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やあ。
ぶっちゃけた話、私は無を悟っている。
そこで旧態依然とした仏教を科学の時代に合った検証でさらに先に進めようとする質問だと解釈してくれたまえ。

万物流転、すなわち世は無常であり生命は輪廻する。
無常は簡単だ。大体においてそうだと気づく事もあるだろう。
輪廻はこの言葉だけでは簡単だ。
生態系の循環や相互依存を意味する。
すなわち命は死すれども、その死すらも新たな生を育み絶える事が無い。
そんな世界のみが科学的発見の無い2500年前には世界の全てであった。
転生は、そんな世界の姿に信仰を寄せた古代人の愛だ。
輪廻転生と言う言葉でその全てを否定する前に、転生のみを抜き取って検証すると、どうも無理っぽいのは冷静なら誰もが理解できる。
お釈迦様は自らは転生しないと言った。
そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。
それこそが答えであり、転生は迷信であるが、その信仰心に感謝があれば神は見捨てまい。
したがって、信仰の確かが判る範囲でお釈迦様すらも、そんなのありゃしねーと言いきらなかった。
ただ無を悟れと謎めいた言葉を残しただけだ。
これらは地上で起こること、これを狭い意味の縁起と言うが、それこそが世界の全てであった古代において人が神に手向けた愛、すなわち信仰の姿であり、世界がより広く宇宙と言う難解な全体像に対して問いかける現代においては、すなわち世界を知ることは、自らが探究するだけでは及びもつかず、神と語らうよりほかは無い。その行いは古代からの経験則によれば、世界の全てを愛すれば世界が判る。
このように神を知ろうとする事が世界を知る事であった。

以上が今回のテーマです。
事と次第によっては猿回しもするが世界観と言うやつと信仰の関係についてご意見募集です。

A 回答 (12件中1~10件)

私は仏教学者ではありませんので、その解釈を間違っているのかも知れませんが、お釈迦は『私が説く事柄は宗教では無い事、或は、私自身を信仰の対象にするべきでは無い事』を説いたと解釈しています。



その良い例が『自灯明』です。自分自身の心を『拠りどころとして生きてゆきなさい』です。或は『禅』です。禅の要諦は『自分自身の命の働き(仏性)と折り合いを付けてゆきなさい』と私は解釈しています。

そこでその『仏性』に付いて考察したいと思います。その仏性の存在が分かる事を『見性』したと言っています、他の言葉で言うなら『悟りを開く』ですが、その証拠が在ります。二つの例を挙げてみます。

一つはウイキペデアからです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が  『それぞれ独立した意識』  を持っていることを実証した。”

人間の脳内には本人が気が付こうが付くまいが、脳梁を切断した場合二つの意識が存在しています。と云う事は脳梁を切断しなくとも『意識(人格)が二つ在る事』を科学は証明した事を意味します。

もう一つは農家学者である人が、自らの経験から、人間の脳内のは『二つの意識』がある事を体験して語っています。

URL:

この人の体験は『悟りを開いた』経験とその後の『涅槃』と言う境涯を共に語っています。

涅槃と言う境涯とは『心が争わなくなる事』を意味します。裏を返すなら人間の苦しみとは『心の矛盾』を『生き難い想い』として感じている事を意味します。

もっと具体的な例を挙げるなら『死ぬ事に付いての不安や恐怖』或は『生きてゆく事に付いてや、老いてゆく事や、病気になる事や、死に行く事』における不安や恐怖を人間は、多かれ少なかれ『心の矛盾』として感じている事を意味します。

この心理的な不安や恐怖を『心と言う感情が湧き上がるシステムの、根本から解消しようとする事が』お釈迦であり、禅であり、ジル・ボルト・テイラーさんという事になります。


と言う意味は『心の矛盾』と言う場合苦しんでいる自我意識は『有限しか理解出来ない心』=自我意識=左脳の意識と言う意味があります。

左脳の機能から言うならば、自我意識は如何、逆立ちをしたところで『永遠』を理解出来ないと云う事を意味します。理解出来ないばかりではなくて、手にする事が出来ないという意味です。


それに引き替え『右脳の意識』は生まれる事が無い事から滅する事がない存在、と言う意味があります。右脳の意識は全ての『生きとし生けるもの』に備わっている『命そのものの働き』です。処が脳梁を切断した場合『確かに存在しています』

見性した場合、その人達は異口同音に述べている事が在ります。『今更お前は誰かと聞く必要など無かった』誰でも毎日何百回も『自分の命の働き』と出会って会話をしています、ただその事自体を忘れているだけです。

命そのものは、生じた段階から、細胞分裂を繰り返しています。そうして生まれた段階では確かに働いています。人間にあっては、不安や恐怖や安心する事を誰にも習わなくとも既に知っている事をあげる事が出来ます。

そうして心臓も肺もホルモンの調節もあらゆる生命活動も『一つの意識の元に』行なわれています。その意識を『仏性』と言います。脳科学から言うなら『右脳に存在する意識』です。

腹が減った事も、暑い事も、寒い事も、そうして自我意識たる心にその時に何を求めるのかを『心に指示さえ出しています』ただ自我意識たる心は『その事(理由)を知らないでいます。』

その訳を知る時『不安や恐怖』を湧けも無く恐れる事がなくなります。その境涯を『涅槃』と形容しています。
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この回答へのお礼

やあどうも

お礼日時:2011/09/16 13:08

 >お釈迦様は自らは転生しないと言った。


 >そんなのありゃしねーとは言わなかったがそんなのかんけーねーとは言ったのだ。

 釈迦は常人における執着も、満たさなければならない欲望も超えた自己存在であったので、自らの必要と動機では転生しないといったまでです。
 転生は所詮、迷い妄想ですから真実なるものではない。だから質問者がいうように(釈迦はいってはいないが)、ありゃしねーともいわなかった。
 必要であればこの地上に来ることなく、自己の観念を操作するだけで必要なことをやれるだから、地上のためにも自己の役割のためにも来る必要、転生は無用である。
 無論、自己の執着や欲望という自己の迷いと地上に出てくる必要もない、そんな強制を出ている。
 神と語らう存在は経験界自己を出た世界であり、神に同調し没入してしまった経験界の全てがなくなった意識と存在だけの自己である。
 この世界は経験界超越であるが、経験界の下が意識の眠りと無知とうろたえである。
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この回答へのお礼

やあどうも

お礼日時:2011/09/16 13:09

量子論的世界像において、有限な存在性(=宇宙)は、


認識されることによって派生しています。
換言すれば、「自我仮説(心)と時空仮説(存在)が、
(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化
している=全てのものは、あなたが存在するための
(物理的根源にまで遡った)補完である」という事です。
無いとは分からない事が有であり、本質的に無に還元
するプロセスが物理なのです。
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この回答へのお礼

やあどうも

お礼日時:2011/09/16 13:10

やあどうも。



>ただ無を悟れと謎めいた言葉を残した

初耳なんだけど、どこで読めるの、その言葉?
どこで仕入れた知識?
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この回答へのお礼

さあな

お礼日時:2011/09/16 20:59

やあどうも



>さあな

せめて中学校ぐらいは卒業できるといいね
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やあ。

元気?
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仏教は良く知らないんですけど、


時間と空間が一体なのは、ご存知でしょうか?
「今」という一瞬に宇宙137億年の時空が折り畳まれているそうです。
その宇宙すら、観測者がいてはじめて存在する、相対的なものです。
本当の無とは「観測者がいない」次元であり、空間的なものでもない。
たぶん「無とは全知全能のこと」です。

この回答への補足

好きなことを皆さんが書いているがそれでいいと思うよ。
質問の補足です。

古代のインドと言う一地方において、無常などに代表されるお釈迦様の世界観を知るだけで、それが世界の全てだと認識し得た。
疑いようもなくそれが世界の全てだと開眼した。
この全てであったは絶対であったと同じでそれだけで幸せだった。
これが仏教の幸福な時代で現代に残る古臭い経文の同じ物お読んだだけで古代人は十分であった。
そのような地方の土着宗教の垣根を越えて伝播するにあたって世界の全てとは言い切れなくなっていく。
現在の仏教的世界観は世界の全てでは無くて世間を渡る処世術や人生論の類とまでなり果てている。
このような信じるだけで済まなくなっている現状が末法でしょう。
そこで科学的な思考で誰もが判断を下す現代においても、それに耐えられる信仰を模索してあげようと言う趣旨です。
実のところそれは私の信仰で無くて猿回しなのだが実際の仏道を歩んでいるならばいい助けにもなるでしょう。
今では私の信仰ではないが仏道を歩む者は私の後輩です。

キリスト教の世界観をバッサリと切るが、あれは同一民族である事を確認する試練の類で理性的ではない。
それに気づいたからこそ西洋人は、神よりも科学を信じるのだろう。
神は死んだなどとも言われてそれがもてはやされているが、信仰が確かならば、私たち人類は科学と言う自らの力を持って、また一つ迷信を捨て神のもとに近づく事が出来た。そのように言い抜ける事が出来たならとても人間らしいだろう。
しかし手遅れだ。
キリスト教でどうしょうもない世界観を本気で信じようと努力したお笑い芸人はイエス元死刑囚だけだ。
聖書はゴミだ。
それに比べて仏教の土台はいい線を行っているので、どの程度役に立つかこねくり回してみようではありませんか。

補足日時:2011/09/17 21:34
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この回答へのお礼

やあどうも

お礼日時:2011/09/17 21:03

それだけの世界で幸せだった。


それはあるかもしれないですね。

仏教を土台に新しい信仰で救う?
それはあるのかもしれない。

ここまで世界が動いているから。

でも、ならばキリスト教も土台に新しい方向に向かう可能性もあるのでは?

仏教限定?

この回答への補足

補足だよ。

小学校のころ図書室にギリシャ神話の全集のような子供向け読み物があって、読んだ。
物語として面白かったよ。
神話的世界観について猿回ししてほしいのなら、残念だが今回はよそに行ってくれ。

イエス元死刑囚と言う暴言は取り下げない。
彼は刑が執行されたから元死刑囚なのか。
それとも、
彼の信仰は復活したから元死刑囚なのか。

補足日時:2011/09/19 21:17
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この回答へのお礼

やあどうも。
好きな事を書いていいが一つだけどうしても訂正しておきます。
救うつもりはない。
科学の時代に正当な検証をしようと言うだけです。

お礼日時:2011/09/18 05:23

まず最初に,貴方の質問に対し真剣に返答している人達へのお礼が失礼です。


頭だけは良いようですが,人として失格です。
貴方の場合,科学とは別に”苦”というものを経験する必要があると思いますが,たぶん理解できないでしょう。
仏教,キリスト教,その他宗教はたくさんありますが,言葉じりや問答することではないのです。
質問文から貴方は何も悟っていないことが読み取れます。悟った気でいるだけです。
どこがとか,この返答に対しても受け流したり挑戦的な返礼をすると思います。
視線が高いんです。
少しだけレベルを下げて言えば,貴方は経験値が低いんです。
貴方の経験則が世界観を形成するうえで,次元の壁を経験できなかったんだと思います。
もっと枠を取り払い考えることをおすすめします。
何でもいいので,種を一つ蒔いてみることをおすすめします。(本質的な真理を理解しましょう)

この回答への補足

スペースが空いているので補足だ。


神は死んだなどとも言われてそれがもてはやされているが、信仰が確かならば、私たち人類は科学と言う自らの力を持って、また一つ迷信を捨て神のもとに近づく事が出来た。そのように言い抜ける事が出来たならとても人間らしいだろう。

上記の文はキリスト教徒への八つ当たりだが、科学の時代に生きた信仰心を表す者の無い仏教も同様なのだ。
君たちを猿回しするのは私の愛だ。
感謝したまえ。

補足日時:2011/09/19 21:28
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はじめまして。


ボクは 無を知り 空を悟って 有に至りました。
だから現在 有を楽しんでいます。

お釈迦様は 空の世界観を 人に教えましたが
実は有に至っていたんじゃないかと ボクは秘かに
疑っています。

なぜかというと 人は本当に大切なことを 他人には
教えないまま死んでいくものだからです。
それゆえに 故人の 生前の行いを ふとした
きっかけで思い出した時に 故人の生き方に 哲理を
見出すのです。

君は無を悟ってしまったから そこで行き止まりです。
しかし それが与えられた人生なので そこで満足
するならば それが幸せというものです。

ああ 苦悩に生きる者たちに幸あれ。

歴史に踏み固められた 強固な地盤に その腰をおろし
雷雲たちこめる漆黒の空を うち仰ぎ 雫の時を待つのだ。

閃光とともに一滴がもたらされる時 道は開かれるであろう。
人は ただ祈り その時を待つのだ。
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この回答へのお礼

やあどうも。

お礼日時:2011/09/19 22:28

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