No.19ベストアンサー
- 回答日時:
個人的に流行の横レス失礼します。
A.この10円玉には10円分の価値がある。
普通は何の問題もない表現ですが、厳密に申し上げれば、間違っています。
この表現は、金属貨幣の時代なら、一定の条件付で、正しいと判断されます。
しかし、この金属貨幣の時代は、100億円の取り引きをしようとすると、100億円の価値をもった金属貨幣が必要となります。実際、現実にそんな事は不可能ですし、合理的どころか、あまりにも不経済な方法です。そこに貨幣の歴史があるわけです。Aが少なくとも妥当するのは、歴史的にはほんの一瞬出現した、金本位制の崩壊以前までのことでしょうか。それとも、信用創造の起源をアテネの港に遡れば、それが妥当したようなことは、かって一度もなかったと言っても良いでしょうか。
それはさておき、現在の法定通貨制度という枠組みの中では、Aの表現は誤りになってしまいます。
Aを厳密に表現しなおすと
Å.現行の法定通貨制度が有効な、ある種の仮定として閉鎖的な時間と空間の中でなら、この10円玉は、10円分の価値があると仮定されている。と。
問題は、10円玉に価値があるのではなく、法定通貨制度という枠組みによって、10円玉に10円の価値を持たせているのだという点です。これは、金属貨幣とは、ある意味正反対で、金属貨幣の場合、正に、Aが成立するから、正確には、Aが成立していると信じられているから、貨幣制度とか交換が成立するわけです。しかし、Aは、上に書いたように、実際のところ現実的には、あまりにも不経済な方法ゆえに、歴史的に変動してきたわけです。
さて、質問に戻って、価値は実在するのか? と言う質問に対して、Aを認めない場合の結論です。
Å.現行の法定通貨制度が有効な、ある種の仮定として閉鎖的な時間と空間の中でなら、この10円玉は、10円分の価値があると仮定されている。
10円玉が10円の価値をもつのは、現行の法定通貨制度が有効な、ある種の仮定として閉鎖的な時間と空間、が、10円玉をして、10円の価値を持たせているとしたら、その制度の実在性を科学哲学の対象として、検討する実在する対象とする充分な『価値』はあると。
あと、価値は実在しない、と言った場合、世界は実在しない、或いは、社会は実在しない、等々と言った言葉との対照抜きで、その価値は実在しない、と言う言明は、単独では価値を持ち得ないと言うことが、ソシュールから学ぶことかと思いますが、どうなんでしょうね。
ここでいう「10円分の価値」というのは「実在的」と見なしうる。
「価値がある」という述語は、記述的と見なしうる。
だが、「価値」そのものを実在すると言うことはできない。
こういうのは、解釈学的な表現なのでしょうか、その場合、言語に懐疑的である私以上に、懐疑的な印象を受けてしまいますが、なんなんでしょう、まぁ、独り言です。
ナイスサプライズにつき、敬称略(笑。
ご質問者様に一言、失礼しました。
fishbowl66さん、書き込みありがとうございます。
現行の10円玉の件、仰りたいことはよく分かります。
マネーについては次回質問させていただきますので、もし輪行にお出かけでないようでしたらよろしくお願いいたします(笑)。
たいへん参考になりました。
ありがとうございました。
No.20
- 回答日時:
#19様
ええ、この箇所は自分でも雑なことを書いているなあと思いながら書いていました(笑)。
>10円玉に価値があるのではなく、法定通貨制度という枠組みによって、10円玉に10円の価値を持たせているのだという点です。
確かにおっしゃるとおりです。
ただ、10円で買えるものを探求することによって(「10円には5円くじが二枚買える価値がある」とか、「10円にはチロルチョコレートが一個買える価値がある」とかというふうに)「10円の価値」の性質を記述することができるのではないか、という問題意識があったのです。
ここもあまりふみこむと、使用価値と交換価値という恐ろしいところに入っていきますので、そこには行かないようにして(笑)。
ここではあくまでも「価値がある」という述語に付随する性質という観点から考えると、異なる現象を指しているAとBではあるけれども、ともに「価値がある」という述語は記述的といえる、ということが言いたかったわけです。その点をご理解くだされば幸いに思います。
No.18
- 回答日時:
えーと、閉じられていないということは、もう少し何か書けということなのかな(笑)。
ひっそりと続けましょうか。
> 記述的に眺めるということと構成的に見て取る
という質問者さんの問題意識が、どこまでわたしに理解できているか、はなはだおぼつかないのですが。
#16の補足欄
> 例えば古銭は美術館に展示されるかも知れない、しかし現在の10円玉や100円玉が展示されることはまずありえないでしょう。
ここには同じ「価値」という言葉で記述されてはいるけれど、ちがう現象を指しています。
A.この10円玉には10円分の価値がある。
B.この古銭には歴史的資料として価値がある。
ここでいう「10円分の価値」というのは「実在的」と見なしうる。
さらに、「歴史的資料としての価値」というばあいの「価値」にも、資料としての出自の確かさであるとか、他の資料によってその確かさが裏打ちされているとか、希少性であるとか、さまざまな実在的性質によって規定できるのです。
そう考えていくと、「価値がある」という述語は、「他の実在的述語と再帰的に関係づけられるネットワークをなすものとして規定」(田島正樹『読む哲学事典』p.35)することができます。
このとき重要なことは先にあげた文章に引き続いて出てくるこの箇所です。
「実在的なものは、その本質を問えるが、実在性そのものの単一の本質は問い得ないのである」
こう考えていくと、こうは言えないでしょうか。
「価値がある」という述語は、記述的と見なしうる。
だが、「価値」そのものを実在すると言うことはできない。
ghostbusterさん、書き込みありがとうございます。
あまり強要しても申し訳ないので遠慮していたんですが(笑)。
マネーに関しては別に質問を立てた方がよさそうなので次にまわします。
後はまったく異論はありません。
たいへん参考になりました。
次回もよろしくお願いいたします。
No.17
- 回答日時:
ずいぶん前にご質問を拝見したような気がしたので、探しました(笑)。
まだ閉じられてなかったので。
「雪が降っている」という文章があるとします。
このとき、現実に雪が降っているか、降っていないかによって、この文章の真偽が判定される。つまり、記号と指向対象との係わり合いのなかで、真と偽の「二値」が生じます。
一方、もし仮に誰かが「雪が沸騰している」という表現は、記号体系のなかでの整合性を逸脱しているために、現実とは無関係に虚偽であるといえます。つまり「一値」です。
価値をどのように定義してやるにせよ、なんらかのかたちで価値が生じるためには、「二値」であることが必要なのではないか。
雪が降っていないにもかかわらず「雪が降っている」という情報は無価値ですが、「雪が沸騰している」という言明は、無価値ですらありません。
このように、発信者である人間をいったん抜きにして、記号とその指向対象の係わり合いのみを考えていくならば、その記号表現が「価値有り」、もしくは「価値なし」と判定することができるはずです。
「実在」の定義もむずかしいのですが、仮に「人間の意識を離れて客観的に存在すること」を「実在」としてやれば、「客観的に価値のある記号表現」「客観的に価値のない記号表現」の判定が可能です。「実在する」といえるかもしれません。
ところが、いったん人間を考慮に入れ始めると、真偽の二値は通用しなくなる。
#3の方の補足欄でおっしゃっておられる
> 価値の表現は非記述的命題、つまり、正しい、よい、などの述語を含むような評価を示す命題と考えられますが、そういつた評価をはじめとする非記述的機能を抜きにしたような純粋な事実の記述なんてものはありうるでしょうか?
ということに関しては、ない、としかいいようがありません。
よくポジティヴ・シンキングの例にあげられる「コップの中に水が半分ある」という表現ですが、なぜ「半分ある」が、「半分しかない」にくらべて「ポジティヴ」なのでしょうか。記号の指向対象は、同じ量の水が入っているコップです。
A.コップの中に水が半分ある。
B.コップの中に水が半分しかない。
これは意義(指している水の量)は同じでも、意味が異なっている。
「半分ある」と言う「ポジティヴな」(?)発話者は、空のコップを起点としており、「半分しかない」と言う「ネガティヴな」(?)発話者は、いっぱい入っている状態を起点としているのです。水の量という客観を記述するときでさえ、発話者の視点がからんでくる。
さらに語順の問題もあります。
A.あの子は「数学が百点だった」が、「スカートが短い」。
B.あの子は「スカートが短い」が、「数学が百点だった」。
ここで言われている「あの子」は中学生か、高校生の女の子であると想定する必要がありますが、Aの話を聞けば、「あの子」は数学の成績こそいいが、多少素行に問題がある、Bの話を聞けば、多少の逸脱はあるかもしれないが、数学の成績がいいくらいだから問題がない、とまったく逆の印象を受けとることになります。
同じ要素からなっている文章が、語順を換えただけで、異なる意味を持っていきます。これは英語表現などでもおなじことです。
スカートの丈、テストの点数、本来なら客観的な数値で表されるはずのものですが、コノテーションが不可避的に発生していく。言ってみれば、すべての言葉には「癖」がある、といえる。
純粋な事実の記述」は不可能である、と言って良いのではないでしょうか。
ひとからどんどん評価を抜いていったら最後には人体の構造だけが残るんでしょうか?
ghostbusterさんどうもありがとうございます。
ものを記述的に眺めるということと構成的に見て取るということを考えていました。
ghostbusterさんにはお聞きしたいことが山積していますので(笑)、
また質問をみかけたらよろしくお願いいたします。
No.16
- 回答日時:
補足、拝見しました。
いやはや、益々、困った人ですね。
尤も、私は困ることは、嫌いじゃぁないのですがぁ(笑。
今度は、価値の存在論から、存在論の本丸を攻略するのですか?
1)>デカルトの原書がfishbowl66様が入館される前に既に美術館に飾られていたという事実についてなんです。
この件は、砂漠の中に、誰も知らない、ダイヤモンドのかけらが転がっている場合、このダイヤモンドのかけらは存在するのか?と言った形式で、問われる存在論ですね。
これも複雑な問題になりますが、
デカルトの原書がすでに美術館に在る、と言う言明には、実はいろいろな前提があるということではないでしょうか、それともう一つは、上記の形式のような、世界の存在論ですね。
1)では、まず、デカルトと言う哲学者がいて、過去に沢山の本を書いている、と言う事実、そして、特定の美術館の、特定の場所に、特定の時間飾られいてると言う事実があるわけです。
方や、私の世界には、知識として、過去にデカルトと言う哲学者が、博識をもって広範囲な学問の分野で活躍し、多くの書物を残している、と言う知識があるわけですね。
さて、そこで、私が美術館に入ってみると、それこそ、ナイスサプライズと、場所柄をわきまえずに叫んでみたくなるような、驚きを経験するわけです。ですから言ってみれば、デカルトの原書は、私の世界から眺めれば、美術館の中に、私が入る前から存在するわけではないのです。尤も、ネットで下調べをした際、詳しく調べて、その企画展の展示品の中に、その原書が含まれていると知っていれば、私の世界から眺めてもデカルトの原書が美術館の中に存在すると、いうことになるでしょう。但し、この知っている事と、実際にデカルトの原書を目の前にして、食い入るように眺める、このような生の経験とは、前回の回答で申しましたように、厳密に区別するべきだとは、改めて、再度申し上げたいところですね。
以前の回答で、指摘させていただいたのですが、1)の記述に関しては、例の超越論的な視点が含まれてしまっているような気がします、とはいえ、私の世界、と言った、独我論的な解釈にも、全く問題が無いわけではないでしょうが、今回の補足要求に関しては、これでお答えできたのではないでしょうか。
また、私の勘違いかもしれませんが。
この件に関しては、当方のネタも尽きてきましたので、そろそろお開きにして、またどこかで、と考えていますが、如何でしょうかね。
繰り返して申しますが、お手柔らかに(笑。
この回答への補足
困ることは何もないと思いますよ(笑)
例えば古銭は美術館に展示されるかも知れない、しかし現在の10円玉や100円玉が展示されることはまずありえないでしょう。
その価値の違いを比較しているだけの話です。
No.15
- 回答日時:
困った質問者さんですね(笑。
我々は、今、価値の実在について話しているのではないですか。
まぁ細かなことには目をつぶって、絵の価値は内在的かという質問ですか。
つまり、絵の価値は、絵に実在しているのか、或いは別の所に実在するのか、と。
私の目の前には、デカルトの原典が、目の断面図に対象から光が差し込み網膜に焦点を作る図画のページが開かれた状態で、実在しています。さて、この図は、一方に対象を実在とし、他方、焦点に作られた表象をも実在と言えるかは一先ず置いて、対象とし対象化します。さて、これで、客観と主観が各々対象化されたわけですが、これと同様に、絵を見るという一つの過程を、見られる側の絵と見る側の私に分割し、方や壁にかけられた、モデリアーニ「おさげ髪の少女」もう一方に私、つまり、絵と、そこから2・3メートル離れて立つ私に分割するのですが、これが問題で、実はこの図式は、けっして私が絵を見ているわけではない、ということです。
この常識の問題点は、相当堅固に出来ていますから、さらに説明すれば、その図式は、私ではなく、他人が絵を見ている図式でしかない、ということを認めるかどうかが、この問題点を乗り越えるかどうかの分かれ道となります。私が絵を見ているという図式は、そもそも、不可能である、と断言することも重要です。その不可能性は、私たちが月の裏側を見ることが出来ない、と言った不可能性と較べれば、はるかに堅固な不可能性なのです(月の裏側は、ロケットに乗って月の裏へ回れば、可能性として見られます)。繰り返すと、私たちが絵を見ているまさにその時、絵を見ているはずの私に、絵を見ている私が絵を見ている私を見る、同時に二つの視点を持つ事の不可能性だともいえます。
では、作図を、私が絵を見ていると誤解する原因はなんでしょうか、ゼノンの背理です。矢の運動を運動の軌跡の線として、カメの動きを、運動の軌跡の線として取り扱うことによって起こる、例のパラドックが難解なのは、この作図の問題点に気がつかないからです。
なかなか複雑な議論ですから、もう一度、デカルトに戻って繰り返します。
絵が有ります、そこに、目の断面図と、光学的作図、さらに、人間の脳の視覚野の略図も付け加えましょうか、絵を見るという実は一体不可分の過程を、このように作図的に分解してしまうと、絵を見ているのか、網膜に映った表象?を見ているのか、また、数次にわたる何処かの視覚野に落とされた影を見ているのか、さっぱり分からなくなってしまうのです。
この事が、>「美術作品」の価値って内在的価値?と質問させるのです。
『「美術作品」の価値』、つまり、絵と、絵の価値を分割するのも、同様の誤解です。片方に絵を、もう一方に、所在不明の絵の価値を対象化しておいて、改めてもとに戻すことができなくて、自らが自らの首を絞めているのです。分かりにくいでしょうか、分かりにくいでしょうね、私もなかなか上手く説明ができません。
肝心なのは、絵を見ている、というのは、絵の前に立った私の図式ではなく、そんなことでは絵などは見られないのです、絵を見ている・絵が見えている、と言った、一体不可分の、生命的な運動過程である、と気づくことにあります。
食べて旨い。聞いて落ち着く。触って柔らかい。見て美しい。知って驚く。こうした生活経験は、全く所与に与えられて、正否とか真偽とか判断の必要のない、直接現れる、絵と私の同一化、絵を見つめて、自分を見失い、絵の中に奥深く入っていって、周りのことが全くわからなくなる状態です。この私は絵を見ていると、他人が絵を見ている図式との区別が、理解できれば、この質問が無意味であると理解できると思います。
端的に言って、これは、ゼノンの背理の亜流でしょうか、分割できないものを分割してしまって、くっつけるのに後で困るわけです。とはいえ、我々はどんなものでも分析したがるのは、太古からの人間の癖なのでしょうが。
なお、この回答においては、絵の価格の形成、と言った経済学的側面とは一片の関わりも有りません。
時間がなくて、乱文乱筆、重複もあるかと思いますが、そのまま投稿させていただきます。問題点が見つかれば、それ事自体、回答者にとっては役に立ちます。質問者様の役に立つかは、はなはだ不安ですが(笑。
この回答への補足
>困った質問者さんですね(笑。
せっかくおいでになられたのですからまあゆっくりしていってくださいよ(笑)。
恐らくfishbowl66様が仰っておられるのは、直観と分析ということだと思います。
つまり直観は絶対的であり、分析は相対的である。
それと価値とは性質的なものであって、延長物(例えばデカルトの原書とそれを対象化する身体の器官)の諸関係に付随して生じるものであり、実在はそれら延長物だけである、と。
ただ私がお聞きしたかったのは、デカルトの原書がfishbowl66様が入館される前に既に美術館に飾られていたという事実についてなんです。
それで内在的価値・外在的価値という観点からお伺いしたわけなんです。
下の方でもちょっと説明させていただいたのですが、内在的・外在的という概念はそれ自体が目的化されて完結したものなのか、あるいは他の手段としてあるのかという分類なんです。
つまり美術品とか芸術作品の鑑賞というものは道徳的配慮や他のものとの連繋を切断して行われるものなのかということです。
何か問題点がありましたら補足要求していただければ幸いです。
No.13
- 回答日時:
個人的な感覚です。
目に見えないものですからね。
社会の中では「人気」ですかね。普段近所の裏山に生えている草なんかでもTVやらで「健康にいい」とか報道されるとみんなこぞって取りに行きますよね。挙句には製品化されて売られたり。この場合、そこそこの地位や権力があれば周りに有る物を使って物やその人自身の「人気」を煽ることができます。逆も可能です。
個人ではその人の思想の中での、「個人的な人気」ではないでしょうか?
万有引力って全てが地球に落ちるのではなくって、全ての物が備えた「周囲の気を引く引力」って意味だと思ってます。
手品師が「このカードにご注目」と右手を差し出したら「人気」を引く彼の発言、状況が創り出した「彼の手の引力」だと思います。
気のせい・・・どっかの漫才師のおばあちゃんの名言ですがある意味そうだと思います。
No.11
- 回答日時:
星座は自然科学としての天文学では実在していないと思います。
星座という意味を取り除いたあとには天体としての星が残ります。これが普通言うところの実在ではないかと思います。アフォーダンスが消えてしまった対象が実在ということではないでしょうか。船が座礁したとき、原因となった岩は船長にとってはアフォーダンスが欠けている実在ですが、同じ岩でも船着き場になっている岩はアフォーダンスがありますから価値を持っているということになります。むしろ実在というのは負のアフォーダンスを持っているものなのかもしれないと思いました。要するに障害になるものということです。価値という言葉で言えば負の価値を持ったものということになるのかと思います。負の価値を持っている対象を変化させて正の価値を持ったものに変えるのは人間の精神活動の基盤をなすものだと思います。この回答への補足
星座とか四季といった名辞の価値は有用性の価値ということだと思います。
例えば冬を中立的に記述するのはたいへんややこしいです。
人間の名付けもそうですですが。
>同じ岩でも船着き場になっている岩はアフォーダンスがありますから価値を持っているということになります
これも有用性あるいは手段としての価値だと思います。
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