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某物理学者が先日、死後の世界を否定したのでニュースになっています。

[ロンドン 16日 ロイター] 
「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(69)は、
天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、死後の世界があるとの考えを否定した。
16日付の英紙ガーディアンに掲載されたインタビューで述べた。>


高名な物理学者ゆえに、その発言力は大きいと思いますが、残念な
ことに、それには何の根拠もないようです。
また、それに反論する人も何の根拠もありません。
言い方は悪いですが、根拠のない適当なことでよければ誰でも言える、
というか、いちいちニュースになることでもないよーな気がします。

死後の世界があるかないかについて、「わからない」以外に解答など
ないと僕は思っていますが、みなさんはどうでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

ホーキングさんはまともかとおもっていましたがだめですね。

とくに年老いて死が近くなったからといって「知らないこと」まであたかも知ったように論じるのはたんに加齢による「悩乱」ですね。
おそらく死が怖くて仕方がなくなったのでしょうね。
この悩乱をまともに受け取る人もいるからもはや有害物質でしかないですね。
ホーキングさんは証明できない世界を否定する前に、何故あなたが生まれて病気にかかって、適当な物理学で暮らせているか考えて見る必要がありますね。人の子供が人であることを証明してみるのが先だと思いますね。
というようにホーキングさんの言動は単なる加齢による悩乱だとおもいますね。
物理や科学で証明できないことは五万とあります。そのために人間には「信じる力」というものが備わっているのですね。死後の世界はあるかと問われれば「厳然として存在する。」と答えるのが知りうる者の仕事ですね。判らないものは信じる努力をするだけですね。判らないから「ない」では「嘘つき」の汚名を被ることになりますね。
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蛇足ながら多宇宙について。



出発点は、
「意識を有する知的生命体が進化できる物理条件へ、この宇宙が『ファインチューニング』されている。いったい何故だろう?」
という問から始まります。

宇宙の諸定数が様々が値をとれるというのは間違いである。
知性はいずれにしても発生しただろう。
知性を特別視する理由がない。
確率を詮索することが無意味である。
神の意志である。
先進文明によるシミュレーションである。

などなどの諸説を退け、
「無数の宇宙が存在して、それぞれがてんでばらばらに、諸定数および初期条件の組み合わせを実現していたとすると、それらのうちのいくつかの宇宙では、たまたまファインチューニングが成り立ち知的観測者が生ずるだろう。私たちはそのような宇宙にいる他はない」
というのが多宇宙説とのことです。
博士の「宇宙誕生のシナリオに神は必要ない」とは、まさにそのとうりの表現です。

それで、とりあえず霊魂というか、脳以外の所に心が存在しているか?という問に対して、
多宇宙を主張するには「選択された事後的結果」が要請される(確率の高い方に存在する)ので、
もし脳以外のところでも心が存在しうるなら、脳とは比べようのない大きな空間にある心の方が数が多いはずであり、私たちはそちらに属していなければならない。
ということで、否定できる訳らしいです。脳が死ねば心は無くなる訳ですから、当然死後の世界はないですよということなのでしょう。

しかし、
「宗教界」に仏教が入っていないことを祈ります。
なぜなら、
「死ぬことを恐れてはいないが、死に急いでもいない。まだやりたいことはあるから。」
とはまさに、悟りを開き梵天勧請をうけたブッダに迫る境地ではないでしょうか。
カトリックも、「まだやりたいこと」に戦力集中すれば良いのに…
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これは数多ある魂の不死を記した書物の中の一つです。



永遠の命の書

(1)私たちは現在、地球に暮らしています。その地球は宇宙の中に存在しています。それでは、その宇宙はいったいどこに存在しているのでしょうか? どこかに存在しているとしましょう。そうしたら、そのどこかはまたどこに存在しているのでしょうか? と、こういうふうに果てしなく決して終わるということがありません。つまり、宇宙には終わりがないのです。つまり、宇宙には形がないのです。
 また、もし仮に、宇宙に何らかの形があるとします。そうしたら、その形のある宇宙はいったいどこに存在しているのでしょうか? どこかに存在しているとしましょう。そうしたら、そのどこかはまたどこに存在しているのでしょうか? と、こういうふうに果てしなく決して終わるということがありません。つまり、こうしても宇宙には形がないのです。
 (右手を出して、こぶしを握る)このこぶしを現在私たちが暮らしている惑星だと思ってください。まわりが宇宙です。ほら、この惑星は形のない中に浮かんでいるんですよ。もし仮に宇宙が段ボール箱のような形をしていて、その中にこの惑星が浮かんでいるとします。そうしたらその次には、この段ボール箱はいったいどこに浮かんでいるんだという話になりますからね。やっぱり宇宙は果てしなく決して終わることがないんです。つまり宇宙には形がないんですよ。
 これはつまり、形のないものも存在するということではないでしょうか。形のないものがなければ地球は存在しません。地球は形のない宇宙の中に存在しているからです。しかし、地球はたしかに存在しています。これは形のないものも存在するということだと思います。

(2)形のないものとは、形が目に見えない、形をさわれない、形の色が判別できない、形をはかりではかれないなどです。形がないんだから、当然そうなります。

(3)形のないものをイメージしてみて下さい。形のないものは果てしなく決して終わるということがありません。

(4)私の心が、確かに存在するということのあかしです。
 例えば、私が何か善い行いをしてプラス心情になったとします。すると、遠くにいるZさんは何もしていないのに、同じくプラス心情になるかと言えば、そうはなりません。
 また、例え、一緒に善い行いをして、同じくプラス心情になったとしても、心の中まで一字一句何から何まで正確に同じでしょうか。それはありえません。つまりこれが、私の心が確かに存在するということのあかしなのです。
 心とは、うれしいや幸せといった気持ちや感情、そして、そのおおもとの自分自身の意識です。

(5)形のないものは、同じ、形のないものの中にしか存在できないということです。
 なぜなら、形のあるものの中にあったら、まわりを形のあるものに囲まれてしまい、形のあるものになってしまいます。
 また、違う形のないものの中にあったら、まわりを全て違う形のないものに囲まれて、形のあるものになってしまいます。
 わかり易く説明すると、まず、形のないものをイメージしてみて下さい。それが、違う形のないものの中にあるのです。まわりを全て違う形のないものに囲まれてしまい、形のあるものになってしまいます。
 例えば、形のない赤色をイメージしてみて下さい。それが、違う形のないものの中にあるのです。例えば、形のない黒色をイメージしてみて下さい。形のない赤色が、形のない黒色の中にあるのです。まわりを全て黒色に囲まれてしまうことにより、形のない赤色は形のある赤色になってしまいます。よって、形のないものは、違う形のないものの中には存在できないのです。形があることになってしまいますから。
 形のないものは、同じ、形のないものの中にしか存在できないのです。

(6)宇宙についての認識です。宇宙は果てしなく決して終わるということはありません。形のあるものも、形のないものも、存在するものは全て、宇宙の中にあるということです。宇宙からはみ出したりするものは一つもないということです。

以上から、

私の意識・心=形のないもの(宇宙)=相手の意識・心

となりますが、私の意識・心が考えたり思ったりしていることと、相手の意識・心が考えたり思ったりしていることとかは違います。それゆえ、

(形のないものは、違う形のないものの中には存在できないにより)
私の意識は、相手の意識の中には存在できません。

(形のないものは、同じ、形のないものの中にしか存在できないにより)
私の意識は、私の意識の中にしか存在できません。

永遠に。皆不死です。
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いや、根拠はあると思いますよ。



人間をコンピュータにたとえて説明していますが。

人間が世の中を捉えるには、脳が必須ですよね。
盲目の人が世の中を捉えるのは目以外の情報を元にしていますよね。

ある人小さい頃に失明したのですが、医学が発達して、中年になって手術を受けて資格を取り戻したんです。
どうなったかというと、今まで目が見えなくても生活できていたのに、見えるようになって生活できなくなった。
視覚からの情報を処理できず、その情報が今までも世の中の捉え方を邪魔してしまい、世の中を捉えることができなくなってしまった。
(手の感触とか音とか匂いとかで世の中を捉えていて それがその人に世の中とはこういうものだ だったのです)

再度病気に影響で失明してしまったとき、やっと世の中を取り戻せ、落ち着いた暮らしができるようになったそうです。

で、人間は手の感触が脳に伝わってはじめて「触った」と感じるし、物に光が当たって反射したもんを目が捉え、脳に伝えられたことで、「ある」と認識できるわけです。

センサーから脳に至るまでの道路が断絶すると、脳に情報は伝わりませんので、脳は世界を築けません。
(目が見えない人は手とかその他を使って世界を作っているが)

脳梗塞、 脳細胞が死ぬわけです。
どの細胞が死んだかで、世の中の捉え方が今までとは違ってしまう。

人は自分のふるまいを、過去の記憶と照らし合わせて決めている。
上司には従順な人格で、部下には傲慢なふるまいをするってのは、記憶を参考にしているから。
記憶を参考にできなければ、人によって態度を変える なんてことはできない。

脳のどの部分に障害ができたかで、今までとは世の中の捉え方が違ってくる。

アルツハイマー。 どんどん細胞が不活動になっていく恐ろしい病気。
この病気になると、認識ができなくなっていくだけではなく、生命維持のために必要な器官も制御できなくなる。
おなかがすいたという自覚できなくなり、目の前に食べ物があっても、それが一体なんなのかわからないから生きるのに必要な食べるという行為をしようとしなくなる。

どんどん細胞が死んでいき、世界が閉じていくわけです。
発病後の生存年数は5年 長くて10年。
機能しなくなるので、生命を維持できなくなる。

赤ん坊のときに細胞を移植すれば、ものすごい勢いで増殖し、脳細胞を作ることができるんじゃないかと、研究されており、将来はアルツハイマー病は不治の病ではなくなるだろうとされている。


とここまで書くと、「どうやらこいつは脳が世の中を作っていると言っているのではないか」と思えてきたと思います。
そうです。

生きている人の脳が世の中を作っており、死後の世界を空想できているわけです。

ホーキング博士は、そのことを言っていると私はすぐにわかったのですが、、、、
何も根拠ないどころか。。。。って思ったのですが、、、


多重宇宙って面白い考えがある。
時間の流れが違うことで、ひとつの世界では死んだことになり、もうひとつの世界は時間の流れが遅いので、まだ死んでいない。

例えば夜空の星たちは、目で見えているからあると思っていますが、実際は今現在存在しない星もあるはずです。
存在しない星を我々は存在しているから見えている。

我々は何億光年前の星を見ているわけです。星が死ぬ前の世界を見ているわけです。
時間の流れが逆になれば、大人から子供に至るのが成長になります。

物質が集まって骨になり肉がそれにつき、棺おけから出され、病院にベッドに移動させられ、生命維持装置が外され、家族がベッドからドアに後ろ向きで歩き、ベッドの上でだんだん目をひらき苦しそうな表情が消え、、、という流れになります。

世の中を作っているのは脳である以上、脳が活動をやめてしまった後のその人が捉える世界は存在しない。
その人の宇宙はその人の脳とともに消滅する。


機械に例えた説明では不十分だったのかなぁ と思って、彼が示した根拠を、別の言い方で説明してみましたが、それでも彼に話には何の根拠も無いといえますか?
根拠が書いてあったこと、見えてませんでした?
今 見えますか?
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「死後の世界がある」などという根拠のない仮設で、いろんな宗教が成り立ってます。


そういう宗教の中で政治が営まれ、戦争や殺戮はなくなりません。

ニュースにしたい人たちは、そういった宗教が「善」だと信じてる人たちです。
残念ながら、メディアの「常識」ではホーキンズ博士の発言は「非常識」に映って、配信されたというわけ。

未だに地球上の人類はそんなレベルです。

「死後の世界」という詭弁を使わない、確かな倫理基盤に基づいた道徳(宗教)が、
未だに確立されていないことを、彼は嘆いたのでしょう。

これは彼が提示した宿題ですよ。
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私も死後の世界はないと思ってます。


しかしこれは単なる私個人の考えで、同じように考えてる人はいくらでもいるでしょうね。
現代においてオカルトを否定する考えは珍しいものではなく、ホーキング博士のこの言葉も大抵の日本人からすれば、うんそうだね、で済む話です。二三日もすれば忘れてしまうでしょう。
ではなぜこの話がニュースになり、社会的な波紋を起こしたかと言えば、一つは欧米はキリスト教の影響が強くオカルト的な認識が強いということ。
とはいっても宗教を信じてない人間も多いですが、そういうキリスト教的な倫理観は非常に強く社会に影響があります。
日本でも多くの人は無宗教なのに未だにお稲荷様などが道端で祭られてたりお祓いをしたりする人も多いですね。
そういう社会で反キリスト教的な発言を公で行うことは倫理的に問題があると感じる人が多いわけです。実際にオカルトを信じているかは別として。
そしてそういう社会を分かった上でマスコミは話題を呼ぶためにわざと宗教的な質問をホーキング博士にふっかけてセンセーショナルに報道したのでしょう。
これはホーキング博士どうこうというよりマスコミの戦略の勝利ですね。多分実際のホーキング博士の発言より誇張されてる可能性が大です。
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神を否定する者を相手に、反論しようとするから、


自明なものも見えなくなる。
もし、神が全知全能なら、なぜ賛美者を得るために
人類をつくったりせねばならず(思い切り不完全な
感情じゃないか)、また賛美者を得るためにつくった
世界で、どこまで深く調べても「神の痕跡」の微塵も
見当たらないないのに、それで信じなければ天罰が
下るなんて、ヒド過ぎるだろ。
とても全知全能の人間のやるこっちゃない。
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 ホーキング博士の言葉は僕も拝見しました。

博士の言葉はさておくとして、僕は質問者様の以下の言葉に一つの疑問を感じました。“死後の世界があるかないかについて、「わからない」以外に解答などないと僕は思っています”。
 確かに一度死んでから生き返った人に僕も出会ったことなどありません。けれども「死後の世界」とそれに基づいて造られた数々の作品には出会ったこともあるでしょう。例えば「地獄絵巻」や「餓鬼草紙」など中世の絵巻物やダンテの「神曲」などはその一例です。モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」は放蕩を繰り返した男が地獄へと堕ちるシーンで幕を閉じます。近松門左衛門の作品には「今生の別れと来世の出会い」が数多く描かれています。何れも造った本人が直接に天国や地獄を見たわけではなく、何らかのイメージとそれを触発するモノに出会ったことにヒントを得たものでしょう。
 本屋の店先などでは「死後の世界」と称するトンデモ本の類が並んでいる光景も目にしますが、何れも評価に値する以前の値打ちしかありません。そう、この類の本とも言えないモノは暇つぶしのための道具でしかなくそれが終わったらただのゴミでしかありません。仏教における末法思想をはじめノストラダムスもマヤの予言も「その様な思考様式を持つ人」からみれば「この上ない御託宣」かもしれませんが、そうでない人からみれば「まやかし」としか思えないでしょう。
 ただ「阿鼻叫喚」「生き地獄」「地獄絵図の様な」などとの言葉を使われる方々の心情の背景には、核爆発後の広島や長崎、東京大空襲の時に人が次々と命を落としていく様子を実際に目の当たりにしている光景が的確に伝えられていることも確かです。
 物理的に「死後の世界」を実証する術はないのですから、「イメージとしての死後」を想起させる作品に接して「自分なりの死後の世界のイメージ」を想像する、位しかないと僕は思います。オカシナ宗教とは関係を持ちたくないですから。
 ホーキング博士の言葉に関しては、もう一度博士の著書を読み返してみたいと思います。
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「人間原理」の支持者として当然の発言ではないかと思います。


そして哲学の最先端は、輪廻転生に手をかけつつあるみたいですよ。
学問は果てしないですね。
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ホーキング博士には申し訳ありませんが、マスコミの出汁に使われているのではないでしょうか。

要するに、彼の境遇が一般の人から見ると絵になるとマスコミに見られている。だから、マスコミは読者を引きつけることを受け込んで、博士にこんな質問をするのでしょうね。決して、ホーキング博士には罪がないと思います。

人類の歴史を振り返ってみると、たとえば、アリストテレスは自然界を全て解き明かしたかの如く論じていましたね。バチカンでも我々は全ての真理を知っていると言っていました。量子力学が生まれる前の19世紀の偉大な数学者で物理学者のラプラスはナポレオンに向かって、「陛下、私には、神という仮説は不要なのです。」と言ったとされています。彼は現在ではラプラスの悪魔と呼ばれている知的存在に触れ、この世界の全未来が決定論的に決まっていることが最早解っていると言っていました。もちろん、現在ではその決定論的な見方その物が果たして正しいのかが、物理学のこれから解決すべき問題になっています。

私は、1990年代位の終わりの世紀末に東京国分寺の日立中央研究所で行われた、著名な二人の外国のノーベル賞を受賞した物理学者の講演を聞いたことがあります。一人は大変悲観的な方で、

「物理学の本質的な問題は最早残っていない。21世紀の物理学は、今まで手に入れて来たその本質的な基本法則を、どのように上手に使って我々の生活に役に立たせるかと言う問題だけが残っているだけだ。」

と言っていました。それに対してもう一人はその反対に大変に楽観的な方で、

「本質的な問題が残っていないなんてとんでもない。確かに、素粒子論など今までの方向でやって来た自然界の物の見方に対して、我々人類はトコトン押し込んで洗練された状態に来つつあることは認める。しかし、科学の歴史を振り返ってみると、自然界の見方に今までとは全く違った物の見方が現れて来て、今まで気が付かなかった世界を繰り返し見付けて来たではないか。だから、今までに気が付かれている問題に対しては我々は殆ど完成の状態に来ていると言うのは正しいが、我々がまだ知らない巨大な世界や論理体系が幾らでもあるはずだと言うことを、人類の歴史は教えてくれている。」

と言っておりました。

上の悲観的な先生ばかりでなく、物理学で大成した著名な先生の中には、どういうわけか現代はもう科学を押し込みきれる所まで押し込んで来た特別な時代なのだと言う方が何人も居られます。このような著名な寄与をした先生方の多くの方々は、どうして上で述べたアリストテレスやラプラスなどの科学の歴史から何も学ばないのだろうかと、私は何時もいぶかしい思いをしております。もしかしたら、ご自分でなさった寄与に陶酔してでもいるのでしょうか。

かつてホーキング博士が

「我々は、あともう一歩で神のシナリオが読める所まで来ている」

と言ったことがあります。私は、この方はご自分の尋常で無い境遇故に、ご自分が特別な時代に生き、そして、人類に対して決定的な寄与をしたのだと、ご自分に言い聞かせたいのではないか、とその言葉を聞いたときに思いました。もし、私が同じ境遇だったら、私もそんなことを言っている人間になっているのかなあなんて、そのとき考えたのでした。
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