こんばんは、skireです。

最近大河ドラマ「篤姫」を見ていて気になったことがあります。

1.お城の廊下のことを昔は何と呼んでいたのか。
(廊下、というのは古い言葉なのでしょうか?
渡殿、は寝殿造りに使われていたもので違うかなと思ったので
廊、にいつの間にか下がついて廊下、と呼ぶようになったとも言いますが)

2.縁側らしきものがお城には大概出てきますが、
昔のお城(戦国~江戸にかけて)には中庭が存在しているのが当たり前だったのか。
(あと、面している箇所を縁側、と呼ぶのかどうかも気になっています)

廓、二の丸、三の丸、など大まかな城の各部名称は調べることができますが、
それこそ縁側、廊下などの内部構造を知ることができません。
(作りは知ることができますが、何と呼んでいたのかが解らない)

そこで1、2に追加して

城の(とくに廊下など内部の)各部名称が判る書物やwebページ等ございましたら
教えていただけると助かります。

宜しくお願いいたします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

お城には、天主、櫓などと共に御殿も含まれます。


御殿には廊下(渡り廊下)、縁側があります。
江戸時代にはそう呼ばれていました。

天主では廊下にあたるものを「武者走り」と呼びます。
櫓と天主などをつなぐものは「渡り櫓」と呼びます。

お城でもその中の御殿には中庭がありました。
縁側は古くは「切縁」「よしず縁」などと呼ばれました。

天主や櫓のある廓は、戦闘区域で空き地はあっても、
中庭と言うほどのものはありません。

ただ天主や「月見櫓」の最上階には、「高欄」と言う
飾り手摺の付いた「廻縁 まわりえん」と呼ぶ縁のある
城もありました。   月見の宴です。

お城の解説本は多数出版されています。
三浦正幸 監修 「お城のすべて」 学研
が判りやすいようです。    初心者向き。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。


お城の御殿の中にはやっぱり廊下と縁側があるのですね。
武者走り、渡り櫓、切縁、よしず縁……調べてみますありがとうございます。

廓によって様子が全然違うのですか、
月見のための場所とは風流ですね。

お城のすべて、探してみますありがとうございます!

お礼日時:2011/04/16 11:50

本来は江戸城指図とかにリンクして差し上げればいいのでしょうが、原図では読みづらいですし、そこまで精巧でなくてもいいのではないか、と思います。

下記ご参照ください。

江戸城
http://www.viva-edo.com/edojou.html

江戸城大奥
http://www.viva-edo.com/oo_oku.html

それから、1の廊下については、忠臣蔵で有名な「松の廊下」のごとく江戸城には最初からあり、そう呼ばれていました。従って戦国末期の豪壮な城郭では常識的なものであったと思われます。渡殿も「廊」の一種ですが、「下」が付いたのは屋根の下の通路くらいのことでしょう。

2の中庭については、少なくとも江戸城には中奥と大奥の境界として、絶対に必要なものであったでしょう。また、庭があれば縁側があるのは、武家の美意識では当然といえるかもしれません。
書院造の指図に竹のエンと書いてあるものを見ましたので、縁という名はそのころにはもう使っていた名称でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

分かりやすい図で、参考になりました。
戦国末期にはもう江戸城に近い形になっていたのですね……なるほど。
屋根の下かそうでないかで呼び方が変わるかもしれないというのはびっくりしました。

武家の美意識としての中庭+縁側、確かに武家の時代から主流になった書院造に縁、があるのだとしたら縁側というのは随分と古い言葉なんでしょうね、ありがとうございます。とても参考になりました。

お礼日時:2011/04/16 11:57

「篤姫」の時代は江戸末期です。


戦国時代とはかなりかけはなれています。

”お城”は、戦国時代は、居住用の場所ではありませんでした。
戦国時代のお城には、天守閣もありません。
主に土塁と木冊で縄張りがされたものがほとんどで、白壁もないです。

お城が優美な外観をもつようになったのは、戦闘用である必要がなくなった時代の産物です。これらは平和の時代の建造物であり、天守閣などは戦闘では邪魔になったので、熊本城などは守備側が事前に焼き払ったりしてます。

戦国時代の城は、ほとんどは戦時のみ利用する郭で、貯蔵庫を兼ねたものであり、平時は館で生活してます。

江戸時代の一国一城制になって、統治のシンボル的な役割が城にもとめられて住居を兼ねるようになったわけで、郭内部に邸宅が造られるようになったわけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

屋敷と城が別々なのは知っています、篤姫の時代と戦国時代でかなり様変わりしていることも。
誤解を招くような書き方をして申し訳ございません。

やはり戦国時代の戦闘用の城に中庭などという優美なものはなかったのですね……ありがとうございます。

お礼日時:2011/04/16 11:52

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q「無料で使ってもいい素材(ロゴとかイラスト)」を集めたサイトがあれば教えてください

具体的には、
めちゃイケとかバラエティでよく出てくる
「!」とか「?」のマーク、あと
ひらめいたときの豆球のイラストなんかを探しています。

他にも面白くて無料で使えるフリー素材があれば教えてください

Aベストアンサー

http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/19_arrow/01_decoration/clipart2.html
↑こちらが使えれば・・・?
他にも下のトップページに有りますので、探して下さい。

Q大河ドラマ「篤姫」に井伊直弼でてた?

今頃「篤姫」かぁ?とも思われそうですが
質問は
1・昨年の大河ドラマ「篤姫」に井伊直弼でてたでしょうか?
2・もしでていたなら俳優は誰が演じていたのでしょうか?
3・もしでていたなら第何回目あたり(何月頃でもいいです)にでていたでしょうか?です
篤姫は一度も欠かすことなく全部見たのですが、その時は井伊直弼にはフォーカスしてなかったので全く覚えていないのです
話は全然違うのですがたまたま、「一期一会」を何気に検索していたら井伊直弼がかなりの茶人であったとわかり、
他にもいろいろ検索するなかで・・・そういえば同時代か?の思いから篤姫は毎回見ていたのでかなり気になっている次第です
1・でていたかどうか?だけでも有り難いです
もし分かったらDVDレンタルでもして今一度みかえしてみるつもりです
宜しくお願いいたいます

Aベストアンサー

メッチャ重要な役どころで出てましたよ。

saru22go-さんが思い出せそうなシーンを一つ・・・

篤姫が、安政の大獄を決行した井伊直弼に、
「なぜ、あんなに多くの者を処分するのか?」
と、狭い茶室で1対1で訪ねると
「人には、それぞれ役割という物があります」
と直弼が答えるシーン。

直弼が、開国と攘夷で真っ二つとなった日本を、何とか一つにまとめるため、「自分は憎まれ役でいい」と、心を鬼にして攘夷派に処分を下した事を、篤姫が知るシーンです。

それまで、敵対していた人物なので、心通わせる雰囲気が感動的でした。
確か、篤姫が手づくりの「ふくさ」か何かを渡していたと思います。

その後、まもなく、直弼は桜田門外で暗殺されます。
篤姫が、大奥でひなまつりをやってた時に、「薩摩の脱藩志士が、井伊の首を取った」という報告が入ります。

思い出せるヒントになれば幸いです。

Q無料のイラスト素材

腕時計やお金(500円や1000円等)のイラストを探しているのですが、どこかこのようなイラストを扱っている素材サイト
を知りませんか?
探してみたのですが、年賀状や季節のイラスト等はよくあるのですが、なかなか見つかりません。

ご存知の方、お願いします

Aベストアンサー

MicrosoftOfficeをご利用なさっているのなら、クリップアートをダウンロードすることで豊富なイラスト群をダウンロードできますよ。時計のイラストもお金のイラストも豊富に用意されています。

参考URL:http://office.microsoft.com/clipart/results.aspx?lc=ja-jp&CategoryID=CM790019061041&Scope=MC,MM,MP,MS&CTT=4&Origin=CM790

Q大河の篤姫をみて

篤姫は、家定なきあと、天障院として、髪を落とし「頭巾」(?)を
かぶると思っていたら、髪はわずか短くしただけ、頭巾はかぶりませんでした、
江戸中期までは将軍の正室など(天英院など)は将軍が死んだ後は必ず頭巾をかぶっていたとおもわれますが、なにか規則が変わったのでしょうか?
また、頭巾の中はどうなっていたのでしょうか?
江戸の大奥に詳しい方、よろしくお願いします、

Aベストアンサー

今晩は、cobamaxさん。
>>しかし、「月光院」が頭巾をどうしてつけたかはよくわからないのですが

どうやら「解明」に近づきました。
「徳川家の女たち」・新人物往来社。並びに、Wikipedia検索により、詳しい説明は省きますが。

初代:徳川家康・・・母・於大の方(色々な戦国時代に翻弄され、実名も不祥=後年に名前は創作された可能性が高い)、院号「伝通院」。

2代:秀忠・・・母・西郷局(さいごうのつぼね)、院号「竜泉院」。

3代:家光・・・母・小督(おごう)の方、または、お江与の方、寛永3(1626)年9月15日死去。享年54歳。法名「崇源院昌誉和興仁清」。寛永3(1626)年11月28日、従一位追贈。

4代:家綱・・・母・本名「お蘭」またの名を「お楽」「高島御前」とも呼ばれた。承応元(1653)年12月2日死去。法名「宝樹院殿華城天栄大姉」。

5代:綱吉・・・母・お玉。元禄15(1702)年に女性として最高位の「従一位」を賜り、藤原光子(または、宗子)と名乗る。永宝2(1705)年79歳で没。「桂昌院」。この時、官位をめぐり、幕府と朝廷とのやり取りで一大波乱を巻き起こす。

6代:家宣・・・母・お保の方。甲斐府中徳川綱重の側室のため、晩年は出典あらず。

7代:家継・・・母・お喜世、またの名を、輝子。
ここが一番大事!!・・・
将軍の子どもが生まれると、生母ではなく、正室に育てられるのが一般的でした。天英院熙子(ひろこ)は、さぞ、辛い思いで「側室の子」を養育したと思われますし、お喜世の方(月光院)との確執もあったと思われますが、その子どもである家継(鍋松)が正徳3(1713)年に将軍宣下が下されると同時に、お喜世の方に朝廷より「従三位」の位を賜り「月光院」と名乗る。
これには、天英院とお喜世の方との確執とは別に、幼い家継を天下に「将軍である」と認めさせたい天英院の思惑が、あいまみえて、特に、将軍宣下と同時にお喜世の方に官位を与えられた。はっきり言って「異例」のことであった。そこには、天英院が公家の出であることを利用したことは、言うまでもないと思います。前出および後出する「生母」たちはのほとんどは、死後「追官」です。
従って、月光院が「薙髪」して、皇族および公家出身者と同じように「尼頭巾」を被ったこととつながると考えます。

8代:吉宗・・・母・於由利の方。法名「浄円院」。紀州家のため史料不足。

9代:家茂・・・母・於須磨の方。元禄元(1688)年~正徳3(1713)年10月24日。宝暦13(1763)年4月16日、従二位追贈。

10代:家治・・・母・お幸の方。延亨5(1748)年2月26日死去。法名「至心院殿観真円如大姉」。年月日不祥:「追贈従一位」とある。

11代:家斉・・・母・お富の方。生年不祥。文化14(1817)年5月8日死去。院号「慈徳院殿善教成誉大姉」。

12代:家慶・・・母・お蘭、またの名を、お楽の方、高島御前。法名「宝樹院殿華城天栄大姉」。

13代:家定・・・母・お美津。夫家慶死後「本寿院」と号す。

14代:家茂・・・母・おみさの方。紀州徳川家から入った将軍のため「史料不足」。

15代:慶喜・・・母・登美宮(とみのみや)、有栖川宮織仁親王九女。落飾後「貞芳院」と名乗る。

と、まあ、ここまで見てくると、月光院がなぜ「尼頭巾」をしたかは分かりますよね。前回、あなたが是認してくださったように、皇族や公家を真似た。
生前に朝廷から官位を賜ったのは、5代綱吉の母と7代家継の母だけだったからです・・・と、私は「推理」します。

今晩は、cobamaxさん。
>>しかし、「月光院」が頭巾をどうしてつけたかはよくわからないのですが

どうやら「解明」に近づきました。
「徳川家の女たち」・新人物往来社。並びに、Wikipedia検索により、詳しい説明は省きますが。

初代:徳川家康・・・母・於大の方(色々な戦国時代に翻弄され、実名も不祥=後年に名前は創作された可能性が高い)、院号「伝通院」。

2代:秀忠・・・母・西郷局(さいごうのつぼね)、院号「竜泉院」。

3代:家光・・・母・小督(おごう)の方、または、お江与の方...続きを読む

Q無料のイラスト素材

パワーポイントで会社の資料を作成中です。工場で働いている人や作業着を着た人、ヘルメットを着用したイラスト素材を探しています。(様々な表情や手の動きがあれば非常にありがたいです)
どなたかご存知でしたらお知らせください。

Aベストアンサー

仕事で使うのに無料でないとだめなのですか?

有料ですが、満タンWeb
http://www.dex.ne.jp/mantan/index.html
で「作業員」「ヘルメット」検索すれば、ご希望にかなうイラストが多数ヒットすると思います。

Qドラマ「篤姫」と「大奥(菅野美穂)」どちらが現実に近いでしょうか?

ドラマ「篤姫」と「大奥(菅野美穂さん主演)」は同じ時代・同じ人物の物語でも内容が随分違いますが、どちらが現実に近いのでしょうか?

Aベストアンサー

ドラマ「篤姫」の方がより史実には近いと思います。

ただし、特に徳川輿入れ前の部分は正確な記録がないので、どちらもオリジナル部分が多くなっています。
また家定についても謎が多いようです。

ドラマ「篤姫」の方がより史実には近い例として、
今後の展開では明らかに差が出てきます。
代表的なものとして二つ。

これから出てくる和宮との嫁姑問題では
「篤姫」の方が正解で、和宮:堀北真希vs天璋院(篤姫)が正解で、
「大奥(菅野美穂)」の和宮:安達祐実vs実成院(家茂生母):野際陽子は脚色されています。

最後まで大奥に残るシーンについても
「篤姫」の滝山(稲森いずみ)が正解で(天璋院は先に出ている)
「大奥(菅野美穂)」のように滝山(浅野ゆう子)と共に江戸城を去る場面は脚色されています。

いずれもしてもドラマはドラマで、史実にない部分は脚色せざる得ません。私的な夫婦や友人の会話は史実には残りませんよね。

Qお勧めの無料イラスト素材

保育園の文章などをワード・エクセルで作ることになりました。
そこに、かわいいイラストなどを挿入したいのですが、オフィスサイトにも、ネットでそうとう数探しても、白黒画像でかわいいイラストって意外と少ないと言うか、あまり見つけられませんでした(カラーではたくさんありましたが)。
オフィスの機能でカラーを白黒にしても、あまりうまくキレイに表示(印刷)できないので最初から白黒かグレースケールのイラストでかわいい園児や動植物などがたくさん出ているサイトをご存知の方、お勧めサイトなど、教えてください。

Aベストアンサー

下記のサイトなどはどうでしょう
「モノクロ イラスト集」などで検索すると色々出てきますよ

参考URL:http://www.fumira.jp/

Q篤姫では放送できないこと

なぜ薩摩・島津家の分家に生まれた於一が、江戸幕府の13代将軍・徳川家定の正室になれたのでしょうか?教えてください。
 関ヶ原の戦いで西軍についた薩摩は譜代大名なので、とても将軍の正室を出せる家柄ではないはず。本来なら徳川家と肩を並べるぐらいの由緒ある家柄の女性が正室になるはずだと思います。 大河ドラマでは、島津斉彬の裏工作は詳しく放送できないと思います。水面下でのえげつないかけ引きの内容でもかまいませんので於一が将軍の正室になれた真実を教えてください。お願いします

Aベストアンサー

他の方の回答にもありますが、将軍御台所が外様である島津氏から出たというのは
篤姫が最初ではないんですよね。11代将軍御台所茂姫も島津氏の出身です。
宮尾登美子さんの原作では斉彬の計略で嫁がされるという風に書かれていますし、
ドラマでもそのように描かれるようですが、最近の研究では幕府側からの要請だったといわれています。
家定の正室が二人続けて早世していることから、「今度こそは丈夫な御台所を」という期待からでした。
実は斉彬も支藩の娘や親戚筋にあたる大名家の娘をあたっているのですが、すでに婚約済みだったりして該当者がいなかったようです。
篤姫に順番が回ってきたのは偶然のめぐり合わせという部分も大きいのです。
また、斉彬と篤姫はいとこ同士なので親近感もあったのではないかと思われます。

ちなみに、島津氏と徳川宗家の関係はけっこう深いものなんですよ。
5代将軍綱吉の養女だった竹姫は島津家にお嫁入りしています。
茂姫が11代将軍家斉に嫁いだのも、この人の遺言だったようです。
くわえて、外様とはいっても前田家に次いだ雄藩であること。
公家筆頭の近衛家とも密接なつながりがあること。(鎌倉時代にまで遡ります)
さらには幕末の複雑な政治事情があいまって、篤姫輿入れは実現したというべきでしょう。

他の方の回答にもありますが、将軍御台所が外様である島津氏から出たというのは
篤姫が最初ではないんですよね。11代将軍御台所茂姫も島津氏の出身です。
宮尾登美子さんの原作では斉彬の計略で嫁がされるという風に書かれていますし、
ドラマでもそのように描かれるようですが、最近の研究では幕府側からの要請だったといわれています。
家定の正室が二人続けて早世していることから、「今度こそは丈夫な御台所を」という期待からでした。
実は斉彬も支藩の娘や親戚筋にあたる大名家の娘をあたっているので...続きを読む

Q■無料イラスト素材を探してます!■

校内新聞を作成しているのですが、
海賊の宝地図みたいなものか、忍者の巻物っぽいイラストを探してます。
少し急いでますので、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

下記URLは、キーワードを入力して素材が検索できるサイトです。
いろいろなサイトからの素材が一度に検索されます。

海賊の宝地図や忍者の巻物はむずかしいかもしれませんが、
「海賊」「地図」「忍者」「巻物」なら出てくると思います。

掲載素材の多さではかなりだと思います。
ご希望のものが見つかるといいですね。

参考URL:http://www.ran.co.jp/

Q「篤姫」のサイトについて

質問です。 小学生の娘が自由研究で「篤姫」についての研究がしたいと言っています。「篤姫」に関しての役立つ資料等が掲載してあるインターネットサイトをご存知の方どうか教えてください。
夏休みも残りわずかで困っています。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。

私は、自称「歴史作家」です。

そうですねぇ。夏休みも、もうすぐ終わりですね。

私の息子は、現在中1年ですが、宿題とはいきませんでしたが、昨年、小学6年生の時の担任の先生が「歴史好き」で、授業の中で、何度も何度も「風林火山(昨年の大河ドラマ)」の話をしたらしく、息子も、その話に刺激され、「風林火山」を観るようになり、私に、色々な質問をして、時には、私自身も史料をひっくり返して調べて、なるべく正しく理解させようとしたことをを思い出します。
それまでは、大河ドラマや時代劇を観ていると、「おじんくさい」と言って、自分の部屋でバラエティー番組などを観ていましたが、それ以来、と、言っても、今年の「篤姫」は、息子も一緒になって観るようになりました。

ここへ投稿されたのは、お父さまかお母さまかは分かりませんが、まだお子さんは小学生ですので、まずは、親が理解をし、それを「噛み砕いて」話してあげる必要があります。

と、言うのは、「歴史」(世界史でも日本史でも)、突っ込んで授業が始まるのは、中学、高校になってからです。それだけ、「難解」と言えば「難解」な教科です。

自由研究で「篤姫」・・・私としても、職業柄?「時代劇ファン」が増えることには、大変嬉しいことではありますが、一言で・・・と言うわけにはいきませんし、複雑な時代背景もありますので、PCで抽出したものを、「勝手に読んで、勝手にやりなさい」とはいきません。

あなたも少しの援助の手を差し伸べてあげてください。

まあ、次のサイトなどはいかがでしょうか。
http://www.bakusin.com/eiketu/atuhime.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A4%E5%A7%AB
http://www.atsuhime.org/pdf/guide/0102.pdf
http://www.atsuhime.org/intro/index.html

なお、余計なことかも知れませんが、書く(研究)の順序としては、
(1)誰の子?
(2)なぜ、藩主の養女になったの?
(3)どういう、教養を身に付けたの?
(4)いつ、どこで、誰と結婚したの?
ここで重要なポイントを一つ。江戸時代、将軍のことは「将軍さま」とは呼ばず「公方さま(くぼうさま)」または「大樹さま(たいじゅさま)」と呼びました。テレビの時代劇で良く「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、単なる、視聴率をあげるための所業。
(5)千代田城(江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」と呼び、またの名称を「舞鶴城(ぶかくじょう)」とよびました。庶民はただ単に「御城」と呼んでいました。)のどこで暮らしたの?
(6)夫(公方さま)はどういう人だったの?
(7)夫は、1年半位で亡くなりますが、その後、どういうことがあったの?篤姫は、そのころから何と呼ばれるようになったの?
(8)誰が次の将軍になり、どこから、どういう人がお嫁に来たの?
(9)天璋院とお嫁さんは、仲良くしたの?
(10)14代将軍も約2年位で亡くなりますが、その後、天璋院と静寛院(和宮)は、どんなことをしたの?
(11)やがて、御城は朝廷方に引き渡されますが、天璋院は、その後どこへ行って暮らしたの?そして、いつ死亡したの?
(12)まとめ・・・なぜ篤姫を研究しようと思ったの?

などで、どうでしょうか・・・。

こんにちは。

私は、自称「歴史作家」です。

そうですねぇ。夏休みも、もうすぐ終わりですね。

私の息子は、現在中1年ですが、宿題とはいきませんでしたが、昨年、小学6年生の時の担任の先生が「歴史好き」で、授業の中で、何度も何度も「風林火山(昨年の大河ドラマ)」の話をしたらしく、息子も、その話に刺激され、「風林火山」を観るようになり、私に、色々な質問をして、時には、私自身も史料をひっくり返して調べて、なるべく正しく理解させようとしたことをを思い出します。
それまでは、大河...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報