つぎの評言について解説してくださいませんか。
▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~
( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。
( b ) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。
( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。
( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。
・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
(1925~ 民族芸術学 美術史学)
▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~
( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。
( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。
( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。
・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。
( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。
( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。
( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。
No.63
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでございます。> 現代芸術は、それぞれつぎの作品によって、役割を終えています。
モンドリアン《リンゴの樹》が出すのならば、ワグナーは少し的外れかとも思われます。と申しますのも、調整は(多少不安定なところがございますが)存在しているからでございます。ですが、つぎの終えた理由につきましては、概ね意見を等しく致します。
文学は、筋書から解放され、現実的な生活感を失なった。
音楽は、調性から解放され、旋律・和声・リズムの法則を失なった。
絵画は、写実から解放され、実用性とともに存在意義を失なった。
> 現代芸術は、それぞれつぎの事情によって、役割を終えています。
音楽や文学は、情報革命によって、著作権ビジネスが破綻します。乞食同然の辻音楽師や吟遊詩人たちの、自発的作品に戻るはずです。すべての芸術が“タダ同然”で鑑賞できるようになりつつあります。
未来芸術は、注文主や広告主に頼らず、作者の自己負担で作られます。
ただ、一つ懸念されますのは、芸術家達の生活が何によって保障されるかでございます。以前ですと、パトロンの存在、現在では“家元制度”+“資本主義による経済活動”によって、生活費を得ておりますが、完全な自己負担での(注文主や広告者なしでの)芸術活動では、ある一定の歯止めがかかるように思われます。つまり、「金持ちでなければ、芸術家にはなれないのではないの?」 という懸念がございます。特に著作権が形骸化し てしまいますと、さらに、生活費を稼ぐのは困難になるのではないかとの不安もございます。その結果、芸術の衰退の可能性も否定できないかと思われます。
> 新規絵画様式の模索実験(キュビズム等)の成果とは何か?
☆ の《模索実験》 これをも超えて――ただちに無条件に超えて――芸術家自身もおのれの美の体験にもとづき 自己表現として創作に励んで欲しい。こう思います。
自由であれ。という至上命令。
全く、意見を等しく致します。無条件に超えて、“美”(=感動)を表現していってもらいたいと願っております。
ただ、「模索実験の成果とはいったい何だったの?」、「一般庶民 or その後の芸術家に与えた影響とは何だったのか?」につきまして、芸術史家の観点から総括して欲しいとも願っております。
以下、勝手ながら愚見を申し上げたく存じます。
将来、100年もしくは200年後の歴史家は、「20世紀芸術を振り返ったときには、“美”の愚直なまでの探究というよりも、“実験”という趣が強かった。そして、22,3世紀の今日では、20世紀の芸術作品において、見るべきものはごく限られたもののみである。」
と語るものと、愚生は予言致します。
最後まで、お読みいただきましてどうもありがとうございました。
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。
いやあ 全部復唱することになります。そうですね。そうですねと。
もっとも ワグナーについて そしてそれとからめて挙げられているモンドリアンについて 詳しくありませんので――ワグナ―の曲はよく聞いていましたが―― その点は申し訳ありません。
★ ただ、一つ懸念されますのは、芸術家達の生活が何によって保障されるかでございます。
☆ 著作権の存続を言っておられるのですね。
かつて 暴力団の仕事について みかじめ料やノミ行為などがもし社会公共の仕事として必要であるのならば みなその今の暴力団員その人たちを公務員にすればいいではないかと書きました。
芸術家は 公務員という位置づけではだめなのでしょうね。
もしどうしても葬式仏教が必要であるのならば 坊主を公務員にすればよいではないかと考えたことがあります。
★ 二十世紀芸術の総括
☆ これを経て ふたたび文学も音楽もそして絵画も あらたな創作活動を始めるかも知れません。一人ひとりの生きるありさまや美の体験があるでしょうから それぞれ切り口が異なっていいはずです。
万葉集4,500首の過半数は無名の人が詠んだものですし。
ひょっとして ひどっちさんは ご自分でも絵を画いているとかしたりして。・・・
No.62
- 回答日時:
フレンチクルーラーを内と外の連続性と見てください。
外で感じて、内で感じる、外に出力してまた、、、、。
入力装置と出力装置の連続。
また、No.53の「もどかしさ」を「赤ちゃんの泣き声」と
見ると、お探しのなにかのヒントになるかもしれません。
そうですね。つづいてですが
《作品がすべて》という意味は さらにそのときの直感がまづはすべてだということになります。
その意味では 内と外との二つの世界 あるいは 入力と出力との二段階があることは 前提に置いていないのです。見たままのことを 鑑賞と言っています。
そこに美の体験があったとなれば 神の言葉に触れるかのような直感イメージあるいはヒラメキ直観があったということを知ります。むろん 人それぞれではあります。
No.61
- 回答日時:
スタンスを明らかにするのはいいことだと思います。
>それで けっきょく つねに誰にとっても 直感イメージや
>直観ヒラメキがかたわらに(もしくは むしろ中心に)伴なわれていて
>その体験(事件)とコギト(思考)として得ている認識とのやはり一致
>をつねに問い求めている。
おおむねは同意です。
ただ、個人的に問題としたいことは、
「これこれこういうことを意味した作品」ということの内側に
こだわる姿勢です。それはだけど、表現、なんたって新しい表現
とかっていいたいわけじゃなくて、やはり、作者が意図するしな
いにかかわらず、作者と作品のフレンチクルーラー関係に情熱が
いきすぎて、鑑賞する側の、フレンチクルーラが振動しないこと
にはっていう、そこがなんかなんかの感じがもやもやするってこ
とが、いいたかったのです。
その辺もちょっとずうずうしいのを承知でブロジェロンヌさんの
この場所をお借りして、アマガッパさんなどにもご意見をいただ
きたかったという、かってな思惑でした。すいません。
後は、坊主にあこがれてたゴッホの作品が嫌いにならないことを
願いたいです。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しっていう、宗教観でな
いことを祈るばかりですが。
わたしがよく飲み込めていないのかも知れません。ご回答をありがとうございます。
わたしに分かっていることは
○ 作品がすべてであり 鑑賞として作家は関係ありません。
☆ ですから
★ 作者と作品のフレンチクルーラー関係
☆ というのも分かりにくいのですが 《作者と作品との関係》にはこだわりません。
こんなところでしょうか。
No.60
- 回答日時:
アマガッパさんみたいに詳しくないけど、
ある部分は想像で書きます。
表現にこだわるか、神秘や精神性にこだわるかという
のは波のようなものだと思います。
例えば、宗教色が強くでていると、意味(シニフェ)が重要
絵画技術が向上すると、表現(シニファン)が強く出る。
印象が重要、ちょっとだけ、意味(シニフェ)も重要かも。
もののなかにみる抽象性を表現(シニファン)
また精神分析が進むと意味(シニフェ)中心
と波打ち時代は進むわけですが、
そこで聖書中心主義としては、結局、まずは、神の見言葉ありき、
としたいわけですよね。
しかし文字はイメージをシンボライズしたものとわかった。
仮に鳥がバタバタと飛び立つ鳥をシンボライズした記号を仮に「バタ」
と発音していたとしたら、ちょっとまずいわけです。
だってそれでは、シニフェ(神のみことばが絶対)優位という理論
がくずれてしまいますから。
簡単に言うとこういうことでしょうか。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
そうですね。
まづ ロゴス(広くは 《ことば》)とイメ―ジとの位置づけを見てください。
○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~
ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕
_____________________________
ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
:象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?
ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《ロゴス(α)》は 人がまったく分からない領域です。でもその《無根拠》と人とは どこかつながりがあるという想定です。よって ロゴス(β)としての直感イメージが来ます。別の言い方をすれば 神が人の心の窓をノックするという。
そこで 我れに還り わたしがわたしである。となると 直観ヒラメキが得られたと見ます。
あとはさらにその事件についての言葉による分析が コギト(思考)として持たれます。
★ そこで聖書中心主義としては、結局、まずは、神のみ言葉ありき、 / としたいわけですよね。
☆ 今ではキリスト・イエスはいないわけですので 言葉で語られ文字で書かれた聖書をつうじてしか 分からない。その意味では 聖書を中心的な資料とします。
問題は 神が わたしの心の窓のもとにおとづれたかどうかです。そのことと聖書に書かれたこととが 一致していると分かれば クレド(信仰)がたしかなものとして成ったとなります。そのとき確かに
○ はじめに 神のみ言葉ありき。
☆ とも 表現されます。
それで けっきょく つねに誰にとっても 直感イメージや直観ヒラメキがかたわらに(もしくは むしろ中心に)伴なわれていて その体験(事件)とコギト(思考)として得ている認識とのやはり一致をつねに問い求めている。こんな感じですかね。
たぶん《宗教》と《精神分析》は 信仰や思考に何ら関係ないと思いますよ。
《神秘》は それとして 直感イメージにかかわって 人によっては現われ持たれるでしょうし――ちなみに 《異言(シャリバリ=デタラメ言葉)》と言います―― 《絵画》は このイメージ直感やヒラメキ直観に大いにかかわって来ます。
それらの美の体験を解釈したものは 《預言》と呼ばれます。基本的には人に分かるような表現で語られコギト(思考)にもとづいていますが しかも少しは《神秘》のほうにかかわってもいます。
この《預言》を 金儲けあるいは支配欲を満たすために組織をつくって集団において教義とするのは 組織宗教です。
精神分析は 《神秘や異言》の分野の存在をいいことにして わざわざ《無意識》という領野を立てたものと思われます。必要がないと考えます。意識していないものは意識していないし 意識にのぼったものは意識している。ただこれだけのことだと考えますから。
《イド(それ・あれ)》といった力やはたらきが それとしてあるとは考えません。すべて 人間としての《わたし》の中に起こる自然本性の動き(記憶なら記憶)とおよびわたしの意志による動き(知解や意志による判断)とであると見ます。意識しているかしていないか その区別があるのみであると。
どうでしょう?
No.59
- 回答日時:
先ず、55にいただいた丁寧なご応答にさらにお応えします。
わたしは、木村氏の主張を矢印で書き出してみながら、昔の人は話が曖昧だなあという一種の憧憬と讃嘆の念を覚えていました。なんとなく黒川紀章さんの怪力・電光石火・着想の華のような文章を思い出して。疑問に思っておられる箇所について、木村氏が形象化や形象的イメージを言う段階で、そもそも象徴というのは音の世界については言わない代物ですから、これは象形すなわち「書字の起こり」のことだと思われ、それが一人勝手な形象ではなく近隣の誰かに通じる性質であるという意味で「象徴としての」形象であると、そのような形象化を言っているのでしょう。一言でfigurationなのですが。ですから、ブラジュロンヌさんが「言葉」とお書きの音素の部分には、木村氏はこの箇所では触れていないように思いました。
それから、「思想形式としての言語」というのは難しい事柄ですね。あの言語にしてあの思想ありというのは洋の東西の科学も哲学もそうでしょうが、あの思想にあの言語ありき、いやまた、あの言語にあの思想ありき、という同時発生的様相を解きほぐすのは至難の業です。
ところでおっしゃるような、文字をもたないうちの抽象的な思考というのは、楽器や舞踊の助けを借りて共同体が共有しうる表象となると思いますが、そこには宿りのロジックがあるので、自ずと精霊信仰を強化することになるでしょう。降ってきてまた立ち去るという束の間のものたちを相手にするので、再現性や統合性についての議論が活発になることはあまりないのではないでしょうか。
48のご応答のほうに移ります。(g)に関するわたしの見解に反応をいただいていますね。
まず、イメージや視像を回避しようとする知覚的なありかたを現代美術のobjetの即自の例として考えるわけですが、
(これは美術界のコモンセンスになっていると思います)(そこからクラークが印象理論を展開したりフリードが客観性や演劇性によって作品を切り込んだりしてきています)、
では、その自己否定契機として木村氏に対自とされる「普遍的な人間性のシンボル」というのはなんのことだろうかというのが、美術界のコモンセンスでは答えが出せないところです。
普遍的な人間性はあるでしょうか? また、シンボルつまり象徴が時代や場所を超えてそのとおりに解されることは可能でしょうか? 後者についてはそのとおりというのは無理で、知的体系を動員して知解するという手続きによってしか、時代や場所を超えて象徴に踏みこむことはできないでしょう。霊感的と言ってよい素早さで論理のない結びつきに捕らわれなければ象徴のはたらきは無いからです。
そこで、一つの手段を提案するとすれば、時代や場所の制約をシンボルがそんなに受けているのだから、その制約を壊そう、抜け出そうとすることで、普遍性に少し近付くことができるだろう、そして、何がそのような制約であるのかをしっかりと見つめるということは、同時代性を見つめて問うことであるだろう、というのがわたしの書いたことの意味です。
これを読んでいただいたうえで、応答のご質問(1)~(5)は変化しますでしょうか? ご質問の書き直しがあればお願いします。また後日にまいります。クレドのほうに重心を持っていけるとよいですね。
そうですね。《同時代性》がなぜそんなに《制約》となっているのか・成っていると見なければならないのか? 横着ですが この一点にわたくしの場合は問い求めが集中していると思います。
ご回答をありがとうございます。
ですからNo.48で質問を浴びせるかたちを取りましたが その最後の一文の前の文章についても 何故? という疑問を抱いています。
★★(回答No.48) ~~~~~~~
イメージが像を結ぶことむしろ極端には視像を結ぶことそのものを排する試みによって objet たらんとしているという側面は現代美術にはあるでしょう。その自己否定的契機をどう作品に投入するかは、著者の主張の眼目にあたるところだろうと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この事項について今回あらためてご見解・ご説明を受け取ったと思います。
★ クレドのほうに重心を持っていけるとよいですね。
☆ というお考えを持ってもよいということでしたら そういった方向においてもしくはそういった角度から切りこんでいくとすれば どうなるか? とは思っています。
(すなわち 木村の文章は 勝手ながら出汁にしているだけという見方をも このやり取りの途中で持ちました。著書はそれとしていま読んでいますが)。
すなわち
★ 自己否定的契機
☆ を何故持たなければならないか? 《美術界のコモンセンス》は何故そうでなければならないか? これになると考えます。
★ 普遍的な人間性はあるでしょうか? また、シンボルつまり象徴が時代や場所を超えてそのとおりに解されることは可能でしょうか?
☆ 前者は そのまま《ある》と想定されるでしょうと考えます、
★ 後者についてはそのとおりというのは無理で、知的体系を動員して知解するという手続きによってしか、時代や場所を超えて象徴に踏みこむことはできないでしょう。
☆ たぶん《象徴》を持ってくるとややこしくなると考えます。そうではなく――つまり 美術界のコンセンサスに対してただ上の想定にもとづくことのみによって異を唱えるのですが―― これこれの絵はうつくしいという事件があればよいという考えです。
人間にとって人間性というみづみづしい力と言って来ましたが そういう普遍性の想定です。象徴がどうだこうだは もう関係しないかたちです。
★ 霊感的と言ってよい素早さで論理のない結びつきに捕らわれなければ象徴のはたらきは無いからです。
☆ たぶん ですから 象徴のはたらきかどうかを問う前の段階において イメージが単純に直観なるヒラメキを呼ぶ直感としてはたらくかどうか これを絵には問うています。いちおうそのようにやり取りは進んで来ていますので そのような切り口が間違いであるとすれば そのようにご批判ください。
前半ですが
★ 一言でfigurationなのですが。
☆ とお書きのところは 木村に即してどうもそのようであるとお伺いしました。これは 美術論の全体観にうといので残念ながら そういう反応になります。
★ ところでおっしゃるような、文字をもたないうちの抽象的な思考というのは、楽器や舞踊の助けを借りて共同体が共有しうる表象となると思いますが、そこには宿りのロジックがあるので、自ずと精霊信仰を強化することになるでしょう。降ってきてまた立ち去るという束の間のものたちを相手にするので、再現性や統合性についての議論が活発になることはあまりないのではないでしょうか。
☆ そうですか。もう少し 伸びる――心あるいは精神性が伸びる――とは思っていたのですが 限界があるということかも知れません。文字を持たないアイヌの口承文芸・ユカラにおいて 自然人という出発点が かすかに社会的な交通の契機を宿しているであろうとは見たのですが 確かに《再現性や統合性についての議論が活発になることはあまりない》 こういう限界はあるのでしょう。とわたしも見なければならないかと思いました。残念ですがと言いますか でも 出発点ではあるという動き(契機)は見ておいてもよいかなとは思っています。(ちょっと中途半端なものの言い方ですが)。
ありがとうございました。
* 《ロゴス》の段階別の区分についても 見てもらっておくとよいかも知れません。
No.58
- 回答日時:
すいません。
amagappaさんが言おうとしていることをたぶんちょっと
誤解していました。引用が多すぎて理解するのに難しい
です。
でも、個人的にはスタンスは変わりません。
誤謬が例えあってもおおらかにシェアが拡大すること
はいいことっていう。
つづきです。
★ 誤謬が例えあってもおおらかにシェアが拡大すること / はいいことっていう。
☆ もしこうだとした場合 それでもその結果は 別の問題を引き起こしていませんか?
資本主義社会では ピカソが一たん共同の観念ないし幻想として君臨するようになると たけしとかいうその思想が阿呆の人間が これを踏み台にして金儲けをします。その観念ないし幻想が 人びと一般に否応なく降りかかってくるという副作用があるという意味です。
オザワ何とかという人間は 過去の者です。それでも副作用が人びとに降りかかって来ているところがある。それを取りはらうのに手間暇がうんとかかっています。
まぁもしすべて問題はないと言うとしますと このように別の考え方もあるのだということ そのような批判が自由におこなわれるということ これを実現させていなければウソだという意味がわづかに問われるでしょうね。
No.57
- 回答日時:
金儲けはうさんくさくて俗的だという固定観念。
少し前に、偶像崇拝について発言したこともあったと思うけど、
坊主にだって信仰をいつまでもつきつめていきたいという欲求は
あったんですね、でもある日こう思ったんです、いやまてよなんの
為につきつめるんだっけって、人々を救うためだよね。じゃあ、
もっと広く分かりやすく身近にすることの方が先決じゃないかって
いろんな種類の仏像作って、浮世に生きる人のご利益を中心に、
したって全然いいじゃんって。
ゴッホが好きだということですが、ゴッホの温かい色遣いやタッチは
崇高を目指すという方向ではなく、もっと、やわらかくて、あたたか
くて、人間臭い視線の気がします。牧師をあきらめてボンズにあこが
れたのも、浮世絵に影響をうけたのも、ただ、異郷へのあこがれとい
うだけではなく、そういう理由もあったのではとも思うのです。
即物的になることを否定的に見るのはある一つの意味では賛成です。
しかし、それは自閉的な意味ではなくて、既存の価値観という閉塞から
脱却し新しい価値観を創造する必要性を感じるからです。
しかしそれは狭き門の問題ではなく、例えて言うとフレンチクルーラー
の問題なのです。メビウスの輪という厚みゼロの裏表で考えるからよく
ないのであって、老いも若きも、やわらかくて甘くてしたしみのある味
が重要なのです。
そうですね。情報やその解釈のあり方が錯綜していますね。
ご回答をありがとうございます。
まづ わたくしに関しましては 《崇高》ということに 個人のクレド(非思考=信仰)つまりそこにおける美の体験をからませることはあっても 組織宗教の聖性だとか死後の天国極楽だとかそういった崇高の主題はいっさいありません。(むろん組織宗教は この個人の神体験ないし美の体験としての直観ヒラメキやその観想や理論としての世界観をパクって教義にしているということになります)。
坊主が あくまでひとりの人間としてクレドの体験とその自己表現にこだわるのであれば――つまりたとえば親鸞はそのようにあろうとして 弟子を持たずみな同朋だと言い 簡単に言えば組織もこわしました―― その自己表現に見るものがあると考えます。規則や教義にしばられているのであれば 何をか言わんやとなります。
★ 金儲けはうさんくさくて俗的だという固定観念。
☆ ですから この《金儲け》も 個人か組織かあるいは 金融資本を背景とした売り込みとしてのキャンペーンによるものか で違って来ます。《聖俗》といった対立する二項によって分けたりする判断の基準は いっさいわたくしにおいてはありません。
みな俗であり その中でも《おのれの美の体験にもとづき自己表現を 死ぬまでうんうんと身づからを推して 固めていく(サンキーレ)ということ》 この生活態度(思想)が確立した(サンキーレした=サンクトゥス)ことを《サンクトゥス⇒聖なる》と呼びます。そういう意味での崇高さを問題にしています。何度も繰り返しますが 組織宗教の《聖俗や崇高さ》はまるっきりいっさいこれっぽっちも関係ありません。唾棄したいところです。その組織の長は もっともくだらない人間のあり方であると断言します。
《人をすくう》ったって おのれの美の体験にもとづきその美を自己表現しつづけて行けばいいわけです。それ以外に何もすることはありません。
《狭き門》といった規定や教義は何一つかかわりがありません。ただし 現実は 上の自己表現ほどむつかしい務めもないでしょう。たしかに狭き門ではあるのです。まったくふつうの生活をつらぬくこと これほどむつかしい仕事もありません。
フレンチクルーラーも それを思いついた人にとってはその人の自己表現のひとつのかたちだったかも知れません。
No.56
- 回答日時:
何だか難しい話になってきちゃいましたね。
マシュマロさんとアマガッパさんが木村さんの引用と
解説を丁寧にやってくれたので、良かったですね。
しかし、私には話が難しすぎるというのもあるし、崇高への
ベクトルにも、それほど興味がないというのもあるからだと
も思うけど、何点か気になるところがあります。
分析や科学が発達することは、悪いことじゃないと思います。
シェアを拡大することに一役買っていると思うからです。
例えば宗教などの信仰をより身近に感じさせて分かりやすく
させるとか。聖書を題材にした作品が絵の技術の進歩によっ
て、即物的な様相の現実味を帯びて、信仰って何だか楽しい
なって、俗化するとか。
また、何が何だか説明のつきようのない情熱が込められた作品
が分析されてこれは「何が何だか説明のつきようのない情熱が
こめられた作品で云々」と説明がつき、シェアが拡大するなど。
物質文明を否定する向きはありますが、もう少しダイナミック
に見れば、地球、宇宙という自然の科学的解明がどれほど進ん
だかと考えれば、大したことはないとも言えます。
どちらかというと自己完結的になりすぎることの方が気になり
ますが。
ご回答をありがとうございます。
芸術家を 自分たちの金もうけのためにキャンペーンを張って売り出すとかの話ですか?
でもどうもこの話は クサイです。
ですから たとえば聖書の話に題材を取って 画家の独自の解釈で いろんなふうに描くことが出来るのではないですか? 現代においてもです。現代においてこそ その自由度からすれば 画家の力量が問われているのではないですか?
宗教――わたしが軽蔑を込めて言うところの《組織宗教》――からもはやまったく自由になっているのですから。
ですから この《組織宗教》ゆえにその解釈もあるいは或る種の仕方で感受性や実際の感覚までもが その組織の権威から規定され規制を受ける なんてことほど おろかでくだらないことはないのですから――つまり その組織の命令にしたがうところの《自己完結》が求められていることほどくだらないことはないのですから―― いまこそひとつの主題にとっていろんな画家が競うようにして 描いて行ってよいように思うのですが どうでしょう?
音楽や詩や小説や映画などでも競えばいいわけです。よね?
No.55
- 回答日時:
この箇所で木村氏は、形象化と論理の発達の相関関係を確認します。
現実が表象されること → 象徴たる言語が形象化すること → 形象的イメージの助けによる「象徴的な」思考が可能 →思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)、との主張です。
ただし、わたしは、「象徴的な」ではなく「抽象的な」思考が可能になったと書くべきであると思いました。また、これに続くドヴォルシャックのテーゼへの異議は、不毛であると思いました。美術史=精神史という符号はいずれにも変りなく、そこで美術史を述べるか、精神史を述べるかの違いは、記述者のもつ概念構造の成り立ちに関わる違いであるからです。書かない部分にどれだけ広がりや奥行きを保持しているかの違いであるからです。
それから、後段落で感じたことは、木村氏のイメージについての考察はE.H.ゴンブリッチのような美術における原理的視点に基づくものではなく、つまりウォーバーグ派が培ったようなイコノロジーを精神史に敷衍する類のものではないということです。そうではなく、比較文化論の方法を問題にしていると言えます。すなわち、ひとつの時代のロゴスと別の時代のロゴスを突き合わせるような歴史観を退け、木村氏が記号や象徴と呼ぶところの形象としてのイメージの延長や移植による通奏から、大文字でない歴史むしろ精神史を考えたいということのようです。
これは、ちょっと頭をよぎることを言えば、フーコーのエピステーメーがパロールを掬い挙げるのと同じ仕事を視覚的に行うといった緻密な難題を置き去りにはできないだろうということと、甚だロマン主義的に異質な他者の発掘と相対化を無邪気におこなうにせよ、シュルレアリスム的にイメージのコラージュを拡張するにせよ、やはりイメージの変貌における精神分析的手法が、ちょうどディディ=ユベルマンが扱い続けているようにして、どこかの時点で与することになってしまうのではないか、すなわち自閉したロゴスを招くだけではないのか、ということが懸念されます。
ひとまず、引用箇所の読了のメモとします。
ご回答をありがとうございます。
きちんと読み解いてくださってありがとうございます。
そうですね。わたくしの場合は 俯瞰はよほどのことがあって必要だと判断した場合でなければしませんので その点 見方がずれるのですけれども わたくしもきちんとお応えしたいと思えば どうでしょう 言葉もしくは文字の起こり この主題については 或る程度具体的に・感覚としても追認しうるかたちで分かったらいいなとは考えます。
★ 現実が表象されること → 象徴たる言語が形象化すること → 形象的イメージの助けによる「象徴的な」思考が可能 →思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)、
☆ このまとめに関しましては 第二段階の《象徴たる言語が形象化すること》と第四段階の《思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)》とのあいだが どのように違うのかなどについて 分かりづらかったです。
たとえば第一では 《現実が〔* イメージをつうじて捉えられ そのイメージを形象に表わすことで〕形象化される》と解しますが もしそうだとしますと 第二では 《この形象が 象徴となって 言葉にあらためて対応することとなる》といった感じで受け取っていました。
太陽が お日さんのイメージとして持たれ これが形象として表わされる。するとこの形象が 象徴としてあらためて お日さんならそれとしての言葉と対応するかたちを得る。といった感じです。
そうしたとき では 第四段階ではどういう事態が起こっているのか? おそらくおっしゃるような解釈をわたしも得ました。《思想形式としての言語が起こる(思想の象徴)》 あるいはただし
★ ただし、わたしは、「象徴的な」ではなく「抽象的な」思考が可能になったと書くべきであると思いました。
☆ といったところでしょうか。《形象から象徴を得て この象徴をつうじて 観念を得る。(もしくは 言葉が観念としても持たれる)。つまりは 〈抽象的な観念ないし思考〉が出来るように成る》でしょうか。
あとは この抽象的な思考が 《イメージ⇒形象化⇒象徴化⇒抽象的な観念を得る》のあとさらに《文字》を得たかどうかで どう成るか・どう変わるかに関心があります。
たとえば 自然と一体であった精神は 原始心性として 到るところに《精霊》を見て取っていると その後の《歴史感覚を得た人間》は捉えますが・つまり何はどうあれ《かみ》という言葉をもって世界を見ていたと捉えますが ではこの《かみ》として――たとえば 空の電気現象を《神鳴り》として――表わし世界を見て取ることは 《抽象的な思考》ではないのか? そのようなとき文字を持たない文化においては 何が起こっているのか?
しっかりと批評をあたえていただきましたので がんばってお応えしました。これは 時間をかけて考えて行こうと思っている主題ですので いますぐどうこうということではありません。そんなかたちでしかお応えできませんが お礼とします。ありがとうございました。
No.54
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。
Hidocchiでございます。このOKWAveにおきましても、ピカソの理解に困っておられる方々が多いようでございます。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2730553.html
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4376641.html
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5139041.html
上記ご質問内容を拝読していくうちに、映画「コレクター」(1965年)を思い出しました。以下には、その中の台詞を列記してございます。
「巨匠がいい絵だというから、いい絵なのだろう」
「こんな絵をいい絵だと感じられる人間は百万人に一人だけさ」
つまり、
・一般人の現代美術に対する見方(認識の仕方)が、専門家の意見によってかなりの部分が影響を受けている。
・ピカソの絵を否定はしないが、一般人には理解不可能だろう(すばらしい絵だと、感じられるのは百万人に一人ぐらい)。
と言わんとしているかと考えられます。つまり、現代美術は、ある特定の審美眼を持った人たちにのみ、それを享受できるものなのかもしれません。
そこで、ピカソ等のパトロン(擁護者)は誰だったのか、という疑問が浮かんできました。そうしますと、以下の陰謀論(?)がヒットしてきました。
鬼塚英昭著「二十世紀のファウスト」
http://mayonokuni.web.fc2.com/faustjyoukann.pdf p.43から
「合法的マフィア」の連中は投機の対象として商うために、彼らの(ピカソ等のです)絵に高値をつけた。こうして、ニューヨークを中心にガラクタとしかいいようのない作品が氾濫するようになる。それは技術を要さない。コピーしやすい作品である。大量にでっち上げ、大量に売りまくり、本当の利益者はほほえみ続けたのである。絵画の利益なぞたいしたことはない、と思ってはいけない。ユダヤ王ロスチャイルドもこの方法で財をなしていったのである。かつての名画は数が少ない。ならば、名作を大量に作らせればよい、というのがアメリカの泥棒成金たちの考えた方法であった。
ニューヨークの近代美術館は、シュールレアリズムやキュービズムの絵を現代絵画の傑作として認め、その理論を確かにするための手段をとった。
もちろん、これを証明する手立てはないのですが(愚生が証拠をつかんでいれば、とっくの昔に消されているかと)、ニューヨークの近代美術館はピカソや抽象絵画の作品を多く所蔵していること。またピカソは多作で有名な画家であったし(参考1)、ピカソの絵画はかなりの高値で取引されていること(参考2)。これらのことから、不思議と信憑性が増してきます。
参考1:http://labaq.com/archives/51119609.html (ギネスブックに載っているのだそうです)
参考2:http://blog.hix05.com/blog/2010/05/-nude-green-l … (ピカソの油絵が美術品としての史上最高価格1億650万ドルで落札された)
陰謀論の是非は述べられませんが、新規絵画様式の模索実験(キュビズム等)の成果とは何か? と問いましたならば、これに回答を与えてくれる人は少ないように見受けられます(できれば、ご教授願いたいのですが)。
今回は、美学とは何の関係もない話しに終始してしまい、申し訳ございませんでした。
駄文、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
かなり辛辣で議論は強烈です。
OKWave の質問の第三に掲げられたところで 《ヘンテコ芸術》と呼んで 蓼食う虫も好き好きの論理での回答がありました。おそらく《陰謀論》を薄めれば そういう見方になるのではないかと思いました。ほかの質問への回答の中からわたしの判断で 二件を引用しておきます。
▼ (最初の質問【Q:ピカソの絵が理解できません】・回答No.5) ~~~
未来芸術論 ~ 仲介者の退場 ~
現代芸術は、それぞれつぎの作品によって、役割を終えています。
文学:プルースト《失われた時を求めて》&ジョイス《ユリシーズ》
音楽:ワグナー《神々の黄昏》&ストラヴィンスキー《春の祭典》
絵画:ピカソ《ゲルニカ》&モンドリアン《リンゴの樹》
現代芸術は、それぞれつぎの理由によって、役割を終えています。
文学は、筋書から解放され、現実的な生活感を失なった。
音楽は、調性から解放され、旋律・和声・リズムの法則を失なった。
絵画は、写実から解放され、実用性とともに存在意義を失なった。
現代芸術は、それぞれつぎの事情によって、役割を終えています。
とくに絵画は、写真術の発明によって、わずかに残された“芸術性”
を商品化し、虚偽産業として生きのびようとしています。
あたかも茶道や華道が、作法産業として絶滅を免れたように。
わたしは、つぎのように現代芸術を見つめています。
音楽や文学は、情報革命によって、著作権ビジネスが破綻します。
乞食同然の辻音楽師や吟遊詩人たちの、自発的作品に戻るはずです。
すべての芸術が“タダ同然”で鑑賞できるようになりつつあります。
未来芸術は、注文主や広告主に頼らず、作者の自己負担で作られます。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 今後考えるに値すると思いました。
▲ (第二の質問【Q:ピカソの絵の良さについて】No.5) ~~~
宗教画の時代
↓
もっと人間社会のありのままを描きたい!
⇒ルネサンス(遠近法の発明)
↓
以降、写実性重視の時代がずっと続く
↓
19世紀ころ、写真の発明により画家達の生命ピンチ
↓
そんななか、日本の浮世絵に感銘を受けた一団
「3次元を2次元に忠実に写し取るより、
もっと感じるままに描いたらいいんじゃね?」
⇒印象派、ポスト印象派の登場
↓(ここから様々分岐、発展)
・「つか、色とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」
⇒フォービズム
・「形とかも見たとおり描かなくていいんじゃね?」
⇒キュビズムの登場・・・ピカソはたぶんこのへん
・「現実にあるものを描かなくてもいいんじゃね?」
⇒シュールレアリズムの登場
・「つか、もうどうでもいいんじゃね?」
⇒抽象絵画、ドリップアートとかいろいろ登場
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは分かりやすいと思ったのですが シュジェ(主題)もフォルムもまったく自由・つまりどの時代にも誰にとっても自由という見方をすでに出しておりますので この分かりやすい図式を超えて進みたいと思います。つまりは
★ 陰謀論の是非は述べられませんが、新規絵画様式の模索実験(キュビズム等)の成果とは何か?
☆ の《模索実験》 これをも超えて――ただちに無条件に超えて――芸術家自身もおのれの美の体験にもとづき 自己表現として創作に励んで欲しい。こう思います。
自由であれ。という至上命令。
◆ (鬼塚英昭著「二十世紀のファウスト」) ~~~~~
・・・国連に飾られているピカソの《ゲルニカ》は醜悪美の最高傑作だ。
〔「合法的マフィア」の連中は投機の対象として商うために、彼らの(ピカソ等のです)絵に高値をつけた。
・・・(中略)・・・
ニューヨークの近代美術館は、シュールレアリズムやキュービズムの絵を現代絵画の傑作として認め、その理論を確かにするための手段をとった。〕
今やポロックは金持ちとなり 自分を金持ちとしてくれた《合法マフィア》たちに酒混じりの怒りをぶつけるまでに成りあがった。アートは創造されたのである。ポロックのような神々が多数誕生してきた。神々は自分たちの芸術を荘厳なる輝きの中で飾ることを要求した。芸術はかくて《キャンペーン》の時代に突入した。(p.43)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ひゃああああああああっ すごい。
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