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しばしば「美しい日本語」という論点を提出して、言葉の乱れを批判する方がいらっしゃいます。確かにちょっとした一言のニュアンスで腹が立つこともあるのだから、表現を正確に伝わるように訓練するのはよいと認めるところです。しかし、時には用例があるにもかかわらず、用法を狭めている方もいるのです。たとえば、次のような指摘を、ネットで見つけました。

(例)
「より」と「から」を混同しない。
「より」を「から」の意味に使っているケースが、散見されます。「より」は、比較を表す場合に使い、起点を表す場合は、「から」を使います。
・悪い例
A社より、当社と取引するという電話がありました。
・よい例
A社から、当社と取引するという電話がありました。

しかし辞書を開ければ、格助詞の「より」には動作・作用の起点を表わすという記述が見つかります。この方は、どうも文法をあまりご存じないらしい。あるいは用法を狭めるべきだと主張しているように思えます。しかしそもそも、それほどまでに日本語の文法がしっかり決まっているのでしょうか。あるいは、将来的にしっかりと決めなければならないものでしょうか。

文章を修練して「美しい日本語」を目指されている方は、多くいらっしゃると思います。しかし、我流なのか、あるいは学術的な裏付けがあるのか知りませんが、もともと用例があったものを認めなくなりつつあるという保守的な風潮を、いかがお考えでしょうか。僕にはどうも納得いかないのですが。

A 回答 (16件中11~16件)

 ドイツにヤスパースという思索家(哲学者という言葉を僕は余り好きではありませんので、こうした表現になることをお許しください)がいました。

彼は同時に精神医学者でもありました。そのヤスパースが遺した至言に「言葉は思考の家である」という文言があります。
 「言葉」はそれ自体として完結性のある存在ではない、との意味も込められています。そこからは言葉を発する側が言葉を受け取る側に「自らの意思を伝えたい」とのメッセージが先ず最初にあって、「機能としての“言葉”の存在意義を問うならば道具もしくは手段として意思をは表したモノにすぎない」との言葉の性質が語られています。その内容がどのようなモノであるか、は次の段階の問題ということもできます。
 「家」の存在意義は何でしょう?。そこに住んで生活する人がいなければ「家が存在する意味」は成り立ちません。言葉を「伝達のための記号の集合」的に理解するだけでは意味を問うことにはならない、ともヤスパースは語りかけていると考えられます。
 引用されている「より」の問題を考えてみると「悪い例としての“より”」を規定している背景には英語の比較表現を示す「より“も”」が念頭にあることも想像に難くありません。けれども「より」には手紙の文言である「~より」としての意味があることも確かです。「便り」だから「より」なのです。また「拠り所」だから「より」でもあるわけです。
 僕の個人的な感想としてですが、「文法」と「語法」の間には違いがあっても、それは必ずしも絶対的な「規則」とは言えないのではないか。知見の限りですが「橋本文法」なる文法解釈では「品詞としての形容動詞が存在する」という見解はありますが、これ1つとっても決定的な根拠のある説明であるとは理解できないことも確かです。
 またご自身が「英語の五文型的な発想」と仰っていますが、五文型ひとつを例にとって、その範疇からはみ出す文章は現実のモノとして存在すること珍しくありません(=S+V+O+O“+O”)。として文章のリズムを整えることなど論文を読んでいても日常茶飯事です。また“Tt is ~that”の構文のように、主語として文頭に置いては文章全体の「バランス」が良くない、とのことで倒置して表現するケースもありますね?。直接話法と間接話法しか高等学校では教えませんが、実際には混合話法もあることを僕自身は予備校の先生(某有名大学の英語学の教授)に聞いて始めて知った経験もあります。
 他の方々の回答へのコメントを見て「学者の親戚もいて“君のこの言葉遣いは誤りである”」とのこともその方自らも誤りを犯しているともいえます。「学者の言葉」つまり「僕はこの言葉をこういう意味で使うよ」と“テクニカルターム”を使う場合には、先ずその定義付けを行ってから使うことも基本的なルールです。そうでなくては学者としての論争に耐えることもできません。逆にその方は「ボキャブラリーがプアー(言葉遣いを余りよく知らない気の毒な)」方であるといえるかもしれません。「美しい日本語」よりも「適切な言葉遣いで文章を書くことの出来る」達意の文章の書き手でありたい、と僕は思います。
 言葉は歴史の中で様々な変遷を遂げてきました、今後もその姿は変わっていくことでしょう。そうした対象に対し「これしかない」とするのは保守的というよりも暴論、ファシズムに近いとしか思えず、危惧の念を抱かざるを得ません。
 
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この回答へのお礼

短歌の問いに続いて、ご回答、ありがとうございます。おっしゃる方向性はよくわかって、ファシズムであるとは、その通りだと思います。実際、文法を厳密に定めようという動きは、ナショナリズムに沿っているように感じています。

逆に文法が便利だなと思うのは、教える時です。5文型と言ったところで、オクスフォード大から出ている文法書には、19文型の分類がありました。例外をどの程度、重視するかということを考えると、なかなか難しいものです。中学生に19も文型を教えたら、頭がパンクするでしょう。
また僕は外国人に日本語を教えたことがありますが、やはり簡潔明瞭にまずは教えた方がいいのです。「そのニュアンスはちょっと違うね」などとやっていては、進みませんから(でも間違ったまま覚えて10年という人もいて、僕はその過去の教師は何といい加減な奴かと思いました。相手もショックなわけで頑固だし、こうなると直しようがなくて、音を上げました)。

文法には段階があって、初心者であるとか、子供の頃には許容されていても、それが大人になるにつれて、段々と上級文法を覚えていかないとならないということはあるのかなとは思います。その際に周囲の大人が、口を出してくるということはあると思います。僕に関しても、言語学者は口を出すべき段階にまだあると考えたことなのかもしれません。
しかし、ヤスパースで言語の使用目的という話が出ましたが、このことを考えると、ある程度意味が通じれば、僕は他人が口出しすることでもなさそうだなと思ったのです。

たとえば、言語の洗練は円滑にコミュニケーションするためであるというご意見が、他の回答者の方から出ています。僕も設問にそう書きました。一面では、それは否定しようがない事実です。しかし、もっと考えてみました。たとえば円滑にコミュニケーションするためには、文法の巧みさより、「相手の心情に配慮する」などの方が優先順位は上ではないか、と。抗議する時とか、弁明する時には、確かに微細な表現をします。が、それでさえも紋切り型で事足りるように思うのです。文法など知らず、劇の台詞を丸暗記でもいいのです。

しかし上級文法や複雑な語彙が必要だと感じるのは、日記などで、自分の思考を細やかに表現したいと思う時です。僕はモンテーニュやプルーストを読んだ時に、こいつらは何とものをよく考えているのかと思いました。その思考の緻密さに感激したのです。
僕の思うに、文法に関して行きとどいた理解が必要なのは、思考を洗練する時です。つまり言語と自らの思考を突き合わせ、練磨しようとする時、自分に最適な表現がわかるにこしたことはありません。ただし、これは趣味で教養を身につけ、内面を磨くのと同じであって、他人に強制するべきことはではないのです――設問をきっかけに、今はこう考えるに至っています。

お礼日時:2011/04/27 19:12

言葉の使い方には規則があるのですね。

その規則を江戸時代初期の儒学者貝原益軒は言葉の法則(のり)と呼んでいました。

法則、何処かで聞いたことがありませんか。そう、現在では自然科学で使われていますね。言葉って言うのは、誰かがああせい、こうせい、なんて言ったって出来上がって来た物ではありません。成り行きで出来上がって来た物ですね。文法なんて言うのも、その成り行きで出来て来た成り行きの規則、すなわち、法則として後付けで出来た物です。だから、数学とは違って、言葉の文法には例外だらけです。んで、そんな「成り行きの規則」のことを日本人は「法則」と呼んでいるらしいことが、法則という言葉の歴史的な使われ方から見て取れますね。

だから、日本人が欧米語のLawsという言葉を翻訳するときに、人間には法律と言う言葉を使ったのに、自然にはわざわざ法則と別の言葉に訳したのにはどうやら深い意味がありそうですね。

そうですね、日本人に取っては自然ていうのは、言葉と同じように、一々法律に従っているわけではなくて、収まるべきところに自然と収まるように出来ているのだと思っているのですね。

だから、「より」だ「から」だと法律のように論じても仕様がないんじゃないですか。皆が使って、収まるべきところに収まっていれば良いんじゃないですか。

んで、自然界も収まるべきところに自発的に収まるように法則に従って動いているんじゃないですか。

おっと、上の言葉の「法律」と「法則」を欧米人のように両方とも「Laws」という言葉に置き換えてしまうと、全く意味を持たない文章になっていますね。だから、「より」か「から」かは日本人だけにしか解らない問題なのかも知れませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。自然に出来たものを自然のままにというお考えには納得します。生成文法がそうです。ただ言語思想史の話をすれば、国家がナショナリズムに傾いた時、正しい文法と、そうでない文法を分けるのです。たとえばフランスがそうです。十八世紀後期にはアカデミーが正しくない文法を使った作家に、小さな罰則を科すようにしたようです。この時に方言は、根こそぎにされてしまいます。日本も同じようなものなのかなと思うのです。それを発展や洗練と呼ぶか、保守化と呼ぶかは、人それぞれです。

ただし子供を教育する現場では、もうその新しいスタンダードが取り入れられているようです。ちなみに「~じゃないですか?」isn’t it ?は日本語に無かったから、誤用とみなされるそうです。二重否定「~でないはずはない」も、日本語に無かったから、誤用だそうです。昔、アルバイトしたことありますが、進学塾では、そう教えるのです。

猪突先生は、他で「死」という言葉が外来語の過剰な影響を受けたのではないかとお考えですね。僕は原点にかえるという意味で、それは保守的な立場からの質問なのかなと興味をもっていました。しかし、これは猪突先生の質問に水を指すようなものとも思え、質問とは直接関係ないので、僕の欄でいうことにしたのです。いかがでしょうか。

お礼日時:2011/04/27 16:47

>僕の問いは、それぞれの立場に居直って、相手を批判したり、拘束するような規則を作っていく風潮をどう思うか?




そうでしたか。それは良くない風潮ですね。もし、そんな風潮があるとすればですが。

ひょっとして批評家の本や発言に反応しちゃたってことはありませんか?
世の中を批評することを本分とする批評家なる職業も認められているので、批評家が批評したからって嘆いていてはだめですよ。

愚拙はね、無分別に外来語の片仮名表記を受け入れるのはまずいと思っております。
風潮と言えば、日本語を日本語らしく無くする風潮のほうが強いということですね。

質問者さんや愚拙のように、あまり片仮名を使わずに日本語を書く人が少なくなってきておりますな。
愚拙の主張としては、日本語に対する片仮名汚染を阻止せよ!ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。確かに僕は評論家のことも知っていますが、学者も知り合いがいるのです。学者と話していると、「きみの今のいい方は間違いだからね。なぜってね、その用例が使われるケースの八十%は云々」などと言われますが、「そんなもん、お前の日本語のミスを俺はいくらでも指摘できるが、目上への礼儀として、黙ってやってるだけなんだよ」と内心では思っています。まぁそういう愚痴もあるのです。

しかし外国語の影響は逃れられないです。僕の日本語の構文、英語の五文型の影響をもろに受けていますから。

カタカナは、確かに変な人がいるようですね。妻をワイフと言ってみることに始まり、インセンティヴなど、いろいろありますね。これは誤用だとは言えないだけに、まさに美意識の問題になるという気が僕にもします。ただ僕はどちらかといえば、漢語が好きだという傾向があります。「今日は熱が出て休みます」というところを「本日、発熱のため欠席いたします」などと言いますから。これは「正しい」日本語によると、よくない表現なのだそうです。

カタカナに限らず、僕は店の名前を、やたらフランス語にするのはいただけません。OKWaveには仏語で名前をつけて欲しいという質問がごまんとあります。僕の見つけたパチンコ屋は「ご来店ありがとうございます」も仏語で書いてあります。が、悲しいかな、合っていないんですよね。正確な仏語でも僕は反感をもちますが、不正確な仏語には哀愁を感じます。異郷へのあこがれなのでしょうけれど。

お礼日時:2011/04/27 16:12

言葉に時間と場所を超えた普遍性を求めようとするのは、自らが


生きていた時代や場所を標準としたい欲求の表れではないでしょうか。
そうであれば、そういった欲求はやはり保守的であると質問者様に同
感するところです。

美しい日本語というのがもしあるとすれば、それはそれを発した言葉
の物理的な音にあるのではなく、言い手と聞き手の好意的な共感にこ
そあるのではないでしょうか
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この回答へのお礼

ありがとうございます。誠におっしゃる通りだと思います。標準というキーワードを頂いて考えが進みました。

考えてみれば、文法通りの標準語を作っているのは、東京の学者だけでもないなと思います。だから学者らは、自分に染みついた方言を切っているのかもしれません。それに流通の便宜を考えると標準語は必要なのかもしれません。
しかし、それを美しいと言い出す風潮がある(昔からあったかもしれないが続いている)のは、僕には承服しがたいなと思います。標準語を美しいという人がいるのに、方言が美しいと言う人が少ないのは問題だ、と思います。ちょっと回答から離れてしまいましたが。

お礼日時:2011/04/27 15:38

それぞれの立場からの自己主張なんですよ。



それぞれの立場からの自己主張に同意できないからって、悩むことは無い。

貴方自身が好むなら「A社より、当社と取引するという電話がありました。」と言い続ければよい。

貴方ももっと自己主張して良いと思いますよ。
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この回答へのお礼

大工の親方、どうもありがとうございます。しかし、それは一般論ですよ。僕の問いは、それぞれの立場に居直って、相手を批判したり、拘束するような規則を作っていく風潮をどう思うか?という質問なんです。もし僕の言うことに実感がわかないなら、大きめの本屋に行って、日本語の文法書を開けてみてください。ご自分の使う文法が書いていないか、誤用であると書かれていたら、やはりショックだろうと思います。

お礼日時:2011/04/27 15:16

日本語も歴史上は様々な変化を遂げているわけですので、いまさら何がどう変ったって問題は無いですよ。



美しいと言うのは我流です。結局はお作法として自分が良いと思ったものを推奨しているだけです。学術的裏付けはありますよ。でも解釈が違うと言うことです。言葉と言うのは結局のところ意味が通じれば良いもの。感情もついでに通じればよい。ギャル語のようにわざと通じないようにしてるのは、隠語ですからそれは使わないように。

感情も伝えると言う意味でいえば、相手が不愉快に成らなければ良いと言うこと。相手によってうまく使い分ける事の出来る範囲の知識を持つ。これが大事です。
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この回答へのお礼

自分の日本語は我流でよいし、相手もまた我流なんだと開き直れば、それはそれで、痛くもかゆくもないでしょう。ただ僕の問うているのは、多様性を認めなくなりつつある風潮をどう思いますか?ということであって、回答者個人の所信表明を求めたのではありません。加えて、「使わないように」「大事です」とは僕に説教しているんですか。僕がギャル語などを使っているのではありませんので、どうぞよろしく。

お礼日時:2011/04/27 14:45

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