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出雲族は大和族に敗れ、東国に逃れ蝦夷になったと思います。
東北や出雲で話されるズーズー弁は縄文人の言語でしょう。
しかし、これをある言語学掲示板で書いたところトンデモとして切り捨てられてしまいました。
思うに日本の方言学者は全く本質をついていません。
彼らは「ズーズー弁は唇の緩みによって生じたのだ」なんという滅茶苦茶な屁理屈をつけていますが、
これは絶対違います。
小泉保の「縄文語の発見」は大きなヒントを与えてくれるはずですが、彼らにしてはトンデモ以外の何物でもないようです。

そこで質問なのですが、コテコテの岩頭の方言学者にこの真実を理解させるためにはどうしたらいいでしょうか?
なお回答は「ズーズー弁は縄文人の言語の特徴」という事実を信じる人のみでお願いします。

A 回答 (4件)

 初めまして、僕が生業とする学問は「歴史学」と呼ばれる領域ですので、その立場からのコメントとして理解いただければ幸甚です。


 質問者様が提起された「出雲族は大和族に敗れ、東国に逃れ蝦夷になったと思います」とされる根拠が果たして何処にあるのか、その具体的な裏付け(史料)と研究成果。
 次に「コテコテの岩頭の方言学者にこの真実(=“東北や出雲で話されるズーズー弁は縄文人の言語でしょう”との言説?)を理解させるためにはどうしたらいいでしょうか?」との判断の基準。
 以上の2点を先ずお示しいただきたいと存じます。
 少なくとも学問としての「歴史学」が近代科学に属する以上は実証性と反証性が最低限の条件として求められることもご存知でしょう。そうでないのであれば、論者によってもたらされた「見解」も単なる想像の範囲を出ないことと批判されても反論の余地はありません。
 学術的立場からいえば、この質問には先ず最初に「縄文語」なる存在の是非が問われる問題があります。
日本の歴史上で記述手段としての文字を物的に認めることが出来るのは少なくとも古墳時代です。そして記述媒体としての文字が用いられるのはその後の飛鳥時代、公式文書に漢字が使用されたのは奈良時代です。こうした経緯一つ見ても「縄文語」なる存在を日本語の歴史にどの様な形で位置付けるのか、そして仮に「縄文語」という存在があったとしてそれとそれ以後の日本語の関係をどの様に説明するのか、が不明なままです。日本書紀には「宣命体」と「漢文体」の2つの様式を見ることができますが、「縄文語」はどちらかを指し示す様式の言語でしょうか。
 そも「縄文語」は古代の文献資料にどの様に現れているのでしょうか。縄文語に対する弥生語や古代語の存在をどの様に説明できるのでしょうか?。
 質問者様はこの様なスタンスからの問い掛けに対して「信じる回答」ではないとのことで一刀両断の下に切り捨ててしまうのでしょうか。それでは「小泉説に対するコテコテ頭の学界」と質問者様は変わりのない存在になってしまいます。
 遺跡から出土する縄文人骨からは人類学的に骨格の復元もある程度可能であり、それを下に音声工学に基づいて「縄文人の肉声」を再現する試みもマスメディア等で時折、報道されていますが、その成果も「この様なモノだったかもしれない」程度のものにすぎません。
 僕も「縄文語の発見」は読みましたが、相当に我田引水的な面が見られ、学術書の名には相応しくない一般書に少し毛が生えた程度で歴史学の立場からいえば学生の卒論レベルにも満たないとの印象を持ちました。
 その事由としては「縄文語」の定義が不明であること。小泉氏がウラル語の研究者であるならば「日本語のルーツ」をウラル・アルタイ語族に求める根拠が必要です。その説明が不十分なままに「縄文語」を突然に概念として持ち出す。これは学者以前と言わざるを得ません。同じ「日本語学」であるならば大野晋氏や柴田武氏などの古典的な論文の方に説得力があると存じます。

 「事実を信じることは何も宗教ではありませんよ。むしろ科学。証明できてきない≠事実ではないです」
との質問者様の言葉は相手からの質問に対し耳目を閉ざしてしまう偏狭な姿勢しか感じられません。科学だから「事実を立証できる」のではありませんか?。こうした質問者様のスタンスに対して他の回答者の方からも“また相手の論をよく聞き,自分の説の方が間違いである可能性も常に考えることですね。「自分が正しい,相手は自分の説を認めるべき」とお互いに思っていたら議論は堂々巡りです”との提案がなされていると僕は考えます。
 もしこの「縄文語」の問題に関して質問者様が「具体的な根拠・史料」と「厳密な論理構成」に基づいての見解を見いだした時にはそれを公的な場(学界)で学術成果として発表してみればよいのです。そして批判に耐えうるだけのモノであれば、その時には小泉説を認めなかった研究者達も自らの見解を正すことにつながります。
 「真実」というタイトルを冠した歴史本の多くが如何にいい加減で粗雑な内容しか持っていないかは僕が所属する歴史学の領域ではとっくの昔に常識となっています。この20年近くの間は殊にその傾向が強くなってきていますね。
 尚「出雲族~」の指摘ですが、この様に牽強付会な珍説に僕は出会った経験がありません。仮に出雲族・ヤマト族の違いがあったとしても、それはヤマト王権以後の政治的意味合いに基づいてのことであってそれと縄文時代の間には時間として世紀単位の差が派生することを認めざるを得ませんよね。この点一つを取ってみても論理としては相当に無理があることは確かです。出雲族・ヤマト族に関しては破天荒な読み物として一部で支持されているようですが、日本の古代史研究者の間ではこうした論議がなされている経緯もないことを付記させていただきます。
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この回答へのお礼

充実した回答ありがとうございます。
回答を読ませていただいた限り、「縄文語」の存在を立証し、それがズーズー弁であるということを学問的に立証するのはかなり困難なようですね。歴史学を用いても、今のところ突破口はないようすね。
私としてはただ、ズーズー弁は基層言語の特徴が受け継がれたということさえ証明できればいいと思っています。小泉保の「縄文語の発見」については、ズーズー弁が縄文語の特徴であるという結論自体は正しいでしょうが、確かに方法論としては学者として問題外という意見には反対しません。(誤りも結構ありますし)
将来もし本当に自説を主張したいのなら、学会に発表すれば良いのですね。
そこまで気力が続くかはわかりませんが、論理的に批判に耐えうるだけのモノに練り上げていこうと思います。

お礼日時:2011/06/09 23:34

小泉保氏の説なら信頼性は高いと,私は思います。

『縄文語の発見』は読みたいのですがまだ機会がありません。

>この真実を理解させるためにはどうしたらいいでしょうか?

学問的な言葉遣いと推論をしないと駄目です。まず「ズーズー弁」のような俗語なく「○○方言」など,方言学や言語学上適切な用語を使い,その学問での常識を押さえておかないと聞く耳を持ってもらえないでしょう。

また相手の論をよく聞き,自分の説の方が間違いである可能性も常に考えることですね。「自分が正しい,相手は自分の説を認めるべき」とお互いに思っていたら議論は堂々巡りです。実際それが多いのですが。

この回答への補足

御礼の補足です。
冒頭の掲示板ですが、自称高レベルだそうですが、私からすると単なる屁理屈の自己満足さんの集まりにしか思えません。
かなり物分かりが悪い連中ばかりで、たちが悪いです。
私はここで孤軍奮闘していますが、多勢に無勢でかなり苦しいです。
そんな中、回答者様からの温かいメッセージには大きな力をもらいます。
とにかく、ありがとうございます。

補足日時:2011/06/09 17:13
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
小泉保氏の「縄文語の発見」はかなりいい線を行っているはずです。
一度読んでみることをお勧めします。

お礼日時:2011/06/09 16:44

 日本の考古学ってそんなもんだぁ。



 この問題は縄文人が現存しないので解決しません。どちらの説が世間に認めてもらえるかなど複雑な物があります。
 
 おもしろい説があるんだなとおもいますが、証拠が弱いのでしょう。

 とんでもにされる原因は証拠となる説が弱いのです。間違いも多いです(定説とされているものではない。ただこの定説を覆す証拠があれば正しくなるかどうかも必要)

 学問の世界ですから、そうかも?ではだめで、決定打的な説が必要なんですよ。

 
 また言葉は変化しますのでそのまま残っているとも言えません。
 
 もし残ったとして、残ったのは何故でしょうか? 
 
 定説を覆す事は定説を崩すものがないから、相手にされません。そこに矛盾が出てきては駄目なんですよ。

 ただ信じるだけでは駄目なんですよ。まず定説を信じる事。そこに矛盾が無いかも考える事。定説を補う形で自説を組み入れてもらうのも手ですがね。

 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。やはり論理的な証拠で説得するしかなさそうですね。
学問の世界では直感など通用しませんから。

お礼日時:2011/06/09 12:46

●出雲族は大和族に敗れ、東国に逃れ蝦夷になったと思います。


○という前提が「未証明の仮説」であるうえに考古学的研究成果に合わないため学説として成り立ちません。

●事実を信じる人のみでお願いします。
○学問・学説は、客観的事実を元に論理的な説明を必要とします。
「信じる人のみ」では学問ではなく宗教です。
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この回答へのお礼

やはり学説として認められないというだけで全く相手にされないのですね。
「事実を信じる」は何も宗教ではありませんよ。むしろ科学。
証明できてきない≠事実ではない です。

冒頭でも書いた通り、貴方のような人には回答してもらいたくありませんでした。
すみません。

お礼日時:2011/06/09 12:50

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