単二電池

はじめまして。

似たような話題は「主観客観」等の
トピックスにて今までも議論しつくされて
いるのかもしれませんが、

この世界で現象することは全て
自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、
自分の外に実在する存在者などない、とする
独我論は、
私がいままで経験してきた、自分と世界のあり方の
一つの説明としてある説得力をもつのですが、
日常的な感覚では、
自分と同じような「独我」が自分の外に存在していることを
前提してこのような質問などしており、

思考の上での世界観と日常的な世界観が乖離しています。

このような乖離に対して、どのような調停、
が可能でしょうか。

よろしければ、ご教示ください。

A 回答 (16件中1~10件)

まあ、また ふっるい質問スレだ! 質問者さんは、いずこ?


悪い袋と、その一味たちが、放置主義を好むらしいとは存じてましたが、質問者さまも、ひょっとして お仲間?
いえいえ、なにか、よんどころない事情が おありなのでしょうね。。。
ともあれ、まずは結論から入りましょう。
「調停法」?としては、、、ありきたりでしょうけど、やはり、推論というか、日常的なコトバで言えば、豊かで柔軟な想像力でしょうね。それが過ぎたと見るや「妄想だ」と叩かれることもありますけど(笑)ところが、その「妄想」に、もっともっと耽らそうと煽る連中も おりますしね(爆)ああ、複雑怪奇な人間心理。

「死後の世界が」云々というのは、実際確かめてくるわけにもいかないので、私は こう想像しているのよ、あなたは?などと、ご披露したりするのですよね。それも、「死後の世界」などという話題に、相手も関心を持つ、持っているのではないかという、すでに想像したうえでの期待感があるからですよね。

他者を貶めたり暴力をふるうのだって、そうすれば相手が苦しむはずという期待をもって、そうしているだろうし。

No.12、出た!
「ネット人格」「ことばの束」出所は、ここだったか(爆)

>「A」というハンドル名で質問や回答をしている人がいるとします。この「A」さんが、ある日「B」という別のハンドル名で会員登録を行い、その名前で質問や回答をしはじめる…としましょう。
 この場合、Aさん(Bさん)以外の人が、「AとBとは同一人物だ」と確実に証明することはできません。両者の書き込みにたとえ何らかの証拠があったとしても、苦しいでしょう。いくらでもごまかせますから。何の証拠もなければ、なおのこと証明不可能です。
 逆に、Aさん自身が、「私はBさんとは別人だ」と証明することもできません。たとえ事実そうであったとしても、です。たとえ同時刻のタイムスタンプで両者が同時に書き込みをして「ほら、別人だ」と言っても、何のことはない、端末を2台用意して友人に操作してもらうなり何なりすれば簡単にできることです。何の証明にもなりません。

はいはい、こないだ、ある「お猿さん」を相手に言い聞かせてやってる人がいたんですけど、ムダも いいとこでしたわ(爆)
こういうサイトと、単なる個人のブログとの違いも分かんないのだからムリもないのかな。
しかも、そもそもが特定されていないことだったのを、自分方からワザワザ特定に及んだのが発端だというのに。
要するに、「お猿さん」の側にとっては、相手は立派に脅威を感じるだけの発言力ありと思ったんでしょうか(爆)
もう放ってありますけど。


>せいぜい発言数を重ねることで「自分らしさ、その人らしさ」を「コトバの束」として固めていくことくらいです。しかしそれでも、「自分らしさ、その人らしさ」は蓋然性(確からしさ)の域内で固められていくにすぎません。決して確実性は持ち得ないのです。
 ですから、「独我論自体が語りえない空間」は、実に私たちの目の前に生きた教材として現れているのだと

ふむふむ、発言数を重ねて蓋然性を固めていく「生きた教材」ね!ええ、ある人に、それが どんなものだかウンザリするほど見せてもらったことがありますよ(爆)

しかし、それでも、空想は空想だと割り切れないで、空想を、つまりは確実性をもって語り得ない願望を現実に割り込ませようとするのは、現実というものを認めて、空想とは区別しているからこそに他ならないでしょう。
いかにネットは仮想空間と名付けても、現実に存在する人であることを確信し、実際のネット・アドレスに向けて、自分の温めてきた空想や妄想を聞かせるための いとぐちとしてメールを送りつけてくる者も おりますから。
もっとも私は、それに対し徹底的に嫌悪を言表して、蓋然性(確からしさ)を固めていきましたが。ついでに、「敵」と見做して処するべき者とは どういう連中であるかについても蓋然性(確からしさ)を固めていきました(爆)

独我論だろうと、そうでなかろうとも、「あったかもしれないけど、わかんない」と言うべきところを、「あった」と言い切ってしまえば、嘘になるのは、いっしょですね。
わかるのは「わかっていない」ということだけ。それだけ。それが身も蓋もない素朴、ってことなんだろうけど、
「あった」かどうかは知らないし、「あった」と決めつけてなんか全然いやしないのに、「あった」と思わせるための働きかけを延々やり続けることに対して、それが不愉快だと表明したことを、「あった」と言ってるぜコイツ!と、それこそ大勘違いして決めつける輩もいるし(笑)

こんな場合は、つまり、もともと、打ち壊すべきドクサ(臆見)など、こちらには ないのだから、イロニー(皮肉)によっての産婆術としての対話なぞにはなりようがない、ってこと。


>まず「私に見えているものだけが真に見えているものだ」という言明自体に一つの答えがありますから。「区別できる、オレが見てるのだけが真だ、他のやつらのはちがう」と。

? 「私に見えているものだけが真に見えているもの」とは、「真そのものが見えているのだ」って、あのヴィトゲンシュタインが言ったの??

まあ、何でもかんでも自分が思い込んだ「まぼろし」に過ぎない、だけでは済まないのが現実ですよね。だって、そもそも、実際この身体を守れないのでは しょうがないのだから。その意味でなら、分からないでもないけど。


>ヴィトゲンシュタインの下した結論は、「独我論者は自分を理解させることができない」、「独我論者は自分を語ることができない」ということでした。もっと言ってしまうと、独我論自体が「語りえぬもの」だということです。つまりは「独我自体の無化」(または「私的言語の不可能性」)。

これ、まさに、ヘタクソ誰かさんのことみたいだねえ(笑)いや、独り言ですけど。
私は、いくらでも「自分を語ることが」できますから!独我論者ではない。(爆)


>笑ったり泣いたり怒ったりする、この「私」の実感は「いま、このとき」のものです。「いま、このときの私」を意識したときに、切れ目のない連続した「私」の一部が分節され、切り出されて「自己意識」になります。が、この自己意識はすぐ次の瞬間にはもう無効になります。「我が我でないもの」に変わったからです。そしてそれもまた「我」であるという…。

だって、通常は、たとえば、同じようなパターンに遭遇したと思うときに、いつも怒るのであって、真相は違っていたと分かって怒らなくなるのとは違うでしょうに。



どなたかの ご発言ですけど、
>自分そのものは、自分の意識の中に立ち現れたりしませんから(笑)

ええっ、そうなの?と思ってしまいました。
(単なる独り言だけど)
小人(ホムンクルス)と言えば、私は幼い子どもの頃、おなかのなかには小人さんが金づちや何かを持って待ち構えていて、上から降ってくる食べた物を、より細かくしていく お仕事をしてくれてるんだと、ひそかに思っていた。だから、感謝しなくちゃ、って。。。



>痛みを「私」なら感じるべき状況で、アンドロイドが痛みの振る舞いをするとき、彼が「私」と同じ痛みを感じていることを絶対に確認できないという点において、彼は私にとって他の「他我」と同等であり、それゆえ、社会生活の上では、彼に人格を認めるべきだと思います。

へえ~。。。
質問者さま、それは「アンドロイド」なのだからということで「認めない」ことの理由には できないんだ?!?
そういえば最近、どこかで聞いた話だけど、ロボットが どんどん進化していって、内外ともに、ほぼ人間なみの機能を備えるようになったら、ロボットと結婚することを認める制度をつくって、そうなると、ロボットにも人権を認めなければならなくなるだろうとか。
ロボットに、結婚という制度を適用しようと考えるなんて人、いるのかな?と思ったけど、いるんだろうなあ(笑)

子どもの頃に読んだ『ダニエル』とかいう題名の、ハンサムで、かいがいしい男性型ロボットに、女性主人公が恋愛感情持ってしまうという漫画が ありました。
外見がヒトとの見分けが つかなくなったら、まずは分解してみて確かめる、ってわけにもいかなくなってくるだろう(笑)

ロボット、最近では、アイボみたいなペット型ロボットだと、本物の犬という生物の習性や、そこに加えて、人間くさい反応を機能として組み込むことで、無機的な、ロボットという名称の物体に過ぎないものにさえ、ヒトは親しみや愛着すら起こすのでしょうけど。その効果を積極的に狙った商品でしょうね。でも、昔から、何の反応もしない縫いぐるみや人形に愛着を持つものだし。

まして無機物ではない、この自分と同種に分類される生物であると思えばこそ、一日中食事をしてないと聞けば、さぞや空腹だろうと想像し、バカにされた殴られたと聞けば、さぞや悔しかったろ痛かったろうと想像するし、そうした想像が的はずれの恐れがあると判断すれば、確認という作業をしてみるし、どうも想像を及ぼしてもらいにくいようだと判断すれば、自分から何らかの積極的表現しますよね、ふつうはね。
自分では実際に積極的表現をできているのに、他人が それをしてもわからんヒトも世の中には いるらしいのだけど、それは、あまりの例外として捨象するとして(爆)



No.1さまの
>唯識にも流派があり、第九識を立てずに第八識だけでがんばる学派もあります。

まずは大笑いしてしまいました。なにも そんなにガンバらなくても…(笑)

>謂わゆる「自業自得」の思想を突き詰めすぎてこういう結論になったようです。

へえ~なるほど~!
まあ、でも、しょせん、自分の見えたとおりにしか見えてないに過ぎないんだから、と
何でもかんでも根本は自分のせいにしておけば、なんで こんな目に遭う!という怒りを鎮める一つの考え方かもね。
たとえ、いきなり他人に突き飛ばされて、そのせいで すっ転んで、口のなかが切れて、大きな青あざができたとしても、
「あれえ?勝手に血が出てるんだな、青あざが勝手にできたな(と私が勝手に思い込んでるんだな)。
すっ転んだ(と思う)からだろう。
でも、いきなり突き飛ばされたと思うのは、自分が そう思い込んでるせいなんだろう。
私が自分勝手に転んだの。誰も悪くないない。」
カッコ内を省いて、こう言っておけば、ポジティブ・シンキングの鑑!聖人!として称賛されるか、多分に舐められるか、どっちかな。
カッコ内も言ってしまうと、ヤバいと思われそうだが(爆)


>「私が考えるように考える者は私一人である」

と本当に思うのなら、つまり、他者が自分と違う感じ方、考え方をしていると、そう思っているのは、自分ただ一人であると思えるのなら、咎めたり腹を立てるはずもないでしょう。そんなの、自分で自分に突っかかり、腹を立てるしかなくなるのだから。



No.2のかたが おっしゃってるように
>主観主義的な認識論の徹底として現れて

くるのが「独我論」ならば、やはり、哲学としての一スタンスにはなるのでしょうね。こないだも、そういう話してたんだけどね。

単に「認識されていない」だけのことと、「実際そうではない」ことが、とり違えられてるだけじゃないかという「素朴な」独我論の話題は、相変わらず、ここで繰り返されていても文句も出ないわ。



>矛盾を受け入れること、これによって全てが整然と説明できる、らしい

「説明する」ことで矛盾をなくせるのなら、結局、矛盾を受け入れてはいないことになるじゃないですか?
まあ、説明するまでもないことだってあるわけだけど(笑)



>独我論を理論で論破することは

って、おっしゃるかた、
>既に間主観性が成立しているという前提
が、それに相当するのでは?しかし、
それすらも、独我論は呑み込んでしまうのでは、といったことが言われてきたのではありませんか?
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独我論はそれ自体で完結しているため理論では乗り越えることができないと考えています。

しかし、他人が唱える独我論は私(御坊哲)から見れば成り立たないことは明白であるので議論にさえなりません。独我論が成り立つのはあくまで私についてだけであります。尤も私はその立場をとっておりません。

あなたにしてもここに質問を投稿するということは、既に独我論の立場を捨てているということになりますね。
独我論の立場で哲学することは不可能ですね、すべて独り言になるわけですから。

故に、我々が独我論について論じる場合は、既に間主観性が成立しているという前提で論じることになります。言い換えれば独我論を論じること自体が背理的であるといえましょう。

私自身は自分の本能が独我論を拒否しています。自分の本能を信じて非独我論の立場をとることに決めました。みも蓋もない言い方ではなはだすっきりしませんが、今のところ、こういう感じで折り合いをつけております。

以前の回答でウィトゲンシュタインを持ち出してきて、独我論の消去を説明している例がありましたが、入不二基義さんと同様の立場でしょうか? 私にはむしろ究極の独我論のように思えます。
私にはどうしても独我論を理論で論破することはできないと思います。
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たしかにこの世は独我論的ですが、



推論は人間の持ちうる素晴しい機能だと思います。

推論がなかったら、人は同情することができない。

他人が泣き崩れているのを見て、「悲しいのかな」

という、根拠はないがそれっぽい感情を抱きます。

他者が自分のように主体性を持っているという感覚も、

推論によるもので、決して証明しえないものですが、

素晴しいツールであることは確かです。

プロ棋士の羽生さんが圧倒的に凄いのも、

彼が推論や直感性を大いに利用しているからです。

推論には何か神秘的なものを感じずにはいられません。
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経験から、自分の内に現れたものを自分の外に実在する存在と認識し、実在する存在の確信に至る、というのは現象学派でしたでしょうか。


独我論の自我も、自我は本当に存在するか、という問題があったように思います。自我と呼ばれるものは、結局は外部からの経験の集合体であり、統一された自我はなく、社会の中の一つの表現ではないかとか。
思考の上での世界観と日常的な世界観の乖離とは、空想と経験の乖離であるという立場をとるのも個人的な解決方法の一つではないでしょうか。
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 回答を丁寧に受け止めていただいてありがとうございました。

すみません、もはや私の回答はこれ以上不要と存じますが、削除された質問スレッドで、ここでの話にもつながる回答を寄せたものがありましたので、ここに置かせてください(ここでの回答No.3で触れたことに関連しています)。

 「ネット社会におけるネット人格」の話でした。ここ「OKweb/教えて!goo」のようなネット社会は、「言語ゲーム」という空間の特性を非常にはっきりと見えやすい形で提示しているように思います。というのも、信号としてやり取りされるコトバの束が「ネット人格」なのであって、ネット社会の内部では「私」も「他者」も、「コトバの束」以上のものでもそれ以下のものでもないからです。
 たとえ「ここでこうして回答を書いている自分の存在は確実だ」と思い感じておりそれを言表したとしても、それはこの場では確実性を持ちません。一つの名前を複数の人間が用いることも、一人の人間が複数の名前を用いることも、ここではいくらでもできるからです。そして、この場の内部では「自分が自分であること、ある人がその人自身であること」を証明する手段は、究極的にはありません。できるのは、せいぜい発言数を重ねることで「自分らしさ、その人らしさ」を「コトバの束」として固めていくことくらいです。しかしそれでも、「自分らしさ、その人らしさ」は蓋然性(確からしさ)の域内で固められていくにすぎません。決して確実性は持ち得ないのです。
 ですから、「独我論自体が語りえない空間」は、実に私たちの目の前に生きた教材として現れているのだと思います。

 おじゃましました。では。
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kabalahさん、こんにちは。

まったくの素人のmori0309です。

私、このテーマにたいへん深い興味をもっています。

この問題を私の言葉で言い直させていただくと

1.人間は(私は)本当に宇宙や他人から孤立・隔絶した単独者なのだろうか。
2.個人の意識や心はもっと大きな超意識や集合意識のようなものの部分なのではないか。
  人間の心と心はかなりの強さで相互交感しているのではないか。
2.生まれ変わりというものはあるのだろうか。ないのだろうか。(別に人間にでなくとも)
3.私が認識主体としてこの宇宙に出現できたということの因果関係はなんだろうか。
  (精子と卵子の受精云々は「私mori0309」が出現した理由の説明にはなりません)

のようになります。

私にとって独我論という言葉のイメージは次のようなものです。

1.自分がこの宇宙に出現できたこの偶然(または必然)はたった一回ぽっきりのもので
  あった。
2.自分が死ねば何も認識できないから宇宙は存在しないのと同じ。自分以外の人間は
  ただの有機ロボットにすぎないからそれらの活動は無生物的天変地異となんら変わる
  ことはない。
3.自分の生には前世(前世代)の因果も後世への責任も何もない。自分が死ねばすべて
  何もなかったことと同じになる。

やはり独我論は、なにかちょっと変だという気がします。

けれど意識や魂についてのオカルト的な話を何の根拠もなく展開しようなどとは思っており
ません。

(考えを整理して出直します。へんな回答でごめんなさい)

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=20857
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では瑣末な哲学談義はこのくらいにして、本題の日常感覚の話にまいりましょうか(笑)



貴方は自分とそうでないものの区別をどのようにつけてますか?

例えば自分の手足は自分で動かそうと思えば動かせますね。ちゃんと感覚もあります。
しかしそこらの石ころや他人様の手足はそういうわけにはいかない。日常感覚とは
そうしたもので御座いましょう。

ということで、独我論は決して、他人様の手足も自分の手足と同じように扱えるというような話では御座いません(笑)
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この回答へのお礼

ご回答はありがたいのですが、何をご教示くださっているのかがはっきりしませ
ん。
このご回答は、独我論的な世界観は放棄して、日常感覚に即した、世界観を持つべ
きだ、との趣旨なのでしょうか。
私としては独我論的な世界観にも説得力があり、例えば自分の死後などを考える
際、独我論的な考え方が(日常的に)存在しています。それで,その調停としては
どんな形があり得るかという質問をしたのです。
独我論を徹底すれば、矛盾が生じること、独我論の成立自体にも日常的な世界観が
混入すること等の指摘はごもっともですが、そういった矛盾をどう調停するかとい
う質問をしているのです。
そして、日常的な世界観を徹底して、独我論的な世界観を放棄すべきとのご意見な
ら、その根拠をご説明頂きたかったのです。

日常的感覚に基づいた、自他の境界ということは、ここでは問題にしていないつも
りです。

また何かありましたらよろしくお願いします。

お礼日時:2001/05/08 15:30

>「クオリア」については、fwappyさんがお詳しいはず。



なぜそう思うのかな?

ああ、クオリアMLを紹介したから?
あはは、ありゃ名前だけだからねえ。
私が主催者の茂木さんならともかく
そういうわけではないのでね。

ところで

「この世界で現象することは全て
 自分の意識の中に立ち現れた限りのものであり、
 自分の外に実在する存在者などない」

とすると、実は当の自分が存在しないということになりますな。

自分そのものは、自分の意識の中に立ち現れたりしませんから(笑)

まあ、しかしこういった問題は独我論を捨てればよいというようなものではない。

例えば、唯物論なんてのは、ある意味でまったく無我論でしょうが、
全てが物の動きになってしまったときに、どこに自分なんてありま
しょうか(笑)

デネットもいってましたが、「カルテジアン劇場」もなけりゃ、そこでの
劇を見る観客もいやせんのですよ。素朴独我論も素朴唯物論も
存在するのは観客か劇場かというような瑣末なレベルで議論してる
限りは全然ダメダメでしょうな。
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 どもども。

一日見ないうちにずいぶんと話が展開していますね。fwappyさんはまだお見えではないのですね。せっかくクオリアの話が出ているというのに…。
 ま、それはいいとして、ぼちぼちいきましょ。

 まずは「克服されるべきものとしての独我論」について。回答No.3で「克服困難」とか「克服不可能」という言葉を用いましたので「克服されるべきもの」と受け取られたのでしょうね…。
 「独我論」という言葉にまつわるネガティブなニュアンスについて少し詳しく見ましょう。「ほんまもんの独我論」を浮き出させるために。
 独我論という言葉は、「ひとりよがりな思い込み」とか「他の意見を受け付けない」とか「何でも自分の思うままになると思っている」とか、よーするにジコチューな考え方を指して使われることがあります。ちょっとそれ、オトナじゃないぞ、みたいな。はい、これはもう「克服されるべき」独我論でしょうね。
 こういう意味での独我論だったら、克服の方法というか、粉砕する方法があります。古代ギリシアの時代から。ソクラテスの「産婆術」です。イロニー(皮肉)によって相手のドクサ(臆見)を打ち壊していき、相手がエピステーメ(叡智)に到達する手伝いをするという「対話術 dialektike techne」。弁証法。めちゃめちゃ人に嫌われるやり方です。嫌われちゃって嫌われちゃって、最後には毒杯をグビグビあおぐことにもなりかねません。
 でも、ここで問題になっている「独我論」はそういう意味のものではありませんよね。他者との対話を通じて情報を受け取り、「まだ知らない外側」にどんどん進出していって叡智の高みに登ったとしても、「結局認識しているのはこのオレの意識だ」という意味での独我論でしょう。そしてこの意識が、他者の意識(ないし心)と同じものなのか、他者にも意識があり心があり痛みを感じることをどうやって証明するかというのが問題です。そういう点において、独我論は他我問題と表裏一体のものです。
 こちらの独我論は、このままでは克服不可能です。もお、言い切ってしまいます。不可能です。「クローン人間…」の方でも書きましたが、「他者に心があることの証明」は太古の昔から多くの思想家がチャレンジしているものの、今もって成功を収めた人はいません。

 それで、「二元論的枠組み自体を解体する」話にいきます。これだと、実は「独我」自体が無化されることになります。
 ヴィトゲンシュタインで参りましょう。かなり自己流の理解で、間違いがあるかもしれませんが。
 ヴィトゲンシュタインは独我論を「私に見えているものだけが真に見えているものである」というふうに言い換えています(『青色本』)。ここで注意が必要なのは、彼が言っている「私に見えているもの」というのは、「まだ知らない外側、私の意識の外側」と対比しているわけではないということです。「他者に見えているもの」と対比して「私に見えているもの」と言っているのです。
 その上で、「真に見えているもの」とされた「私に見えているもの」と、「他者に見えているもの」とが区別できるのかが問われます。言い換えれば「他者に見えているもの」もまた「真に見えているもの」と言えるのか否か、ということです。
 しかしこの問いはめちゃくちゃでしょう。というのは、まず「私に見えているものだけが真に見えているものだ」という言明自体に一つの答えがありますから。「区別できる、オレが見てるのだけが真だ、他のやつらのはちがう」と。が、その反面、「他者に見えているもの」は「私に見えているもの」の範囲外にありますから、「私」には認識できず、したがって「区別できる、できない」自体が断定できないことにもなります。逆もまた然りで、他者は「私」を理解することができません。
 こうした考察の結果ヴィトゲンシュタインの下した結論は、「独我論者は自分を理解させることができない」、「独我論者は自分を語ることができない」ということでした。もっと言ってしまうと、独我論自体が「語りえぬもの」だということです。つまりは「独我自体の無化」(または「私的言語の不可能性」)。
 このような、「我」自体の措定が根源的には不可能であり、にもかかわらず「我」をコトバとして措定しつつ、同じくコトバとして措定された「他」とコトバをやりとりする世界、それが「言語ゲーム」の世界です。この言語空間の中では、デカルト的な「考える我」と言えども認識や知識体系の確実な基盤とはなりえません。したがって、「考える我、心を持つ我」を確実な基盤とした上で「他者に心があることの確実性」を問うこと自体、ナンセンスということになります。

 複雑系を巡る議論から登場した「内部観測」の話も似たようなところがあります。というか、郡司ペギオ幸夫さん自身、ヴィトゲンシュタインを論文の中で引用してたりします。きっと組み立てる材料にしているのでしょう。
 このスレッドの二つ上、「運命の定義とは?」という質問への回答で、ちらりと触れているのですが、「ある一つの系の中で現在進行形で生きている人には、その系の必然は決して見ることができない」ということとも関係があります。多数の主観が共働している系の中を、「現在進行形」という相のままで見てみますと、主観は何かを認識すること自体によって時々刻々に変化して、固定的に「これが主観」と措定することはできません。客観もまた認識されること自体によって時々刻々に変化して、これまた固定的には措定できません。それぞれの主体や対象の持つ意味や役割(「信号」)も、それぞれの主体・対象を規定する背景や文脈によって左右され、しかもこの背景や文脈そのものも時々刻々に変化するもの、すなわち固定的に措定できないものです。
 通常言われる「主観」「客観」といった「固定的な措定」は、そういう複雑なものを抽象化・単純化・無時間化して初めて得られるものなのです。ですから、主観論サイドと客観論サイドの水掛け論というのも、最初から現実的ではない、抽象化された土俵の上での対決だったということになります。複雑なものを、複雑なままに見た場合、そもそもそうした問題自体が生じてこないのです。そして、「複雑なものを複雑なままに見る」ということは、とりもなおさず「現実の具体的な生活レベルの視点に立ち帰る」ということでもあります。ヴィトゲンシュタインも「現実の具体的で多様な言語活動を離れて問題を抽象化すると哲学的誤謬が生じる」と指摘しています(そして、独我論もまたそうした誤謬の一つであると)。

 こうして、言語ゲーム、内部観測、現実の生活…と見てまいりますと、「我の無化」が共通しているように思います。ヴィトゲンシュタインの場合は特に、独我論の徹底が自他関係を無化し、他者を無化し、そして「我」を無化するというように、独我論の独我論自身の力による解消を通じて「日常性」にソフトランディング(軟着陸)しえているようです。
 しかし「我の無化」といっても、「オレ自身の存在がマボロシなんだ」ということではありません。「我の無化」というのは「具体的な生活」の中にあるもの、「時間」の故に言えることと思われます。「我とは、常に我でないものに成る者である」ということです。笑ったり泣いたり怒ったりする、この「私」の実感は「いま、このとき」のものです。「いま、このときの私」を意識したときに、切れ目のない連続した「私」の一部が分節され、切り出されて「自己意識」になります。が、この自己意識はすぐ次の瞬間にはもう無効になります。「我が我でないもの」に変わったからです。そしてそれもまた「我」であるという…。
 こういう「我」こそが「日常感覚」での我でしょう。

 どうでしょうか。独我論という「思考の上での世界観」が乖離した日常性に、独我論そのものの力でソフトランディングすることができるというわけなのです。
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この回答へのお礼

いつもいつも詳しいご回答をありがとうございます。かなり納得しました。
でもヴィトゲンシュタインのところでは、他者に何かが見えていることがいきなり
措定されていることが、以前の「推定」に似ていると思いました。

>しかしこの問いはめちゃくちゃでしょう。というのは、まず「私に見えているもの
>だけが真に見えているものだ」という言明自体に一つの答えがありますから。「区
>別できる、オレが見てるのだけが真だ、他のやつらのはちがう」と。が、その反
>面、「他者に見えているもの」は「私に見えているもの」の範囲外にありますか
>ら、「私」には認識できず、したがって「区別できる、できない」自体が断定でき
>ないことにもなります。逆もまた然りで、他者は「私」を理解することができませ
>ん。

の部分において、独我論的な世界観にたつときの「私」は、他者に「私」を理解さ
せよう、という意図をそもそも持ち得ないと思うのです。

従って、この「解体」は私に言わせれば、そもそものはじめから、日常的な世界観
にたって話が始まっていると言わざるを得ません。

けれども、語る、という行為自体が(私がこのように質問する、という行為も含め
て、)他我を想定しているので、日常的な世界観を基盤としているのだから、これ
は仕方ないのかもしれません。

もう一つ、現在進行形の事物を固定的に措定することにより、誤謬が生じるという
論点についてですが、これはたしかに納得がいきます。
けれども、たとえば、アキレスと亀の話において、空間を無限に分割しうるとの観
点から亀に追いつけないアキレスを、時間概念の援用で、追いつかせることができ
るように、我々は、現在進行形であることも含めて、その事象に言及できる、とい
うようにも思うのです。
時事刻々変化していくことも含めて、「主観」というものについて、言及すること
は本当に不可能、もしくは無意味なことなのでしょうか。「我とは、常に我でない
ものに成る者である」という形で、すでにその切れ目のない「我」に言及している
とはいえないでしょうか。

私は、独我論的な世界観も、日常的な感覚に基づいた、ある事態を説明するために
生まれてきたのではないかと考えます。「語り得ぬ」と言いながらも、詩人も哲学
者もその語り得ぬ部分を語る必要があって、試行錯誤してきたのではないかと考え
ます。日常的な言語だけでは語り得ないから、様々な概念、固定的な措定等を編み
出してきたのであって、その様々な試行錯誤を「日常的な世界観からすれば誤謬に
すぎない」といって片づける気にはなれません。けれども、どうしてもその二つの
論法の間には断絶があって、一貫性を保てないのです。この「調停」についてはこ
れからも、時々考えて行こうと思います。
長い間、ありがとうございました。

他の方のご意見もあるかもしれませんから、もう少しの間スレッドを開いておきま
す。

本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/05/08 15:35

>serpent-owlさんとのやりとりで出てきているように、


>独我論は「克服すべきもの」とされることが多いです。何を克服すべきなのか
>私もはっきり同定できているわけではないのですが、例えば、serpent-owlさん
>との話に出てきた「他我問題」や、アーラヤ識の他者性(恣意的に内実を変化さ
>せられないこととして「他者性」という言葉を使っています)など、説明できな
>いことがあると思うのです。

serpent-owlさんの言ってる克服すべきものや、アーラヤ識の他者性の調停とは
二元論のことのようです。serpent-owlさんの言い方では、
「二元論的枠組み自体を解体する調停法」ですかね。

ちなみに「二元論的枠組み自体を解体する調停法」というのは、
初期大乗仏教(中観・般若乗)です。「縁起の法」の概念を強引に「零(空)」
と置き換え、一切は空(空=零)であるとして、対立する概念を調停(中道)する
智慧(般若)に対する「信仰」(だから厳密には調停法じゃないから破綻する)を
説きます。

それにしても、私もここで勉強させてもらって、おもしろいと思ったのは、
ヨーロッパ系の近代哲学(ですよね?勘違いだったらごめんなさい)が、

独我論→独我と他我という二元論の調停。 と進んだのに対し、インド系では

二元論の調停→独我論            と進んでることです。
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この回答へのお礼

何度も御回答ありがとうございます。

キリスト教「ヨブ記」にも同様の
考え方があると、何かで読んだことが
あります。
まずはじめに矛盾を受け入れること、
これによって全てが整然と説明できる、
らしいです。
これはやはり「信仰」でしょうね。

別の捉え方もあると思いますが、
このように整理していただけると、
私はどっちかというと
インド系の調停がいいなあ、
とおもいます。

ありがとうございました。

お礼日時:2001/05/08 15:50

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