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1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まりました。
日本軍は、怒涛の進軍をしましたが、蒋介石は退却を繰り返しても、降参はしなかった。
なぜ、開戦後、例えば1年くらいで、早期の停戦・和平協定が結べなかったのでしょうか?

1939年1月、ドイツがポーランドに侵攻した頃、日本軍は、シナですでに2年半も戦い続け、軍費も戦死傷者も膨大な数字となり、どうしようもなくなっていたように思います。
それなのに、なぜ、日米開戦が不可避となった時点に至っても、停戦・和平を実現できなかったのでしょうか?

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A 回答 (10件)

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/nicchusensou.html
こちらのサイトをよくごらんになるとわかりますが、いろいろな原因があります。
1.日本の軍部が日露戦争や満州事変など過去の成功体験に捕らわれすぎたこと。
2.1936年12月に西安事件が起こり、第2次国共合作が行われたこと。世論はすでに「打倒日本帝国主義」に傾いていた。
3.蒋介石、宋美齢夫妻による対外宣伝により、英米を味方につけたこと。国共合作により、ソ連の支援を得たことも大きい。
4.1938年5月末、毛沢東は「持久戦論」と題した講演を行っていた。「強いが小国で、よその国からの支援が少ない日本」と「弱いが大国で、よそからの支援が多い中国」を対比しながら、「ゲリラ戦(消耗戦)を主に農村で粘り強く続け、敵が補給できなくなるなど隙を見せるようになったら、逆に攻撃して殲滅させる」と対日戦の心得を話した。これは後の国共内戦で国民党軍を台湾に追い出す原因にもなっている。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=05 …
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この回答へのお礼

1.当時の軍人エリートは、秀才だけど、そういう過去の成功体験に捕らわれてしまうという無能ぶりをさらけ出してしまったのですね。
2.国共合作は大きいですね。何せ共産党は人心掌握に長けていますから、農民や普通の人々を、上手に味方に付けてしまうのですよ。
3.蒋介石自身は米国の指導者たちからは疎んぜられていたようですが、それをカバーして余りあったのが宋美齢の社交性と美貌だったのでしょうね。
4.毛沢東が中心となり、当然、持久戦論を実践してくるだろうと分析することが出来ず、適切な戦争戦略を構築できなかった日本の軍人エリートには、泥沼から破滅に至る道しか残されていなかったのですね。
5.密かにアヘンを扱い、その金で、軍人エリートたちは、連日連夜、上海虹口の料亭などで、芸者を上げて酒盛りしていたらしいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/30 02:28

朝日新聞と毎日新聞。

と、そのスポンサー。
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この回答へのお礼

ええ、そうなんですか。
日中戦争をイケイケドンドンで国民を扇情的に煽り立てていた新聞でしょ。
日本のマスコミは当時から余り進歩してないような気がしますね。
皆が右向きゃ右、左向きゃ左ですね。煽り立てるだけでね。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/30 02:36

不倫みたいなもので、気が付けば日本はズルズルと泥沼に巻き込まれていた、というのが実態じゃないでしょうか。


蒋介石が和平に応じなかったのは、「状況が泥沼になればなるほど自分に有利になったから」ではないでしょうか。蒋介石のバックにはイギリス、アメリカ、ナチスドイツ(!)がいました。これらの後ろ盾を背景に蒋介石は強気に出たでしょう。なにしろどんなに頑張ったところで日本軍は中国を点で占領できても面で占領できませんでしたからね。

後世の歴史から見れば、「あんなに泥沼だったのになぜスパッとやめられなかったのだろう」と思いますが、当事者の視点に立つとなかなか難しいものです。
後世の人から見たら「あんな大事故を起こしたのになぜ当時の人たちは原発をやめなかったんだろう」というかもしれませんが、現代の私たちはこれだけの泥沼にいてもまだ原発をやめるともやめられないとも決められずにいます。
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この回答へのお礼

やはりそうですか。蒋介石は、戦争が泥沼化してシナの普通の人々が苦しむことなど気にかけず、ひたすら、自分の勢力拡大に一生懸命だったのでしょうね。一方、奥さんの宋美齢は、その美貌と英語力で、米国世論を反日親中に導くことに成功しましたね。当時の日本には、宋美齢のように、国際世論の重要性が分かり、それを誘導できるような外交官は居なかったのでしょうね。

同様に、今の日本のエリートを見ていると分かるように、彼らには、原発問題は解決できないでしょう。彼らを生み出す教育制度を根本的に改革するところから始めないと、歴史は繰返すように思えます。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/29 15:38

切ない切ないご質問ですが、戦争はいつの世も、不幸しか生み出しません。

そして戦争が長期化すれば、自然と泥沼化してしまいます。何の罪も無い民間人が犠牲になったり。ベトナム戦争、朝鮮戦争、東西冷戦、世界各地で起こる紛争、そしてご質問にある日中戦争、そこから繋がる太平洋戦争。戦争が長期化すればする程にドロ沼化してしまう・・・・。太平洋戦争にしても、日本軍部が沖縄の本土決戦に入る前にはもう既に「敗戦」という既成事実が出来上がっていたんです。沖縄戦に入る前にやめておけばまだよかったのに、沖縄の悲劇・東京大空襲・広島、長崎原爆投下。意地を張り続けた結果がこれですよ。

日中戦争がドロ沼化したのは、結局は「軍部の力」が強大になったからです。中国側が停戦協定等を結べなかったのは、背後に欧米列強の影がちらつきます。政治的策略ですね。日本は占領地を広げるしか頭に無い。政治家さえも軍部に頭があがらなかった時代です。軍事教練を積んだ青年将校が肩で風を切っていた時代です。そうゆう背景もあるのでしょう。
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この回答へのお礼

軍国主義の時代だったのですね。当時、陸軍大学は秀才を集め、軍人エリートを育てました。1930年頃から、彼らが日本帝国を取り仕切っていたように思えます。しかし、彼らは、秀才なのですが、なぜか専門の軍事面でも無能でした。いわんや国際政治経済に至っては話にならないレベルでした。欧米諸国の政治的策略など見抜けるわけが無かった。

このような秀才だけど実際には無能な軍人エリートが生み出されたのは、その偏差値重視の教育制度だと言われています。恐ろしいことは、この偏差値重視の教育制度が連綿と引き継がれていることです。「秀才だけど無能」は、今のエリート(政治家、官僚、マスコミ人など)を見ていると分かるではないですか。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/29 15:43

(1)中共による日中和平妨害工作



(2)援蔣ルートによる英米の蔣介石支援で、通常は首都が陥落すれば降伏するはずが、
 首都を内陸奥地へ移しても物資が輸送されたため。
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この回答へのお礼

そうですか。欧米諸国(当時、中共はソ連コミンテルンの手先)が日中戦争の泥沼化を促進していたのですね。蒋介石はその手先だったのですね。当時は、欧米人の人種差別はひどかったらしいですね。黄色人種など猿ですよ。孫文は、アジア人を猿扱いする、そのような欧米人に蹂躙されている祖国中国を憂え、日中が組んで、アジアから欧米勢力を駆逐しようと、辛亥革命を起こしたのですね。

ところがどっこい、欧米諸国は、そうはさせじと、日中分断、猿と猿を互いに戦わせる、工作を連携して開始したのですね。蒋介石はその手先としてピッタシだったのです。

欧米諸国の狙いは成功して、日本は無謀にも太平洋戦争に突入、中国はソ連コミンテルンの思惑通り、毛沢東により共産国家となったのですね。

今や、人種差別は薄れてきましたが、今度は中国自身が周辺国を蔑視するような情けない国になりつつあります。孫文の遺訓である「日中は争わず協力するべし」に回帰する時が来ているように思えます。そのためには、何が必要なのでしょうか。それは、中国の民主化促進のような気がします。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/29 14:14

国が大きいからです。


ロシアと同じです。
ロシアに攻め込んだナポレオンもヒットラーも勝てなかった。
国が大きいと首都を移してそこで踏ん張ると言う手がある。日本のような小さい国ではそれができません。ヒットラーはロシアで日本の三倍以上の面積を占領していました。それでもそれはロシアの一部に過ぎませんでした。
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この回答へのお礼

そうですよねえ。あんな大きな国に進軍して、日本軍は、何を得たいと思っていたのでしょうか?全土を占領・支配できると思っていたのでしょうか。いや、そうではなくて、蒋介石が直ぐに降参すると思っていたのでしょうね。ところが、国が大きいから、そうはとんやはおろさなかった。ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/28 15:31

松岡外相は、日・独・伊・露の4カ国同盟を妄想して、米英に対抗する外交戦略を推進し、親米英派を粛清しました。

ところが露はそんなものに加わる考えは全く無く、日本からの日ソ中立条約の提案に応じたのは、対日独の二正面作戦で迎撃される事態を畏れたのが条約締結の目的だったのです。にもかかわらず日本は日・独・伊・露の4カ国同盟への前進だと無邪気に信じて喜んでいた。

このように日本外交の伝統的な特徴は、相手国の事情・思惑に全く無頓着で理解しようともせずに、日本の事情だけで事が進むと信じる自己中心的な幼児性にあります。

それは今に至るも全く変っていない。日本人には、相手国には日本と異なる事情・思惑があるのだという厳然たる事実をどうしても理解できないのです。

早期の停戦・和平協定が結べなかったのでしょうか?

早期の4カ国同盟が結べなかったのでしょうか?


2つの問いの答えは全く同じです。相手国には結ぶ利益が無く、結ぶ意思が無かった。
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この回答へのお礼

日本外交の幼児性には困ったものですね。今でもそうだとしたら、恐怖ですね。多数の優秀とされる外交官を世界各国に配置しながら、相手国の本当の事情や思惑を理解できない。困ったものです。やはり、日本も情報機関(仮にJCIA)を持つべきではないでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/28 15:42

>なぜ、開戦後、例えば1年くらいで、早期の停戦・和平協定が結べなかったのでしょうか?


>日米開戦が不可避となった時点に至っても、停戦・和平を実現できなかったのでしょうか?

停戦や和平の締結・実現と簡単に言いますが、一体どんな内容なら日本と中国国民党及び共産党がの三者が納得するのでしょうか。

協定とは交渉事なのですから、当たり前ですが相手も納得しなければなりません。
ただ開戦前の状態に戻すだけなら初めから戦争なんてしやしませんし、申し訳程度に何かを得て「ほら勝てて良かったね」なら支那事変を起こさなかったでしょう。

何故和平が結べなかったと簡単に言いますが、双方が納得する何か良い和平案でもご存知なのでしょうか?
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この回答へのお礼

そうですよね。簡単に和平ができるようなら、最初から戦争なんて始めないですよね。ただ、支那事変の場合、両者が和平を望んだ時期もあったわけで、和平の機会が皆無だったわけではないようです。日本軍は軍費も戦死傷者数も膨大になり、支那も同様であり、なおかつ無数の民間人(農民)も戦火に巻き込まれて(蒋介石や毛沢東は個人的には、このところは気にしていなかった様子ですが)、支那の普通の人々は、もうボロボロになり苦しんでいたわけですよね。両者は歩み寄れる機会はけっこう有ったように思えます。ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/28 15:56

日本政府も蒋介石の国民政府も、停戦と和平を望んでいました。


水面下では多数の和平工作が行われていました。

しかし和平工作がことごとく失敗する。
国民党内部の共産党工作員、日本政府内部に浸透したゾルゲグループの影響が大きかったのではと思います。国民党と日本を戦争させ疲弊させ、漁父の利を得る。
戦後の国共内戦を見れば、装備でも資金も少ない毛沢東が、蒋介石を台湾に追い出してしまいます。
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この回答へのお礼

ゾルゲは優秀な諜報員だったようですね。日中戦争が延々と泥沼化したのは、漁夫の利を狙う、ソ連共産党赤軍の工作もあったのですね。毛沢東を使い蒋介石に国共合作を遂行させるテクニックも相当なものですね。

このあたりの諜報戦争では日本は幼児並みだったのでしょうね。最後までソ連を当てにして、太平洋戦争終結の仲介までソ連に期待していたのですから。

反共を貫き通した汪兆銘が結局は正しかった。彼はソ連の諜報工作を見透かしていたのではないでしょうか。蒋介石にはその眼力は無く、日中戦争では中国の普通の人々を苦しめ、結局毛沢東に破れ、孫文の辛亥革命をつぶしてしまった。

ゾルゲを視点に置き、日中戦争から大東亜戦争への歴史を見直してみるのも、価値があるかもしれません。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/28 16:32

明確な戦略が無かったからです。


まあ、馬鹿だったのですな。
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この回答へのお礼

そうですか、昔から、日本には戦略が無かったのですね。
今の日本にも、国家戦略が欠落していると言われています。
国家戦略が欠落していたら、それに準ずる国運を左右するような多数の重要事項にも戦略が無いということで、一国民として、怖くなりますね。ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/28 16:01

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Qなぜ日中戦争は和平交渉に失敗したのですか?

なぜ日本は日中戦争の泥沼化を食い止める事ができなかったのですか?あそこまで泥沼化する前に、なぜ和平を結べなかったのですか?最大の理由を教えて下さい。

Aベストアンサー

理由は幾つもあります。
まず挙げられるのが「満州事変の成功体験」です。
当時の日本では数年前、満州事変により電撃的に日本本土より遙かに広い満州を制圧し、満州国を建国、長年に渡り日本外交の大きな課題であった「満蒙の特殊権益」問題を一気に解決しました。
その後も満州国は内戦続きであった中国本土とは一線を画した発展を遂げていると認識されており、この成功体験故に当時の大多数の日本人は日中戦争も日本有利で簡単に片付くと甘く見てしまいました。
そして日中戦争においても日本軍は「快進撃」を続け、広大な地域を占領し、表向きは「戦勝続き」であった事から「満州事変の再来」を夢見てしまったのです。
こうなると軍内部はもちろん政府、マスコミ、そしてもちろん国民世論の大多数も「華々しい戦勝」を望み、中途半端な条件では和平を結ぶことは出来ません。
日本陸軍は国民が送った喝采故にこそ、戦争を止められなくなってしまったのです。

また日本陸軍はもともとソ連を仮想敵国としており、対中国戦が長引くことは望んでいませんでした。
しかし陸軍内部でも戦争拡大派と縮小派の意見が入り乱れて意思統一が出来なかった事に加え、日本軍の作戦思想の問題がありました。
実は日本陸軍において「国力に劣る日本は長期戦には不向きであることから、短期決戦で勝利を収めるべきである」という思想が主流であり、これは中国における拡大派・縮小派の双方が共通して持っていた認識でもあるのです。
そして短期決戦での勝利を収めるため「敵軍の主力を決戦により撃破し、首都など敵国の主要部を制圧する」という「決戦主義」とでも言うべき思想に凝り固まってしまったのです。
このため日中戦争のように戦術的勝利は続けるが、中国軍を殲滅することは出来ず、首都南京を攻略しても中国政府が屈服しないという事態は日本陸軍の想定には無かったのです。
その結果、拡大派は「中国軍を殲滅して戦争を終わらせるため」より大兵力を投入せざるを得ず、縮小派はそれに変わる戦略を提示出来ませんでした。
皮肉にも「短期に戦争を終わらせる」事を目的とした決戦主義こそが日中戦争の泥沼を招いてしまったのです。

理由は幾つもあります。
まず挙げられるのが「満州事変の成功体験」です。
当時の日本では数年前、満州事変により電撃的に日本本土より遙かに広い満州を制圧し、満州国を建国、長年に渡り日本外交の大きな課題であった「満蒙の特殊権益」問題を一気に解決しました。
その後も満州国は内戦続きであった中国本土とは一線を画した発展を遂げていると認識されており、この成功体験故に当時の大多数の日本人は日中戦争も日本有利で簡単に片付くと甘く見てしまいました。
そして日中戦争においても日本軍は「快進撃」を...続きを読む

Q日中戦争の長期化

日中戦争は当初の日本の予定とは裏腹に、長期化したと一般に言われています。

日本はもともと、どのくらいで日中戦争を終わらせる予定だったのですか?

1年くらいでしょうか?

Aベストアンサー

中国側の拠点をとればすぐに中国側が譲歩すると思っていましたのでせいせい2~3ヶ月もすれば片付くと思っていたようです。

Qなぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q日本は何故日中戦争に勝てなかったの?

よくは知りませんが、日本と中国では兵力に圧倒的な差があったはずです。現に盧溝橋事件からあっという間に首都陥落まで行きました。
そこからは泥沼に陥ってどうしようもなくなるわけですが、
何故その勢いのまま勝てなかったのでしょう?

Aベストアンサー

一番の原因は、「手を広げすぎたため」です。
後は、「被占領地の人々の心を考えなかった」と言うことでしょう。
台湾、朝鮮半島、そして満州と、日本は領土、そして支配地を広げてゆきました。
中国や朝鮮で広く言われているように、日本が占領地から略奪したという史実は、余りありません。もちろん、日本軍は食料等を現地で徴発することが多かったので、衝突や抵抗に遭った事はありました。
しかし、満州、そして南京など、日本占領後、治安が回復し、日本によるインフラ整備が進むにつれ、人口の増えたところもあります。
しかし、日本移民のための耕作地確保など、現地の人々を不当に扱う一部の日本人のため、そして、共産軍の浸透により、反日が激化してしまったのです。
満州地方は、帝政ロシア・ソ連邦と、北の大国の侵略行為に苦しめられていました。何せ、沿海州等から追い立てられ、虐殺された歴史があるからです。ですから、ロシアと戦う日本を民衆が支援していたということもあります。
しかし、日本は、彼らの期待を裏切ってしまったのです。
どんどん支配地域を拡大し、兵力と無駄な資器材と資金を浪費してしまい、さらにこちらが解決する前に大東亜戦争を始めてしまい、日本の国力を超えた多正面戦争を始めてしまったのです。
おそらく、対中国だけだったら何とかなったでしょう。
しかし、蒋介石を甘く見て、外交努力を放棄して、アメリカの介入を招いた時点で日本の負けは決定したのです。
当時の日本が、蒋介石と上手く手を結び、共産軍を封じ込めていれば、現代史はもっと違った展開を見せていたでしょう。

一番の原因は、「手を広げすぎたため」です。
後は、「被占領地の人々の心を考えなかった」と言うことでしょう。
台湾、朝鮮半島、そして満州と、日本は領土、そして支配地を広げてゆきました。
中国や朝鮮で広く言われているように、日本が占領地から略奪したという史実は、余りありません。もちろん、日本軍は食料等を現地で徴発することが多かったので、衝突や抵抗に遭った事はありました。
しかし、満州、そして南京など、日本占領後、治安が回復し、日本によるインフラ整備が進むにつれ、人口の増えたと...続きを読む

Q大政翼賛会について教えて下さい。

第二次世界大戦当時大政翼賛会というのがあったと思うのですが、
どういった経緯でどんな目的を持った組織なのか教えて下さい。
またその当時、どういった役目を果たしていたのか教えて下さい。

Aベストアンサー

議員全員を翼賛会の推薦候補とすることで、議会対策のためという性格で語られることが多いですが、別に大政翼賛会で国会を一色にしなくても、戦争体制に迎合した国会の機能は果たせました。
現に、翼賛体制下でも首相が退陣させられたり、旧民政党、旧政友会などで論戦もありましたから、すべて右ならえの「将軍様」の国とは違います。

翼賛会がもっとも機能したのは、議会対策ではなく、その下の地方や町村レベルの統制にありました。
それまでの産業報国会、大日本婦人会や部落会・町内会などの地方組織が組み入れられ、上意下達の国民生活統制機関として、また戦争遂行を鼓舞する国民運動推進機関として、役割を大いに果たしました。

また、大正期に勃興したいわゆる「革新」勢力のうち、社会主義政党や共産党の徹底した排除を可能にしました。(革新勢力でも、極右の社会大衆党などは翼賛会に積極的に加担しました)

組織としての思想的な面は、世界新秩序、統制経済、権力一元化を柱にドイツのナチス的新体制を模倣したと言われています。
その意味では、近衛文麿よりも、在郷軍人会を組織した田中義一の考えに拠ったところが大きいと思います。

結局のところ、企業にしろ国民にしろ、翼賛体制を作って思想統制、経済統制をしなければならないほど、戦争に非協力的な組織や人間も多かったと言えます。

議員全員を翼賛会の推薦候補とすることで、議会対策のためという性格で語られることが多いですが、別に大政翼賛会で国会を一色にしなくても、戦争体制に迎合した国会の機能は果たせました。
現に、翼賛体制下でも首相が退陣させられたり、旧民政党、旧政友会などで論戦もありましたから、すべて右ならえの「将軍様」の国とは違います。

翼賛会がもっとも機能したのは、議会対策ではなく、その下の地方や町村レベルの統制にありました。
それまでの産業報国会、大日本婦人会や部落会・町内会などの地方組織が...続きを読む

Q●第一次大戦中の日本『大戦景気』になった理由について(中学レベルです)

僕は中学2年生の男子なんですが、今期末テストの勉強に追われています。
塾などには行っていないし、親も勉強はあまり詳しくないので、ここでちょっと質問させてください。

第一次世界大戦中の日本は、日本の商品が欧米諸国の品物にかわり、アジア、アフリカ地域に進出した。
ということですが、なぜ輸出が増えたのか?と聞かれたら何と答えればいいのでしょうか?

授業中に先生が言っていたのですが、メモを取っていなくて忘れてしまいました・・・。
その先生は「1度言ったことはもう言わない!」みたいなことをいつも言ってるんで、怖くて聞けません。

何となくは分かるのですが、テストの解答欄に書く用の文章にはできません。なので、詳しい方はぜひお願いします。

Aベストアンサー

No,1の方の回答でもう事足りていると思いますが、気が向いたら読んで下さい。

大戦景気とは三国協商vs三国同盟という形で起こった第一次世界大戦の折、戦争をしているヨーロッパ勢がアジアに目を向ける暇が無いのをいいことに日本がアジア・中国市場の独占を図ったこと、そして戦争による需要の増加という2つのことから生じたものです。

「なぜ輸出が増えたか?」と聞かれたら、「戦争している国は輸出用の商品を作っている暇は無く、むしろ戦争に必要な物資をひたすら輸入する側に回ることになるので供給は減り需要は増えることになる。そうして生まれた超需要に目を付けた日本が率先して輸出をしたので結果として輸出量が大幅に増加した。」みたいに答えればいいかなと思います。

なにやら怖い先生みたいですが勉強する意思のある生徒の質問に答えないというのは職務怠慢な感じがするので、友達と一緒に教頭や校長に報告し注意してもらうのもいいかもしれませんね。

Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む

Q世界恐慌って?

1929年の世界恐慌に限って質問です。

世界恐慌って言うのはどういう風にして起こったのでしょうか。
世界までにも影響が波及した理由も兼ねて、分かりやすく、かつ詳しく教えていただけると幸いです。

それと、しってたらなぜ今の不況を世界恐慌といわないのかも教えてください

Aベストアンサー

こんにちわ
理由としては以下のものがあります。

・第一次世界大戦終結によるアメリカの好景気化
 ・工業投資の発展
 ・戦地からの帰還兵による消費向上
 ・自動車工業の躍進

これらによって、アメリカは発展します。しかし同時に
・ヨーロッパの復興によりアメリカ農作物の輸出過剰
・社会主義国の市場離脱(ソ連を代表とする東欧諸国)
により、アメリカ国内では生産過多、供給過剰に陥ります。

当然、商品価格はだぶつきますが投資家筋は長期的に上がると判断し、
投機熱が高まり、資金が異常に市場に流入されました。
市場流入した金が多いということは、市場そのものの価値が下落します。
(モノが大量にあれば希少価値が無くなり値段が下落しますよね)

ここで株価が史上最高値を出したことで株の売りが出だしますが、
下がれば買いが入り、しばらく上がっては下がりの状態を繰り返しました。
そんななかアメリカの国益産業である自動車産業の雄、GMの株がこのあおり
で売られはじめたことで不況の端を発します。
投資家が売り出したことで、他の投資家も「今が売りだ!」とGM株が大量に
売られてしまったのです。この売り誘発で他の銘柄も売りが殺到し、
市場の株が売り一辺倒になりアメリカ恐慌が発生しました。

ちょうど、GMも過剰生産だったので工場縮小などの措置を講じていた背景
があり、投資家に売りを誘発させる材料が整っていたことも大きな要因です。この流れで強烈な経済後退をアメリカ国内で招きました。

これが世界に流れて大恐慌になったのですが、当時はまだ株式市場は影響力
が小さく、被害はアメリカ内部だけにとどまっていました。
大きく世界を巻き込む恐慌に発展した理由として、銀行の倒産が挙げられます。
金融システムが停止し、世界取引の大部分は金本位制に基づく現物だった
ことから信用取引が中心となっており、輸出が激減して信用がなくなった
東欧諸国への取引が停止されます。
これによりオーストリアの銀行が倒産し、隣国のドイツを恐慌が襲い
ドイツの銀行が倒産し、企業の倒産が急激に襲い始めました。
また、第一次世界大戦からやっと復興し、金本位制に戻った各国から
大量の金が流出し、特にイギリスやドイツのヨーロッパ諸国の経済停滞を
招いて価値が急激に下落します。

日本やドイツは産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から
脱しましたが、政党や軍部の台頭が資本主義先進諸国との軋轢を生み、
他の国々も巻き込んでアメリカ市場経済への報復と、戦争による通貨価値
の上昇が狙われ第二次世界大戦が勃発しました。

現在の不況は当時の世界恐慌とは異なり(この恐慌から学び)、
国政資本を注入して建て直しを図る政策を各国が採っています。
各国が市場経済を導入している現在は、通貨の価値保全を各国が協調し、
一国の不況で計り知れない経済停滞が世界を襲うことを避けるため、
各国通貨や国債を他国が購入し、通貨の安定や外貨、外債を持つ購入国の
発言力が大きくなることでバランスを図っています。

そのため、株価は下落しても通貨自体は大きく変動していないので
通貨の国際的地位は各国とも保全されており、当時の世界恐慌ほどの
停滞とは言えないと思われるからだと考えられます。

簡単に言えば、各国がこれまで貯め込んだカネを放出して経済対策を
講じることが出来るためです。
国際法がしっかりとできあがり、世界的な連鎖恐慌を避ける措置が
図られているためですね。

こんにちわ
理由としては以下のものがあります。

・第一次世界大戦終結によるアメリカの好景気化
 ・工業投資の発展
 ・戦地からの帰還兵による消費向上
 ・自動車工業の躍進

これらによって、アメリカは発展します。しかし同時に
・ヨーロッパの復興によりアメリカ農作物の輸出過剰
・社会主義国の市場離脱(ソ連を代表とする東欧諸国)
により、アメリカ国内では生産過多、供給過剰に陥ります。

当然、商品価格はだぶつきますが投資家筋は長期的に上がると判断し、
投機熱が高まり、資金が...続きを読む

Q日中戦争はそれほどひどい??

中国から侵略だの南京の虐殺だの一方的に非難されて謝罪するのが日本ですが、良く考えて見ると社会の時間にそれほど詳しく習っていないし、太平洋戦争時に米軍が撮影したビデオや写真ほどのエビデンスを見た事がありません。ですからはっきり言ってピンと来ないのです。太平洋戦争なら開戦から終戦まで順を追って、どの地上戦、どの海戦でどのくらいの被害、戦死者が出たのか頭に整理された形で記憶されていますが日中戦争はその15年がどんなだったのか分かりません。日本軍の戦死者は50万人と聞きますが一体どのような地上戦が繰り広げられたのですか? 私の近所に住んでいたおじさんは日中戦争で従軍しましたが鉄砲の弾を一発も撃たずに日本に帰国して晩年恩給を頂いていました。彼から聞いた戦争は毎日ピクニックみたいだったそうです。まあ、前線でなければこんなものかも知れませんが、どうも理解できない歴史で、未だに中国に振り回されているのがおかしい状況だと思います。誰かコメント下さいませ。

Aベストアンサー

 これはもう死んだ母から聞かされたことです。母は満州国建国後、満州に渡り一旗揚げた多くの日本人の中の一人です。しかし、ポツダム宣言受諾後からはソ連軍の侵攻に合い、すべてを失い、子供一人もうしない、姉を連れて大陸を歩き、朝鮮半島を歩き、ようやく日本にたどり着いた多くの日本人の一人でもあります。

 母の言葉。「本当に苦しんだ人の話を聞くことは出来ない。もう死んでいるから。生き残った人たちの話は話半分に聞いておけ。一番悲惨なところにはいなかったに違いないから。私はもう二度とお上は信じない」
 天皇陛下への尊敬は失い、大勲位・中曽根が旧海軍の水泳帽をつけてプールで泳ぐパフォーマンスを見ては「主計将校が!」と吐き捨てていました。中曽根氏は実戦に立ち会ったことがないんですね。

 さて話がずれたかもしれませんが。15年間を自らの国土で防衛戦をやらなければならなかった中華民国、実態は国民党・共産党・その他になりますが・・多くの犠牲を出していることは間違いありません。また、軍人ではない民衆の被害も想像が付かないものではないでしょうか

 国民党はひたすら日本軍との大規模な戦闘を避けて逃げ回っていました。共産党軍もゲリラ的な攻撃しかできませんでした。なので太平洋戦線のように正規軍同士が大規模な衝突を起こしたことは中国戦線では数えるほどしかありません。
 また日本も中国も貧乏でしたから太平洋戦線のように記録フィルムがあまり残っていません。写真は結構あるのですが。太平洋戦線の多くの映画フィルムはアメリカ軍の撮影です。

 15年間の永きにわたって国土をを戦争とした以上、現在の中華人民共和国が大きな被害を出していたことは間違いありません。これは否定できない事実です。

 ただ、田中角栄首相による日中国交回復にあたって、中国は戦時賠償を放棄しました。中国との国交回復に当たっては反対論もあり、その一つの理由が巨額の賠償金が予想されることでした。「賠償金を払ったらまた貧乏生活に逆戻りだ」という主張もあったんです。現に私が小学生、中学生の頃は東南アジア諸国への賠償が行われていました。

 結局巨額な額になると思われた中国への戦時賠償を行わない代わりに巨額のODAが実施されているのですが、私は戦時賠償を行った方がよかったと思っています。もしかしたら今も続いていたかもしれません。
 そうすれば年賦で支払われる巨額の賠償金が国家予算に占める割合は一目瞭然でしたから、中国への侵略の歴史を学校で学ばなくとも多くの人たちが身に染みて実感していたでしょうし、賠償が終われば物質的責任は果たしたと、また日本国民も実感できたと思います。

 となれば、いつまでも過去の問題を持ち出しては国内支配の道具に使う中国共産党の暴走にも縛りがかかったのではないかなとふと思うことがあります。

 今の中国共産党については全く信用していません。ただ、15億人でしたか・・これだけの人間を飢えさせずに生活させるためには、また200以上の民族を抱え込んだ多民族国家を分裂させずに国家運営を行うということは想像を絶する困難さがあると思います。

 中国共産党の崩壊は隣国が内戦状態に陥ることでもあります。これは国境を接するすべての諸国にとってとんでもない悪夢の始まりであり、その影響は全世界的でしょう。なので、アメリカもロシアも日本政府も韓国も中国共産党を全面的に支持できない・・けれど崩壊は困る。これが本音だと思います。

 私も中国の「日本侵略」より、「内戦・中国大動乱」の方が恐怖です。 

 これはもう死んだ母から聞かされたことです。母は満州国建国後、満州に渡り一旗揚げた多くの日本人の中の一人です。しかし、ポツダム宣言受諾後からはソ連軍の侵攻に合い、すべてを失い、子供一人もうしない、姉を連れて大陸を歩き、朝鮮半島を歩き、ようやく日本にたどり着いた多くの日本人の一人でもあります。

 母の言葉。「本当に苦しんだ人の話を聞くことは出来ない。もう死んでいるから。生き残った人たちの話は話半分に聞いておけ。一番悲惨なところにはいなかったに違いないから。私はもう二度とお上...続きを読む


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