しますが。
 ☆ とんと分からないのです。《原初の美》は 或る意味で 絶対的ですよね? そしてただし その具体的なきっかけ(つまり 絵画です)は 人それぞれであるのでしょう。ゴッホはわたしにとっての美だという意味になります。でも その美には 共通感覚がはたらくのではないかとも夢見ています。ほかにも ゴッホに匹敵する画家がいるであろうという捉え方です。

 ☆☆(趣旨説明) 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。
 ★ ・・・木村が書いているのは、「即自」ではなく、対自との統合が起きたan und für sichの段階だからです。・・・
 ☆ 《主観的に=自由勝手に画いた即自的な完結》が そのままほかの主観(人びと)から見てもそれらの人にとって《即自的な完結》のすがた(素形)――原初の美の鑑賞体験――となればいいんですよね? それが社会という観点から見て 《即自的かつ対自的》な素直なあり方であると。
 どうも わたしは 木村を出汁に使っただけのようです。ひょっとして あなたに対しては 囮(おとり)に使ったことになるのかも分かりません。結果的に。

 ★ 進歩も退化も最初からなく、imageの移り変わる様態に過ぎない
 ☆ とは――《イメージ》の取り扱いに拘らないとすれば―― 言えると思っています。上手下手があるだけでしょうし あるいは――人によって違うとは言え―― 原初の美への迫り方が よく表現出来ているかその程度問題があるだけなのでしょう。
 〔こう言うと 語弊があるようです。ありました。( ctaka88 さんからの物言い)。そもそも《美》といったものが どこかにそれとして鎮座ましましていると言うのか? と。《わたし》つまり主観における美の体験としてあるという答えをしました〕。

 《イメージ》論ですが:
 簡便法と言いますか 極めてあいまいに答えようとしているのですが たとえば 空における電気の現象は 《神鳴り》であり そのモノは《いかづち:いか(厳)‐つ(属格・ノ格)‐ち(霊・神)》です。日本人の言語習慣に関する限り。つまり その言葉をめぐって想像するなら おそらくこの雷は 木村の言うところのイメージの一種として〔も〕捉えられているはずです。
 その奥に――と言っても ただのおとぎ話ですが―― さらにクレドなる非思考の場があって 究極のロゴスなる神を おおよそ普遍的に想定しているということではないでしょうか。この神は 無神論の《無神》と言いかえても まったく間違いは起こらないというからくりになっていますから。すなわち《文字はころし 霊は生かす》。――《無根拠の勝利》。(やたら勝負や勝ち負けを言うとお叱りを受けていますが)。

 でも 《無根拠》の石につまづくのが 現代人であると言うとすれば それは審美眼が劣化しているおそれがあります。よね。

補足日時:2011/01/11 11:09
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この回答へのお礼

 ひゃああ そんな問題をふくんでいたのですか。たしかに
 ▲ はじめにイメージありき (著作集〈第2巻〉の表題)
 ☆ でした。

 ご回答をありがとうございます。今回は 主題の中身を確認する作業をした結果を述べます。

 次のサイトを見つけました。そして そこから今問い求める主題は なるほどヨハネ福音の初めの句に取って代わろうとする議論だと分かりました。

 ▼ (色彩としての神) ~~~~~~
 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU …
 〔中ほどからの〕【80】雑記(色彩と形態、イメージその他)
 〔その第7項〕

 ● 岩田誠『見る脳・描く脳』から。──ホモ・ロケンス(喋る人)ならぬホモ・ピクトル(描くヒト)について。

   <およそこの地上において、ヒト以外のいかなる存在も、描くという行為を自発的に営んできたことはない。なぜヒトだけが自発的に描くようになったのか。これは、ヒトのみが喋ることができる、ということと同じほど不思議であり、かつ重大な意味をもつ問題である。>(7頁)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち ホモ・ロケンスにとっては 《はじめにロゴスがあった》であり ホモ・ピクトルにとっては 《はじめにはイメージありき》なのだと。
 《ロゴス》は これをゲーテは《おこない》と訳したのでしたか あるいは読んでも分からなかったクリステワ゛は《初めに愛があった》とか何とかだそうですが ラテン語訳ほかは 《ことば》なのでしょうか そこに《イメージ》が割って入ろうとしている。こういう構図なのでしょうか。
 すなわち:
 ▼ (同上 【80】雑記〔その第6項〕) ~~~~~
  ● 木村重信氏は『はじめにイメージありき』の末尾で、次のように書いている。

   <…我々は、原始美術をオブジェからシンボルへの展開として考察したのであるが、しかしその目的は、それらの歴史的な変遷を辿ることではなく、イメージの機能と意識の発達との関連を明らかにすることにあった。つまり、先史人や未開人の造形活動が外的世界と内的世界に関する人間の実存的な意識化を明らかにしていることを証明することであった。
   …思想に先立ち、それに生気を吹きこむイメージは、永遠にながらえ、時代と民族をこえて受け入れられる。…このように

     「文化を《開かれたまま》にしておくものは、イメージとシン
     ボルの現存であり」、「超歴史的世界への《入口》を構築する
     イメージのおかげで、異なった《歴史》が互いに伝達可能とな
     るのである」(エリアーデ)。

   /このような意味において我々は、初めにロゴスがあったのではなく、初めにイメージがあったというのである>(210-1頁)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ★ これは大変なことに成って来ました。こういった命題が提出されているとは! 〔ひょっとすると ざっきさんの命題とかかわって来て わたしは軽く応えたので(でもタイミングは もうまちがっていないはず) 不明をわびなければならないことになりましょうか〕。

 まづはヨハネのしるした文の解釈を述べることから再出発します。
 ☆☆(趣旨説明) ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。
 ☆ つまりは結局のところ 《ヒラメキ(ないしクレド=非思考の場)》に対応する《ロゴス》も――それは もはや非思考というごとく なぞですが――あるわけです。あると想定しています。どう言いましょうか 仮りにいくつかの段階に分けて捉えるならば:

   ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神
   ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ
         (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明)
   ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化

   ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 さて ここで《イメージ》はどこにどう位置づけられましょうか。
 その前に アウグスティヌスに触れてご期待に添いたい(また 押韻!)と思うなら 

  ○ あやまつなら われあり。( Si fallor, sum. )

 を出しておかねばならないでしょう。マ違いに気づくなら 我れに還り クレドの次元にまで《わたし》は開かれる。つまり《わたしがわたしである》である。そのマチガイに気づくのには 《コギト(我れ考える)》も一役買っていると言うべきでしょうが。(あとは補足欄にて)

お礼日時:2011/01/10 17:11
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