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私は小学校教諭をしています。
子供は好きですが教師はどうも好きになれません。学校という世界には失望しています。
学校は所詮きれいごとと教師の自己満足の世界です。同僚の先生たちは皆優しくていい人たちです。でも子供のため子供のためと言いながら自分の価値観を子供に押し付け、それに何の悩みも疑問も抱かず、自信たっぷりに教師を天職だなんて言える姿を見ていると、教師とは単なる説教好きの偽善者に思えてきます。
子供に正しい生き方を教えられるほど、自分は立派な生き方をしてきたんか?!教育について自信をもって語れるほど自分は立派な人間なのか?!子供を洗脳することが教育なのか?!って突っ込みたくなります。職員会議なんてひどいもんです。くだらなすぎて意見を言う気にもなれません。

もちろん教室で子供の前に立つ以上、教育に対するある程度の信念と自信がなくては、少なくてもそういう振りをしなくては子供を引っ張ることはできません。私も子供を叱ったり説教したりします。でも常に自分が絶対正しいなんて思っていません。そこまで私は偉い人間ではありません。子供も気に入らないときは私に「気に入らない」って言います。時には子供と喧嘩しながら、正しいと思われる答えを一緒に探していこうって思っています。
子供のことは本当に好きだし、子供を信頼しています。でも教師がどうしても好きになれない。先生と呼ばれたくないし自分を教師だと名乗りたくない。
こんなひねくれた私はやっぱり教師には向いていないのでしょうか?転職を考えたりする今日この頃です。ご意見アドバイス、何でもかまいませんのでお願いします。

A 回答 (26件中1~10件)

読んでいて同感過ぎます。

さらに、こちらは、長年、講師ですし、年功序列でもなく、常に下に見られ、教師と友達になりたいとも思いませんでした。子どもの世界にも上下関係があるにつけ、それを良くないと話し合っている教師の姿がありますが、自分たちが無意識にしていることは気づきません。自分も無意識に悪いことをしているかもしれませんので、誰も説教する資格は無いと思います。管理職で尊敬できる人も滅多にいません。しかし、教師の枠を超え外を見れば、尊敬できる人はたくさんいます。また、子どもの心の美しさや優しさに触れ、癒されることがいっぱいあります。教師をどんどん病休にさせた子ども集団でさえ、大人より断然、優しさを持っていることがわかり、1年間、仲良く臨時講師として過ごせました。基本的に子どものほうが心が綺麗です。専科を担当することが多いので、心に響く歌を伴奏しながら、子どもと歌うという活動が一番好きです。「いい歌だなあ!」「もう1回!」と言われます。こちらが、心に響く歌詞の歌は、子どももいい歌といいます。歌いながら泣かれたこともあり、感受性の強さに驚きます。歌の感じ取り方、解釈はそれぞれなんでしょうけれど。説教なんかしているより、「これだ!」といつも思っています。教師を好きになれないことはずっと気にしていたし、向いてないのかなとも思っていました。協力して仕事する仲間なのに、プライベートまで付き合ってられるか、お金もないのに楽しくない飲み会なんて行かないわ・・・こんなんで仕事できるのかなあって思ってたけど、何年も過ごしてきてすっかり慣れました。私みたいな人は「誰とでも仲良くしやなあかんよ。」なんて言う資格はなし。教員採用の面接試験も悪いので、教師の人格無しのレッテルを貼られながらも図太く学校で働き続けていきます。「説教力より芸能力で!」と自分のキャラを決め、芸を磨き続けます。勝手に好きなキャラになったらいいんだと私は思っています。
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女性か男性か判りませんが、



私塾(お稽古事)の先生やボランティアで子どもと接する方が良かったんじゃないでしょうか?
「好きなことは仕事(職業)にするべきではない」という考えもあります。



参考になりました。
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私は高校の時、先生っていろんな先生がいるなって思いました。

高3の時担任だった先生も自分は教師に向いてないのかな?と言ってました。その先生は、とてもいい先生でした。悩みながらも私たちと真正面から向かってきてくれていると感じたし、その悩んでいる姿や頑張っている姿を見て、人の生き方について学んだ気がします。
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周りの教師を好きになれない、あなたこそ、子供たちが好きになる先生です。

私は小中学校のPTA会長ほか役員を10年ほどしました。見てきた教師はたくさんいますが、社会人として尊敬できる人は少ないです。私たちの職場でも、「教師には社会人として常識を備えていない人が多い」というのが、定説です。また、あなたのように自分を低くして、子供とともに成長する教師はごくわずかです。あなたみたいな人こそが教師として、子供に手本を見せられる人です。自信をもってください。そして、これからも周りの教師や校長、教育委員会より、子供の方を向いて自分の信念を貫いてください。未来を担う子供たちのために。
 忘れてならないのは、教育の究極の目的です。
 それは、子供の幸福です。このことを物差しにして、子供への教育について考えてほしいと思います。
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はじめまして。

まだ締め切っていらっしゃらないので、回答させて頂きます。

私は来月から、子供英会話の講師として某スクールにて働きます。

この前、初めて実習をし子供に英語を教えるという経験をしましたが、子供はまったくついて来てくれず、それぞれ思い思いの行動をしていました。

そこで学んだのが、子供は本能のままに行動するっということでした。
大人のように学校では「こうすべき」という理性が働かないので、先生がしっかりと勉強を始めとするルールやマナーをきちんと教育するべきだと感じました。

確かに自分ができないことを子供に言うのは良心が痛むことと思いますが、教えることと押し付けることは違うので、「こうあるべき姿」を人間の大人として教えていかなければいけない立場にあります。

きっとYukariさんは子供の視点に立って物事を考え、感じられる素晴らしい先生です!!!
小学校の教員の多くはとても自尊心のある方がいらっしゃると聞いています。

子供の脳の発達状態、家庭の環境、子供ひとりひとりの個性・興味があるので、その子にあった叱り方、そしてなにより褒め方(日本の教育はこれが足りないと感じてます)を考慮した上で、決して子供の上達を期待せず、先生が見守ってあげることが何よりかと思います。子供は聞いていないようできちんと理解しています。子供の聴覚の発達はとても純粋で繊細です。先生はただ教えるだけで、後理解するのは子供たちに任せればよいかと思います。それ以上するのが、押し付けだからです。いろいろな意見・感性があるから個性が生きてきます。皆同じ意見とは限らないので、先生はこう思うを伝えるのが教師のお仕事だと思います。

向いていない人など、いません!!!
自分に確固たる信念があれば、困難も乗り越えていけます。行動があるからこそ、気持ちがついて来ます。
悩むこともそれは成功への第一歩です。人間は考える葦であるからです。失敗・挫折しなければ、成功はできません。

ぜひ、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」を一読下さい。世界の有名人がいかにして、道を開拓してきたかの軌跡が如実に表われています。これを読むととても自信が湧いてきますよ。

長くなりましたが、参考までにご回答させていただきました。お返事して頂けると助かります。
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yukari178さん、こんばんは。


他の方のご回答に対してお返事されておられないので、この回答もご覧になられないかな、とは思いつつも、思うところがたくさんありましたので、書き込ませてて頂きました。

ご自分のことを「若い未熟な教師」とおっしゃっておられますが、希望にも燃えているはずで、まだ自分の目指す道を模索中の若い教師に、果たしてどれぐらいの先輩教師が自分の悩みを吐露するでしょうか。
自分のことで精一杯な相手に対して、抱えている悩みを打ち明けるのは、その相手に対して不必要な不安を与えかねません。
自信満々に見えても、その実悩んでいることはたくさんあるのです。
はたから見ただけで悩みがないなんて勝手に思うのは言語道断、まずそのことに気づくべきではないでしょうか。

洗脳という言葉を使っておられますが、yukari178さんは小学校時代の先生に、洗脳されましたか?
子どもはこちらが思っているほど甘くはないのはご存知だと思うのですが、実によく教師のことを観察していますよね。
言うこととやることに矛盾があると感じれば、信頼をなくすし、離れていくでしょう。
偽善ぶったことでも言わなければならないことがたくさんあることもおわかりでしょうが、私達が子どもより長く生きている立場から伝えなければならないのは、子どもたちが社会の中でよりよく生きていくための、いわば理想を示すことだと思います。(理想という言葉にひっかかりを覚えるかもしれませんが、うまく言葉が出ませんのでご容赦を)
自分ができていないことがあるからといって、それを伝えなくてどうするのでしょう。
>教師が教えることは全て正しいことです。でもそれを果たして教師は実行しているのか、努力しているのかと問われれば、少なくても私はしていません
私生活であなたがどう過ごすべきかは言えることではありませんが、子どもの前では努力すべきです。
自分ができないから教えないでは、それこそ自分の価値観の押し付けになってしまいます。
教師が言うことを吟味して取捨選択するのは、子どもの自由であり、権利であり、また、その力があります。
参考資料や選択肢は多いほうがいいのです。

>でも教員の世界で有能といわれる先生ほど、私からみると「うーん??」と思ったりもします。
それはご自身の価値基準の押し付けかな、という気がします。
有能というのがいまいちよくわかりませんが、子どもや保護者との関係の作り方を指して言うのならば、人それぞれやり方があるし、子どもの雰囲気によって対応を変えねばならない時もあるので、判断はしにくいと思うのですが。
職員室での顔が全てではないです。
ずっと一緒に学級に入り込みをしてからのご判断ならなんとも言えませんが・・・。

>職員会議なんてひどいもんです。くだらなすぎて意見を言う気にもなれません。
学級会でも子どもは自分の意見を述べるだけで、なかなか相手の意見を認めようとしないときがありますが、その時もくだらなすぎて、と思われるのでしょうか。
子ども相手にできることが、どうして大人相手になるとだめになるのでしょう。
子ども相手であれ、大人相手であれ、基本的な姿勢は変えるべきではないと思うのですが。
くだらないだなんて、頭からはねつけるような物の言い方、恐ろしい気がします。
今教えている子どもたちもいずれ成長して大人になり、同僚として学校に来るかもしれません。
子どもの頃は親身になって話を聞いてくれたはずの先生が、大人になった自分の意見をくだらないという態度で聞いている、そういう事態になりかねないですね。

批判ばかりで申し訳ありません。
御気分を害されるだろうとは思いましたが、本当に悩んでおられるのならば、こういう辛らつな意見もご参考になるかと思い、本音を言わせて頂きました。
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回答の蛇足です。



下のレスで現職方のレスで、以前教員実習に行った学校の中堅からベテランのとある先生に私が悩みを打ち明けた時に聞いた答えほぼ同じことを言っているレスがあったので補足したくなってまたレスしました。

私の教育哲学は「偽善」と「洗脳」ではなく、生徒の脳みそのキャパシティが10だとしたら、12くらい教えることだと思います。学校の先生は生徒の脳みそのキャパシティが10だとしたら1000くらいのことを教えているように思います。正直オール10点しかとっていない子が開成や灘中に入るのは不可能です。不可能ですが、ちょこっと良くすることはどんなに成績が悪い子でも、出来ると思います。我々教育産業に身をおく者の勤めはそれだと思ってます。

「背伸びすれば手が届くことを教える!」これが私の教育哲学です。無理なものは教えず、必要最低限のことを簡略化して教えるのがモットーです。偽善でもなければ、洗脳でもないです。生徒の現有の知識に少しだけ色づけしてやることへのお手伝いだと私は思いながら、今日も、いや、これからも指導をしています。
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私はいま、家庭教師派遣会社で勤務しています。

私もあなた同様、私もあなたと全く同じ考えを教育実習の時に既に思いました。子供の感受性を生かそうとする学校側の姿勢を全く感じられなかったし、保身や出世しかこいつら考えていないのか!と思いたくなりましたし、くだらない会議であぁでもないこうでもないと、朝まで生テレビしているのに嫌気がさしました。

だから、あえて教員採用試験は受験せず、教員免許だけを取得して、教育産業に身を投じました。子供は好きだけど、先生方が好きになれませんでした。

でも私はあなたは教師に向いていないとはまったく思いません。

ただ、教務主任や教頭や校長向きではないと思いますね。すぐ辞めて塾講師などに転進することをお勧めします。
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再度ごめんなさい。



>みんなと仲良くできるわけがないから努力する。そのことに意味がある。もっともだと思います。「忘れ物をしてはいけません」「人の話は相手の目を見て聞きましょう」「全力で頑張りましょう」教師が教えることは全て正しいことです。でもそれを果たして教師は実行しているのか、努力しているのかと問われれば、少なくても私はしていません。でも子どもには当然のようにそう教える。それが矛盾です。

矛盾があるから人間が人間に教える。そういうことです。
矛盾がないのなら、本を読めばよいでしょう。

>教員の中で命をかけて仕事をしていると胸を張っていえる先生は残念ながら少ないと思います。やっぱりみんな自分や家族が一番かわいい。当然だと思います。私もそこまでの自信はありません。でも、そういうことは理屈ではなく、いざそういう状況になってみなくては誰にも分からないと思います。

そうですね。平和のときの平和論というのですが、平時に平和を論じている人に限って、戦争のときに体制にくっつく卑怯者のことが多いもの。
これは思想の問題ではなく魂の問題だと思います。


>悩むことは大切だと思いますが、そんな悩みを持たず楽しそうに仕事をしている他の先生がうらやましくもあり、こんなことで悩む自分は向いていないのかと考えてしまったわけです。

ここが一番の問題で、再度メイルせざるをえなかった部分です。
悩みを持たなくなった教員こそ、怠惰であり、冷血なのです。
精神医療で、悩みが懸念されていますが、悩みのない人間は、もはや知性的な存在ではないはず。
悩みという言葉の匂いに反応して、それを拒絶する。それは逃げでしかないと思うのです。

人間として多いに悩みつづける。それが人間のあるべき姿だと思うのです。
悩みのない人間は死んだ人間。
ストレスのない人間は努力を忘れた人間。

そのことを知るべきだと思うのです。

放談お許しください。
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私の両親は小学校教諭で、私も今、小学校の教員免許のために勉強中の母親です。

小1の娘がいます。教育経験は一応あります(講師ですが)。
あなたの考えることは分かります。私も昔同じような事を考えたことがあります。それは正しい考えなのかもしれませんが、今の私にはむしろそれが綺麗ごとだったんじゃないか、と思えてします。もしかしたら、今の私の構えが以前より格段に斜めなせいかもしれませんが。(苦笑)

今の私が間違っているかもしれないので、こういう意見もあるのかな、くらいに思っていただいて結構ですが、私は親になり子育てをして、教育の基本形態は偽善と洗脳だと思いました。
偽善・・・・親も教師も自分ができないことを子供にやれといいますよね。でもそれは、それが「良い事」であり、「大切な事」だからです。それをする事、というより、「知る事」が子供のためになるからです。もしみんなが偽善を止めたら世界は大変な事になります。誰かが怒ってあげないと子供はそれが大切な事だと勉強できないのだから。つまり必要悪だと思うんです。
子供に「嘘をつくな」というのに、自分は嘘をつく。子供に「みんなと仲良くしなさい」というのに、自分は嫌いな人がいる。私はそういう不完全な母親ですが、では悪い母親でしょうか。
できないのは人間で弱さもあるからしょうがない事です。でも、自分ができないからとそれを子供に伝えないわけにはいかないのです。私が何も言わなければ娘はイヤな人間になって、友達もできず不幸になってしまうかもしれない。だから私は堂々と「こうしなさい!」と娘に言います。そして最近は知恵をつけつつある娘が「ママだって嘘言うじゃん」と口答えすると、「そう、だからママも悪いの。いい手本じゃなくてごめん。一緒に嘘つかないように頑張ろう。」といいます(これが私が考えた精一杯の誠意です)。私にとって、大切に思われる事は「嘘をつかない人間」「誰とでも仲良くできる人間」になる、といったいわば「結果」よりも、そうなろうと努力できる人間になること、つまり「過程」なのです。

洗脳だって、同じです。みんな自分が正しいと思っていることを子供に洗脳するんです。特に「親」ってのはすごいです。子供の頭の中を勉強やお金でいっぱいにする事もできるし、宗教でいっぱいにする事も思いのままです。実際みんなそんなものでしょう。でもそれだって、そうすれば自分の大切な子供が幸せになれると思っているからです。それを誰が責められるでしょうか。何が正しいいかもハッキリしない世の中ですから、自分の道を信じるしかないのです。また、それは親がやって良くて、教師がやってはいけないのでしょうか。自分が正しいと思う事を人に勧めるのは間違った行いでしょうか。

でも、たとえそのような偽善や洗脳をしたって、子供はいつまでも洗脳されていてはくれません。成長して、自分自身の答えを見つけてしまうのです。その時に大切になるのが、色々な違う考え方との遭遇なんじゃないでしょうか。その点から言えば、私はむしろ色々な人から「これこそ正しい」という、それぞれ違う正義を教えられるのは歓迎すべきなのではないかと思います。広い選択肢を持つということは、より自分にあったものを見つける事につながり、 矛盾するいくつかの正義の中で、子供は自分で考え、答えを見つける事を学ぶのだと思います。

正直「子供に正しい生き方を教えられるほど、自分は立派な生き方をしてきたんか?!」と問われるまでもなく、私は自分に自信などありません。というより、自分で言うのもなんですが、結構ダメ人間です。でも、子育てはノンストップで、見直しを図る時間もないので、そのままゴーゴーです。悩みながらも前進(時には後退?)あるのみです。学校の先生もたぶんノンストップだと思うので、そこが辛いのだと思いますが、自分が今考える最高を目指して頑張れば、それで良いのではないでしょうか。つまり、今あなたは自分が目指している「最高」が本当に最高なのかという事に悩んでいると思うのですが(そうでなければ「向いてないのでは」とか考えないと思うので)、今あなたが最高を目指しているという事実が大事だと思うんです。

長くなりましたが、何を言いたいかというと、そんなに思いつめないで欲しいという事です。みんなそんなもんだから、ではありません。人間には限界があり、完全にはなれないから、不完全な自分も他人も受け入れなければならないのです。でも、不完全には不完全の良さがあるし、完全でなければ教育者になれないものでもありません。完全を目指し謙虚に努力できていれば、それで充分資格があると思うのです。自称「ひねくれた」あなたには、あなたにしか教えられないものがあり、「熱く純粋」な他の先生にはその人しか教えられないものがある。その多様性を受け入れる事はあなたにも、子供にもきっとプラスになるはずです。

私から見て、子供の目線になっていっしょに考えたり、悩んだりしているあなたは教師としての資格十二分だと思います。でもちょっと視野がまだ狭い部分はあるんじゃないでしょうか。例えば「こんなひねくれた私はやっぱり教師には向いていないのでしょうか」とか言うあたりとか。(^^ゞ ひねくれ者が教師で悪い事なんかないですよ。それよりみんな純粋熱血先生だったら、かえって不自然で不気味でしょう。あなたが「○○はこうあるべき」という固定観念から脱却できた先に、きっともっと好きになれる教師としての自分がいると思いますよ。

・・・・なんて、長々とえらそうな事を言ってしまいましたが、責任はとれないので自信はなしです。(笑)
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