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 つぎの評言について解説してくださいませんか。

 ▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~

 ( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。

 ( b )  ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。

 ( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。

 ( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。

  ・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
   (1925~ 民族芸術学 美術史学)

 ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~

 ( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。

 ( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。

 ( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

  ・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。

 ( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。

 ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
 ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。

 ( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。

A 回答 (122件中111~120件)

これはbragelonneさんへの回答ではありませんが、Hidocchiさんがカンディンスキーにふれられていたので、それに関連して若干。



カンディンスキーの作品の現物を意識して目にしたのは、おそらく今は亡き西武美術館で1976年に開催された展覧会です。感動のあまり、体が震え動けなくなってしまいました。その後1987年、2002年と国立近代美術館で大規模なカンディンスキー展が開催されました。それぞれ2度見に行き、何時間も会場にとどまっていました。私にとっては何時間でも見ていることのできる唯一の画家です。

国立近代美術館の2回の展覧会を見た方ならわかると思うのですが、具象から抽象への移行があまりにも必然としか言えないのです。カンディンスキーには世界がどのように見えるのか、世界をどのように把握するのか、その認識の過程も含めた表現があの抽象画になるしかないというのが伝わってきます。
その意味で、カンディンスキーの抽象画は、主体が客体に溶け込んでしまっている、あるいは客体を主体が包み込んでしまっているという状態です。
晩年になるとそれを突き抜けた、全時間をも包摂したような「青空」になってしまいます。

ピカソの絵は私には、あまりにも表面的に見えてしまいます。

この回答への補足

 そうなんですか。人間の感性とはおそろしい(おそろしく深い)と感慨をあらたにしました。

 ご回答をありがとうございます。

 質問者のわたくし自身も 具象画から抽象画への移り変わりに必然性があるのか?といきり立った手前――ただし そのあといろんな可能性を実験的にも試したのだとおそわって 納得しましたが―― もう少し時間をかけてカンディンスキーの絵をヱブ上でですがながめてみたいと思います。そのあとにお礼を申し述べます。
 ちらっと見た限りでは 初期の具象画が色合いのよさを見せているようだと感じました。(裏返せば 抽象画はまだピンと来ないということになります)。


 ★ ピカソの絵は私には、あまりにも表面的に見えてしまいます。
 ☆ 実質的な投票として受け取ってよろしいでしょうか。
 もし殺戮が起こったという事態をそのままデフォルメしつつだが写生しただけに見えるという意味でしたら

  4.そのほか
  ( f :好感)
  ( g :嫌悪)
  ( h :中立)

 の中では ( h :中立)になりましょうか。嫌悪までは行かないが どうでもよいように映るという意味合いにおいて。よって:

    アンケート結果(票数)

 1.絵がよい。
 ( a ) 0
 ( b ) 0
 2.絵はあんまし・・・。
 ( c ) 0 (画法はよい)
 ( d ) 2 (歴史のメッセンジャーとしてよい)
 3.お呼びでない。
 ( e ) 0 
 4.そのほか
 ( f ) 1 (ともかく好感)
 ( g ) 0 (ともかく嫌悪)
 ( h ) 2 (いやはや何とも。中立)

補足日時:2010/12/30 11:26
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この回答へのお礼

 あらためまして ご回答をありがとうございます。

 とにもかくにもカンディンスキーについて とてもいい絵だとおっしゃっているという事実があると思います。
 ★ 感動のあまり、体が震え動けなくなってしまいました。
 ★ それぞれ2度見に行き、何時間も会場にとどまっていました。私にとっては何時間でも見ていることのできる唯一の画家です。
 ★ 具象から抽象への移行があまりにも必然としか言えないのです。カンディンスキーには世界がどのように見えるのか、世界をどのように把握するのか、その認識の過程も含めた表現があの抽象画になるしかないというのが伝わってきます。
 ★ その意味で、カンディンスキーの抽象画は、主体が客体に溶け込んでしまっている、あるいは客体を主体が包み込んでしまっているという状態です。
 ★ 晩年になるとそれを突き抜けた、全時間をも包摂したような「青空」になってしまいます。

 ☆ わたくしはもう このような鑑賞結果を掲げて受け取るしかないです。

 ▲ ワシリー・カンディンスキー Wassily Kandinsky
  (1866-1944) ロシア
  http://art.pro.tok2.com/K/Kandinsky/Kandinsky.htm

 ☆ まづ初期の具象画は 好きになりました。単純にふつうに好きです。
 ▲ 1900~1908年  ヨーロッパ各地を回りながら風景画を中心に制作
 ☆ そして
 ▲ 1908年~1910年  ムルナウの風景画を制作。 / 「インプロヴィゼーション」と「コンポジション」のシリーズ作品に着手した時期
 ☆ 色の配合がどぎつく成りましたよね。そして《インプロヴィゼーション》や《コンポジション》になると よほどしっかりと見ないと――あるいは要するに説明を聞かないと――意味が分からないようなかたちですよね。それが 一般的な感想だと思います。
 ▲ 1911年~1914年  青騎士の時代  ~~~~
 「インプロヴィゼーション」「コンポジション」シリーズを次々と発表していた。
 具象から抽象、非対称へと変化していく時期

 シリーズ作品
 ・「インプレッション」 1911年に6点制作 風景を色彩的にとらえたシリーズ
 ・「インプロヴィゼーション」 無意識の表現として多数描かれた
 ・「コンポジション」 カンディンスキー自らが最も重要とした作品群。 自己の内面を作品に表現するために時間をかけて吟味し、練り上げた表現。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もうこのあたりになると わたしにはピンと来なくなります。
 こんなことを訊いてもいいのかどうかも分からないのですが:
 ○ 《具象から抽象への変化》というとき だったらその結果あらわれた抽象は 元の具象が痕を残しているのかどうか?
 ☆ 知りたいですね。痕跡を残しているのであれば 元の具象をおのれの感性や知性にもとづいて――ともかく一見して分かるような具象の範囲において――描き出してくれればよいのにと思ってしまいます。
 ○ 《無意識の表現》 これがあってもよいはずですが その無意識の意識化したものを おのれの心において消化する・もしくはしばらくは温めておいたそのあとの結果を表現して欲しい。
 ☆ と思わずにはいられません。たぶん とうぜんそうした結果であるのかも知れません。ということは それを分かる人に分かってもらえばよいということになりましょうか。そういうことなのかも知れません。

 作品に向き合って 何か自分の物語をつむいで行くのでしょうかねぇ。そういう時空間の機会なのでしょうか。

 こんな結果でした。

お礼日時:2010/12/30 21:43

 >どうなんですかねぇ。

《イメージ》というのは 非常に広い範囲にわたって意味合いを持っているのでしょうか?

例えば、写真を見て不在のある人を想像する場合、写真が見えるという感覚(知覚)というのは意識の自由にはならんけれども、不在の対象のイメージというのは、意識の自由によってそれを近づけたり、遠ざけたりできるわけじゃないですか。つまりそれを喚起するのは意識の志向性ということです。
だから知覚は現実的だけれどもイメージは非現実的であるといえるじゃないですかね。
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この回答へのお礼

 n5f7g3 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ☆☆ 《イメージ》というのは 非常に広い範囲にわたって意味合いを持っている
 ☆ と言えるようにわたくしも思います。
 ★ 写真を見て不在のある人を想像する場合、写真が見えるという感覚(知覚)
 ☆ のほかに その写真〔についての視覚像〕から離れて いろんなイメージを思い描くというのも ふつうに行なわれますね。
 ★ 不在の対象のイメージというのは、意識の自由によってそれを近づけたり、遠ざけたりできるわけじゃないですか。
 ☆ と。
 ★ つまりそれを喚起するのは意識の志向性ということです。
 ☆ そうして
 ★ だから知覚は現実的だけれどもイメージは非現実的であるといえるじゃないですかね。
 ☆ つまりは 想像力によって《その場の現実を離れたものごとや さらにはまったく非現実的なことがらについても イメージをふくらませること》はあり得ますね。それらすべて 現実ですね たしかに。

 ところで こう確認したあと ざっきさんから えらくきびしい(つまり 解答の道幅の狭いと思われるような)難題を提出されています。
 《イメージ一般》ではなく 《人間の悟りとその知恵によってこそ得られるようなイメージ》 これをさとれと言われています。ざっきさんの文章にしているところからその悟りとしてのイメージがつたえられ得てそれを受け取ることのできるような人間になれと。

 どないですか? よかったらご見解をよろしく。

お礼日時:2010/12/29 17:08

zakky74でございます。



>横着な解決法ですが 悟りだとかヒラメキは むしろそのように《終わりから事を始める》かたちを取ると見るべきかも知れません。どうでしょう?
> ☆ すなわち《全体あるいはそれをめぐるところの悟りや知恵》のことを わたしの言葉で翻訳したものが この《終わりから始める》もしくは《即自的かつ対自的な自己の表現》ということになります。
> これについては よろしければ評言をつけ加えておいてください。読者の方々のためにも。

悟りは悟りでございます。

bragelonneさんの意識イメージの中には決して留まらないものが悟りでございますれば、bragelonneさんの思考や言語によって表現できないものでございますね。

僕が悟りという表現を使った目的は、人間の考えの外、思考の外、脳の外、である領域の事ですから安易に判断できないという事をお伝えしたかった点にあります。


> ★(α) イメージは、五感覚から入ってきた情報が脳で処理される事となりますが、そこで処理されたものがイメージでございます。
> ★(β) イメージとは、脳の処理の中でも極めて原始的な処理を受けて得られたアウトプットでございます。
> ★(γ) イメージとは五感覚的に明確なイメージだけではなくて、潜在的なイメージ、無意識的なイメージがございます。
> ★(δ) イメージとは、意識と無意識を入ったり来たりしている様な際の事でもございます。

この時点で、既に違和感を感じますが^^;

> ☆ (あ) 身体の五感をとおして得たやはり《知覚》であるように思われるが それでよいか?

そうです。ですが、違う側面もございます。

> (い) 身体が捉える第一次的な情報という意味でその《知覚》が 《原始的な処理を受ける》と考えてよいのか?

そうです。ですが、違うんです。

> (う) 《脳裡において処理を受けた知覚》は 《アウトプット》としての《イメージ》であると思われるが これはその段階では 意識されており 意識されているということは一般に言葉を伴ない概念となっているのではないか? つまり《イメージ》から脱皮したすがたになっているのではないか?

そうです。そして、多少違います。この事が指し示している意味はお分かりになりますでしょうか?

> (え) もしすでにイメージを脱皮しているとすれば その意識ないし概念としての《潜在的な・あるいは無意識的なそれ》は さらにその人にとって何らかの《思い・のぞみ・願い・あるいは欲求・欲望》となっているのではないか?

そうですね。仰る通りですが、それが全てではありません。

> (お) つまりもしそうだとしたら それはもはや《イメージ》とは言わないのではないか?

仰る通りですし、そうではございません。


> 言いかえると すでに《思いや欲望》としてあるその言葉から今度はあらたにイメージが派生しているとは言え 初めの知覚において得られるイメージとは別のものとなっているのではないか?

別のものとなっておるとも言えますし、そうでないとも言えます。

> (か) 繰り返しになりますが (う)で《アウトプット》となったイメージは もはや言葉(概念)として意識されそれは大きくは《思考》の過程にわが身をゆだねたということではないか?
> (き) たぶんこのように部分的に分析するのがかんばしい全体観を得させなくするということかも分かりませんが おそらくイメージは脱皮・変身しているかと思われる。どうか?
> ☆ 一気につづってしまいましたが どうでしょう?

僕がお伝えしたいイメージは、ほとんど伝わらず、かなりbragelonneさんの情報処理によって曲げられてしまっている印象を受けます。きっと、上の様な事をお読みになってもbragelonneさんは、結局のところ僕が伝えたかったイメージのイメージについて、微塵ほども理解できなかったかと思います。

bragelonneさんは、イメージの位置づけを知りたいと言い、僕は答えを持っています。ですが、答えが伝達する際に伝達したいイメージそのものが曲げられてしまうならば少し困りましたね^^;

ですから、先にそちらを何とかしたいと思う僕がおります。

イメージが伝達しきらない。この理由ですが、bragelonneさんはどこにあると思われますか?
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この回答へのお礼

 ★★(回答No.9) ~~~~~~
 (α) ところが、このイメージの定義は素よりイメージの理解とは非常に難しいものでございます。
 (β) 結論から申せば、明確な悟りを得ていない状態では、それをイメージだという事は出来ません。
 (γ) 悟りから来る知恵によって、イメージは明確に知覚化されるものでございます。
 (δ) 全体も同様です。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうもこの箇所を軽く見てしまっていたようです。そのNo.9のお礼欄を書いたときには です。

 ざっきーさん あらためまして こんにちは。ご回答をつづけていただいており たいへんありがとうございます。

 No.9のお礼欄のときには 《全体》観という主題ひとつにしぼって捉えてしまっていたようです。
 ところが この箇所は もっとほかの情報が入っていたと 今回 申し訳ないながら やっと気づきました。
 なぜって それは こういうことだったと気づいたからです。すなわち
 (γ)によれば
  ○ 《明確に知覚化される》ことのないイメージもある。
 ☆ ということを暗に言っておられます。もっと言いかえるなら
  ○ 《悟りから来る知恵によって、明確に知覚化され》なければ 《イメージ》はその像を結んでおらず イメージではない。
 ☆ という含みがあると分かったからです。
 (δ)の《全体》観についても 《悟りから来る知恵》の有る無しで 明暗が決まるということなのでしょう。すなわち 今更ながらの確認ですが:
 ★ (β) 結論から申せば、明確な悟りを得ていない状態では、それをイメージだという事は出来ません。

 ☆ さて どうなりましょうか。
 というのも ざっきーさん わたし〔たち〕の場合には イメージと言えば 一般に脳裡にともかく何らかの像をむすんでいるその姿を それが如何なる悟りのもとであろうとあるいは無明のままにおいてであろうと イメージとして取り扱っていたからです。
 言いかえますと 分かりやすいかたちでは こうなります。
  ○ 何らかのイメージ(直感の像)をともなって ヒラメキ(直観)があったなら――たとえ一部分においてであってもそれによって 世界の本質を見抜くことが出来たという事態をもって―― 《さとり》と言う。
 ☆ これはむろん 《さとり》の範囲を勝手に大幅に広げた定義ではあります。

 これでだいたい事情については 明らかになったのではないでしょうか?

 問い求めをすすめるために 敢えて《〔広い意味の〕イメージ》の例として 次を提出してみましょう。それをめぐって 述べて行っていただくとよいかと考えました。

 聖書から次の文句を取り出します。
 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ この内容を図式において示したのが 次のかたちですが これも或る種の仕方で 《イメージ》であるかとも考えたからです。

 ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ つまり言いたいことは 直観(ヒラメキ)ないし悟りは しばしばイメージをも伴ないつつ 言語による表現すなわち思考という次元にまで降りて来るであろうという見方です。(不立文字だけにとどまらないということ)。どうでしょう?

お礼日時:2010/12/29 14:36

zakky74でございます。



非常に参考になりました。また、Q&Aを通じてbragelonneさんが心の柔らかい方だという印象を受けております。

これからは、僕の観点を交えながらご質問に対するお応えをしたいなぁと思っております。

ところでbragelonneさんとお話をしていて、とても追求のある方でありながらスピード感の無さと言いますか、一つひとつを頭打ちしながら進んでいるかの様な印象を受けて、非常にもったいないと思い、お話したい事がございます。

一つひとつを部分認識しながら、分析的思考により分けて分けてモノを見る見方は、今までのアメリカ・西洋を中心としてきた文化文明の下では非常に有効ではございましたが、このアメリカ・西洋的認識・判断・思考に、そろそろ賞味期限が来ている事をしきりに感じる今日この頃でございます。

僕は、これからの時代は全く真逆となる統合的認識・判断・思考が、文化文明の中心軸となる確信がございます。その観点から観ますときに、イメージやヒラメキ、或いは思考というのを、本来一つひとつの分離された何かから出発するのではなく、本来は一つであったけれども、その一つからこの様に見て、思考・イメージ・ヒラメキと見るのが今からの時代は妥当であると見ております。

bragelonneさんは、イメージそのものに対する距離感をどう計れば良いものかについて悩まれているのかとは思いますが、僕が思いまするに、イメージと向き合う時にはイメージ以外の他の何かを活用するよりはイメージそのものに勝負するのが良かろうかと思います。結果的に、その為には全体とは何か?という問に向かう事となるのですが。

イメージとは一体、何であるのか?
全体とは何か?

ところが、このイメージの定義は素よりイメージの理解とは非常に難しいものでございます。結論から申せば、明確な悟りを得ていない状態では、それをイメージだという事は出来ません。悟りから来る知恵によって、イメージは明確に知覚化されるものでございます。全体も同様です。

イメージが難しい理由はそれでございます。

それではイメージが何なのでしょうか?

イメージは、五感覚から入ってきた情報が脳で処理される事となりますが、そこで処理されたものがイメージでございます。処理と申しましたが、それは大脳新皮質の様な思考的な領域でも旧皮質の様な感情的な領域でもございません。脳幹の様な、脳の発達で言えば極めて初期段階と申しますか太古の脳でございます。

イメージとは、脳の処理の中でも極めて原始的な処理を受けて得られたアウトプットでございます。

このイメージは、五感覚を入り口に情報が入ってくるものですから意識イメージの要素が濃い様に思いますが、まだ五感覚が冴え渡らない赤ちゃんの場合なども情報の出し入れは起こりますし、当然脳の処理も働いております。

ですから、イメージとは五感覚的に明確なイメージだけではなくて、潜在的なイメージ、無意識的なイメージがございます。例えば、嫌い・・・というのもイメージはございますが、これは五感覚として明確なイメージではございません。他には、我・・・というイメージも五感覚として明確なイメージではございません。体というイメージは明確かもしれませんが、(私の)体が形として明確なだけでございまして、決して我・・・そのもののイメージが五感覚として明確な訳ではございません。

イメージの中でも、意識イメージで明確なものから漠然としたものまであって、そこから無意識の領域に近いイメージまでございます。イメージとは、意識と無意識を入ったり来たりしている様な際の事でもございます。

ですから、五感覚や五感覚を基にして行われる思考からイメージを探るのは難しいのでございます。如何でございましょうか?
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~
 全体とは何か?

 ・・・結論から申せば、明確な悟りを得ていない状態では、それをイメージだという事は出来ません。悟りから来る知恵によって、イメージは明確に知覚化されるものでございます。全体も同様です。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この《全体 あるいは 悟り・知恵》については――あっ ご回答をありがとうございます―― ちょうど直前でのやり取りで 次のようにわたしは書いています。

 ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~~~~
 いっそのこと 《即且対自としての自己表現――おのれの人間性と照応するかのような――》とひとことで言ったほうがよかったかなと考え直しました。ですから

 ★( Hidocchi さん) そして、これらの止揚された統合の困難性を、木村氏は主張したかったものと思われます。

 ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。
 横着な解決法ですが 悟りだとかヒラメキは むしろそのように《終わりから事を始める》かたちを取ると見るべきかも知れません。どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち《全体あるいはそれをめぐるところの悟りや知恵》のことを わたしの言葉で翻訳したものが この《終わりから始める》もしくは《即自的かつ対自的な自己の表現》ということになります。
 これについては よろしければ評言をつけ加えておいてください。読者の方々のためにも。

 さて
 ★ イメージとは一体、何であるのか?
 ☆ これについてはまだ 残念ながら わたしの中でははっきりしませんでした。復唱しつつ問い求めてまいります。

 ★(α) イメージは、五感覚から入ってきた情報が脳で処理される事となりますが、そこで処理されたものがイメージでございます。
 ★(β) イメージとは、脳の処理の中でも極めて原始的な処理を受けて得られたアウトプットでございます。
 ★(γ) イメージとは五感覚的に明確なイメージだけではなくて、潜在的なイメージ、無意識的なイメージがございます。
 ★(δ) イメージとは、意識と無意識を入ったり来たりしている様な際の事でもございます。

 ☆ (あ) 身体の五感をとおして得たやはり《知覚》であるように思われるが それでよいか?

 (い) 身体が捉える第一次的な情報という意味でその《知覚》が 《原始的な処理を受ける》と考えてよいのか?

 (う) 《脳裡において処理を受けた知覚》は 《アウトプット》としての《イメージ》であると思われるが これはその段階では 意識されており 意識されているということは一般に言葉を伴ない概念となっているのではないか? つまり《イメージ》から脱皮したすがたになっているのではないか?

 (え) もしすでにイメージを脱皮しているとすれば その意識ないし概念としての《潜在的な・あるいは無意識的なそれ》は さらにその人にとって何らかの《思い・のぞみ・願い・あるいは欲求・欲望》となっているのではないか?
 それが
 ★(δ) イメージとは、意識と無意識を入ったり来たりしている様な際の事でもございます。
 ☆ というものではないか?

 (お) つまりもしそうだとしたら それはもはや《イメージ》とは言わないのではないか? 言いかえると すでに《思いや欲望》としてあるその言葉から今度はあらたにイメージが派生しているとは言え 初めの知覚において得られるイメージとは別のものとなっているのではないか?

 (か) 繰り返しになりますが (う)で《アウトプット》となったイメージは もはや言葉(概念)として意識されそれは大きくは《思考》の過程にわが身をゆだねたということではないか?

 (き) たぶんこのように部分的に分析するのがかんばしい全体観を得させなくするということかも分かりませんが おそらくイメージは脱皮・変身しているかと思われる。どうか?

 ☆ 一気につづってしまいましたが どうでしょう?

お礼日時:2010/12/29 00:18

こんばんは、Hidocchiでございます。



> ( f ) 抽象美術はシュジェ(主体)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。

・抽象美術
 抽象絵画におきましては、おそらくその背景にあったのは、写真技術の進歩があったかと推察しております。つまり、写実的には写真には敵わない。そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。そこあるのは、具体的なモノへの描写は存在せず、作者自体の主体性・主張は幾分欠いたものとなっていると思われます。以下には、抽象絵画の代表例を紹介させてもらっております。

カンディンスキー 「コンポジションVI」
http://blogs.yahoo.co.jp/kafkamm51/29978273.html 

ピート・モンドリアン 「黄・赤・青と黒のコンポジション」
http://blog-imgs-42.fc2.com/a/r/t/artprogramkt/2 … 

 以下には、カンディンスキーに影響を与えたシェーンベルク等の作品を列挙しております(比較的保守的な“音楽”が“絵画”に影響を与えたという珍しい事例でございます)。
シェーンベルク作曲 「6つの小品 第1番」
 
(おそらく、あまり美しくは聴こえないと思われます。もし、植物がこの曲を聞いて、育ったならば…….)

・シュルレアリスム美術
 おそらくフロイト等に影響を受けたものと思われます。そこに描かれておりますのは、現実・日常とは乖離した“夢”、“幻影”から得られました“解釈”のようなものがあろうかと思われます。ただ、抽象絵画とは異なり、写実性があり、また“主張性”のようなものもございます。

サルバドール・ダリ作 「記憶の固執」
http://blog-imgs-30.fc2.com/k/a/s/kasshy0101/dal …  
(解釈について:後にダリは、「柔らかい時計は生物学的に言えばダリ的なDNAの巨大な分子である。それらは永続性ゆえにマゾ的であり、舌平目の肉のように機械的な時間という鮫に飲みこまれる運命である」と語っていると言われています。)

> ( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

 まず、“即自的”等の用語から、ヘーゲルの弁証法と関連付けているように察せられます。
[ヘーゲルの弁証法的運動]
1. あるもの(事物)が最初はただ自分自身として、自分自身の中に、自分自身に即してある(即自)。
2. やがて、その事物が必然的に”自分自身にとって”他者となり、”自分自身に対して”あるようになる(対自)。このとき、“1”との矛盾点が、見出されます。
3. しかし、このものは他者となりながらも依然として自分自身であるから、いったん自分がそうなった他者というあり方を止揚して、ふたたび自分自身のもとにもどるというプロセスであり、この最後に到達した段階が“即且対自”と呼ばれる。

 つまり、(特に抽象絵画では)《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に、その作品を前にして(上述とは相容れない)《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれていると見ます。
 は、適切な解釈かと存じます。そして、これらの止揚された統合の困難性を、木村氏は主張したかったものと思われます。
 
> イメージはどこに位置するの?

 残念ながら、愚生には、わかりません。ただ、勝手ながら次の命題を立ててみたいと思います。

“美には普遍的な定義が存在するの?”

ジュディス・ラングロワの実験結果
・実験:様々な人種・年齢・性別の人々の顔のスライドを数百枚準備し、まず大人たちにそれぞれの魅力の度合いを評価してもらいました。ついで、生後3ヶ月と6ヶ月の乳児に同じ写真を見せました。
・結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。
・考察:つまり人間の顔の「美」に関して、赤ん坊は美しさを感知することと(少なくとも、識別し、関心を持つこと)、そして人間の顔には人種を越えた普遍的な美の特徴があることが示唆されます。

 つまり、その存在性が示唆されております。

 ご参考になれば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ○ 抽象美術 および シュルレアリスム美術
 ☆ についての解説をありがとうございます。考えてみれば こういうふうにして勉強したことはなかったと白状せねばなりません。絵や音楽を見たり聞いたりはしていますが。

 どうでしょう。いちど疑問魔になってみましょうか。
 ★ 抽象絵画におきましては、・・・写実的には写真には敵わない。
 ☆ でも《写実性》を追求して来ただけだとも思えないのですが? ぎゃくに絵は写真が敵わない構図ですとか色合いですとかを 独自に追求することが出来るように思うのです。すなわち
 ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。
 ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。
 仮りに遠近法を離れるとすれば そうしたとしても
 ★ そこにあるのは、具体的なモノへの描写は存在せず、作者自体の主体性・主張は幾分欠いたものとなっていると思われます。
 ☆ というように丸っきり変化してしまうのも どうかと思うのですが? つまり《具象性か抽象性か》は 自由にえらぶとしても 《作者の主体としての境地》を―― いちばん分かりやすいのは 人としてのみづみづしいちからだと思います――描き出して欲しいと思うのですが?

 例示していただいた
 ★ カンディンスキーやピート・モンドリアンの作品
 ☆ は もはやイラストレーションなのでしょうか。ポスターアートだとか。それとしてうつくしいのかも知れませんが。
 ★ シェーンベルク作曲 「6つの小品 第1番」
 ☆ きわめて小さい作品なのですね。曲調が きちんと分かるところは それほど変な感じでもないように聞きましたが なにぶん すぐにぷつんと切れてしまうのですから。これでは ただ何かへの反動として動いているに過ぎないかに思えてしまいます。

 ★ ・シュルレアリスム美術 // おそらくフロイト等に影響を受けたものと思われます。
 ☆ フロイトですか。でも現われた初めのころには それがどういうものか真面目に考えたのでしょうね 人びとは。だから
 ★ そこに描かれておりますのは、現実・日常とは乖離した“夢”、“幻影”から得られました“解釈”のようなものがあろうかと思われます。ただ、抽象絵画とは異なり、写実性があり、また“主張性”のようなものもございます。
 ☆ 大きく言って《審美眼》の問い求めから大きくは外れていないようにも感じました。
 ★ サルバドール・ダリ作 「記憶の固執」
 ☆ の自己解説について それほど納得したわけではありませんが。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 つまり、(特に抽象絵画では)《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に、その作品を前にして(上述とは相容れない)《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれていると見ます。
 は、適切な解釈かと存じます。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。ただ いっそのこと 《即且対自としての自己表現――おのれの人間性と照応するかのような――》とひとことで言ったほうがよかったかなと考え直しました。ですから
 ★ そして、これらの止揚された統合の困難性を、木村氏は主張したかったものと思われます。
 ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。横着な解決法ですが 悟りだとかヒラメキは むしろそのように《終わりから事を始める》かたちを取ると見るべきかも知れません。どうでしょう?

 ★ “美には普遍的な定義が存在するの?” // ジュディス・ラングロワの実験結果
 ☆ 最後まで疑問魔をつらぬきますが:
 ★ ・結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。
 ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。
 《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。(二千字)。

お礼日時:2010/12/28 23:04

「イメージはロゴスに従属するのではない。

」という定式。

どうもイメージが浮かばないなあ、という話ではないですか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ どうもイメージが浮かばないなあ、という話ではないですか?
 ☆ ううーん。そうなりますかねぇ。
 いえ 《イメージ》とは何たるかが いまひとつ分からないので 《イメージが浮かばない》という表現では あいまいになってしまいます。

 ですから 前へすすめるための策としては 
 ○ 《イメージ》を何か漠然としたもの全般を言うとして 《ヒラメキ(直観〔に通じる直感〕)》と同じことだとすれば――つまりは その互いに重なる部分で 同じことだとすれば―― むしろこの定式は そのまま通用する。と考える。
 ☆ とさえわたくしは思っているのです。

 どうなんですかねぇ。《イメージ》というのは 非常に広い範囲にわたって意味合いを持っているのでしょうか?

お礼日時:2010/12/28 19:39

zakky74でございます。



>おあとがよろしいようで。

面白い方ですね^^

読ませていただきました。哲学的と申しますか、やや難解なところもございましたが僕の観点による見解について、書き記していきたいと思っております。

ですが、最後に主題について少しだけ確認させて下さい。

1.「イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。」というところですね。この質問の背景は、美術の本質を追求する中で、一体何によって美を感じるのかという審美眼に触れる中で湧いた疑問という事で宜しいですか?

2.次にお尋ねしたいのは、イメージはロゴスに従属しない・・・というところを引用して、ロゴスに従属しないものというのはロゴスに非ずという訳ですから、ロゴスを打ち消したものであるクレドであろうと解釈したところ、クレドからロゴスが生まれたという事になる(クレドから抽象化されてロゴス)けれども、イメージという表現を使わなくても既に整理されているから、イメージの入る余地がなく、だから何故イメージが出てくるのかが分からなくて、イメージそのものの位置づけを知りたくなったという事で宜しかったでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 そしてお応えしてまいります。

 ★ 1.・・・この質問の背景は、美術の本質を追求する中で、一体何によって美を感じるのかという審美眼に触れる中で湧いた疑問という事で宜しいですか?
 ☆ これまでのやり取りでいくらかこの《質問の背景》についても考え述べて来ましたので だいたいそういうことだと思います。つまり ただし設問のときには そこまでの考えの伸びはありませんでした。
 趣旨説明を書いたときには ともかく木村重信の文章の中の《イメージ》という術語についてはわたしには扱いにくいので 《ヒラメキ》などに置きかえた。ところ それでは《イメージ》をどう処理すればよいのか? この問いに行きあたったという事情だったようです。
 わるく言えば イメージについては二の次にしていたという状態です。

 ★ 美術の本質を追求する中で、一体何によって美を感じるのかという審美眼 
 ☆ たぶん今もこのように《本質》にまでは考え及ぼうとは思っていないというのも実情です。《一体何によって美を感じるのか》という問い方は たぶんそうしても 答えは出て来ないのではないかという思いがあるのではないでしょうか。
 でもこの審美眼とは何ぞや? という問いに答えていただけるなら それに越したことはないと思います。
 つまり 何であるかは知らないが審美眼をわれわれは持ち合わせている。とき どうもこれが変わって来たのだろうか? もともとの眼が発揮されなくなっていはしないか? という問いが 質問者から出たものです。設問のときも今もです。

 すなわち
 ★ 2.
 ☆ でまとめておられる内容そのものです。おっしゃるとおりです。

 クレドないしヒラメキを持ってくると イメージは二の次になる。けれども それではイメージは どこに位置しているのか? その点を明らかにしないと 二の次だと取り扱った意味が成り立たなくなります。
 ・・・といったところでしょうか。


 * 《一体何によって美を感じるのか》――この問いについて そう言えば考えたことがあったと気づきました。《心のホンネ―→へそを曲げる―→曲がったへそを元に戻そうとする―→その過程で美を感じることがあると へその曲げやあるいはそれによってこうむった傷が直る》といった一連の過程において 審美眼がはたらくというものです。
 もともとの心における自然本性――その力・はたらき――が 美の弁別にもはたらくのではないかというものです。
 《美とは何か》に答えたわけではないでしょうし 《神経組織のどこで何がはたらくのか》についても無頓着な考えではあります。

お礼日時:2010/12/28 12:09

zakky74でございます。



なるほどですね。するとbragelonneさんは現段階では、

思考は何だとお考えですか?
イメージは何だとお考えですか?
思考とイメージの共通点は何だとお考えですか?
思考とイメージの相違点は何だとお考えですか?

更なる質問となりすみませんですが、bragelonneさんの考えをお聞かせ下さいませ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。まづ
 ★ イメージは何だとお考えですか?
 ☆ あとでの修正の余地を わざと(つまり いまの段階でわざと何かを参照せずに)残したかたちでは つぎのように考えています。

 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~~~
 《五感としての何らかの表象》が イメージです。象(かたち)に表わしたもの。そしてこれを意識することもありえます。
 たとえば匂いとして くさいという臭覚――つまりその知覚じたい――が鼻にとっての《表象》として感じられます。そしてこれを《臭い》という言葉に表わしそういう概念として意識することもできます。意識としては思考になります。

 ・・・(中略)・・・

 ですから 臭いという感覚 これも鼻にとっては《イメージ》だと思われます。五感として視覚・聴覚・触覚・味覚それぞれについて 順に目にとって・耳にとって・体にとって・舌にとってのそれぞれ感覚そのものというイメージがあるのだと考えます。視覚像が いちばん代表的と言いますか 分かりやすいイメージのかたちなのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 思考は何だとお考えですか?
 ☆ 《思考》とは 何かをおこなう・またはそのために何かを考えようとするときに その目的を実現するためのよい方法を明らかにして捉える知解行為です。
 その素材は 記憶の宝庫から取り出して来ます。そして《記憶》という能力やそこから素材を取り出して来て方法論として整合的にまとめる《知解》という能力のほかに人間には 何をおこなうのかという目的やねらいがあって このねらいを持ちそれを実現するという志向性を《意志》と呼びます。

 《直観(ヒラメキ)》は 特に《霊感(インスピレーション)》というときなどには 記憶・知解および意志の三つの行為能力から成る精神(つまり精神=身体としての人格) この人間精神を超えたところから得られるのではないかと思われます。ただしそのヒラメキがすでに《野牛→狩りあるいは食べること》というように概念化していれば 特には思考(つまり知解)にかかわっていて おそらくただちにそのバトンタッチを済ませているものと考えられます。ヒラメキは一瞬のことですから。
 しかもちなみにですが 《野牛をどのように手にするか》その方法を思考するとき すでに同時に《狩りという志向あるいは 食べることという目的》すなわちそういう意志行為がはたらいています。

 したがってこの限りで 
 ☆☆(趣旨説明) ( b )  ロゴスはイメージから抽象され、〔イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた〕。
 ☆ というとき これをつぎのように解釈し直します。
 
  ( b-1 ) コギト(思考)は クレド(非思考=信じる)において得られたヒラメキ(直観)から始められる。

 ☆ クレドは 非思考であり非思考という心の庭を言っているとしますが コギトが《我れかんがえる》という意味の文であるように クレドも《われ信じる》という文つまり自己表現ですので そこに――思考はないのですが―― 経験行為としての意志決定ははたらいていると言うべきかと考えます。
 これを言いかえると 非思考(つまり経験合理性によるいっさいの思考を超えた世界の想定)としてのナゾの何ものかが 或る日或る時わが心の窓をノックする〔というヒラメキが起きた〕。そしてこれを受け止め受け容れるとすれば その意志決定が 信じるつまりクレドだと捉えます。

 ちなみに《ロゴス》は 一方で神としてのコトバあるいは道といった意味を持ち得ます。つまりは非思考・非経験の領域として想定し得ます。クレドにかかわらせることが出来ます。
 そして他方では 《ふつうに人間の言葉や概念あるいは論理》などとしても使います。つまり経験思考の世界におけるふつうのコギトにかかわらせても用います。

 さて
 ★ 思考とイメージの共通点は何だとお考えですか?  / 思考とイメージの相違点は何だとお考えですか?
 ☆ イメージを《直感》と置きかえるなら この直感は まづ《直観(ヒラメキ)》にも《思考》にも伴なわれるとすでに考えていました。(当否は 措いておきます)。
 おそらく 思考にとってイメージは この直感としてその導入部にも途中の過程のそこここの部分にもふと現われるのではないでしょうか。いえ 《ふと》だけではないですね。或ることば(概念)を思考の過程において得るとこのことばをめぐって いろんなイメージを想い描くということは しょっちゅう起きることですよね。
 直感と思考との関係は 身体と精神との関係――なのでしょうか? どうなのでしょう。
 おあとがよろしいようで。

お礼日時:2010/12/27 10:56

こんにちは。

難しい質問には適切にお答えできませんが、

>現代人は美の感覚が劣化したのではないか?

という質問でしたら、私も同感しているので、答えを考えてみます。
そもそも「美の感覚」ていうのは、その人の経験や感性に基づくと思います。
しかしながら、商業芸術で美が「真に」評価されることは少なくなっています。
なにせ「金のため」なのですから、よい仕事(美)が正統に評価されにくいでしょう。
「お金になる芸術」の方が、よりもてはやされる。それが現状だと思います。

さて「美の感覚が劣化した」かどうかは、感受性の劣化として説明がつくように思います。
「感受性の劣化」は、かつて近代では子供時代から「五感の相関した刺激」を受けて育った人が
多く、感受性は豊かだったと感じます。しかし現代、子供時代に受ける刺激が、
人工的な刺激に置き換わりつつあり、それが感受性を劣化させていると考えます。

幼少期の脳の発達は非常に重要で、ニューロネットワークが未熟なまま大人になれば、
社会性に乏しく、感受性に乏しく、よって「美の感覚が劣化した」と言っても過言ではないと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~
  >現代人は美の感覚が劣化したのではないか?

 という質問でしたら、私も同感しているので、答えを考えてみます。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まさしくおっしゃるところの問題です。文明批評といった主題になります。
 そうして ここでは これまでのご回答を寄せてもらった方たちとのやり取りで模索してきたように 何らかの理論的な探究をも出来ればよいなぁという心づもりでいます。

 文明批評という見方から挙げていただいたところは:
 ★ 商業芸術で美が「真に」評価されることは少なくなっています。
 ☆ たぶんそういう大きな流れの中にあるとはわたしも思います。それを否定するものではないのですが さらに蛇のごとくねばっこく追究しようと思っていて そうするとですね こういう問いに突き当たります。
 ・ 金を稼ぐために創作した芸術は 人びとの真に評価するところとは まるで成らないものか?
 ☆ ということは 言いかえればたとえ拝金主義によって創作した作品であっても まだなお美の感覚が人の自然本性にもとづき普通にはたらいていたとすれば まだなおうつくしく人間性をそこに映しているとさえ考えられます。
 という意味では 《商業主義による弊害》については ここでは二の次の問題にしたいとは考えています。むろん 再反論をもお願いしておきます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 さて「美の感覚が劣化した」かどうかは、感受性の劣化として説明がつくように思います。
 「感受性の劣化」は、かつて近代では子供時代から「五感の相関した刺激」を受けて育った人が
 多く、感受性は豊かだったと感じます。しかし現代、子供時代に受ける刺激が、
 人工的な刺激に置き換わりつつあり、それが感受性を劣化させていると考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これもたぶんそういう大きな趨勢であるのだろうとわたしも考えます。その上でですが その上で探究の手を休めないとすれば こうも考えられます。
 ・ 《人工的な刺激を子どものときから受け続けて育つ――そこには いま上に挙がった商業主義の作品が入っていますね――》というとき 自然本性にもとづく普通の感受性であったなら 人工的な刺激となる金儲け的な作品群に対しても それ相応に対処していくのではないか? 難なくそのワ゛-チュアルさをそれとして捉えきりそれとして位置づけておき おのれ(感受性自身)を劣化させはしないだろう。
 ☆ と考えられもするのです。言いたいことは ごく少数のであってもいつの時代にも いいものはいいという創作にわれらは会えるのではないかというものです。
 
 何がどうなって こうなっているのか? 作品がすべてという見方が消えて行きつつあります。作品じたいに《人間性に対峙させるみづみづしいちから》があるという・そしてそれが作品において完結しているという芸術のあり方――これが 消えて行きつつあります。何でこうなるの?

 ★ ~~~~~~~~~~~
 幼少期の脳の発達は非常に重要で、ニューロネットワークが未熟なまま大人になれば、
 社会性に乏しく、感受性に乏しく、よって「美の感覚が劣化した」と言っても過言ではないと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしはここにひとつの答えにみちびく鍵を見たように思います。
 ★ 社会性に乏しく
 ☆ という側面です。わたしの持論になってしまいますが マ(間・間合い)がどこかゆがんでしまったのかといううたがいです。自然とのマ そして人間どうしとしてのマです。(人間もその存在として 基礎は自然ですから 人間関係にも 自然とのマという要因があるように思います)。
 もしこうだとして それでは何が原因か? 
 マの取り方 言いかえるとその塩梅をうまくしないとマ違いとなる そのようなマという主題 これは どこにみなもとを持つか?
 思想つまり生活態度でしょうか? 生活と言うなら その社会生活としての制度やならわし。つまりその考え方として・常識としての思想。に行き着くのでしょうか?


 取り敢えずここまでとします。たぶん 鶏と卵の議論になってしまったかとも思います。我が田に多く水を引いて話をすすめてしまって すみませんでした。
 さらにみなさんともども 問い求めの発展をのぞみたいと思います。

お礼日時:2010/12/26 10:07

zakky74でございます。



この辺りの話題、燃えてくるものがあります。

>ともかくこのあたりで どう受け取られたか うかがってみたいと思いますが いかがでしょう。

そうですね。パッとした印象では、とても論理的思考が冴えている方なのかな?という・・・内容についての印象ではございませんが。

>いまあらためて考えてみて けっこうめんどうなことになりそうですね 《イメージ》の定義は。

そういう印象を、ご質問内容からは受け取りました。故に、bragelonneさんはイメージそのものに対してはどの様に受け取っておられるのか?をまず聞いてみたいと思ったんですね。逆質問の形となってしまいましたが、それが為、質問させて頂いた次第です。

更にお伺いしたい事が何点かございます。こちらも併せてお聞かせ下さいませ。

「たとえばきょうは狩りに行こうというヒラメキがあります。」とありました。
これは本当にヒラメキなのでしょうか?

僕は未だ判別が難しかろうと思っております。
話が横にそれるかもしれませんが、少しばかりお付き合い下さい。

例えばですが、思考そのものもスピードが速すぎる為に、そのほとんどは知覚できませんよね?一日に起こる思考は、個数にすると6~9万個だと言います。ところが、思考そのものもスピードが速くて大半は自覚がございません。

現に、その思考が生まれる瞬間の事や、その思考が生まれる0.001秒前の自覚などございません。ですから、それを直感だと錯覚する事が沢山あります。そういう方を多く見かけました。

本人が分からないところを、直感としている・・・しかし、それは本当に直感なのでしょうか?

もしかしたら、速すぎる思考の動きに自分自身の自覚が着いてこない為に、自分では見えていないけれども起きている事は思考だった・・・という可能性はないでしょうか?

今の時代、日本の教育は考えさせない教育、感じさせない教育となってしまっておりますし、自らの内面において何が起きているのか?を追いかける事がとても難しくなっている現状があるとみておりおます。

思考と直感がごっちゃになり、大半の場合は思考であるにも関わらず、直感と錯覚している事に多く遭遇いたしました。

故に、先ほどの例は僕はヒラメキではなく、(超スピードで自覚できなかった)思考という可能性もあるかと受け取っているのですが、それでも思考ではなくヒラメキなのでしょうか?もしヒラメキなのでしたら、思考とヒラメキの違いについてお聞かせ下さいませ。
 
> ☆ そうですね。この《五感としての何らかの表象》は イメージのほうでしょうか。これを第六感であるかどうか分かりませんが 意識するならヒラメキに通じるとも思われますし あるいは意識はしても もうヒラメキといった突如性はなくなっていることもあるかと思われます。
> ☆ そういう段階におけるイメージもあるかも知れません。漠然としたイメージというばあいです。
> ☆ なるほど。たしかに直ぐ前の《漠然としたイメージ》という場合には この《漠然とした》という部分で 案外わたしたちは――それが何だか分からなくても――意識化しているのかも知れません。そういう場合もあるのかも知れません。

なるほどでございますね。すると現段階ではbragelonneさんは、イメージがどういったものであるとお考えなのでしょうか?改めてお伺いしたいと思います。

僕なりに理解しているイメージがあるのですが、bragelonneさんはイメージをどの様に理解されているのか?について興味があります。よろしくお願い致します。
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この回答へのお礼

 これはおもしろくややこしく成って来ましたね。――ご回答をありがとうございます。

 ★ すると現段階ではbragelonneさんは、イメージがどういったものであるとお考えなのでしょうか?改めてお伺いしたいと思います。
 ☆ これは いまのところすでにお伝えしたところと変わっていません。
 《五感としての何らかの表象》が イメージです。象(かたち)に表わしたもの。そしてこれを意識することもありえます。
 たとえば匂いとして くさいという臭覚――つまりその知覚じたい――が鼻にとっての《表象》として感じられます。そしてこれを《臭い》という言葉に表わしそういう概念として意識することもできます。意識としては思考になります。

 臭覚という知覚も 広くは《直感》に入るとも思われます。
 ただしカンの字の違う《直観》という場合には すでに何らかの概念がかかわっていて思考にもつながっていくものと思われます。

 ですから 臭いという感覚 これも鼻にとっては《イメージ》だと思われます。五感として視覚・聴覚・触覚・味覚それぞれについて 順に目にとって・耳にとって・体にとって・舌にとってのそれぞれ感覚そのものというイメージがあるのだと考えます。視覚像が いちばん代表的と言いますか 分かりやすいイメージのかたちなのでしょうか。

 ここまで述べてそのあと イメージという主題を横ににらみながら
 ★ 思考とヒラメキの違いについてお聞かせ下さいませ。
 ☆ に移ります。
 ★ 思考と直感がごっちゃになり、大半の場合は思考であるにも関わらず、直感と錯覚している事に多く遭遇いたしました。
 ☆ まづこの《直感》は 五感の知覚のことでしょうね。そのまま何かを瞬間的に感じ取るということ。そして《直観》となれば その何かが一定の事柄の本質をその閃きにおいて見抜くというのでしょう。そういう《感覚および意識(概念)》なのではないでしょうか。
 つまりそうすると お尋ねの問いはおそらく

    直観としてのヒラメキと思考一般とのちがいは何か。

 から入っていくことも出来ましょうか。ということは さらにここで分かったと思っていることなのですが こうではないでしょうか?

 1.直観(ヒラメキ)にも《感覚および意識(概念)》がある。

 2.思考一般にも それを意識に挙げる前に五感による感覚がありうる。そしてこの感覚を意識に挙げたならそのまま概念的思考へとつながる。

 3.直観(ヒラメキ)にも思考にも ともにそれぞれ《感覚および意識(概念)》がある〔と言えばある〕。

 4.ううーん。たぶんこの二つのコトの違いは どうなのでしょう。いちどすでに書いた覚えがあるのですが ヒラメキは はすかい(斜め)からやって来るのではないかと。
 その意味は 思考が 推論として――意識の流れにも沿って――その考えをつなげて推し進めるのに対して ヒラメキは その思考の過程にある場合にも無い場合にも どこか知らないところから脳裡にやって来る。と見るかぎり 違いは 過程性・持続性に対して突如性・一回性にあるのではないか。

 5.ということは こうなのでしょうか?
 ・ 直観(ヒラメキ)によってそのあと思考一般を始めうる。
 ・ あるいは 思考の過程にあっても ふとどこからかヒラメキが来ることがある。それは思考の流れとは切り離されていると言っていいかたちでもたらされる。
 ・あるいは 思考は直観とは別に思考そのものとして 始められ続けられることもある。

 6.★ 「たとえばきょうは狩りに行こうというヒラメキがあります。」とありました。 / これは本当にヒラメキなのでしょうか?
 ☆ これは ですから あらゆる場合を取り上げようと思えば 単なる思考だという場合もありうるでしょうね。ふと思い起こしたことだと言っても 思考が過程としてゆるやかなかたちで続けられていたとする場合です。
 ただし 純粋な(?)ヒラメキである場合もあるでしょうね。いい天気だから横になって居眠りをしていたところ ふと《狩りに行こう》という考えが思い浮かぶというような場合のことです。

 7.だいたいこのように考えましたが ここで《イメージ》は すでに触れて来ましたように ヒラメキにも思考にもそれぞれその前段階としてのごとく知覚像というかたちで 自由に現われうると捉えられます。

 8.★ もしかしたら、速すぎる思考の動きに自分自身の自覚が着いてこない為に、自分では見えていないけれども起きている事は思考だった・・・という可能性はないでしょうか?
 ☆ ですから もし《自覚が着いて来ない》だけだとするのならば 直観の導入としての直感も 思考の導入としての直感も すべて思考の一環だったということもあり得ます。どうでしょう。

お礼日時:2010/12/25 18:31

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