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哲学のカテゴリーがとても荒れてしまっている感じを受けます。

・自説を主張したいだけなのに、問いかけの振りをする質問
・同じ質問を何度も繰り返す
・特定の個人が質問を連投する
・自分の答えこそが正しいと、押し付けるような上から目線の回答をする
・質問者が理解できると思えない難解な用語を用いて回答をする。

そのような、書き込みがかなり目立って、荒れている印象を持っています。

どうしてこうなってしまったのでしょう。
見過ごしてスルーするには、あまりにも周りとの調和を考えない「荒らし」のような、質問、回答が多い気がします。

これらに、どう対応していけばいいのでしょう?
 

A 回答 (31件中11~20件)

これらに、どう対応していけばいいのでしょう?



○私は太平洋が観える場所に住んでいますが、海は日々違った様相を示しますね。つい最近は津波、昨日は荒波、また凪ぎで穏やかな日もあるのですね。
私が何を言いたいかはお分かりとおもいます。長い日々には様々なことが起きるということですね。それもまた楽しいこととして捉えることがカテを楽しむ方法ではないかと思います。
海に例えましたが花なら百花繚乱でしょうかね。可憐な花から毒毒しい花まで、でも全て花なんですよ。
哲学もそのようなものでしょう。
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ああ、すべて嘘ってわけでもないか。



一面においては妥当な推論もあるでしょうね。
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例えば与えられた命題を、自分が過去に見たアニメや映画から、該当すると思われるケースを当てはめ、「こういうことなんじゃないかと」と、そのアニメや映画のストーリーを延々と展開しつつ自説を述べるというのは哲学ではなく、単なる推論だと思うのですが、こういう人はもう放っておくしかないと想います。

「的を射た回答」と思う人がいるのも仕方ないと言えます。

質問や回答を削除したり編集したりIDを停止させたりすることのできる運営がありながら、「荒れる」というのであれば、原因はともかくとして責任は運営側にあるでしょうね。しかしそもそも運営が的確に処理しないからこのようなことになったのではないでしょうか。「ガチガチに管理」するというのは実質無理だろうし、可能だとしても運営側も利用者側もそれを望まないでしょう。つまりキグルイさんの言っていることはすべて嘘ってことです。

まあ、無明であるが故「荒れている」と思ったり、荒れているとしてもそれが許せず「これらに、どう対応していけばいいのでしょう?」と思う質問自体がどうなんだろう、なんて思ったり。

>これらに、どう対応していけばいいのでしょう?

 運営を突き上げつつ治していくしかないでしょうね。でなければ「下の者」に八つ当たりしたり鬱憤を晴らさずには居れなくなるでしょう。

 侮りと依存の為せる業(わざ) これに尽きるのではないでしょうか。
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 世の中 成るように成る。

の《哲学》があると思っている人もいるわけです。

 そのようにしか成らないよと 或るときには言います。けっきょくだめなんぢゃないかと。

 でも うまく行けば これこれのように成ることも無きにしも非ず。てなことものたまいます。
 保険をかけているわけです。

 保身の術。これに長けた内容を回答にもらったなら それ
 ★ に、どう対応していけばいいのでしょう?
 ☆ 放っておくしかありません。そもそも人を相手にしていません。取り合いません。
 相手と話し合おうという気はありません。
 なんとか自分だけは 今もあたらしい社会でもその身を守ることだけは出来るようにと それだけを考えているようです。
 《荒らし》に対応するにはどうすればよいかと 初めには考えていたのですが 次にはその荒らしの状態は 成るように成ったのだという診断が いちばん今の時点で都合がよいだろうということになった。
 さて その次には どういう見立てが出て来るでしょう?
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要するに、、、ギリシャ悲劇でこんな内容の話がある。



人間界に神が自分の子供を送り込んだら、自分の子だと見分けがつかないほどボロボロにされた って。
どの物語だったかは忘れた。


餓鬼の世界に子供を送り人々を餓鬼の世界から救済しようとしたら、救済するどころか餓鬼たちにもてあそばれズダボロにされてしまったって話です。

人間の浅ましさがどれほどのものかをあらわした古代の作品。



このサイトに哲学を送り込んだら、餓鬼たちによって哲学カテがズダボロにされたってわけです。


で、結局は 神ももう自分の送り込んだ子供(哲学カテ)かどうかすらわからないまでにされてしまい、「うちの子供を返してもらう」とは言えなくなったのではないかと。

聖書だと、自分の息子なら敬ってもらえるだろうと主人が息子を送り込んだら、農場の借り手たちによって殺されたって話になっている。
「土地のオーナーの息子が着たら土地を返さなければならないと考え、そうはさせるかって送り込まれた息子を殺したって話し。
聖書って、人間の行動をよく表してますよね。
敬うどころか殺して土地を奪ってしまうことを借主たちはするって、よく人間の行動を把握している この作家。



今、漫画で<チェーザレ 破壊の創造者>を読んでいる。
どこまで史実に忠実かのかちょっと疑問はあるが、この漫画のチェーザレの考えは皇帝学だと思う。

人に自由を許すと自由が許されたものは、自分の足すら食ってしまう。
結局 自由を許しすぎることで、自由を許された人が不幸に陥ってしまう。
自由を許さず幸福を管理してやることが、真の皇帝の役割ではないのか ってことだと思う。
8巻までしか読んでませんが、8巻目でダンテ登場。



過去に私が書いたものがあったけど ガサゴソ

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4135030.html

NO6のやつ。

例のごとく長いのですが要点?を抜き出す?と

『民衆は縛らないで野放しにすると、自由を謳歌し、浪費的欲望を助長し、「慎み深さ」を「おひとよし」とか「愚か」と呼び、「節制」を勇気の欠如とし、「中庸と倹約」を「野暮」とか「卑しさ」といい、それらを追放しようとする。

逆に「傲慢さ」を「育ちの良さ」と勘違いし、「無統制」を「自由」と履き違え、「浪費」を「度量の大きさ」、「無恥」を「勇敢」と褒め称える。

こういう社会で育った青年は、そお時々の欲望にふけって生きていく。
ある時は酒に酔いしれ、ある時は痩せようとして水ばかりのみ運動したり。
またひたすら怠けたり、哲学にふける真似をしたり。
たまには政治に参加し思いつきを語ったかと思うと、支配者や商人をうらやましく思っって、そっちにふらふら あっちにふらふら。
こうして彼の一生は秩序もなければ必然性も無い。

こうした風潮は無政府社会を生み、父は子を恐れ、子は父を恐れない。
教師は生徒を恐れご機嫌を取り、生徒は教師を馬鹿にする。
年長者は若者に迎合し、軽いノリで人当たりがよい人間となる。
というもの、面白くない人、権威主義者、と思われないために。


民衆はすっかり軟弱敏感になり、ほんのちょっとした抑圧でも課化せられると、我慢せず怒り出す。
そしてどんな主人も自分の上に置くまいと法律すら顧みなくなる。
しかもことここに至ると、適度の自由は野蛮な奴隷への憧れを生み出し僭主独裁制に容易に転訛しがちである。』


つまり、映画マンダレイのように人々は奴隷であることを望む、自分をしばつけ自由を許さない恐怖政治をする絶対的支配者の存在を待望するようになるってことです。

マンダレイでっはグレイスは、奴隷制度のなごりで奴隷のように扱われている人々に、頭で考えて人生を選んで歩んでいくことを教えてわけですが、結局元奴隷は自由など望んでおらず、恐怖政治をする支配者を望んだ。
そういう人がいて自分に何をしろと命令してくれないと、自分が何をしたらいいのかわからないから。
自分の人生を丸投げする相手を本当のところは望んでおり、適役はグレイスしかいないと見抜いた。

で、結局 成れの果ては、ガチガチに管理された哲学カテになるかどうかは住民たち次第。
自律できないなら、管理されるしかないわけです。
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 ナイーブで変質的な人の回答に反応して少し無理め?の回答したらまた別の収集家とか、「偏執的趣味者」が食いついてきてくんずほぐれつの様相を呈してくるとか。



「変わり者」と言われて「オレのことじゃないか」と勘違いして自意識過剰で加わってきたりとかw(オレも気をつけないと)

「変わり者」を批評して「変わり者」であることを回避しているとか(これも気をつけないと)

「自分は荒らしではない」と言うことを示したくてあえて回答してきて混乱する、とか。

他人の「馴れ合い」を見て嫉妬して我慢できずにズレた回答をするとか

「」を使って意味深げに表現するとかw

上から目線で論じることで優位な立場に立ちたいとかwww

自嘲気味に投稿する人とかww

wを自嘲気味に使う人とか 他人を馬鹿にするために使うとか


その場を取り仕切ろうとしたり。


難しいことを言われたら「オレが解らないはずがない、あいつが意味のないことを言っているんだ」と思い込もうとしたり。解らないからと言って追求するでもなく、スルーするでもなく、相手を批判し始めるカスとか。


○自分では推し量ることの出来ない動機を持つ人もいて、そういう人に対して決め付けて安心したいとか

 無駄だと思うんですけどねえ
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まだ回答を受け付けていたので失礼をいたします。



私は去年の10月ごろこちらに登録をしたものです。それで、これまでのいきさつを知らなかったのですが、どうやらこのカテゴリーの常連さんたちはもう二年ぐらい前から、イチャイチャ、ゴチャゴチャ、していたらしいです。

ごく最近気が付いたことです。

したがって、それに巻き込まれないように、距離を置くのが良いと悟りました。

私個人の具体的な解決策は、質問と回答を楽しい読み物のように読むこと。
そういう切り口から見ると、結構楽しい回答がたくさんあります。
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ANo.18さんの言葉を借りれば「変わり者」がたくさん住みついていて


一部の「変わり物」は最近しばしば他の人ともめているようですが
だからといって、そういう変わり者を排除することの方が恐ろしいと思います。

> これらに、どう対応していけばいいのでしょう?
回答したいと思う質問に回答すればイイだけだと思いますよ。
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そうですねー 原因を考えてみると。



例えば結婚できなくて「結婚しないほうが幸せです」(「一人のほうが幸せです」じゃなくて)なんて八つ当たりする人がいたりとか

始めに想定した結論を演繹展開させつつ「証明」する人の欺瞞が混乱させていたりとか

妥協による自己改革ばかりしていて日ごろ溜まった鬱憤を日常生活での人間関係で晴らせなくて(もはや気づいたり自覚できなくなっていたり)余計な事を考えたり、他者の勘ぐりや詮索をしている人がいるとか。

理由はたくさんあるでしょうね

この哲学カテには、昔から 内省や自己改革などと取り澄ました上っ面なことしか言わない人、屈折した感情を押し殺しているのが、その一見して整っている文章の端々から伺える人など、変わり者がたくさんいますからね。

自分はこうならないようにしよう、と思っていれば良いですね。

言っても無駄な人は無駄ですから。
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海にはミネラルも汚物も含まれている、というだけのことですよ。


ただし、誰しもミネラルにもなり得、汚物にもなり得る、という前提でのことですがね。

1.自説を主張したいだけなのに、問いかけの振りをする質問

「自説を主張したいだけではない質問」というのもあるでしょうし、それがこのサイトの一般的(あるいは建前的)利用法なのでしょう。
しかし、
「自説を全く述べていない質問」というものが果たしてあるでしょうか?
いや、無いとは言いませんが、子供電話相談ではないのですから、ある程度の自己主張が無いと、ましてや哲学カテにおいては意味が無いでしょう。
その類の質問であれば、ほとんどは、ネットや辞典で調べれば済む話ですしね。
つまり、この項で私が言いたいのは、
「自説を主張したいだけの質問」と「自説の主張を全く含まない質問」という両極端があるわけで、そのどちらか一方だけに限定して論じようとするのは不毛である、ということです。

本質はコミュニケーションではないでしょうか。
「それは、このサイトを見れば書いています」と URL を提示するだけの回答が、いかに無味乾燥であることでしょう。
たとえ、それが質問の解決につながっていたとしても、そのため【だけ】に、このサイトがあると本気で思われますか?
面倒でも、うまくバランスをとるべく論を戦わせてこそ、このカテの意義が発揮されるものと考えます。

2.同じ質問を何度も繰り返す

これは、単に、その本人が納得していないので多面的な回答を求めているか、あるいは何か疾患を抱えているかのどちらかであって、いずれにせよ忌避すべき対象として捉えるのは間違いでしょう。

3.特定の個人が質問を連投する

これは別に構わないでしょう。
必要であればサイト側が何らかの規制を掛ける(現在は5問以上同時に質問することはできないようですが)でしょうし、利用者側がそれを気にするのは、単なるやっかみ、あるいは嫉妬にすぎないのではないでしょうか?
冷静に考えれば特に不都合はないはずです。

4.自分の答えこそが正しいと、押し付けるような上から目線の回答をする

これはですね、そうでないような回答を探すほうが難しいのではないでしょうか。
私のこの回答も含めてですが。^^;
回答という形態に自己主張が含まれないほうが不思議でしょうし、さらに、自己主張とは大なり小なり上から目線になるのではないでしょうか。
その質問者に対して好ましくない先入観があれば、その自己主張が目立つので「大」に感じられ、結果として「押し付け」という判断に傾いてしまいがちである、ということだろうと思います。

5.質問者が理解できると思えない難解な用語を用いて回答をする。

これは、単に、その回答者の頭が悪いだけの話ですから、そう言って責めるのはよくありません。
今テレビに出ている原子力安全保安院の役人や、コメンテーターとしての(例外もいらっしゃいますが)多数の大学院教授といった、【いわゆる専門家】なども同じようなものでしょう。
専門家=専門〇〇と考えておくのが妥当じゃないですかね、実際のところ。
このサイトにおいては、回答欄のみならず補足蘭もがあるわけですから、そこで再質問すれば良いだけの話です。

>これらに、どう対応していけばいいのでしょう?

花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ
という一節もありますが、
花(穏やかさ、あるいは上辺の美)だけを求めていては真理は得られない、ということでしょう。
攪拌されることによって浮かび上がってくるものもあるわけです。
目をそむけずに対応、ときによっては対峙するのが好ましいと私は考えていますし、
むしろ、花だけを翳そうとするものに対しては懐疑的であるべきでしょう。
    
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