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アンケートカテと 心理学カテにそれぞれ 恋愛と至福についての質問をしてみました。

アンケートカテでは URL:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7021188.html

心理学カテでは URL:http://okwave.jp/qa/q7021208.html

こちらの哲学カテでは ニルバーナと比較して考えていただくことにしました。


恋愛の中で至福体験をされた方はいらっしゃいますか?

なんらかの その体験者の方(かた)への質問です。

ニルバーナ(涅槃)の 至福の世界は そく慈愛の深さへとつながり、 幸せは分かち合い 苦しみは思いやる心の深さを即高める心につながっているでしょうし、 それはそのように語られてきた世界でしょう。

しかし 同じ様に深いと思える恋愛の中での至福体験については、 その分かち合いや 思いやりの心への転化についてすら  文学でも心理学でも哲学でも宗教でも語られてこなかったのではないでしょうか?

私の無知にすぎませんか?

それとも 恋愛の中で至福など、ニルバーナと比べるような質の至福でないということなのですか?

この哲学カテでは このへん、想像力の幻想の世界へと進んでしまいそうなので、ここは実際の体験のある方(かた)でないと解らない内容と思われる質問、 すくなくとも恋の体験のある方(かた)への質問となります。

ニルバーナほどとはとても言えなかったとしても、 あなたのご体験は 分かち合いの心や 思いやりの心を 大きく深め高めてくれた体験でもあったのではないですか?

なぜ、 長い歴史はそれを語ってこなかったのでしょう?

そのへん どう思われますか?


なおこの質問は《欲望の上位感覚(あるいは 深い満足の世界)》があれば 欲望はいくらでもコントロールできる世界ということから、 その質問をしようとしていて(それも語られてこなかった?)   その簡易版を思いついたものです。

欲望が もし 自然に緊張や無理をせずにコントロールできたなら それは無理のかかる抑制の必要も無くなります。

現代の欲望の開放^^の世界って 本物ではないと思います。  笑い事じゃなくて 不幸もたくさん生み出してしまっています。

おなじことが セックスや 恋愛にも言えると思います。

もしよろしければ この 後者の疑問へも ご意見いただければと思います。

A 回答 (2件)

至福は完璧な状態ということですよね。



恋愛にそれを求めるとしたらとても刹那的なものになると思います。

小説「世界の中心で愛を叫ぶ」は、彼女と夏の無人島で過ごした世界がそれだった。
何が足りないともないし、何が二人の愛の時間に邪魔でもなかった。
世界全てが愛に向かい溢れてたのです?

彼女が死に瀕しているとき、彼氏は
あの夏の海の、至福を思い浮かべてといいました。
彼女は愛する人と至福の中に今も、これからも一緒と信じれた。
嬉し泣きしながら、死ねたのです。
愛の力、と思いました。

恋愛は異常心理です。
だからこそ真剣だけれど真面目であり続けることでもなく、
論理と矛盾もしないけど距離を測ることも継続もできないと思います。

愛の果てが理由であり、愛に意味を求めてもないもの。
あてどない経験。
組み立てるように崩される。
育つように無理を飲ませる。

ただ全てになっていたもの。


あ、それから、映画のタイトルとかわかりません。
どこかでチラ見しただけで、うろ覚えですが、
戦争中に軍人さんが若い娘さんに「私はどうせ死ににいくのですから」といっておにぎりを差し出します。
とてもお腹が空いていた娘さんは夢中でほおばります。
お陰で、もう少しは生きれそうな娘さんです。
感謝の言葉ぐらいじゃ足りないとして、ブラウスのボタンを外してた。
その後、絶望と希望を込めて処女を差し出した、と思います。


生と死が隣り合わせな状況にでもならないと
他にどんな苦労して偉くなっても涅槃はわからないでしょうね。

この回答への補足

お礼文が 時間(仕事)の都合で、 途中でとぎれてしまいましたので、 こちらにお礼の補足文をつづけます。

》彼女は愛する人と至福の中に今も、これからも一緒と信じれた。
嬉し泣きしながら、死ねたのです。
愛の力、と思いました《

ここが 何かの人との触れ合い(恋でなくても)の深さを知った体験のある人の 感覚の部分ですよね。

こうした体験があると、 同じその映画を見ていても、 映画の中の彼女の確信を 自分も共有できたりします。

》愛の力、と思いました《

という段落最後の文に その共感の気もちが出ていると思います。

人は 大自然との触れ合いの中でも、なんらか永遠の命の世界を見つけます。

登山家の三浦雄一郎さんも 幾度も大自然の中で死の瀬戸際にたたされ、 恐怖の内にも 「なんで贅沢なんだ」と心の中で叫んでいたといいます。

それは いつの日か 何らかの形でこの大地にもどってくることを確信できるからです。

また 広い(分け隔ての無い)人間愛のある人たちも キリストのような人は別格ですが、 それなりに、やはり、みなさん、永遠の命の姿を 見つけてきたと思います。

それを もっと凡人の私たちが 確信を持って その世界の何がしかを見つけるのは、 やはり 恋の至福体験の中でだろうと私も思います。

》恋愛は異常心理です。《

というふうに普通の人が語ると 「精神異常の病理の世界」が連想されてしまいます。

そこを なりふりかまわず 思ったとおりにずばりと書くところが 詩的な素直さの現れと感じます。

私のいくつかの これは本物の恋だと思われる体験にしても、  通常の感覚で捕らえられるような感情ではありませんでした。

言葉ではなく 表情、 思わずの涙や笑いを通し、目を通し、心が深く通じ合っていきます。

》だからこそ真剣だけれど真面目であり続けることでもなく、
論理と矛盾もしないけど距離を測ることも継続もできないと思います《

これ 言葉としては 意味不明ですが^^、 深く通じるところがありますよ。  一言一言が。

》愛の果てが理由であり、愛に意味を求めてもないもの。
あてどない経験。
組み立てるように崩される。
育つように無理を飲ませる。《

こちらは、少し解りやすくなりますが、 同じです。

ただ、

理解の鍵は 

》愛の果てが理由であり《

というところかと思います。

生物でもある私たちの命は やがて 消えてゆき、土になっていってしまいます。   別れの時はどんな関係にも訪れます。

だけれども

》彼女は愛する人と至福の中に今も、これからも一緒と信じれた。《

のが その体験の世界ですよね。

そして一行空けられてから

》ただ全てになっていたもの。《

とまとめられている文、 まさに詩的(すてき)です^^。


次に 

》あ、 それから、映画のタイトルとかわかりません。 《

というふうに 次の映画での例示を掲げられているわけですが、

普通なら いきなり文が転換しすぎているところ、  前段の文を理解する人が 読むと  そこも 素直な心の人の 無心に書いてくださった文として読むことができます。

小説の方も映画の方も 読んだり観たことが無いので 感想とかではないですが、

たしかに、 そんな時の 女性の中の感謝の心は 全人間的でしょうね。

お礼の贈り物の儀礼の世界に生きている 一般の日常感覚からはとても解らない 深さが そんな命のぎりぎりの時の感謝の心に中には出てくると思います。

凄い感動的な映画ですね。

》その後、 絶望と希望をこめて~《

これも その感動の世界をよく捕らえた文と思います。

また、貴女のその文自体にも 感動します。


最初の 起承転結の「起」で、

》至福は完璧な状態ということですよね。

恋愛にそれを求めるとしたらとても刹那的なものになると思います。《

と起こされた文は、

中ほどで

》ただ全てになっていたもの。《

というふうに、「完璧な状態ということですよね。」と書かれた文テーマの世界の意味を補足し、

さらなる例示で、 人間の命の中の最高の交流の世界 感謝の心の世界を物語、

そうしておいて、

最後の「転結」を次のように転がして テーマを結んだ文、

》生と死が隣り合わせな状況にでもならないと
他にどんな苦労して偉くなっても涅槃はわからないでしょうね《

ありがとうございました。

涅槃も 偉いとかではなくて、 やはり何かの素直な体験の一つだろうと思います。

感動しました。  詩的で 素敵です^^。


ありがとうございました。





 

補足日時:2011/09/22 19:36
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼遅くなりました。

丁寧に 小説と映画の例示までしてくださり ありがとうございます。

》至福は完璧な状態ということですよね。《

この「完璧な状態」という言葉の意味合いがよくわかりにくいので、なんとも言えませんが、

最後までの文の全体から なんとなく詩的に理解できる気がします。

そして、その文の全体は、 こちらは哲学的な文というよりも、全体が詩のようなカタチでまとめられているかと思います。

そのように解釈すると なるほど 何かの体験と その体験からの想像力の結晶としての文が この御回答の文となったのだと思われます。

このような御回答も 豊かな経験の事例を求めている私の質問文にとって たいへんありがたい御回答文です。

ありがとうございました。

》恋愛にそれを求めるとしたらとても刹那的なものになると思います。《

これも「刹那的」という言葉が ここではいろいろに解釈されてしまうので、 やはりなんとも言えないところともなってしまいます。

その中で 文全体からは 二つの意味合いが考えられました。

ひとつは、 刹那的とは言っても、 何かむなしい悲観的な意味あいではなく、  短い間におこったあまりにもの大切な感覚で すぐ過ぎ去ってしまったからこそ、 何か貴重に思える体験の想い出   

もう一つは  最後の「結文)にも通じる 死に行く私たちの命自体の姿を、 より強く感じる体験、というふうにも その
「刹那的」という言葉を大きくとらえることも出来ます。

すぐ次の 例示の 小説の例が そのことを意味していますので、 おそらく 後者のあたりこそが 言わんとされていることなのかと思います。

もし、 素朴な子どものように 毎日が新鮮に どこまでも日々あらたに 緑や光や空間を愛し続けることができれば、  恋無しにも 人は 死を超えた何かの存在の 意味合いをそこに感じ 永遠の大地への キリストみたいな復活観を 感じるでしょう。

すみません、

時間がきてしまったもので つづきは、 夕方 補足欄に書かせていただきます。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/22 13:16

丸の内サディスティック・Exp.(椎名林檎作詞)


「I'll rip into those robes and pursue the Dharma
A Buddhist monk of my own would feel fine
Selflessness and cessation get you Nirvana
(中略)
将来僧に成って結婚して欲しい
毎晩寝具で遊戯するだけ」
(引用終わり)

般若心経
「舍利子。是諸法空相。
Thus Sariputra, all dharmas are empty of characteristics.
不生不滅、不垢不淨、不增不減。
No birth, no cessation, no defilement, no purity, no increase and no decrease.
(中略)
心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖。
Since there is no obscuration of mind, there is no fear.
遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
He transcends falsity and attains complete parinirvana. 」


椎名林檎作「本能」については以下。
「椎名林檎は作詞家として天才?」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6942728.html
性行為があれば言葉も何も要らないかのような歌です。そういう気持ちを長期記憶にして、創作の種、芸の肥やしにできますよね。必ずしもそれ以上の精神活動にいい影響を与えるものではないと思います。
精神科や麻酔科の薬物がそうです。麻薬で涅槃を得ることはできます。常用しなければ発想の転機を得られるかもしれません。しかしたいていはナンセンスな洒落物に終わるのではありませんかね。
どん底で光明を見出すという手法が仏教の本式に思います。文学にも哲学にも科学にも産業にも、欲求不満の方が効能がありませんかね。歴史的には欲求不満の方が語られてきましたよね。実際、欲求不満状態の人の方が大成しているのではありませんかね。快楽が本望ならばいいですが、日常的な快楽は、革命的な仕事に対するやる気を削ぎますので。芸術関係は別ですがね。芸術の成立に現実性は必要ありません。

至福は盛り上がっている最中でしょうね。一方、涅槃は涅槃寂静という煩悩に対して全く静の状態です。踊り好きの涅槃は、金輪際、踊りをしなくてもいい心もちのことです。「踊りたい」が消滅している状態です。
たぶん正統な仏教者にとって、静が現世の至福になると思います。

月並みですが、やはり仏教用語である涅槃を快楽の果てに得てもその刹那になりませんかね。
涅槃寂静が永遠に続くようなものであればいいですね。
そのために死ぬまで踊り念仏でしょうか。
精神の摩滅によって現世の涅槃寂静を完成させるのは可能です。いわば廃人の静寂ですね。
ただ仏教の信者さんは、輪廻も信じなければなりません。阿弥陀仏ぬきの成仏は簡単ではありません。
今生の涅槃を得ても来世の煩悩が待っているというのが本当の仏教原理だと思います。

仏教を極めようとすると、意味の通じる言葉も余計になり、我々の生存を支えている文明も無価値になります。解脱と文明を両立させる人生の活動は難しいですね。仏教の信仰は非現実的です。ウソの信仰になります。すくなくとも出家状態に近い生活をしなければ話になりません。

質問者さんの繰り返されている要請についてですが、それは歴史や思想ではなく、文学や歌が語り手になります。
歌踊りの社会的肯定を望んでいらっしゃるのでしょうか。しけてる日本人たちが面白くないから。それは分りますが、愛欲を哲学にするのもしけた考えです。

全ての精神活動を哲学の枠に押し込むべきではないと思います。
愛や踊りは別のカテで現実的な議論をされた方がその道に通じるでしょう。それこそここではうわべだけになります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

》愛や踊りは別のカテで現実的な議論をされた方がその道に通じるでしょう。それこそここではうわべだけになります《

そうなのかもしれません。

森羅万象を思索対象とし、 であるが故にそれをより有効にながめる窓枠としての論理を求めることで 実際の社会や科学の世界にも 総合的に希望となる見通しをもたらす方途でもあることから 今でもその価値をたずさへているのが哲学であるとするならば、

感性や 欲望や 自我の構造を求め、 そこにその上位感性や上位概念を求め それを無理なくコントロールする地点を思索するのは 私たちの哲学のとっても むしろ重要とは思うのです。

また だからこその質問であったのですが、

言葉のみを追いかける思索の伝統が もしかしたらソシュール以来の伝統の流れとなってしまっているのが 現代哲学の傾向の世界なのかもしれませんね。

だとしたら たしかに

》それこそここではうわべだけになります。《

というそちらの「結文」のとおりなのでしょう。


もし 仏教の「静寂」の概念が 同じ様に 頭の中の言葉だけでの模索の世界であったなら  その「涅槃」の世界も 結局 

うわべのものとなり、 真の思索対象としての言葉や論理は浮かび上がってこないでしょう。

なぜ 欲望や 性愛の上位感覚の一つとして 仏教の涅槃が語られていないのか? という疑問も もしかしたらそのへんにあるのかもしれません。

》将来僧に成って結婚して欲しい
毎晩寝具で遊戯するだけ」《

もし そうだとすると、 この詩は とてつもない皮肉(アイロニー)の 詩なのでしょう。

もし 僧たちが 本当の涅槃を体験的に知っているというのなら 彼らこそがこの情報化社会において、

欲望の上位感覚、せめて「満足」の心を奥深く分析したりその教育方法を確立してほしいです。

出家よりも、 

街の中に、その方法論で、 感性の低い人のためには風俗改革を 感性の高い上位感覚の深い人たちのためには、男女がむしろセックスを理解するからこそ セックスによらない心だけの付き合いの広場を作ってほしいです。

そのままでは 仏教のようなおだやかな宗教も  二重心としての偽善の心を密かに生み出し続けてしまう気がします。

そうですね。

ここはまず 歌や踊りの専門家や それをよく理解した文学者たちが 立ち上がることですね。

もっとしかっり その使命を生き抜くことですね。

その上でないと 新しい哲学は 期待できないのでしょう。

その辺の現実を私はもう少し達観すべきなのかもしれません。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/23 09:49

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