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「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出られないわ」

この女優さんの表現に不自然さを感じますか。
「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出れないわ」
という発言との比較が、当質問の眼目であります。
どちらも「出る」の可能表現なわけですが、

前者の、「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出られないわ」は、
『みんなの前に出るなんて不可能だわ』というニュアンスを強調した表現。
つまり、出れない対象に着目した表現。

後者の、「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出れないわ」は、
『この私が出るなんて不可能だわ』というニュアンスを強調した表現。
つまり、出れない主体に着目した表現。

と思います。
みなさんは、どう思われますか。
すでに似た質問をしていますが、改めてみなさんのご見解を伺います。
  

A 回答 (16件中1~10件)

後者はNo.2さんのおっしゃるとおり、「ら抜き言葉」です。

現在のところ、単なる誤用です。

ただ最近の傾向として、「ら抜きは可能表現に、元来の「ら」のある形は尊敬表現に、という使い分けの意識が生まれつつあるようだ」という話を聞いたことがあり、もっともだなとは思います。「ら抜き」のメリットと言ってよいかもしれません。
ただ、可能と尊敬がまぎらわしくてどちらかわかりにくい、という場面を私は簡単には想定できません。そういう場面があってこそ、この使い分けが有効と言えるのであって、そんな場面がないなら、ただの誤用でしかないでしょうね。

さて、八十歩ほど譲って、この「ら抜き」である後者の例文が可能を表しているとしましょう。何が可能かと言えば、「出る」という動作に関してです。他のことは言っていません。

また「出られる」という昔ながらの可能表現、こちらも「出る」が可能だ、と言っています。他のことにはふれていません。

質問者様は主体か対象かということに注目していらっしゃいますが、それは語順や、他の強調表現によって表現されるもので、可能動詞や可能の助動詞の関知するところではありません。
誤用だから、というわけではありません。五段活用からの可能動詞(たとえば「歩ける」)と昔使われていた可能の意味の「歩かれる」で比較してみられたらいかがでしょう。同じ結論になりはしませんか?
・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩かれないわ。
・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩けないわ。
何か違いがありそうですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩かれないわ。
・大女優の私がこんなスッピンでみんなの前を歩けないわ。
何か違いがありそうですか?

そうですね。一見するとどちらでも同じ、と見えますが、実は違うのではないか、というのが私の考えです。
なにが「実は違う」のか、と言うと、話者の意図です。
この意図は、ほとんど無意識的なもので、話者本人も、ひょっとすると気づいていない場合がおそらくあることだろうと推測されます。
しかし、文法にしてもそうだと思うのですが、言葉があって意味ができるわけではなく、あくまで人間の心情を表わすためのツールとしてあるのが言葉だろうと思います。
挙げていただいた例文の場合、次のような(もしかすると無意識的な)違いが、話者の意図に含まれているはずです。
「歩かれない」「歩けない」が、どの部分を受けているかと言えば、それぞれ、
1.
大女優の私が→歩かれないわ。
(こんなスッピンで)みんなの前を→歩かれないわ。
2.
大女優の私が→歩けないわ。
(こんなスッピンで)みんなの前を歩けないわ。
と2箇所になるでしょう。

大雑把に受け止めると、両方を受けていると考えることもできないわけではありませんが、
1.(こんなスッピンで)みんなの前を→歩かれないわ。
2.大女優の私が→歩けないわ。
に、それぞれ重点が置かれた表現だと思うわけです。


私の言いたいことをもう少しわかりやすくするため、別の例をあげてみましょう。
3.こんな派手な靴じゃ、(他人に見られるのが恥ずかしくて)外を歩かれないわ。
4.こんなに大きな穴が空いている靴じゃ、(足の裏が痛くて)外を歩けないわ。
()内は、発話されていない、とお考えください。

3は、自分の足で歩くことが不可能だ、と言っているわけではありません。
(他人に見られるのが恥ずかしいので)『外という対象』を歩くことができない、と言っているわけです。
つまり、家の中なら歩ける、ということになります。
このように、歩く対象(=外)の都合による不可能性を表現したい場合、「歩かれない」と言うと思うのです。
本質的に、その不可能性の責が主体に及ぶ性質のものではない場合、と言っても良いかもしれません。

これに対して4は、
(足の裏が痛くなる)という自分の理由によって、歩くことが不可能だ、と言っています。
歩くことが出来ない要因は主体にあることになります。


marisuka さん、お手数ですが、差し支えなければ、下記の質問についてもちょっと目を通して再検討してみていただけないでしょうか。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html
以下に、質問文から一部抜粋してみます。

〇この海は汚れているので泳げない。
〇この海は汚れているので泳がれない。
などは、どちらも可能でしょう。
ただ、この場合でも、
前者は、「海が汚れているという理由で、【私たちは】泳げない」という主体重視のニュアンスで、
後者は、「この海は汚れているので、泳ぐことが【不可能な海】だ」という対象重視のニュアンス。
という感じがします。

そして、
「怖い」という主体重視の意図が明確な場合は、
〇私は海が怖くて泳げない。
×私は海が怖くて泳がれない。
のようになるのではないか、というわけです。

また、
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%82%8C%E3%82 …の
2 可能の意を表す。…することができる。「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」
という辞書説明は間違いである、というお立場になるでしょうか。
   

お礼日時:2011/02/18 01:33

"QNo.6534485"番のページでも論じましたが、


そもそも「破格」の価値をイメージの差に起因する、と見做す『詭弁』もが、
此の世に存在するべきでないです。

単に真理を冒涜しているだけです。

この回答への補足

この欄をお借りして、一応、この質問を締め切ることをお知らせさせていただきます。

あらたな質問で総括をしておりますので、そちらにてご見解をお示ししていただければ幸いに存じます。

補足日時:2011/02/20 19:50
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>単に真理を冒涜しているだけです。

全くおっしゃるとおりで、詭弁や強弁というものは、そういった要素を持っていますよね。
気をつけたいものです。
あくまで論理的にいく必要があると実感させられます。
  
  

お礼日時:2011/02/20 16:56

No.3です。

お返事ありがとうございます。
別のページの質問・回答も拝見しました。白熱してますねえ。

さて、質問者様の「対象重視は<泳がれない>、主体重視は<泳げない>」についてですが。
つまり、可能動詞は主体の動作が可能であるかどうかを言う、ということでしょうか。
だとすると「泳げない海」「子供では行けない道」は不適切、ということですか?
「泳がれない海」「行かれない道」であるほうがよい、と?

ヤフー辞書の「れる・られる」の説明を引用してらっしゃるようですが(貼っていただいたURLでは表示できませんでした)、
 >2 可能の意を表す。…することができる。
 >「わかりやすい道だから子供でも行かれるだろう」
 >という辞書説明は間違いである、というお立場になるでしょうか。
このような使い方をしている方に、私は出会ったことがありません。これが五段活用の動詞でなく他の活用の動詞であれば賛成できます。「子供でも開けられるだろう」など。
ただ、少なくとも私の生活圏内(兵庫県の瀬戸内沿岸部)では、この言い方は行われていないようです。
だから、「泳がれない海」「行かれない道」には違和感を感じます。文法的に間違いではないとは知っていますが、「泳げない」「行けない」という形があり、そのほうが短く省エネタイプなので、そちらしか使いません。また、テレビなどでも聞いたことがありません。

主体・客体の別は、動詞の用法ではなく、文の作り方で表現できるので、動詞には区別がない、というか、区別する必要がない。これが私の意見です。
「この海は汚れているから泳げない」…対象(海)のせい
「私はこんな汚れた海では泳げない」…主体(私)の意思
「わかりやすい道だから子供でも行けるだろう」…主体(子供)が可能な動作
「子供でも行けるわかりやすい道だろう」…対象(道)を重視

言語に関して、こうしたほうが適切だとか、こうあるべきだとか言っても、それは意見としては言ってもよいでしょうが、現在の事象を解釈するには不向きだと思います。
まずは、例文を作るのではなく、実際に発話された例を集めて、解釈されてはいかがでしょうか。可能の意味の「歩かれる」「行かれる」「書かれる」「立たれる」など。

また、当サイトでの元のご質問「出られない」と「出れない」の違いについても、「ら」を抜くとなぜ主体に着目したことになるのかも、ご説明いただけるなら興味深いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>だとすると「泳げない海」「子供では行けない道」は不適切、ということですか?
「泳がれない海」「行かれない道」であるほうがよい、と?

そうですねえ。
やはり、シチュエーション次第ということになるでしょうか。

泳げない対象に着目した場合、「泳がれない海」ですね。
「私(たち)によって泳がれる」ということが実行され得ない海。
という受身的な要素も含まれるでしょうか。
これは、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6524818.html
にあるxianching さん(#16)のご見解です。
かなり適確な分析という気がするのですが、どう思われますか。

「せっかく海水浴を楽しみにして来られたのに大変残念ですが、重油の流出事故で、この海では泳げなくなりました」
⇒あなたがたが中で手足を動かして泳ぐという行為をすることができなくなった。
というニュアンス。

「今回の重油流出事故によって、この付近一帯、泳がれない海となってしまいました」

重油が流出し、わたしたちによって泳ぐという行為をされることのできない、そんな海になってしまった。
というニュアンス。
受身的要素が加味されるために、受身の対象となっている海に重点を置いた表現になり得る。
というわけです。
  
>だから、「泳がれない海」「行かれない道」には違和感を感じます。文法的に間違いではないとは知っていますが、「泳げない」「行けない」という形があり、そのほうが短く省エネタイプなので、そちらしか使いません。

この感覚はよくわかります。
わたしとしても、あやふやだったので質問に至ったような次第でして。
五段の可能動詞は室町時代頃から出現していたようですし、その分、定着の土壌が長期にわたって育まれてきたのだろうと思います。

>「出られない」と「出れない」の違いについても、「ら」を抜くとなぜ主体に着目したことになるのかも、ご説明いただけるなら興味深いです。

これも上に述べてきたことと似た内容になるのですが、「出れない」をラ抜きとして捉えずに、可能動詞として解釈するわけです。
まだ、途中ですが、考えている内容は、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6534485.html
にもう少し詳しく記述しています。
お時間と興味を持っていただけるようなら、ちょっと覗いてみてください。
また、ご見解をお示しいただければ、なお幸いです。
  

お礼日時:2011/02/20 16:52

14番の続きです。



「横着」なのは簡単です。

大衆が義務教育期間に学んだ内容の由来を諒察出来なかったせいで、
正しい表現を忘れたからです。

つまり国語文法への興味を抱かせ得なかった国語教育にこそ、
其の根本的な責任が問われねばならないのかも知れませんが、
「義務教育」を学校で大人達が受け直し難い以上、
現代日本の大人の全員が自覚しないと、次の世代には更に破格化が助長されるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>国語文法への興味を抱かせ得なかった国語教育

なるほどですね。
よくわかりました。
ただ、どうなんでしょうか。
国語文法そのものが(長い目で見れば)次々変化しているわけで、変化するにはするなりの何らかの理由があるような気もしますね、
端的に申し上げると、たとえば、
可能動詞はなぜ正しい文法で、ラ抜き言葉はなぜ正しい文法ではないのか、ということです。
わたしとしては、ラ抜き言葉自体が良くないのではなく、シチュエーションにそぐわないラ抜き言葉が良くないのだ、と思っています。
これを一緒にして、どんな場合でも、出れる、見れる、食べれると言うのを聞くとイライラします。
ラ抜き言葉無条件擁護派ではないことを念のためお伝えしておきましょう。
その科学的根拠、ということですが、しかし、この点に関してはまた、別の機会にでもご教授願うことにいたします。
とりあえず、もう一つの「休まれない / 休めない」の表現についてのご見解をお聞かせいただけると有り難いと思います。
  
  

お礼日時:2011/02/19 16:04

No5です。



>ちょっとうまく検索できませんでしたが、たとえば次のような場合はいかがでしょうか。
・風邪を引いて病院へ行き、点滴を打ってもらった。医者からは、「今のあなたはお酒を飲まれない体なのですから、十分注意するように」と念を押された。

この場合、「お酒を飲めない体」も「お酒を飲まれない体」も不適切だと思います。

例文に出てくる風邪を引いた人はきっとふだんはお酒を飲む方なのでしょう。
風邪を引いているからふだん飲んでいるお酒は控えるように、と医者は言いたいのでしょうから、禁止を表す
「お酒を飲んではいけない体」
というのが適切かと思います。

ここで不可能を表す表現を使っても医者の言いたいことは伝わるでしょうが、その場合は「お酒を飲めない体」でも「お酒を飲まれない体」でもどちらでもいいと思います。

他の方も回答していますが、可能動詞と動詞+助動詞「られる」の間にニュアンスの差はないというのが私の解釈です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ここで不可能を表す表現を使っても医者の言いたいことは伝わるでしょうが、その場合は「お酒を飲めない体」でも「お酒を飲まれない体」でもどちらでもいいと思います。

他の方も回答していますが、可能動詞と動詞+助動詞「られる」の間にニュアンスの差はないというのが私の解釈です。

簡潔でわかりやすいですね。
大変参考になります。
ただ、何らかの違いを感じておられる方もいらっしゃるので、単なる私だけの妄想とも思えず、もう少し掘り下げてみたいと思います。

  

お礼日時:2011/02/19 12:18

法匪とは


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%A1%C8%DB

どこの国でも言語は時々刻々変化してゆきます。
古い文法に固執し過ぎる人⇒法匪  と言われます。

ただし、文法を無視して新しい言葉や言い方を駆使する人・・・言葉遣い下品
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

法匪、難しい言葉をご存知ですね。
勉強になります。

お礼日時:2011/02/19 12:12

他の回答者の方々への意見陳述をも意図しまして、4・6番の者が再度の投稿を致します。



情けないことに、未だに非科学的な意見が提出が終わらない様ですが、
真理の冒涜を肯定的に考えていらっしゃいますか?

返事の内容を拝読すると、
私の説明が十分条件を満たしていない、と思われますので、再度の強調をします。

「ら抜き」が用いられる際にも、
対象に注目したり、主体に注目したりしている訳ではなく、
「ら抜き」・「い抜き」は唯の横着の結果です。

勿論乍ら、若し其の横着を小説やら演劇の台本やらの台詞の中へ
それ等を盛り込むのなら、有効なのかも知れませんが、
安易に非科学を肯んずると、文化の成長の足手纏いにもなりますから、
それが無いと困る状況を除けば、慎まれるべきでしょう。

この回答への補足

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6533298.html
にも関連質問をしています。
「科学的であるか否か」にも通じる内容ですので、お気が向くようでしたらご教授くださいませ。
  

補足日時:2011/02/19 12:14
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「ら抜き」が用いられる際にも、
対象に注目したり、主体に注目したりしている訳ではなく、
「ら抜き」・「い抜き」は唯の横着の結果です。

なるほど。
簡潔でわかりやすいですね。
ところで、このご見解(=横着の結果)の科学的根拠はどこから導かれているのでしょうか。
それが科学的であるという根拠も含めて、要点を教えていただけるとありがたいと思います。
素人ですので、可能な限りわかりやすくお願いできれば助かります。
  
 

お礼日時:2011/02/19 12:10

もう煮詰まっているとは思いますが、語感としましては


みんなの前に出られないわのほうが、
自ら大女優と言うだけに幾分品格がありまともな感じがいたします。
出れないわときたらもう大女優やらその他大勢やらと言う感じがいたします。
どちらもこの大女優ともあろうわたしがを主語としています。
がは強調の意味の格助詞だとおもいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>がは強調の意味の格助詞だとおもいます。

なるほど。
これは、とう質問の仕方に対する根本的なご指摘ですね。
おっしゃるとおりかもしれません。
「大女優のわたしが、」
の部分は無しの例文にしたほうが、質問の意図は伝わりやすかったのでしょうね。
大変参考になりました。

お礼日時:2011/02/19 12:04

(1)「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出られないわ」



(2)「大女優のわたしが、こんなスッピンで、みんなの前に出れないわ」

質問者様のようには思いません。
(1)も(2)も同じ。
どちも大女優ではなくアバズレ三流女優の台詞で、(2)の方がアバズレ度高い。
なんだかそちらの方に気が取られて質問者様のご趣旨に沿えません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご見解は承りました。
  

お礼日時:2011/02/18 20:19

2・4番の者です。



先程の投稿の内容では、
未だ十分とは考え難い箇所もが残っておりましたので、
更に直接的な説明を致します。

質問者様は、他のページでも、
『主体重視と対象(客体)重視とによるニュアンスの違い』の存在を
誤解されておりますが、残念乍ら、
元から其の様な考え方は存在しておりません。

主観的な印象の違いは、唯の誤解の結果でして、
もしそれが許されるのでしたら、もはや学問とは呼ばれ得ません。

そもそも質問者様は、誤用の価値の肯定を希望なさっているのでしょうか?

質問者様が国語関連項目へ出された疑問群を潰してしまい、
大変に畏れ入りますが、
中学校の国語の教科書の内容を復習なされば、
それ等の全てが解決されます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>質問者様が国語関連項目へ出された疑問群を潰してしまい、大変に畏れ入りますが、

いえいえ。
潰れたとは全く思っておりませんのでご心配なく。^^;
また、色々なご見解を伺うこと自体が目的ですので、推測と異なるご見解がないと質問した意味がありません。

>中学校の国語の教科書の内容を復習なされば、
それ等の全てが解決されます。

その可能性はありますね。
とりあえず、もうひとつの質問へのご回答を楽しみにしております。
よろしくどうぞ。
   

お礼日時:2011/02/18 20:18

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