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「患者を生きる」・・・

連続ものの上記のタイトルを朝日新聞に見つけて違和感を覚えたのですが、

日本語として適切ですか。

A 回答 (17件中1~10件)

 ANo.12, ANo.9,ANo.6: 


 もっと端的にいうならば、この変則的な言い方というのはそもそも“生きる”という自動詞を他動詞として使い、“患者”という存在体を目的語的に使うという表現をしていますね。
 だから質問者や一、二の回答者がいっているように、日常での正しい日本語の語法上からはありえません。
 でも新聞編集者は動詞としての語の性格を転換して、他動詞とその目的語にしているという理解もできます。
 そうすることにより、“生きる”という語の動作性と意志的発揮性を強調しているのだともいえます。
 そして同時に医療分野での客体たる“患者”という存在体に積極的な感じを与える効果を少ない語で出そうとしているのでしょう。
 ネーティブの私としてはそのように受け取り、日本語としては許容できると存じます。
 無論、日本語の基本を無視した、その場限りの勝手な運用でして、こんな風にして日本語が変化していくとしたら、そして乱れになっていくとしたら困ります。
 大きな影響力、特に国語では基準やお手本にされている朝日なら、質問者やご回答者のみなさんの意見を考えるでしょう。

 あぁっ、私もずいぶん意見を変更してきたなぁ。
 ただ、意味が通じるから許容できるじゃいけねぇんだっけね。
 謹んで、前言を反省し取り消します。いえ意味がつうじるだけじゃいけないと訂正します。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございました。

いろいろ問題はありましたが 質問を閉めます。

おりしも毎日新聞では「焦土を生きる」というタイトルの読み物が載っていました。ことらのほうが日本語としては 通りがいいですね。

戦争を体験されたのですか。大変でした、の一言ですますのは恐縮ですが、お盆をむかえます。暑い日々が続きますが、ご自愛ください。

お礼日時:2011/08/10 17:01

よくわかりました。


「人間的」・・・独特な使い方ですね。
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 ANo.15


 あっちとりこっちとりではなく、書いているうちに段々整理ができてきて、無節操にも自己の前言を翻しただけです。この“だけです”で人間として言い訳はないが。
 “言いわけ、てれ隠しの類”もなく率直に自分の考えを改めています。まちがいでしたと。
 “言いわけ、てれ隠しの類”なんて人間的な事は私には馬鹿らしいだけですよ。
 
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他の各回答から、あっち取り、こっち取りして作文されました。


意味不明の理屈作りもされました。
省略していいのは、次のような文章の一部です。
>医療分野での客体たる“患者”という存在体に
「医療分野の客体たる」・・・こんな大袈裟な言葉は省略していいです。
朝日新聞が書いてるんだからいいというのは答になりません。
結局、某様の結論は最後の一行だと解します。
(それ以外のなが~いところは、言いわけ、てれ隠しの類でしょう)。
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○患者人生(患者生活)を生きる。

患者条件(状況)を生きるということで、条件や状況の後には下というのが入るのが正規なのでしょうが、口語会話などでは、下も人生や生活も、そして状況は条件も省く事は、日本語の許容範囲なんです。

そんなことはありません。
舌足らずの幼児ではあるまいし、そんなところを省くのは語法無視です。
文法語法を無視したらいけません。

○日本語や日本語日常になれない、ご勉強の方にはここらがどうも桎梏になるのですね。

私は某様より日本語は上手で教養も深いつもりです。
(オカルトでは負けますが)
私は「万感の親しみを込めて」なんて言いません。
質問文お礼文回答文を見る限りでは、質問者様の国語的教養も某様より上だと思います。
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 この投稿の前に、私には辛い言葉の先賢回答が寄せられました。

致し方ないのですね。
 【「難病の患者を生きる」は「難病の患者という自分の人生を受け取り、その人生を積極的な気持ちで生きる」の省略形ということらしいです。】
 「難病の患者という自分の人生を受け取り、その人生を積極的な気持ちで生きる」は【「難病の患者を生きる」ことで受け取ってもらいたい意味の文章省略でしょう。
 実はこのような書き方でなく「難病の患者という人生を生きる」、「難病の患者の場を生きる」とすることだったのですが、それに説明を付加したのが、「難病の患者という自分の人生を受け取り、その人生を積極的な気持ちで生きる」という書き方になったのです。
 実はこれは本当にそういう文章であったのを説明を一所にしたのです。
 

 歩くは自動詞ですね。野原は歩くという自動詞の(他動詞的な)目的語にはなりえませんね。
 当然のことですね。
 無論、野原として歩くという言い換えも(表現換えも)できませんね。
 患者を生きるが患者として生きるというのは、これはもう意味を解釈しての表現に過ぎなく、もとの文章の意味はこうだよ、って云っているのですね。
 患者人生(患者生活)を生きる。患者条件(状況)を生きるということで、条件や状況の後には下というのが入るのが正規なのでしょうが、口語会話などでは、下も人生や生活も、そして状況は条件も省く事は、日本語の許容範囲なんです。
 日本語や日本語日常になれない、ご勉強の方にはここらがどうも桎梏になるのですね。
 まぁ外国語って、たいへんですね。でも欧米や西欧の言語は発音や聞き取りは難しいが、こんな困難はそんなにはないですね。
 日本語は困ったものですね。国際語には先ずなれないですね。
 そしてインターナショナルの規律から外れるから、おかしいといわれても、改めます。とはいかないのです。
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主旨は分かりにくいですが、


「難病の患者を生きる」は「難病の患者という自分の人生を受け取り、その人生を積極的な気持ちで生きる」の省略形ということらしいです。
ものすごい省略だ。
たしか、これに関する回答は遠慮するということでしたが、突然出て来たよ。
驚いた。
日本語の文法が全く分かっていないと思うよ。
「いつまでも私は日本語以外が判らないのです。」とおっしゃっています。
日本語だけは良くわかっていらっしゃるおつもりだ(爆笑)。

「kuruizakiを生きる」=「kuruizakiという恍惚漢の人生を受け取り、その人生を積極的な気持ちで生きる。」
こういうことで頑張っていらっしゃいます。
まぁ、面白いですから許してやって(あげて)ください(^○^)。
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自動詞と他動詞、「を格の目的語」について分からない人には無理だと思います。


「野原を歩く」の「野原を」は通常の「を格の目的語ではありません。
意味不明、論旨不明のお話はご遠慮願いたいと存じます(^^)。
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 気障、だから違和感。

違和感、だから気障。そして意表性。成るが故に新聞の題字としてのインパクト。
 “野原を歩く”は、“野原として歩く”ではない。
 ここが日本語の没理屈性というか超理屈性ですかね。

 「難病の患者を生きる」=「難病の患者として生きる」という意味、意訳、解説ですね。受け取り。ここに文法や日本語学はないのですね
 そういう意味だと理解できます、という回答者さんお話ですね。
 「野原を生きる」と同じレベルのことではなく、例えば小学生などにそういう意味と受け取れるんだよ、というお話ですね。

 「難病の患者を生きる」=「難病の患者という自分の人生を受け取り、その人生を積極的な気持ちで生きる」。
 「難病の患者を生きる」=「難病の患者という自分の人生を生きる」なんですね。
 島国でお互いが言わなくても分かり合える日本人の長い間の了解基盤にたっての表現と受け取りですね。
 だからよきに付け、あしきにつけ、省略や変則っていうのはあり、許しあい判っていることってあるのですね。 普遍的論理や、原則がどうしても日本語には欠落します。私も理屈でいろいろ詮索していた小学生の頃は、日本語って嫌いでした。
 でも他国語の方が理屈で勉強すると、勉強している言語が難しいですね。言語って個人の理屈でいかないですね。いつまでも私は日本語以外が判らないのです。
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「飛ぶ」は自動詞です。

(他動詞は「飛ばす」)
でも、「空を飛ぶ」というのは間違いではありません。
「歩く」も自動詞です。「野原を歩く」はOKです。
このように、空や野原のように、動作主のまわりにある場所や空間を移動する場合は、「○○を」という言い方ができます。

「今を生きる」「時代を生きた」の「今」や「時代」は、先程の「場所」や「空間」と良く似ています。
「時代を生きた」は、すなわち形を持っていない場所や空間を通り抜けたということで、自動詞的な動作です。
だから違和感はあまりありません。

ところが「患者」は生身の物体です。
患者という物体を通り抜けるのは物理的に困難です。
「患者を生きる」は「患者として生きる」ということです。
「今を生きる」は「今として生きる」ではありません。
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