つぎの評言について解説してくださいませんか。
▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~
( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。
( b ) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。
( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。
( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。
・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
(1925~ 民族芸術学 美術史学)
▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~
( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。
( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。
( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。
・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。
( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。
( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。
( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。
No.53
- 回答日時:
なんだか迷走してる気がします。
ちょっと整理したくなりますね。イメージは、五つの感覚の出力結果から人間が、ぐるぐるポン
して、ヒラメキつまり悟性により、像を結んだ瞬間の出力結果
と考えていい気がします。
幼児の時の自閉時期の体験での話ですが、それ以前は短い言葉
をおもちゃのようにして子い犬のように遊ぶことも可能でした
が、
文章というものを絵本で親しむようになると、文それ自体が持
つ自立した世界観つまり文そのものが指し示す意味に気を取ら
れて、ではそれを発信した人は実際にいったいどういう、
コミュニケーションを取りたいのかがまったくどのように思考
をめぐらしても分からなくなり、ですからそれにたいする明確
な文での返答も迷宮入りしてしまいます。
程度の差こそあれ幼児には、そういう、どのように文に展開して
いいかわからないもどかしさを常に感じているのです。
しかし、それも社会での訓練でうまく言語に変換していくことが
できる様になります。
しかし、この「もどかしさ」こそが、社会性へのエネルギーです
よね。また、芸術への情熱の源にもなります。
しかし、それが既に巷にあまりにも出回っているとしたらどうで
しょう。
エネルギーの源である「もどかしさ」はもうすでに像をむすんで
しまってある芸術作品がカタルシスの作用となり、泡のように、
はじけてしまうかも。
簡単にいうとそんなようなことだと思うのですが。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~
エネルギーの源である「もどかしさ」はもうすでに像をむすんで
しまってある芸術作品がカタルシスの作用となり、泡のように、
はじけてしまうかも。
~~~~~~~~~~~
☆ うん?
★ カタルシスの作用
☆ は 美としてプラスですよね?
★ 泡のようにはじける
☆ は マイナスのイメージなのですが その点 いまひとつ分かりづらい。
★ 〔* 文ないし文章に表わされた自己表現を 他者として読み解くときの〕エネルギーの源である「もどかしさ」
☆ は 或る程度は 無くさないで保っていたほうがよい。でしょうか?
★ ~~~~~~~~~~~~
しかし、この「もどかしさ」こそが、社会性へのエネルギーです
よね。また、芸術への情熱の源にもなります。
~~~~~~~~~~~~~
わたくしの文章は 長く凸凹しているので イライラすると言われました。その《もどかしさ》がプラスにはたらくといいのですが。
ヒラメキのイメージとその結像からさらに象徴(シンボル)として形象化したあと 文字も作られ 文を読む作業が生まれる。《もどかしさ》をおぼえる。
★ しかし、それも社会での訓練でうまく言語に変換していくことができる様になります。
☆ と整理してみましたが。
No.52
- 回答日時:
貴方の書き方は、何度か読まないとわかりませんね。
議論を拒絶したのかと思いましたが、数度読んでいくと、次の議論の提案もなさっている。少し読むのが大変でしたよ。エチケットとおっしゃる文献学云々は、この場合は、貴方が注目してほしい文章を私が拾わなかったという怒りでしょう。ただ、私の立場も分かってもらいたいのですが、貴方は明晰なつもりでも、私には本当に、貴方が何を言いたいのか最初はわからなかったのです。結果的に「囮」になっている箇所が多いと思えば、貴方がいかに力説しても、無視も必要だと感じたのです。右往左往は困ると言ったのはそういう意味です。
また原理主義的であるとか、貴方が誤解だとおっしゃっている議論の矮小化だとかは、私の主観的なまとめであって、いうなれば私の「評言」です。私の判断の自由も認めていただきたいものです。実際、貴方も評言の意義はよくわかっておいでのはずです。別の欄の話になりますが、貴方は、躊躇いなく「評言をくりだす」ことを常にやってきたと私にお書きでした。私がそれをしたからといって制止される理由はないでしょう。しかし貴方をご不快にしたことは謝りましょう。
しかし、もしかしたら貴方はこれでは礼儀の問題を謝罪したにすぎないから不十分で、まだまだ謝罪が欲しいとおっしゃるかもしれませんが、それなら、まず誤解を解くのを手伝ってくださる必要があるでしょう。まず貴方は結語で「のっぺらぼう」という独特の言い回しを使いながら(正直、私はこういう表現が理解しにくいので、できたら別の言葉を使ってください)、自分の理論がなぜダメなのかとおっしゃいますね。私が貴方の議論の土台でわからないといっているのは、他人の内面を覗けないのに、議論を「われわれ」と一般化しえる理由です。通常は不可能なはずです。そこで――私が疑っているのは、問題など最初からないところに、問題があると騒いでいるだけではないのか?ということです。問題が発生したとしても、貴方個人の話なのではないか?とも思えたのです。
しかし、いやいや、そうではないのでしょう。きっと集団的な「われわれ」の間で、貴方のいう美を認識する直感が欠損していると考えられる事例が、多々あったのでしょう。それが何かと聞いているのです。貴方がこれが「善」に関わるというのなら、その話をしてください。凶悪犯罪が増加しているのは、美を認識する直感が衰えたせいであるということなのか?――など、私はあまり貴方の言わんとすることが焦点を結んでいません(きっとそういう話ではないのでしょう)。ともあれ、私はそれが「善」の問題と関係させられるのは古典主義的な美学の範囲内で承知しています。真・善・美が一致するという議論がありました。しかし私が知っているのは二百年前の話です。そこで現代に生きる貴方が考えている次の段階の議論に歩みを進めてください。ただ繰り返しになりますが、その具体的な根拠となる例が欲しいと考えています。
そして私は思ったのですが、貴方からあげられる具体的な劣化の症例が欠けているので、一つ重要な問題が議論されていなかったように思います。それは美の直感が劣化したというが、劣化の性質が何だったのかということです。たとえば直感の範囲と強度に関する劣化は全然別のものです。範囲というのは、ゴッホはわかるが、ピカソはわからないという話です。強度というのは、わかるといっても、感激に痺れをなす程のものなのか、「ちょっといいかも」といって終わるかどうか、という問題です。
そして強度の判断については、鑑賞する作品で有利と不利があるでしょう。ゴッホは、あの南仏風の色彩やミストラルのようにうねる筆使いからして、直感に訴えかける強度という点では、非常に強いのかもしれません。線形のピカソはそうではありません。そうしてみるとこれは劣化というより、単に性質の違いという疑念も浮かびます。いかがですか。
たしかに普遍性をめぐる理論ないしその議論は むつかしいです。
ご回答をありがとうございます。
そのむつかしさの思いを 次の質問でのましゅまろさんとのやり取りでおこないました。
【Q:《常識の無い老齢者》・・・】No.23へのお応え
よろしかったら 見てみてください。
《怒り》だとか感情の問題と見なすことがお有りですが あるいは
★ しかし貴方をご不快にしたことは謝りましょう。
☆ という話に持って行かれますが わたしの言う話はかんたんです。見解の相違をそのつど見止めて・つまりそうだと書きこんで 次にすすみましょうという意味です。
たとえばクレーの絵とナチスの件は たしかにわたしの言い分を認めたかたちで次の議論にすすんでいると見えるのですが そういう場合は(つまり一たん見解の相違となったときに なお再考の余地があったのなら) その判断結果をひとこと文字にしておくことは大事だと考えます。
(むろん 見解の相違のままだという判断を下すこともありますから その場合には 仕方ありませんが それでも見解の相違から前へすすめませんと出来れば触れておいたのがいいでしょう。と思います)。
《美の体験》にもっぱらもとづく美学理論は あなたからも回答を寄せてもらった《マ(間・間合い)の理論》と地続きです。
【Q:マ(間・間合い)の理論】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6327849.html
それで マがうまく取れてうまくまじわりがすすめられるときには 美の感覚が 言わば自然本性にのっとって主観としてだけでも善であると捉えます。マが違うならば 善ないし美の感覚も マチガイであると――やはり主観の判断事項としてに限られたかたちにおいて――見なします。
その意味で 美の経験は けっしてのっぺらぼうではないと見ています。善とそしてその損傷という負の善 これら二つの状態に分かれるということを――あくまで主観的にですが―― 見ています。
ピカソがそれに当たるかどうかは分かりませんが 一般に絵画なら絵画の作品の中には これはどう見ても やぶれかぶれ〔から発した表現〕ではないかと思わせるものもあるのではないでしょうか? 簡単に見て そういうところから 善ないし美の正負ふたつの場合に分かれることが起こると見ます。決してのっぺらぼうに(どれを取っても どっちもどっちでまったく相対主義の世界にあるというかたちで) 美の感覚が起こるのではないと見ます。
ひとは この世界においてその世界は必然の王国とさえ呼ばれるほどであるなら やむを得ず 《心に逆らわないというおのれの善》を棄てることがあります。あるいはそんななまっちょろいと見られるかも知れない状態を通り過ぎて自分からすすんで この善を放棄し 善を傷つける人生をえらぶことさえあります。
この主観の判断事項は それでも一般性を持つと言い張る所以は すでに触れたと思いますが むしろ感性におけるやましさの感覚です。心の胸騒ぎやあるいは 顔を赤らめることやまた 言葉をしゃべるときにしどろもどろになったりすることが 《善を傷つける》意志決定にはともなわれるという事態です。
共通感覚ということ。
そしてあるいは 自由ないし自由意志という公理も 経験的な相対的な根拠です。心にさからう自由もあれば したがう自由もあるという人間の自然本性のあり方です。(自然本性は 精神としては 記憶・知解そして意志という三つの行為能力といった分析にもつながります)。
《真・善・美が一致するということ》が 主観ごとに当てはまるという仮説です。
今回は こんなところでしょうか。中途半端を承知ですが こんな感じです。
念には念を入れます。
★ エチケットとおっしゃる文献学云々は、この場合は、貴方が注目してほしい文章を私が拾わなかったという怒りでしょう。
☆ そうではなく 見解の相違ならそれとして互いに見止めるということ。見止めたとひとこと言っておくこと。また再考の余地があったのなら その結果を述べておくこと。これを主張します。どうですか。
No.51
- 回答日時:
たびたび失礼をいたします。
アイリスの絵の感想は、その通りです。
そこに一本補助線を入れます。左から三本目のいかにもひ弱そうな、しかも一本だけ葉っぱに守られずに、茎だけですっきりと立っている白いアイリスが、この作品の焦点だといわれます。
この白いアイリスは、ゴッホであるし、また、鑑賞者でもあります。
右側に、猛々しく野放図に伸びた藍色のアイリスは、ゴッホの才能を認めない世間であったり、家族であったり、学校の友達であったり、会社の上司であったりするでしょう。
でも、白いアイリスは染まらずに飛び続けるのでしょう。
これに気付いたとき、胸が痛んでたまらなくなったのを覚えています。
質問者さんはどうでしょうか。
今日は時間切れのため、これにて。お粗末さまでした。
ううーん。だめ。その解釈はだめ。
ちゃおぽるぽさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。
ご解釈は ぴったりです。おっしゃるとおりです。だから だめ。
なぜ だめか?
◆ すべての人と同じようになりました。すべての人を得るためです。
☆ もしたとえ世間の一部の有力な《低俗》ワールドが いかにくだらないことを言ったりしたりしていても まづそれと同じようになる必要があります。文字どおり《低》だとすれば わたしたちはその同じ地平にまで降りていくことが第一歩になると思います。
またそこでなら 売り言葉に買い言葉でなりとも 答え返すことができます。
白いアイリスは うそとしてでも藍色の群れと同化するのがよいでしょう。
そこでムラハチブにされたとすれば 去る者は追わず来る者は拒まずで行けばいいのぢゃないですか。
白いアイリス――カッコよすぎるのは駄目です。と思いますが どうですか?
お粗末さまでした。ミスター小言勇太郎でした。わたくしは 《感情的になっている》そうですから。
* つまり《白いアイリス=ゴッホ》だと見なせば それは褒めたことにはならない。さあ どうでしょう。
No.50
- 回答日時:
そろそろまとめに入られるということなので、
いにしえの日本の美風にしたがって、短歌ひとつ、絵に添えて、
質問者さんにお送りします。
”白鳥はかなしからずや
空の青海のあをにも
染まずただよふ” 若山牧水
ゴッホの絵がうまく添付できればいいのですが。
参考URL:http://www.harley.com/art/abstract-art/vangogh.h …
ご回答をありがとうございます。
《 Irises 》――左半分奥の橙色の群れが 生きていると思いました。その前面の青い群れのほうが 力づよい印象であることは ほんとうだと思いますけれど。
《まとめに入る》ことができるかどうか 分からないようにもなって来ました。
声をかけてくださって ありがとうございます。
No.49
- 回答日時:
最後の行に誤字がありました。
いまの人間が見ている世界(の)その見る構造に
ところで、わたしの文章に超距離相関があると猪突さんに言われました。それでかつて恩師に労働を強いたことを思い出しました。申し訳ないことです。しかしよかったらメモ用紙とペンをお使いください。
No.48
- 回答日時:
この質疑の投稿が面白いとハートマインドさんがお書きなので見に来ました。
長い質疑ですね。例によってわたしは読む余裕もなく、直前の投稿以外は拝読しないまま書きだしますが、重なるか討議済みの部分はどうぞご容赦ください。それにしてもお久しぶりですね。
育児で忙しいなら来なくていいよというお声を勝手に聞いたつもりで長考派のブラジュロンヌさんの質問には立ち寄らずにご無沙汰していました。クリヤさんの件の短い投稿以来になりますか。
ご質問のa~gが、木村氏の言説ではなく他者による要旨だとしたらあまり話は進みませんが、本人の言説か本人承諾済みの言説だとして所感を述べます。
その前に、二つの留意点があります。
ひとつは、美術批評は業界が狭く市場を横目に見た特徴的性格を持つので、用語の定義は平板かつ明確であり、キリスト教の視点による解釈には沿わないであろうこと。
もうひとつは、象徴(シンボル)とは、諸物間の意味の飛躍的一致がかなうことであり、その一方が視覚的に現れ他方が奥に潜むところの飛躍した一致となること。したがって、「それは何である」「それはこういう事である」等の理知的な認識が先に成り立っていないと機能しません。且つ、その理知的な認識のためには、概念形成がすでに行われていなくてはなりません。
本題に入ります。
【(a)イメージはロゴスに従属するのではない】
はじめに言葉ありきに対抗させる恰好ですが弱い言説で注意を要すると思います。「ロゴスに従属するのではない」を決して「ロゴスに先行する」と解釈してはならないでしょう。イメージは知覚に近いとも知的シミュレーションであるとも言われ議論は尽きませんが、美術史的には像または心象で済まされるでしょう。
イメージは「それは何」をめぐる象徴に囚われるとともに、象徴から逃れ正体へ向かう運動を繰り返し後退します。「それは何」つまり概念を中心とする理性的認識はイメージとのいたちごっこについて、他の諸要素の参照関係へ無数に繋留することによって安定を得ています。類似構造化とカテゴライズのプロセスというわけです。(a)のロゴスというのは言葉や理性的認識といった定義で、神学上の問題を含まず使われていると思いますが、したがって、イメージはロゴスに従属するのではなく、飛躍的参照において釣り合いをとる錘のようにロゴスを利用するといえるのではないかと思います。
【(b) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた】
そんな簡単な話で済むものではないでしょう。抽象度の違う事物というのは世界に満ちており、ロゴスは教えられて学習する側面の大きいものです。知覚像を類似やカテゴリーに抽象するために既にロゴスの助けがおおいに必要です。でもこれはたぶん神話と星座のようなことを言いたいのではないでしょうか。
【(c)このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない】
美術史家のディディ=ユベルマンなら変貌という一語に反応を示すでしょうね。ともかく、象徴のヴェールがかからないイメージの運動はないのですから、社会と人間と事物が変われば、ことは変貌とみなければならないのは当然でしょう。
【(d)進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が...】
19世紀に西欧を席捲したこれらの言葉ですが、まさに科学博覧会と万国博覧会のイメージから生まれたものと思いますよ。ロゴスによって構造化されたイメージですね。
【(e)(f) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる】
20世紀の美術は、何かを表すとか主題はしかじかのことであるという傾向つまりsujetを離れて、物となったつまりobjetと化すことになったという意味です。
【(g)作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む】
an sich とfur sichの止揚はないから茨の道だと言うのですね。それにしてもobjetの否定がsujetへの回帰ではないのかどうかという議論が本文にはあるのではないでしょうか。
イメージが像を結ぶことむしろ極端には視像を結ぶことそのものを排する試みによってobjetたらんとしているという側面は現代美術にはあるでしょう。その自己否定的契機をどう作品に投入するかは、著者の主張の眼目にあたるところだろうと思います。勝手を言えば、美術が同時代性を問うならば、いまの人間が見ている世界をその見る構造に、つまりシンボルの働くところである参照の全てに、疑いを見せなければならないでしょうね。
★(回答No.49) ところで、わたしの文章に超距離相関があると猪突さんに言われました。それでかつて恩師に労働を強いたことを思い出しました。・・・
☆ ほんとうですね。
ご回答をありがとうございます。
★ (最後の一文) 勝手を言えば、美術が同時代性を問うならば、いまの人間が見ている世界のその見る構造に、つまりシンボルの働くところである参照の全てに、疑いを見せなければならないでしょうね。
☆ わたしは引用魔でもありましたが 質問魔でもあります。
(1) なぜ美術が 世界の現実に疑いを見せ そのあり方を問うという仕事を引き受けなければならないか?
(2) あるいはずばり 画家がおのれの美の体験にもとづきその美を視覚にうったえるだけの作品というかたちにおいて描き切れば それだけで――間接的には―― 《世界の現実を 人びとの心において 問うている》ことになるのではないか?
(3) けれども そのような間接的なかたちにおいてにせよ わざわざ現実の問題を明らかにするというようなことは 画家としても鑑賞者にとっても 度外視しておいてよろしいのではないか?
(4) 美は もっと高い――あるいは逆に まぼろしのごとくの夢物語としての――志に答えるところにあり それに仕える者の務めは 世界を超えていてもよいのではないか? 人びとの中にはそう表現するお望みがあるとすれば 阿呆でも病人でもよいのではないか?
(5) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
【(g)作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む】
an sich とfur sichの止揚はないから茨の道だと言うのですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから 即自的な《わたし》もしくはその自己表現としての絵作品は じつはすでにそれに先行する《わたし》の美の体験において――それだけでは 確認されてはいないという事実があるにもかかわらず――すでに対自的な我れ(もしくは そこから無理なくひろがるところの《われら》)に到っている。
これが 美という事件であり 美の体験であり そもそも《うつくしさ》というコトではないのか?
それは 弁証法的過程を超えているのではないか? 画家は 世界を超えていてもよいのではないか?
☆ 復唱もせず いただいた命題を取り上げ残しておりますが たとえば次の参考資料などにあたっていただければ よいかと考えます。
【Q:《常識のない高齢者》です。思う存分ご批判をどうぞ】
そこでのましゅまろさんからのご回答。特に
No.20:『はじめにイメージありき』結語部分からの抜粋
No.22:『東洋のかたち』 第二部 信仰のかたち イメージの復権
☆ 言いかえると これだけでは まだ見解をそれぞれ突き合わせるという作業までですが。出そろうということも 大事ですから。
No.47
- 回答日時:
前回の投稿の趣旨は、もう少し冷静に話し合おうではないか?という呼びかけです。
したがって、貴方の出方を見たわけです。大雑把にまとめると、貴方の考える美学の枠組みにのるか、のらないか、を私は迫られているようです。結果、貴方が設問の時点では明確にできなかったかもしれない(と私には思われる)ことが、段々と明らかになりました。
・社会的な問題はこの際、論じない。
・認識の問題に絞る。
・個々の作品の事例は重視しない。
美学の学術としては以上の設定では限界があるような気がするのは正直な感想です。しかし、もう始まってしまった話ですし、質問主の貴方がそう思うなら、それで良しとしましょう。これは議論の枠組みを設定するというだけのことですし、その権利は質問主がもっています。別の箇所で述べたように、質問主はこういう意味で、議論の主導権をもっているのです。この点で労力を使っても、平行線に話は終わるでしょう。上述のルールにのることにしましょう。
歴史的背景としてのナチスの問題は、貴方の主張が明確になってきたら最後に私から「貴方は違うというかもしれないが、議論はネオナチ的である」と批判することがあるかもしれません。が、貴方の今の記述では、まだその段階ではありませんし、私もそこまで言っていません。というのも貴方の記述は貴方の意思と関係なく、原理主義的な書き方になってしまっただけのことのようだからです。ナチス的な議論にならないことを願うと釘を刺したまでです。Hidocchi氏の丁寧な補足を読みました。少なくても、貴方がファシズム支持者ではないことはわかりました。それはそうだろうと思っていました。ですので、ブラック・ユーモアなのかな?と思ったのです(ファシズム支持者でも、突然、ナチスで何が悪い?!という話をする人は少ないでしょう)。細部で議論の余地は残りますが、貴方にファシストのレッテルを貼ったわけではないので、私の書き方が悪かったら許して下さい。
さてBragelonneさんに話を戻して、貴方が反復して問うている次の一節は、私には挑発としか読めなかったが、重大な問題を言っているのでしょうね。「んなわきゃない」などという言葉は、真面目に議論したいなら、おやめになった方がいいでしょう。冷静さを欠いているだけにしか読めないのですから。
>★ つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自
分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を
砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
☆ んなわきゃない。
○ 《無根拠》なる石に〔* 《 α 直感》をめぐるかたちで〕つまづくと
すれば それは審美眼の劣化につながっている。
☆ とはっきりと宣言しています。
これは貴方の設問設定に関連する同意を求めていると読める箇所です。しかし私には議論の結果、質問欄はそもそも何を問うているのかがわからなくなってしまいました。もちろん、次第に明らかになったものもあります。
・何が劣化したと思っているのか?
――第一次的審美眼である直感。原初のαと呼ぶもの。
・どういう要因か?
――logosの理解の浅さ。純粋な直感を妨げる社会的価値基準など第二の審美基準が蔓延していること(?)。
しかし一方で貴方は、各個人が美と感じる対象は違うことを認めらっしゃいますね。つまり、各個人が口にはしないけれども、感慨に打たれる瞬間があることを認めているわけです。では、なぜ他人が美と感じているものを「劣化」だと判断できるのですか。貴方は他人の直感αの様態を覗けるわけではないですよね。そうしてみると貴方がどのような問題を受けて、劣化だといっているのかが分からなくなってしまったのです。
なるほど美術史家の書いた本には、「私、キムラは一枚の絵画の前に立ち霊感に打たれた」などと書かず、「~~という画家は1890年生まれであり、生来の憂鬱症を抱えていた」などと第一次的直観の話をせず、第二次的な情報を並べているわけです。しかしそれは、直感が衰えたとみなす根拠にはなりません。書かないだけかもしれませんから。同じことは、著述家に限らず、一般的な人にも言えるでしょう。
さて、貴方が、直感の劣化が「われわれ」という一人称複数の集団に蔓延しているとまず感じた根拠はどこにあるのですか?これは木村の文献は関係ないようですが(gの解釈でしょうが、これは囮なのでしょう?)、改めて教えてください。それがわかるだけでも、私にとっては得たものがあるでしょう。
なお、「審美眼」の劣化と言わず、「直感」の劣化と言うことにしましょう。審美眼はもっと広い意味をもっていて、話が混乱しやすくなりますから。
ご回答をありがとうございます。
次のわたしの方針について合意が成ったでしょうか。
☆☆(No.44お礼欄) ~~~~
【A:話の進め方のあらたな提案】 で それでも絵画や画家についての議論をしてこそ美学が成り立つというご主張であるのならば わたくしに出来る限り その議論に応じますと 今回お伝えいたします。
【B:その提案にのっとって ただしまづはそれまでの話を整理しておく作業】 その初めに すでに議論のすすみに応じて 懸案となっている一件を取り上げ お尋ねしている。こういう情況です。どうですか?
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち【A】の軌道修正について合意が成り 【B】のわたしの言い分について答えてくれたものと受け取ります。
表現のもんだいに過ぎないかも分かりませんが ただし 次のような内容を言ったおぼえはありません。
★ 大雑把にまとめると、貴方の考える美学の枠組みにのるか、のらないか、を私は迫られているようです。
☆ そうではなく 話し相手つまりわたしの考える《美学の枠組み》を それがたとえご自分の枠組みとは異なっていても それが異なっているものとして持たれているということそれ自体について認めるということ これをわたしはあなたに迫っています。《のれ》とは言っていません。
★ 「んなわきゃない」などという言葉は、真面目に議論したいなら、おやめになった方がいいでしょう。冷静さを欠いているだけにしか読めないのですから。
☆ こういうことを問題にするのは わたしとしてはめづらしいのですが 何が《真面目》であるのか そういう主題についても立ち止まってお考えになることを 徒労としてでも お伝えしておきます。
というのも 前回の【B】の話は単純であって 相手の言い分を まづは見止めるところから話はすすめなければならないと〔だけ〕言っています。
★★(回答No.43) ~~~~~
つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自
分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を
砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このような《まとめ》をしたことはないとこちらは言っているのですから 勘違いでしたというような趣旨の受け答えがまづ必要であり大事です。その受け答えをしたと同じになるというような話の進め方に成ってはいますが それは きびしく言えば間違いです。文献学のいろはのいです。
議論などをするつもりは ありませんが 応じるというからには 議論のエチケットを守っていただきましょう。そうでなければ 《んなわきゃない》とならなければウソです。
分かりやすいのであれば それでは 言いましょう。そのようなマ(間合い)の取り方 これが じつは 美学にしても何にしても すべてです。そういう話を 質問者としては しています。そうとすれば そこに《直観につうじる直感 α 》の問題つまりその劣化のもんだいがあるのではないか? こういう心づもりがあります。
おそらく この趣旨が 原理主義でありファッショであると疑われており その心づもりとしては 宣告したいというところなのでしょう。
そしてそれなら それは わたしの提出した《美についての 人の善とその損傷とさらにその癒やしをめぐる理論》のもんだいです。これは――というよりも 《ロゴス(α) すなわち神》を出したところで 話が確かに何でもありの情況になったのではありますが―― 同じくたしかに進めがたい主題です。逆に言うと そこまでの議論の用意が 互いにあると合意したことを意味しませんか? ほかの参加者の方々にしてみれば 勝手にやってくれと言う人もいるかも知れませんが あなたとの間では そういう言わば段階(局面)に入っているのではないですか?
でもそのことは 成るべく措いておきましょう。質問者としては 回答者の要望にこたえたい。その方針ですすみます。
ただし 過去は 話しのつづきとしてまったく度外視していいわけがないと考えますから すでに触れたいろはのいとしてのエチケットを守っていただきましょう。
★ つまり、各個人が口にはしないけれども、感慨に打たれる瞬間があることを認めているわけです。では、なぜ他人が美と感じているものを「劣化」だと判断できるのですか。
☆ この問いについても 先の《理論》如何の問題になっています。この理論ではだめだというのなら 出来れば理由を添えて そう(答えになっていないと)言った上で話しをあらたにすすめていたただきたい。それは 美の体験は決してのっぺらぼうではないの問題です。
まづはこういった応えになります。
No.46
- 回答日時:
zakky74でございます。
bragelonneさん、こんばんわ。先日、bragelonneさんに提案しておりました件ですが、
>>ご自身の判断基準を一旦は横に置いておくのが嫌なのでございましたら、・・・明確にお応えなき時は、・・・それが、bragelonneさんの本意と違っていたとしましても、僕はその様に判断致します。
によりまして、bragelonneさんはご自身の判断基準を横に置いておくのが嫌だとの姿勢であると僕は判断しております。ですが一方では、bragelonneさんは判断基準の問題性2.と3.についての理解と納得は実感込みでされている事かと推測しています。
2.一人ひとりの判断基準は全部違う(だから人と人は分かり合えない)
3.だからと言って一つにさせたらもっと問題(機械的・ロボット的・ファシズム)
ですからこの判断基準の問題性2.と3.について、如何様に突破していくのかが課題として残っております。
>早く回答を書きなさい。
これは何についての回答でございましょうか?
イメージについてという事として受け取りまして、投稿を続けようと思いますが、もし違う事についての回答を求めていらっしゃるのでしたら、仰って下さいませ(bragelonneさんの質問に対して)。
ところで一段階、僕は既にイメージがどういうものかをbragelonneさんにお伝えしております。ただ、そのイメージの伝達には大変な難しさを孕んでいる事を予測しておりました。明確な悟りという表現を引き合いにしながらの取り組みでした。
当然の事ながら、bragelonneさんに伝わっていたものは僕がお伝えしたかったイメージではないと僕は判断しました。僕がお伝えしたかったイメージが前提となった上でのbragelonneさんからのご意見でしたら、僕はその事には疎通・交流を図る上で意味も価値もあろうかと思います。
ですが、僕がbragelonneさんに受取って頂きたかったイメージのイメージではなかったんですね。bragelonneさん側のイメージを前提として、その上にbragelonneさん側の論理が展開されているのを感じました。
bragelonneさんは、質問者としての立場でございますし、僕は回答を投稿する者としての立場でございます。まずイメージを100%受け取った上で、その100%のイメージを下に選択が始まるかと思います。
ですが、そもそもbragelonneさんに伝わっているイメージはほぼ0%でございました。伝わっているイメージがほぼ0%なんですけれども、bragelonneさんからは次々とbragelonneさんの論理が出てきます。ほぼ0%の土台の上で、一体どんな循環がなされ、共に交流を創り上げていけるというのでしょうか?
この時、僕にはbragelonneさん側のイメージを受け取り、bragelonneさんの判断基準を理解する選択もございましたが、この時はそれを選びませんでした。Q&Aのサイトであり、僕がA側のポジションだったからです。
僕側のイメージがほぼ0%で伝わっている場合、bragelonneさんから出てくる論理に僕が合わせますと、それだけでも文字数を食らいますし、生産的ではございません。
故に、bragelonneさんに伝わっているイメージは違うという事を中心にお伝えし、疎通・交流のズレを悟りの観点からお伝え致しました。
すると、bragelonneさんは、まるでその意図とイメージが伝わっているかの様な土台の上でまたもやbragelonneさんの論理が展開されておりましたが、何とそこでも僕が伝達した悟りの観点とは違うイメージでございました。ここでも、ほぼ0%でございます。
このままではマズイと思いました。
低い循環率を高める事が先決だと判断した為に、bragelonneさんの情報処理によってイメージが曲がって伝わっている事をお伝えした上で、その理由はどこにあるとお考えなのかをbragelonneさんにお聞きしたところ、
>と言われれば わたくしの側にそのことについての確固とした対策・・・
と仰りました。仕組みをご存じないと判断しましたので、その仕組みと対処法をお伝え致しました。
それが判断基準の問題性と、判断基準をいったん横に置いておくという事でございます。予測は出来る事ですが、実はここでもbragelonneさんはご自身の判断基準から来る論理が展開されております。
イメージのイメージは、bragelonneさんの判断基準の外の事でございます。ですが、bragelonneさんはご自身の判断基準を選択されました。すると次に理解すべきは判断基準の不完全性でございます。
如何でございましょうか?
No.45
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。
Hidocchiでございます。今回は、別段、ご回答に供することはございません。ですが、ANo.44におきまして、愚生の意見に関し言及がございましたので、ご返答いたします(このままですと、愚生はファシズム擁護者と受け取られないからでございます)。
> ナチスのホロコーストの延長にある退廃芸術という排除運動
・ユダヤ人の迫害
まず、ユダヤ人に対する相当のルサンチマンがドイツ国民の中にありました。そして、ヒトラーが反ユダヤ的な発言をくり返し、ドイツ人に優越感を芽生えさせることによって自分の人気を上げていったかと察せられます。そして、ユダヤ人を差別し、さらに首相、総統(首相にして大統領)へと権力を伸ばしていったものと解しております(ヒトラーは極めて民主主義的な手続きにより、公約(?)を守り続け、権力を拡大していきました)。
・ホロコースト
ユダヤ人大量殺戮でございますが、この問題につきましては、様々な説がございます。以下に、R.ヒルバーグの解釈を述べさせていただきます。
まず、官僚たちはユダヤ人たちを「憎悪」してはいませんでした。4つの権力集団(官僚・軍・産業・政党)は自分たちの判断がどこに導くかを知らないまま独自に行動し、ある時には互いの仕事をさえぎり、前人未踏の犯罪へと邁進していったというものです(このホロコーストにより、大儲けした産業もございました)。ここでの主犯は一人ではなく、ドイツ官僚全体に及びます。
従いまして、ユダヤ人の迫害、ホロコースト、そして退廃芸術の排除運動は、根本的に異なるもの(つながりがないもの)と考えております。
> 退廃芸術 という排斥運動も「劣等」とみなしたものを排斥する流れにあるものです。一方、受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動ではなく、健康への配慮というものでしょう。「どちらも近代合理主義」と同列に議論できるものではないはずです。
そもそも、“近代芸術”を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だと論じた理論を掲げたのは、マックス・ノルダウ(ユダヤ人)だったかと記憶しております。
一方、優生学の問題でございますが、従来、優生学・優生思想はナチスの残虐性を立証することに主眼がおかれていました。この残虐性は愚生も認めております。ですが、そもそも優生学(eugenics)が最初に唱えられたのはイギリスですし、また当時では、アメリカも含め、スウェーデンのような福祉国家においても公然と進められてきたのも事実でございます(ドイツ以外の国々で表沙汰にならなかったのは、戦勝国であったという理由は大きいかと思われます)。
ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F% …
また、「受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動ではなく、健康への配慮」ではなく、厳密には、「受動喫煙の禁止とアスベストの問題は排斥運動でもあった」と考えています(背景には、兵士の増員というものがありました)。
そして、上記政策反対論者は、“禁煙ファシズム”というスローガンでもって(宮崎哲弥氏や養老孟司氏等です)、抵抗しているのもご存知のことと思われます。
因みに、ドイツでは“健康増進”のための政策提言は、過去の経緯から、積極的に乗り出せない状況にあります。もう、過去のトラウマから開放してあげるべきかと考えております。
・ナチスによるその他の排除
“軍需産業(=特定の産業)と政治家との癒着を排除(既得権益の撤廃)”
これも、ヒトラーを、ドイツ国民が拍手喝采のもとでリーダーとして迎え続けた理由の一つかと考えております。
参考:ロバート・N. プロクター著「健康帝国ナチス」
仰いますように、“「どちらも近代合理主義」と同列に議論できるものではないはずです“
には、愚生に落ち度がございました。申し訳ございません。
> 第三者も閲覧可能なものだから、気をつけたいところです。
いえ、逆でございます。確かにナチスには“負”の遺産もありました。愚生もこれを認めております。ですが、“功”ともいえる遺産もありました(それでなければ、当時第二の経済大国にはなりえなかったと推察されます。
換言いたしますと、“ナチス”という言葉のみで、思考停止するのは、危険かと考えております。
従いまして、「現代美術に批判を加えることは、たとえナチスがそうであったとしましても、避ける必要はない」は、撤回するつもりはございません。
最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっちさん ご回答をありがとうございます。
残念ながら ナチス論 ヒトラー論 ドイツ国民論などなどは わたしには荷の重い課題です。
《わが闘争》を読んだときには この文章は 批評や批判の対象にはならないと考えてしまい それからあとは そのままになっています。
質問者として 見守っております。
No.44
- 回答日時:
貴方は前回の回答のお礼欄で、感情的になってらっしゃいますね。
信頼関係もないからこれ以上は話せない、といわんばかりです。三カ月程度しか貴方を知りませんが、貴方の悪い癖です。確かに私生活では、私は嫌いな相手に淡々と話すのがいかに難しいかを感じることがあります。しかし貴方は学術の話をなさっているのだから、ご自分の主張を整理してまとめてくださればいいのです。説得的に話すのは同情的に語るのとは違います。貴方はそういう様式に慣れないようだから、どういう点で説得されないか、以下にまとめておきます。まず美学的に納得できない理由について。それは話が抽象的だからです。抽象的な概念は整理したでしょうが、美学の議論なら、個別具体的な作品や流派を論じ、例を挙げるべきです。貴方の議論は、抽象的に、何が至上命令だとか、何がcredoと考えるか、霊感を受ける文献は何か、自分の意見に敬意を払ってもらいたい、という話です。これは学問ではなく、所信表明ではないでしょうか。簡単に水掛け論になってしまいます。
整理すると貴方の主張は、
・直感的な美意識(第一次的な審美眼)が現代では衰えているのではないか?
ということですね。その理由づけはいろいろできるでしょうが、私への話では、
・credoだとかlogosの理解が不十分であること、
・社会背景や歴史性などをすぐ持ち出す輩がいること、
ということになりそうです。
私の立場は、第一次的な審美眼が不十分であると敢えて認めた上で、その補助となる第二次的な審美眼の有用性とその発展性の議論をしています。貴方は私に同情するなどと嘯いていますが、なるほど、貴方にしてみると欠損している症例が出てきたとお思いなのでしょう。こういう話し方は生産性が無いので、喧嘩論法でしかないと思いますが、それが貴方の流儀なら仕方ないことです。ただし相手の意見で認めるべきところがあれば認めればよいし、認められないところは質問すればよいとは申し上げておきます。
しかし貴方の方もどうも煮え切らないらしい。というのも、貴方がこれで、あらゆる芸術に見開かれているのなら、なるほど貴方はcredoに対する深い理解を通じて、直感を洗練させえたことになります。しかし貴方がお好きだといっているのは、既に認められた巨匠ゴッホであって、別段、特に独自の議論を展開しているわけでもありません。
仮に直感的に貴方が普通の人が認めえない美の様態を直感によって浮き彫りにしたなら、貴方の感受性に敬意が払われもしましょう。たとえばよく詩人が絵画論を書きますが、少々、議論が飛んでいようと、常人離れした鮮烈な美意識で議論を展開したら、それは見事なものです。しかし貴方は何を言いましたか?――お手上げだといって、私がさらに促して、数行で終わっただけではありませんか。たとえばルネ・シャールのゴッホによせた散文詩などご存知ですか。貴方が直感的に美を認識し、なお且つそれが排他的ではなく、豊かなものだというのなら、その内実を示してもらわないとなりません。貴方はそれがおできにならないようだ。したがって、貴方が「審美眼が劣化した」と結論しても、何ら納得できないのです。これが第二の、日常的なエッセイとして納得できない理由です。
しかし、貴方が直感による鮮やかな評論を展開できないでも、それは筆力の問題であって、一般的にそういう認識があっていいという話なのかもしれません。ただし貴方は十分に議論を尽くしたでしょうか。たとえばシモーヌ・ヴェイユの『キリスト教的直観』などご存知ですか。貴方と同じくcredoの話をしていますが、原理主義的な印象はありません。ヴェイユの取り上げるテーマは多岐にわたりますが、領域を独断で定めるのではなく(つまり審美眼とは直感以外のことを言わないと貴方は唐突に決めてしまうが、そういうことはしない)、例証もしています。問題意識も社会の深い病巣と結びついており、問題提起に意義を感じられます。ところが貴方は「われわれ」が何者かの説明さえ、していない。右往左往しており、右往左往でいいじゃないかとおっしゃる(存在の甘え?)。しかし、まず自分の立場を決めて理路整然と議論を尽くさなければ、主張がわかりません。相手の認めるべきところも、反対するべきところもわかりません。これが第三の、思想的に納得できない理由です。
以上、三つの角度から述べたように、説得的に議論するとは、同情するとか、相手の心理を思いやるとか、ということではなく、するべき議論をするというに過ぎません。貴方はそれをしなかった。したがって、仮に貴方ご自身が原理主義ではなくても、原理主義的な話しぶりになり、最後は開き直ってしまった、ということだろうと思います。
そうですね。まづはご回答をありがとうございます。
もしどうしても議論を尽くさなければ話はかみ合わないということでしたら どこまでやれるか分かりませんが そのように振る舞ってまいります。
たとえば こうです。
☆☆(No.43お礼欄) ~~~~~~~
★ つまり、設問者個人が、日常的に見てもよくわからない作品があり、自分の研ぎ澄まされた感受性を妨害されていると感じ、どうしたら より感受性を砥ぎ済ませられるか?――と問う議論と小さくまとめられるからです。
☆ んなわきゃない。
○ 《無根拠》なる石に〔* 《 α 直感》をめぐるかたちで〕つまづくとすれば それは審美眼の劣化につながっている。
☆ とはっきりと宣言しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この一件は お認めになったのですか。どうですか?
何ら触れられていないので 議論をすすめると言っても 実際にはそうも行かない。と言いますか わたしの流儀で――という意味は 美の鑑賞のみにしぼって話し合いをすること つまり 評論は美の鑑賞とはまったく別の作業であると前提しているということ この前提と流儀で―― 話をすすめてもよいと受け取る謂われはあったわけです。
この件では ボールはそちらに行っていますよ。
すなわち 《ゴッホ論》は 何らこの質問で質問者の問題意識においては問うていないのです。ゴッホの絵は 《 α 直感》が与えられる美を宿すと言って たぶん同じことを表明する人が三人ほどいれば よかったとなるお話です。ほかの画家にしても 同じくそういう表明を集めて あぁよかったという話です。
そのような単純な話でじゅうぶんであるのは 何故かと訊かれるならば 《人が美ないし真理を直感するのは それぞれの人間がどういう思惟と行動を経てその生きる過程でどういう意味をもって起こることなのか》という理論を説明しました。
美の体験とは それまでの人生においておのれの心に逆らわないという善が損傷を受けていたとすれば その損傷を癒やし直すという意味を持つ。わたくしの場合は ゴッホであった。誰々は これこれの画家だった。というお話です。(そう確定させるために 多少の疑問点について尋ねてはいます)。
けれども そのゴッホについて論じよということは――むろん 論じてもかまわないわけですが―― この問いに関しては何の関係もないわけです。欠かせない事項ではないわけです。
で それでも絵画や画家についての議論をしてこそ美学が成り立つというご主張であるのならば わたくしに出来る限り その議論に応じますと 今回お伝えいたします。
その初めに すでに議論のすすみに応じて 懸案となっている一件を取り上げ お尋ねしている。こういう情況です。どうですか?
せっかくですから もう一件お尋ねします。同じく鑑賞と評論(もしくは 作品の評価)とを分けての話において クレーの作品にちなんで:
☆☆(No.43お礼欄) ~~~~~~~~
美術作品を《退廃芸術》であると《評価》することは ですから ここで問題にしていないことになります。そのようなナチス関係とはまったく別個に それぞれの作品を見ていけばよい。こういう趣旨だと理解します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ナチス関係は 美学にとって重大な主題であるのではなかったのですか? それなのにこれも素通りでしたね。どうでしょう。
せいぜいがその主題は 美術作品が社会の中で特に権力によって利用される歴史的な事例 あるいはつまり美術をめぐる社会力学の議論だと思われますが どうでしょう。
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