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 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?


 ほかの人からの評価についても 知りたいです。
 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。
 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。

 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

A 回答 (66件中31~40件)

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。


> そうですね。今回は れあれるげんさんとのやり取りをもって お応えとしたいという横着な思いをいだきましたが いかがでしょう?

 はい、慎んでお引き受けしたいと存じます。ただ、れあれるげん様のご都合もございますため、皆様のご都合に合わせたいと考えております。
 一応、愚生と致しまして、語句の説明、主張の主旨等を担い、基本的には、(以前のことがございますため)中立的立場にて、発言をお許しいただきたく、存じます。


> 今回は むしろ個別具体的な事例をめぐって 説かれていると見ます。
 エポケーの基本だとか 現象学そのものとの類似など 基本の認識についても触れていただきましたが 引き伸ばしがたいというようにも受け取りました。

 了解致しました。


> さらに進める上では――いまではだいたい フッサールないし現象学の独自性いかんについてに焦点を当てるかたちになって来ていますが―― ちょうど並行してすすめて来た れあれるげんさんとのやり取りを まとめて通過していただくのが よいのではないか。こう考えた次第です。どうでしょう?

 はい。上述致しましたように、愚生と致しましては、全く異論はございません。


> 身もふたもない言い方をしますが 次の事例は むしろエポケーすべき内容ではないか。こういう見方を持ちます。
~~~~
 ☆ お訊きしたいことは このような《不安》といった個別的な事例はすべて〔と言っていいほど〕エポケーされるべき対象なのではなかったでしょうか? です。
 ★ 客観的な意味があるという先入見
 ★ 普遍的なものへと練り上げられた本質直観
 ☆ どちらも エポケーされるものとしては 同列にあつかわれるのではなかったでしょうか? 《不安》は わたしにとって外部です。自然本性にとって外側のものです。
 言いかえると こうです。
 ○ 《不安》についての本質直観は それを捨象してよいという結論である。
   
 ただ、実在的な物の本質直観ではその実在性への確信の成立が問題になりますが、一方、抽象的な概念の本質直観では、むしろ様々な抽象概念の”普遍的な本質を意図的に取り出す(練り上げる)”ことが目的となってきます。
 そう鑑みますと、”意志・意図的”なるものも関わってくる可能性もございます(抽象的概念に対してのみですが)。
 もちろん、両者ともに、主観としての絶対的確信を認めることを出発点としているのは共通でございます。


 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ○ 《不安》〔* は 《わたし》なる存在にとって外部のことであるから それ〕についての本質直観は それを捨象してよいという結論である。
 ☆ これは 舌足らずでした。こう考えます。

 ○ ~~~
 リンゴのような物体的なもの あるいは不安というような非物体的なもの いづれについても それとしての本質直観はありうる。
 けれども 同じくいづれも 《わたし》にとって外部のものごとであるので その《わたし》なる根源的な主観性にまで世界を還元するときには 捨象されるものである。
 ただし そのような外部のものごとについての本質直観は それぞれとして普遍性を持つなら 一般に科学としての定義になる。
 ~~~~~



 れあれるげんさんのご見解のうち 

  ○ 《動きあるいはエネルギー》が 西欧思想をつらぬく経糸である。
  ○ 生活世界についての内容把握および 現象学における展開
  ○ カントの美的判断

 こういった主題について(あるいは 任意にそのほかの論点についても〕 評言を添えていただき 全体として前へすすむというようになればよいと思うのですが どうでしょう?
 
 

お礼日時:2011/10/12 00:12

 こんばんは、夜分恐れ入ります。

ひどっち でございます。


> れあれるげんさんのご見解のうち 

  ○ 《動きあるいはエネルギー》が 西欧思想をつらぬく経糸である。
  ○ 生活世界についての内容把握および 現象学における展開
  ○ カントの美的判断

 こういった主題について(あるいは 任意にそのほかの論点についても〕 評言を添えていただき 全体として前へすすむというようになればよいと思うのですが どうでしょう?


 了解致しました。

 つきましては、各論につきまして、愚生の叩き台を作成したいとおもうのですが、いかがでしょうか?

 最初のエネルギーの項目につきましては、昨今の原発事故の問題でもあり、ホットな話題であること、また、愚生も核医学を現在の仕事としていることから(業務上の守秘義務もございますため、一般論にてお願い致したく存じます)、多少は、言及できるかもしれません。

 残りの2つは、現在のテーマとも関連性がございますため、よろしいのではないかと、そう考えております。

 
 それでは、皆様よろしく願い申し上げます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 願ってもないと存じます。

 よろしく願い申し上げます。

お礼日時:2011/10/12 00:50

雑感です。

奇妙なことが続くので…
現象と自我は結びついていると思うのですが
夢を他人に見せられたりした場合、夢は自分の内面的な主観的経験ですので自己形成に大きく関わると思われます。
さらに悪夢など夢見が悪いとぐったりしますので身体にも関わってきます。
つまり夢を誰かに操られると自我が侵犯されてしまいます。 さらに何らかの意図をもって行われていたら人格を矯正されてしまいます…
愉快犯の可能性もありますが…
しかし夢を操るのにはまあ、脳でしょうから?身体も操れるのでは?といぶかしんでしまうし、操るのというより介入かもしれないし
そもそもありえないことですが…
いつにもまして奇妙 ですみません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとう。

 こっちぢゃなくて その質問に投げ入れればよいのに。

 まづ
 ★ 自我
 ☆ とは何ぞや? と尋ねておかねばならない。分かっているようで 案外 分かっていないはず。

 ★ 夢を他人に見せられたりした場合
 ★ 夢を誰かに操られると / さらに何らかの意図をもって行われていたら
 ★ 夢を操る / 操るのというより介入かもしれないし
 ☆ これは どういう事態を言っているのか? 催眠術にかけられるといったようなことか? いわゆるマインドコントロールのことか? と言っても それが夢にかかわるというのは よく分からないが。

 とは言うものの ご自身が これらについて
 ★ そもそもありえないことですが…
 ☆ と言っておられる。

 さあ いったい何が言いたいのか?




 それでも まともに哲学の問い求めになりうるようではあります。
 ★ 現象と自我は結びついていると思うのですが
 ☆ これは 《現象》を 《わたし》が経験しそのこと〔もしくは そのことを捉えている自分自身つまり《わたし》〕をわが主観において捉えている。この成り立ちが 骨格として すべてです。そう認識してください。それ以外にあり得ません。
 現象のほうにあたかも《わたし》があると思いまどうのは そのことをいろんな意味で愛したからです。その現象〔の知覚〕やあるいはその印象が あたかもわが精神にさえへばりついたのです。そしてそれだけのことです。

 それから 次のことは 大事です。肝です。
 ★ つまり夢を誰かに操られると自我が侵犯されてしまいます。 さらに何らかの意図をもって行われていたら人格を矯正されてしまいます…
 ☆ と言っており明らかにちゃんと見ている《わたし》がいるということ。あなたの《〈わたしがわたしである〉わたし》が まぎれもなく――あぁ かみよ あなたは たたえられよ―― 存在している。
 ほら 言ってるぢゃないですか。心配しなさんな と。

 仮りにあなたが 誰かの奴隷になったとしましょう。ですが その奴隷になったと知っているあなたがいるということです。 仮りにあなたが 人生からまったく絶望したとしましょう。けれども それを絶望だとことばで捉えているあなたじしんが ちゃんといます。世界は それよりほかの在り方をしていません。
 人間という存在は ちゃんと保証されています。



 何を怖れるのか?
 きよらかなおそれのほかには おそれはあり得ません。
 催眠術やマインドコントロールは ただ心理の問題です。大海である心のおもてに波風が立つというのが 心理としての心の動きです。
 たしかに台風や暴風雨がときには起きますが それでどうかなるのですか?



 いつにもましてエバって ですみません。

お礼日時:2011/10/12 20:37

 こんばんは、ひどっち でございます。

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

 以下に、叩き台と致しまして、列記してございます。拙い文章ではございますが、これは愚生の文才の欠缺によるものでございます。
 何かございましたならば、ご連絡くださいませ。


○ カントの美的判断

判断力批判(Kritik der Urteilskraft)
 ドイツ語で、「趣味」とは、「美しいものの判断能力」という意味があること、さらに、“Kunst”は、芸術と技術の両方の意味があることに留意くださいませ。
 また、判断力は悟性と理性の中間能力としています。そして、この判断力とは何を認識する能力なのか? 悟性も理性も、人間の欲求能力や快不快の感情とは無縁の場所で働いています。そこで、趣味、美、崇高なもの等で、判断力は機能するとしています(ただし、ここでは、”美”を中心に述べております)。
 趣味判断は全くの主観的なものに留まるとするのが”主観主義的美学”であり、これとは逆に美そのものが存在し芸術作品はこれを現出させると考えるのが存在論的美学と呼んでいます。そして、カントの美学においては、この主観主義的美学(「構想力と悟性の自由な遊び」)と存在論的美学(「美的理念」)が混在しているとされています(ここが問題を幾分複雑にさせております。)。

第一部: 美的判断力批判(主観的合目的性の考察)
第一編 美学的判断力の分析論
第一章 美の分析論
 美についての議論ついて、わたくしたちはいくら対象に関する詳細を列挙しても、そのそこから美を判定することができないという前提に立ちます(単なる規則では異なった美に関する芸術について認識できないことから、また、そもそも美的判断を論理的に証明することができないからでもあります)。
 また、わたくしたちの“共通感”の前提は、単にわたくしたちの悟性[認識能力]の自由な戯れの結果に過ぎないものと主張し、一方で“趣味判断”を“共通感”の典型的な範例ととらえ、他方でその存在を我々が前提するという認識を伴うものとしてとらえようとします。
 この“共通感”が“趣味判断”にどのように関わるのかが、(“客観的普遍妥当性”ではなく)“主観的普遍妥当性”に関わる問題であるかを問うています。
 まずその前に、美に関する規則の問題について検討しています。

・認識判断: 表象としての直観 → 感性を悟性が概念的にカテゴライズする
                                            
・美的判断: 表象としての直観 → 構想力・感性の能力発揮 + 悟性の能力発揮 


・美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。)
 わたくしたちは「快」を感じますが、この快には「関心」を持つ快と、「無関心」な快とかがあるとしています。関心を伴う快とは、「快適なもの」または「善いもの」への関心から得られる快となります。つまり、快をもたらす場合、わたくしたちはそれに欲求能力が働き、その結果、強く関心を抱くことになります(これは、カントの実践理性批判-道徳論との関連性がございます)。
 一方、「美しいものへの快」は、「純粋な無関心の快」であるとしています。と申しますのも、これは、それ自体が快をもたらすものであり、そして、この場合は無関心であるため、“欲求能力も一切働かず”、ただ「(快の)判定能力」のみが働くから、というのがその理由です。

・”構想力[感性の能力の一つ]”と”悟性[知覚・対象把握能力]”の自由な調和: (美とは、概念的なものではなく、主観的のもの。それにとどまらず、普遍妥当性を持つものでもありうる)
 上述のように、美は無関心なものであるがため、主観的ではあるものの普遍妥当性なものであるともカントは考えました。つまり、多用な直観を統合する能力である「構成力」が「悟性」を喚起し、そして、これと調和することによって私の内に美がもたらされるとしました(調和である以上は、人により、違いが見られることになります)。純粋理性批判における認識に対し、この趣味判断においては、この(認識作用)ような厳密な支配関係がなく、構想力は自由に働くとしましています。つまり、「自由に働く構想力が悟性を喚起し、そして悟性が概念を用いずに、構想力を合法的な調和の内に置く」という訳です。
 なお、趣味判断は無関心であり、さらに“概念”的なものでない以上、この二つの認識能力が調和することによって“趣味判断”を促す所与の表象は“概念”として現れるのではありません。この二つの認識能力の調和はただ単に“主観的な”快・不快という感覚”として表象されます。このような悟性と構想力の調和によって得られる心の状態が「構想力と悟性の自由な遊び(認識作用のような厳密なものではない)」であり、また、“趣味判断”の源泉ともなります。そして、この「遊び」が、趣味判断を規定するアプリオリな原理であり、普遍妥当性でありうる、と主張しています。
 
・目的なき合目的性:(”合目的性”を持つものはある種の美を備える。)
 ある対象がある“概念”を原因としている場合その概念は目的と解します。(例:椅子は「座る」という“概念”を原因として成立しており、これが椅子の目的であります)。このように目的を持つ対象は、“合目的性を持つ”と呼びました。そして、この目的は必ずしも外的なものである必要はなく、その対象を成立させた意思においてある規則に従った表象が認められるならば、それは”合目的的”とされうるとしました(バラに美が備わっていると、私達はそれが合目的に感じます。つまり、合目的とは、美しいという目的・役割を持って存在していると、私達はそう感じてしまうとうことです。機能美。)。
 そして、“趣味判断”の対象となるものの“合目的性”は、その対象から与えられる快という心の状態の表象のみに求められるとされ、これを「主観的合目的性」と呼びました。そして、これは“概念”を前提としないため「目的なき合目的性」とも呼びました。そして、この”合目的性”の原理が人に、アプリオリに備わっているとしました。


・共同感覚:(他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己を置く能力)
 カントによると、上記のような美的快は必然的であり、万人において普遍的に認められうるものであると主張します。しかし、“趣味判断”は認識判断のように、“概念”を前提としないため、これの必然性は規定された概念から導きだすことはできません(認識作用とは異なります)。そこで、“趣味判断”においては、万人が「共同感覚」を有していると考えました。

第二章 美的判断の演繹論
 演繹論として、まず「構想力と悟性の自由な遊び」が趣味判断におけるアプリオリ性であり、これにより趣味判断の普遍妥当性を保証するということを見出そうとしました。そして、その後に芸術論を展開していきます。

美的芸術について
 芸術は人間が創造するものでもあります。そして、快が単なる感覚的な享楽であるならば、その芸術は“快適な芸術”であり、構想力と悟性の自由な遊びからもたらされる快を目的とするならば「美しい芸術」であるとしています。なお、カントが問題とする芸術とは、後者の美的芸術における「美しい芸術」であります。

第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論)
 趣味判断は”一定の概念”には基づかないが、「不定の概念」には基づくとします。そして、この不定の概念は「美的理念」のことだといいます。これは、美を「美的理念 美的イデア」の表現とする考えであります。また、悟性の自由な戯れによる趣味判断が美に結果的に関わるのであれば、その美は美的理念として象徴的に表されるものだとカントは言っています。

 字数制限のため、次に移らせていただきます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 すでに整理しまとめた文章ですので 復唱をしません。

 
 ただ個人的な覚え書きになります。

 ★ 共同感覚
 ☆ 共感覚( synesthesia )――ものごとに感受するときのクヲリアですとか。ただし 一人ひとりによって異なる――のほかに 検索しがたかったのですが 次の用語で出て来ました。

 ○ (共通感覚) ~~~
 西欧に於ける常識の概念はアリストテレスの『霊魂論』に見える共通感覚(希:κοινή αἴσθησις コイネー・アイステーシス、羅:Sensus Communis センスス・コムニス)の概念に由来する。

 アリストテレスは五感に付帯する感覚があり、それぞれの感覚に共通するものとして共通感覚と呼んだ。
 具体的には、感覚の間の比較、関係付け、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがその対象であると考えられた。

 ついで、自然法思想の起源をなし、「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium」をもたらすと説いたストア派から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。
 ・・・
 カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。

 (ヰキペ:常識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98
 ~~~~~~~~~~~~


 ★ ~~~ 
 第二章 美的判断の演繹論

 演繹論として、まず「構想力と悟性の自由な遊び」が趣味判断におけるアプリオリ性であり、これにより趣味判断の普遍妥当性を保証するということを見出そうとしました。
 ~~~~
 ☆ すなわちここで
 ★ 「構想力と悟性の自由な遊び」
 ☆ というときには 《知覚》としての第一次的な感覚にすでに《悟性》が交じっているということのようです。
 上の《共通感覚》の場合も 判断力あるいは《感覚の間の比較、関係付け、など》が交じっているとすれば 同じように言わば二次的な認識(知解行為)や判断(意志行為)として 身体の感性から精神のほうでも受け取られている状態を含めて言っているようです。

 この点 気になりました。


 ★ ・美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。)
 ☆ このように関心のあるときと無いときとを どうして分けたのか よく分かりません。それというのも 美なら 関心を持っていようが・あるいは別の関心を持っていようが・そしてまったく無関心でいようが おのれにとって うつくしいものはうつくしいと感じる。第一次的に 知覚する。とは思うのですが。


 ★ 第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論)
 ☆ 概念あるいは美的理念などなどは あくまで感受したときの一次的な知覚のあとに二次的に認識や判断をくわえたあとの段階で問題になるというように わたしなどには 思えてしかたがありません。
 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。
 そして その前提を意識しようとしまいと ひとはおのれの感受する美を 正と負〔および中立〕において感じると思われます。

 そのときには 共通感覚が 果たして その美としての知覚の内容まで 人びとに共通であるのか? どこまで それが当てはまるか? これが 問われると思います。
 一般に その内容もしくは構成の仕方としての中身において 人びとは案外 感覚を共通にしていると思います。
 そしてただし 重大なこととして断り書きを添えなければならないのは おそらく人生における意志行為の挫折などの経験をつうじて 人それぞれに美的感覚が違って来ることがある。しかも 極端な・しかしよくあると思われるその違和は 正の美と負の美とが転倒する場合であるかと思います。つまり 美と醜とが 錯綜し互いに錯視される場合ではないかと。

お礼日時:2011/10/14 15:01

 以下、続編となってございます。



○ 生活世界についての内容把握および 現象学における展開

「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」から、「生活世界(Lebenswelt)」 
 まず、「危機」書をフッサール自身、現象学の予備的解釈、事象的歴史的序論と呼んでいます。
・目的:科学絶対客観主義と超越論的主観主義との開裂を歴史的由来から問いつめること(現象学の課題を確認していくこと)。さらに、超越論的現象学の歴史的意義づけ。

・危機とは:科学の危機である。ヨーロッパの人間性そのものの危機であるが、物理学的客観主義と超越論的主観主義とが宿命的に対立し、どうしようもない分裂の形をとっていることにあるとしています。フッサールによると、直感的世界の方法的客観化として働く世界の間接的数学化をとおしての全自然の数学化は、自然科学のもつ基本的な”仮説”であると。しかし、この仮説は、いかに確証されても仮説であることにはかわりなく、仮説は無限に仮説であることが避けられず、その確証は無限に進行していくことになってしまいます。そこに自然科学の本質があると言っている訳です。問題は、ガリレイが数学を近世的自然科学の方法として、自然の数学的構成を企てたときに、もとの意味形成的作業へと戻って問うことを怠ったとし、フッサール曰く「ガリレイは発見する天才であったが、隠蔽する天才でもあった」と述べています。 またそれを「わざわい深き怠慢」であると断じています。つまり、理念化の意味基底であった日常的生活世界は、いわゆる客観的科学真理の巧妙な「離縁の衣」を着せられてしまったというのです。理念の衣は、方法であるものを真の存在として受けとらせてしまうというのです。こうした「意味の取り違え」に、われわれはすっかり呪縛されており、さらには、科学的認識をさえ基礎にすれば存在者全て「余すところなく意のままにできる」という信頼がわれわれを支配していると述べています。

・生活世界:すべての人間の生活に常に自明のものであり,その型式に関しても経験によってなじまれている世界のこと,ようするにわれわれが「生」きている世界のことであります。この生活世界が科学の根源的基盤でもあります。科学者はこの生活世界を「自明」として前提にしているが,この生活世界がどのようなものであるかを明らかにしない限り、科学は基礎づけられない、という訳でございます。
 生活世界とは「われわれ」の住む共有している世界,相互主観的な世界のことであります。すると「われわれ」とは生活世界を共有していない生活世界もあることになります。フッサールによると科学は相対主義にならざるをえないのであるが,その相対主義の原因が生活世界の相対性なのであると。以上から、これは科学絶対客観主義に対する批判であると総括することができます。

・対策:そこで、その発生基盤である生活世界への還帰を第一段階として、次にこの生活世界から、構成的根源としての超越論的主観性に還り問うこと(ただ一つの様式を持つ普遍的エポケー)を第二段階として、還元を二段階に分けたました。


 以下に、一例を挙げさせていただきます。

「地球における熱収支の哲学的考察」
http://blog.goo.ne.jp/sasakimc/e/81c543369466135 … 

 もし、ICPPの数式を用いたシミュレーションが絶対的に正しいのならば、以下のような矛盾は出てこないかと考えられます。
http://chikyuondanka1.blog21.fc2.com/blog-entry- … 



○ 《動きあるいはエネルギー》が 西欧思想をつらぬく経糸である

 残念ながら、愚生にはわかりませんでした。ただ、E=mc^2 より、エネルギーと質量は等価であり、エネルギーがあれば、そこには質量が生じることになることがわかります(c: 光の速度は一定)。ただ、莫大なエネルギー量になることは事実かと思われます。ヒロシマに投下された原爆では、核分裂の際に、0.68gのみが質量欠損したと言われているため、そのエネルギー量は相当のものに及ぶかと考えられます(光の速度を2乗しておりますから)。


 お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 つづきまして ご回答をありがとうございます。



 ★ 生活世界
 ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。

 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。

 ★ 「地球における熱収支の哲学的考察」
 ☆ 《自然変動》による影響は もうすでに観測されてきているということでしょうか? 炭酸ガスの影響による温度上昇は ICPP などの示すような急速なものには成っていないと。
 でしたら でっち上げに近い資料操作のうたがいがかけられ 温暖化阻止への動きは その何割の部分においてか分かりませんが けっきょく陰謀のような動きによって影響を受けたとなるのでしょうか?
 いえ わたしにはよく分かりません。



 核分裂のお話も すみません お話をうかがったというかたちにてです。

お礼日時:2011/10/14 15:28

 こんばんは、ひどっち でございます。

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> ★ 共同感覚
 ☆ 共感覚( synesthesia )――ものごとに感受するときのクヲリアですとか。ただし 一人ひとりによって異なる――のほかに 検索しがたかったのですが 次の用語で出て来ました。
 ○ (共通感覚) ~~~
カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。
 (ヰキペ:常識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98
 ~~~~~~~~~~~~

 コモン・センス哲学、いわゆる、社会のなかで人々が共通にもつ、正常な判断力という意味での”常識”と、アリストテレスにまで遡るもう一つの意味、つまり、五感を統合する第六感としての”共通感覚”(異なった種類の感覚を比較したり識別したりしつつ、感覚のすべての領野を統一的に捉える感覚能力のことです)があります。
 カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。
 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。


> ★ ~~~ 
 第二章 美的判断の演繹論
 ~~~~
 ☆ すなわちここで
 ★ 「構想力と悟性の自由な遊び」
 ☆ というときには 《知覚》としての第一次的な感覚にすでに《悟性》が交じっているということのようです。
 上の《共通感覚》の場合も 判断力あるいは《感覚の間の比較、関係付け、など》が交じっているとすれば 同じように言わば二次的な認識(知解行為)や判断(意志行為)として 身体の感性から精神のほうでも受け取られている状態を含めて言っているようです。
 この点 気になりました。
 
 すごい着眼点かと拝察致しました。もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。


> ★ 美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。)
 ☆ このように関心のあるときと無いときとを どうして分けたのか よく分かりません。それというのも 美なら 関心を持っていようが・あるいは別の関心を持っていようが・そしてまったく無関心でいようが おのれにとって うつくしいものはうつくしいと感じる。第一次的に 知覚する。とは思うのですが。

 まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。
 「快なるもの」につきましては、関心が存在してしまいますと、それへの欲求が刺激されてしまい、感覚・悟性が客観性を持つように仕向けられてしまうからだと考えております。この点で、趣味判断は、一切の関心を欠いている(あえて欠如させたとしている)と考えております。


> ★ 第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論)
 ☆ 概念あるいは美的理念などなどは あくまで感受したときの一次的な知覚のあとに二次的に認識や判断をくわえたあとの段階で問題になるというように わたしなどには 思えてしかたがありません。
 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。
 そして その前提を意識しようとしまいと ひとはおのれの感受する美を 正と負〔および中立〕において感じると思われます。
 
 そこで、カントの意見を述べさせていただきます。
 美に「概念」が伴うか否かの問題にはどう対処すべきなかをカントは考えました。以下は、「判断力批判」訳篠田英雄 p.310-317 からの要約でございます。
 一般に二つの判断の普遍的原理が対立し合うとき、そこに「弁証論」が生じます。美を例に挙げますと、趣味判断は「概念」に「基づかない」とする立場と、「概念」に「基づく」とする立場とが相対立します。カントは趣味のアンチノミーとして以下のものを挙げました。

趣味のアンチノミー
正命題:”趣味判断は概念に基づくものでない。” もしそうだとすると、趣味判断は証明によって決定されうることになるからです。
反対命題:”趣味判断は概念に基づくものである。”さもないと、他の人達が我々の判断に同意することを要求できなくなるからです。

 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。


> そのときには 共通感覚が 果たして その美としての知覚の内容まで 人びとに共通であるのか? どこまで それが当てはまるか? これが 問われると思います。

 共通感覚が及ぶ”範囲・程度”と致しましては、そもそも、”共通感覚”とは、(アプリオリに共通して備わっている)構想力と悟性[認識能力]の活動によって、共同体における共通性を作り上げる能力、だと解しますと、共同体内部の人間にコミュニティ能力と共通性を作り上げる個々の感性の二つに依存するものと考えております。


> 一般に その内容もしくは構成の仕方としての中身において 人びとは案外 感覚を共通にしていると思います。
 そしてただし 重大なこととして断り書きを添えなければならないのは おそらく人生における意志行為の挫折などの経験をつうじて 人それぞれに美的感覚が違って来ることがある。しかも 極端な・しかしよくあると思われるその違和は 正の美と負の美とが転倒する場合であるかと思います。つまり 美と醜とが 錯綜し互いに錯視される場合ではないかと。

 もちろん、主観内のことでござますし、そして、認識作用を担う悟性のみでの”認識・把握”ではございませんため、当然異なってきます。ですが、かような感ずる”感覚”といったものは、ほぼ共通にアプリオリに備わっているものと考えております(程度の差はあるかもしれまえせんが)。
 なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。


 お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 まづ ものごとの把握として第一次は知覚のみという見方は 舌足らずというより まちがっていました。その第一次にも――つまりそこには知覚したものの知覚像(視像や聴像など)だけではなく――その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。

  現象の第一次把握:知覚とそれの認識(感性⇒記憶⇒知解)
  〃  第二次把握:認識一般として整理(知解行為)と判断(意志行為)

 すなわち 次のご見解について 上のように捉えたのですが どうでしょう?
 ★ ~~~
 もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。
 では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。
 ~~~~~

 ☆ じつはこの論点については すでに述べたことがありました。
 ☆☆ (美の第一次把握と第二次把握) ~~~ 
  【Q:現代における審美の可能性】その回答No.6です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

 1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。

 2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。

 3. それは ことば・概念・観念をとおして認識するという意味でなら《イデア》と言ってもかまわない。

   * イデアとは ことばであり その概念内容であり ときに頭にこびりつくような観念であると考えます。

 4. 個々の要素についての知覚もむろん得ている。また成るものならばそれらの認識も成る。

 5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。

 6. その審美の作業には 直感および直観なるヒラメキ〔が得られたならばそれら〕と概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解が過程されている。

 7. なぜならそれが 最初に(α)の命題として仮定している中身そのことだから。

  * (α)《ものごとに関する一般にことばをつうじての概念としての認識については その潜在的な能力を先験的にひとはそなえている》

  ~~~~~~

 ☆ これらほとんど全部が 第一次の把握だとしてよいと考えます。
 そのあと第二次が来ます。なかで (6)の《概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解》 ここから言わばそのことの練り直しにおいて 第二次の把握――分析・検証・認識の整理・そして推論 およびそこからさらに取捨選択をつうじておのれの意志決定をともなう判断を成す――が来ると考えます。

 さらにここで 注目しうるのは カントが美には《構成力》があると見ているところです。
 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、
 ☆ まづこれまでのように見て来たからには この過程は 知覚につづく《第二次》ですが おそらく大きく第一次把握のうちの段階的な二つ目の作業だと見てよいのではないでしょうか?
 つぎには
 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し
 ☆ というようにカントは すでにその美としての事象のうちに《多用な直観を統合する能力である「構成力」》を見て取っているようなのですね。黄金比だかどうなのかはよく分かりませんが 《構成力ないし その美の事象を構成する諸要素のかたち・いろ あるいはそれぞれの配置関係やら互いのに対照されあうといったそのあり方などなど》として 美はその事象じたいにおいて人の目にうったえる力をそなえていると見ていましょうか?
 たぶん 自然のものであれ人為的につくられたものであれ そこには一般に要素ごとの比率とそのつり合い具合いがあるということでしょうか?


 さてこの一次二次の議論は そこに《イデア》の問題もからんでいます。かくして カントの言い分としては:
 ★ ~~~~
 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。
 私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ そこですでに大胆(無謀)になって近道を通りますが 次のように考えますので 添削をお願いいたします。

 1. まづ厚かましくもですが 先に提出した次の考えにはまだ未練があります。

  ○ 概念・イデア・観念は 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積――その知覚像の認識としての――はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。

 2. この体験をつうじて獲得された美についての諸概念は 確乎とした――天上の世界におけるイデアとしてのような――《一定の概念》というよりは やはり《構成力》にかかわるその個々の要素をめぐる把握形式のようなものではないか?

 3. これを《不定の概念》と見るかどうか? 

 4. 少なくとも 《構成力》というのは その美的事象が その中のいくつかの要素のあいだの比率を言うのではないか?

 5. それだと ある程度一定しますが それは比率もしくは位置関係やその色やかたちなどをめぐる配置具合いを言うのですから おそらくそれ自体が 天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか?

 6. わたくしは むしろ真善美の一致という見方をしていますので 《天界のイデア》かどうかを別として 構成力の秘密としての美は 真理や善とかかわりを持つとは推し測ります。(ひどっち=ぶらじゅろんぬのヒラメキの構造(ロゴスの階梯)に関する定理》に立って)。

  *

 ☆ 《快不快》を美をめぐって持ち出すという感覚が いまだによく分かりません。かかわっているとしても 何故この概念を用いて説明しようとするのか? これは 理解できても ピンと来ないというわたしの状態を言ったまでですが。
 ★ まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。
 ☆ 《構成力》によって魅惑されるのなら 《快不快》を超えているのではないでしょうか? いえ それは快感という範疇に入ることに違いはないのですが。


 ★ なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。
 ☆ 通史的に見れば どうなりましょうか? 《構成力》の中身が――つまりは 一般に比率のあり方が―― 逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないでしょうか? それは 一般に意志行為における意志の挫折体験をつうじて 持たれて来るのではないか? と見ますが どうでしょうか?
 だとすれば カントの理論としての《構成力》や《不定の概念》について その幅が広がりこそすれ 基本は揺るがない。とも思われます。

 すなわち 遠く遥かかなたには真善美の一致の見方を望んでいる広いかたちの美的判断にあっては
 ★ 「醜いものの中にも美が存在する」
 ☆ という言い方で捉えるというよりは 《醜悪としての美》の仮説は 大きな概念としての《美》の中で 転倒・倒錯が起きているそのひとつの状態であるのではないか? と見る見方です。
 広義の美は 個別の美醜を包含すると。

 いささか予定調和の紋切型になってきましたが そうだとすれば 《共通感覚ないし共同主観》の問題にも すんなりと通底している。こう思われます。
 ★ ~~~
 カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。
 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。
 と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。
 ~~~~~
 ☆ つねに我が田に水を引くという質問者のわるいくせが 出っ放しですが でも どうでしょう? 

お礼日時:2011/10/15 12:34

 こんばんは、ひどっち でございます。

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。




> ★ 生活世界
 
 ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。
 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。


 概念上のものも大切ではございますが、”生”と向き合った哲学も、もっと活発になってもらいたいと願っております。


> ★ 「地球における熱収支の哲学的考察」

 ☆ 《自然変動》による影響は もうすでに観測されてきているということでしょうか?
 炭酸ガスの影響による温度上昇は ICPP などの示すような急速なものには成っていないと。

 でしたら でっち上げに近い資料操作のうたがいがかけられ 温暖化阻止への動きは その何割の部分においてか分かりませんが けっきょく陰謀のような動きによって影響を受けたとなるのでしょうか?
 

 まず、温暖化問題を外させていただきますが、そもそも数式を用いたシミュレーションなるものが、嘘っぱちであったというものと考えております。つまり、温暖化が大前提のまま、それに合致するように作成されてしまった可能性があろうかと推察しております。実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・
 そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。

 
 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 つづくご回答をありがとうございます。

 ★ 実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・
 ☆ そういう問題でしたか。《誤差範囲を±5℃等にしてしまえば》 予測とは言わないということですね。

 ★ そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。
 ☆ あらためて留意してまいります。


 さてフッサールについてしばらく放ったらかしにしていました。
 原文を翻訳で読んでみたいと思います。

 ▼ (世界の構成) ~~~~
 1. (最も広い意味での しかし純粋に生活世界的な意味での)世界の意識と事物ないし客観の意識とは一面において不可分な統一をなしていながら しかも両者の意識の仕方には根本的な相違がある。

  ☆(ぶらじゅろんぬ) ふむふむ。世界と事物ないし客観との比較ですか。同じようなものに映ります。事物は事象としてその全体が 世界であるように見えますし それらについての客観ということになりましょうし。

 2. 諸事物ないし諸客観(常に純粋に生活世界的な意味に理解されたこれら)は われわれにとってそのつど(何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして《与えられている》のであり しかもそれらは原理的に 世界地平のうちにある諸事物 諸客観としてのみ意識されているのである。

  ☆ 特に何かが言われたという感覚が起きない。
  ▼ 《与えられている》
  ☆ これは 受動性を言うのだろうか? すなわち 能動性は その所与のものごと〔の意識〕にもとづき そのあとまさに生活として一歩を踏み出すというかたちなのだろうか?
  ▼ (何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして
  ☆ この表現がよく分からない。明証性があるものとして という意味だろうか?
  ▼ 世界地平
  ☆ これも分かるようで 必ずしもはっきりしない。《わが視野》といった意味だろうか? だがそれだと視覚に限られてしまう。心の・概念世界の視野もふくめればよいのだろうか?

 3. それぞれの事物は何ものかであり しかも常に地平としてわれわれに意識されている世界《に属する何ものか》なのである。

  ☆ そりゃあそうだろうと反応してはいけないのだろうと思われる。が・・・。

 4. 他方この地平もまた存在する諸客観に対する地平としてのみ意識されているのであり 従って特別に意識されている諸客観がなければ 地平もまた顕在的には存在しえない。(『危機』H.VI,146)

  ☆ 《事物の意識》は すでに早いうちから 《客観の意識・客観としての意識》であるのだろうか? つまりむろん この客観は 主観のうちにおさめられているのだと思われるのだが よく分からない。

 ▼ (同主題) ~~~~
 5. 意識は これを純粋に考察すれば それ自身に完結した存在関連 すなわち何ものの侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連であると見做さなければならない。(・・・)

  ☆ 必要がないと思うのだけれど。
  (あ) 《純粋》の度合いが 定まるとも思えない。
  (い) 《意識自身に完結した存在関連》・・・何とも奇妙なもののように感じる。
  (う) すなわち《何者の侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連》・・・同じく分からない。侵入や逸脱を許しても もし存在の核としての《わたし》――その意識――であるならば ほぼ絶対的な存在の動態であるように推し測られるというのに。

 6.他方 人間や人間としての自我を従属的な個別的実在者(レアリテーテン)として包含する空間‐時間的世界の全体は それ自身の意味からみて 単なる志向的存在であり 従って《意識に対しての存在》という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない。(『イデーン』H.III,117)

  ☆ 《世界》が 《〈意識に対しての存在〉という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない》とは どういうことか? 《それ自身の意味からみて》なら むしろ志向性なる意味関係として 一次も二次もないと思われるのだが。
 主観が 第一次ないし基本だというとしても だから世界は二次だというのだろうか? そんなことを言っても どうなるものでもないように思われるのだが。

 ▼ (〃) ~~~~
 7. しかし世界はやはりわれわれ全員の世界であり その固有の意味での客観的世界としての世界は 単に私に対してだけではなく 誰に対しても《常に真に存在する世界》という範疇的形式を備えているのである。〔・・・〕

  ☆ こうなると 主観は その基本的要素としての《わたし》において 互いに共通である(あるいは 通底している)ということになる。のではないか?

 8. 構成的な経験としての世界の経験というのは ただ単に私の全く個人的な経験のことではなく 共同体的経験 Gemeinschaftserfahrung のことであり 世界それ自身は意味的には 《原理的にわれわれの経験を〈交換〉することによって すなわちわれわれの経験を共同化することによって それについての相互理解を獲得できるような同一の世界》である。

  ☆ 主観の共同化 共同主観であるにほかならない。ではないか? これは 感性の次元における共通感覚を基礎とすると言ってよいと思われる。
 ただし 主観の共同化は なかなかむつかしいはず。ひとつには おそらく時代や地域による制約が まだまだ まだまだまだまだ 大きくのしかかる。
 ひとつには 共同化を果たす前に そもそも人びとの意思疎通が成り立つと言えるのかの問題がある。
 ひとつに 意志疎通が成ったとすれば 確かにそのあと細かいところまでを共通の認識および判断形式としなくてもよいかも知れない。
 ひとつに それにしても まだまだ いわゆるふるい共同観念ないし共同幻想が あたかも観念の共有として共同主観と同じであるかのごとく錯覚する壁がある。
 共同観念とは 地縁および血縁によって仲間となるそのかたちを言う。早く言えば ナショナリズムである。《何々人》あるいは《どこどこの人》を 言わば《生活世界の客観》と見做しそれを言わば人びとのきづなとするかたちである。この共同化に従うならば けっきょく一人ひとりの主観が生かされるのではなく 主観は 誰か一人(あるいは上層の人びと)の主観糾合とその空気によって どこかへみちびかれる。ことになる。

 9. 《客観的》な証明とはまさに相互の賛同と批判によって成り立つものだからである。(『論理学』FTL.209)

  ☆ 共同観念の壁を突き破り 互いに主観を共同化してゆかねばならない。それは 一人ひとりの主観を大事にするという意味での民主制において つねにどこまでもつづく道のりだと考えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 

お礼日時:2011/10/15 17:29

 こんばんは、ひどっち でございます。

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。


> その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。


 これは、愚生の文筆能力の欠如によるものでございました。従いまして、これは、愚生に非があろうかと思っております。申し訳ございませんでした。


> すなわち 次のご見解について 上のように捉え
 ☆ じつはこの論点については すでに述べたことがありました。

 ☆☆ (美の第一次把握と第二次把握) ~~~ 

  【Q:現代における審美の可能性】その回答No.6です。

  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

 
1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。
 
2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。
 
3. それは ことば・概念・観念をとおして認識するという意味でなら《イデア》と言ってもかまわない。
 
  * イデアとは ことばであり その概念内容であり ときに頭にこびりつくような観念であると考えます
 
4. 個々の要素についての知覚もむろん得ている。また成るものならばそれらの認識も成る。
 
5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。
 
6. その審美の作業には 直感および直観なるヒラメキ〔が得られたならばそれら〕と概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解が過程されている。
 
7. なぜならそれが 最初に(α)の命題として仮定している中身そのことだから。
 
 * (α)《ものごとに関する一般にことばをつうじての概念としての認識については その潜在的な能力を先験的にひとはそなえている》
 
 ~~~~~~
 ☆ これらほとんど全部が 第一次の把握だとしてよいと考えます。
 そのあと第二次が来ます。なかで (6)の《概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解》 ここから言わばそのことの練り直しにおいて 第二次の把握――分析・検証・認識の整理・そして推論 およびそこからさらに取捨選択をつうじておのれの意志決定をともなう判断を成す――が来ると考えます。


 はい。そもそも、(5)以下までにおきましては、”感性”とそれに対する”知覚・認識”を 厳密に区分することは実際上不可能かとも考えております。極論ではございますが、目の前に表象されるものが、「絵画である」という知覚すらも無ければ、楽しむことは不可能と考えられるからでございます。
 なお、(6)以下でございますが、言語による作藩解釈等の論理的言語化は次にくるものと考えております。


> さらにここで 注目しうるのは カントが美には《構成力》があると見ているところです。

 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、

 ☆ まづこれまでのように見て来たからには この過程は 知覚につづく《第二次》ですが おそらく大きく第一次把握のうちの段階的な二つ目の作業だと見てよいのではないでしょうか?


 はい。愚生はあえて分離した形で示させていただきましたが、協調的・協同的に作動するものかと考えておりますし、カント自身もそのようにかんがえていたかと推察しております。

> ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し

 ☆ というようにカントは すでにその美としての事象のうちに《多用な直観を統合する能力である「構成力」》を見て取っているようなのですね。黄金比だかどうなのかはよく分かりませんが 《構成力ないし その美の事象を構成する諸要素のかたち・いろ あるいはそれぞれの配置関係やら互いのに対照されあうといったそのあり方などなど》として 美はその事象じたいにおいて人の目にうったえる力をそなえていると見ていましょうか?
 たぶん 自然のものであれ人為的につくられたものであれ そこには一般に要素ごとの比率とそのつり合い具合いがあるということでしょうか?


 以下、愚見を述べさせていただきます。 
 このため、最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。

[フィボナッチ数(1202年)]
・フィボナッチ数は自然界の現象に数多く出現する。
・花びらの数はフィボナッチ数であることが多い。

[黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)]
・パルテノン神殿やピラミッドといった歴史的建造物、美術品の中に見出すことができる。
・また、自然界にも現れ、植物の葉の並び方や巻き貝の中にも見付けることができるといった主張がある。

[音律]
・元来、その和声の美しさのより、音階が定められた。
・現在は平均律を用いているが、これは、転調等のしやすさのためであり、バッハの時にはまだ存在していなかった。


> さてこの一次二次の議論は そこに《イデア》の問題もからんでいます。かくして カントの言い分としては:

 ★ ~~~~
 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。
 私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。
 ~~~~~~

 ☆ そこですでに大胆(無謀)になって近道を通りますが 次のように考えますので 添削をお願いいたします。


 まず、カントは、趣味のアンチノミーにて、”反対命題”と致しまして、「”趣味判断は概念に基づくものである。”さもないと、他の人達が我々の判断に同意することを要求できなくなるからです。」と述べさせていただきました。そこでなのですが、この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。もし、そんな必要性等はない、とお考えでしたら、この反対命題は却下され、「正命題:”趣味判断は概念に基づくものでない。”のみが残ることとなります。
 一方、なぜ、イデアといったものが出てきたのかを考えてみますと、もちろん、プラトンの影響もあろうかと推察できますが、「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。科学者でもあり、科学の進歩を期待したカントには衝撃的であった訳でございます。そして、カントは”経験”に頼らずとも認識可能なアプリオリなものの探求に力を注いでいくことになります。カントとヒュームは敵対者だった等言う方もおられますが、実際は、「カントにとってヒュームとは、むしろ、カントの思索を晩年にいたるまで背後からつき動かす原動力となった存在である」というのが正しと考えております。そこで、観念的なものに根源を求めっていたものと推察しております。なお、今日では、「カントはヒュームを打ち負かした」という説は疑問視されております。
 上述の点を踏まえまして、以下ご返答致したく存じます。


 字数制限のため、後述致しております。

この回答への補足

 おぎないです。

 ○ 芸術が死んだかのように 美の感じ方が さまよっているという現象。

 についてさらに話を伸ばします。あるいは

 ○ 構成力としての良さ。その配置されたかたちどうしの全体としての成り立ち。あるいは そこからさらに美や何か真なる求めるものの表象を喚起する力。――この美の力としての中身が まるでさ迷ったかのように ついに 一般に醜悪だと思われる(思われていた)ものにまで求められるようになった。その原因もしくは事情は どういうことか?

 です。いささか抹香くさい話を交じえます。

 ▼ (マタイによる福音 6:19-21) ~~~

 19: 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
 20: 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

 21: あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ イエスの言葉ですが ここから類型を取り出すようにして 次の命題としてまとめます。


 § 美のありかは 人によって変わるか。 ~~~~~~

 1. あなたが美と思うところに あなたの心もある。

 2. 事実ないし現象を超えたところに美があると思うなら その――まぼろしとしてのような であってもその――主観真実のうちに あなたの心とそれが思う美がある。(超越論的主観性に 美なら美がある)。

 3. 事実ないし現象の中に美があると思うなら その現象のうちにあなたの美とともに心もある。この場合は 《本質直観》は もうどうでもよいと見做されたことを意味する。

 4. おそらくこの(3)なる心的現象は おのれが良しとして問い求めた宝を得ることが出来ず その意志行為の挫折をつうじて この現象世界に心が引きとどめられたような結果である。

 5. ただし そうは言うものの じつはこの現象世界ないし《生活世界》にこそ (2)で問い求めたその意味での宝があるのだし 心もあるという見方も ひるがえって 提出されている。(煩悩即菩提。娑婆即浄土)。

 6. さすれば いかに吾人は考えるのがよいであろうか?

 7. たとえば 次のように命題を書き直したら どうか?
    
     《あなたの宝(また美)があるところに わたしはいる。》
     とイエスは言う。

 8. イエスとは 道であり生命であり真理である。

 9. そうなれば もし仮りに醜悪なものに美を感じるとすれば そこにナゾの無根拠であるキリスト・イエスがいるというからには そのものをやはり醜悪だと――エポケー作業をしつつ・白紙において――人は見止めることが出来る。(既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る)。

 10. これもそれも やはり 主観内の体験に属する。そして もし人びとに共通感覚があるとすれば このそれぞれの美についての主観体験は 互いに交じわることをとおして互いに練り直されて行く。現象学的・超越論的反省が行なわれる。

 11. この単純な推理とその薄い根拠にもとづき こう言えまいか?

    うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が
   大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知
   覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向
   性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーさ
   れ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰るこ
   ととなる。

 ~~~~~~~~~~~~~

 《わたしがわたしであること》。
 
 《最もわたくしなるものは おほやけに通じる》か?

 つねにあやまち得るスサノヲ人間語は そのむしろ自己の中心なるところで アマテラス科学語およびアマテラス人格語に通底してゆくか?

 アマテラス普遍性は 真善美につながっていると見てよいか?
 
 


 エポケーについて 白紙還元という説明は あまりしないのでしょうか?
 タブラ・ラサという言い回しも あるようですが。

補足日時:2011/10/16 14:58
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ > ☆その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。
 ☆ これは こうでした。
 たとえば 絵画に魅了されているとき それを見ているという意識よりほかには意識はなく あとは意識と言えばわづかにうつくしいと思っている状態であるかと思います。でも このときも ひととおり絵が何を描いていて色や形がどうであるかなどをやはり悟性によっても捉えている。そのあと 一瞬は――おそらく快不快の感覚をも忘れて―― 美に浸る。
 このイメージを持って 知覚だけだと書いてしまったものと思います。そういう間違いだったと思います。
 ★ 極論ではございますが、目の前に表象されるものが、「絵画である」という知覚すらも無ければ、楽しむことは不可能と考えられるからでございます。


 ★ 最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。
 ☆ この《構成力》は 比率と表象喚起作用ということでしょうか? 《多様な直観を――統合する前にも――呼び起こす》というように。
 ★ [フィボナッチ数(1202年)]
/ [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)] / [音律]
 


 ★ この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。
 ☆ たぶん 美の体験について話し合うということでしょうね。うつくしいかそうでないか どこがよいかなどについて・ということは 共通感覚について 話し合うでしょうね。
 そこには素朴なかたちですでに審美眼の問題も始まっているように思われます。
 ただし 審美眼についてやら あるいは審美眼をどう人ははたらかせるのかやらを すでに一つの別の――第二次としての――主題として探究するのは むろんそれは美学であるということでしょうが 例によってふたつのあり方に分かれるのでしょうか? すなわち 人生のための芸術と 芸術のための芸術とに。
 前者は 第一次の美の体験のために資すると思われる材料を・つまりは鑑賞のための補助資料を用意するということでしょうか。後者は むしろすでに美の事象から一たん離れて けっきょく思想を形成し述べていくものだというように思われます。美術評論は むしろ思想の問題であると。
 こうは言いましたが では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?



 ★ カントとヒュームは敵対者だったと言う方もおられますが、実際は、「カントにとってヒュームとは、むしろ、カントの思索を晩年にいたるまで背後からつき動かす原動力となった存在である」というのが正しいと考えております。そこで、観念的なものに根源を求めていったものと推察しております。
 ☆ そういう事情でしたか。 
 しかし考えてみますと 
 ★ 「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。
 ☆ というとき 《経験と共に》認識が始まるのは 一般であるように思います。《それ以上のものではない》という見方が どうなのかということでしょうか? 概念・イデア・観念は 抽象されて来るけれども そしてその認識は別のあらたな経験の前にすでに蓄積されて来るけれども それだけの話だということでしょうか?
 どうなんでしょう 《ことば(人は ことばを持ちそれで話し合う)》の問題でしょうか? つまりは この言語能力が 潜在的にしろ 経験に先立つゆえに その言葉としての概念を捉え用いるということでしょうから。
 言語能力も 《〈経験と共に〉始まり それ以上のものではない》と言われれば もうそれまでのようですが。

 次に移ります。

お礼日時:2011/10/16 05:31

 続きからでございます。




> 1.○ 概念・イデア・観念は 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積――その知覚像の認識としての――はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。

 はい。意見を等しく致します。


> 2.この体験をつうじて獲得された美についての諸概念は 確乎とした――天上の世界におけるイデアとしてのような――《一定の概念》というよりは やはり《構成力》にかかわるその個々の要素をめぐる把握形式のようなものではないか?


 これも、仰る通りかと存じます。


> 3.これを《不定の概念》と見るかどうか? 


 カントにとりましては、正命題、反対命題を克服すべく、かろうじて得られたものと考えております。”一定”であっても困りますし、”概念が存在しない”とも考えたくはなかったのかもしれません。もちろん、そこには、「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性が前提となります。

 少なくともカントにおきましては、フッサール風に申しますと、「美のイデアル」といったものかもしれません。


> 4.少なくとも 《構成力》というのは その美的事象が その中のいくつかの要素のあいだの比率を言うのではないか?


 比率も含まれますが、もっと単純に、表象喚起能力といった広義のものも含まれるかと考えております。


> 5.それだと ある程度一定しますが それは比率もしくは位置関係やその色やかたちなどをめぐる配置具合いを言うのですから おそらくそれ自体が 天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか?


 原則、形而上学的なものを排除しようとしたカントにとりましては、直接の関わりを持たせたいとは考えていなかったと思われます。


> 6.わたくしは むしろ真善美の一致という見方をしていますので 《天界のイデア》かどうかを別として 構成力の秘密としての美は 真理や善とかかわりを持つとは推し測ります。(ひどっち=ぶらじゅろんぬのヒラメキの構造(ロゴスの階梯)に関する定理》に立って)。



 カントもそのように考えていたかと推察しております。この判断力批判も純粋理性批判と実践理性批判(発表順序は異なりますが)の架け橋の役割を持たせたかったというのもその理由かと考えております。



> ☆ 《構成力》によって魅惑されるのなら 《快不快》を超えているのではないでしょうか? いえ それは快感という範疇に入ることに違いはないのですが。


 はい。もし、《構成力》によって魅惑されるというのでしたら、《快不快》を超えていると考えます。ただ、これが万人に当てはまるかどうかの確信はございませんが・・・



> ☆ 通史的に見れば どうなりましょうか? 《構成力》の中身が――つまりは 一般に比率のあり方が―― 逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないでしょうか? それは 一般に意志行為における意志の挫折体験をつうじて 持たれて来るのではないか? と見ますが どうでしょうか?
 だとすれば カントの理論としての《構成力》や《不定の概念》について その幅が広がりこそすれ 基本は揺るがない。とも思われます。


 上述の黄金比率や、昔の純正律(現代のバッハ演奏では主軸となっております)が今日までも、魅力を保っているのを鑑みますと・・・
 ただ、比率のあり方が逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないのか? という問いにつきましては、根本的には、挫折(停滞) → 新たな展開(実権)といった経緯で進んできtものと考えております。


> すなわち 遠く遥かかなたには真善美の一致の見方を望んでいる広いかたちの美的判断にあっては

 ★ 「醜いものの中にも美が存在する」

 ☆ という言い方で捉えるというよりは 《醜悪としての美》の仮説は 大きな概念としての《美》の中で 転倒・倒錯が起きているそのひとつの状態であるのではないか? と見る見方です。
 広義の美は 個別の美醜を包含すると。


 仰られますように、転倒・倒錯が起きている、と思われます。また、音楽では、和音の美しさは、その楽曲に含まれている不協和音に依存しているところもございます。
 従いまして、一理あろうかと考えております。
 ですが、そんなややこしいところ(不協和音の嵐等)から、わざわざ美を持って来なくても・・・というのが愚見でございます。


> いささか予定調和の紋切型になってきましたが そうだとすれば 《共通感覚ないし共同主観》の問題にも すんなりと通底している。こう思われます。

 ☆ つねに我が田に水を引くという質問者のわるいくせが 出っ放しですが でも どうでしょう? 

 いえいえ。何なりと仰っていただければと思ってございます。

 フッサールはF. ブレンターノにより、カントの手ほどきを受けたとされております。その影響は強かったものと思われます。従いまして、共通点は見出せる、というのは事実かと考えております(共通感覚も、美学のみに限定されるものではないと考えております)。


 誠に申し訳ございません。今週は出張、会議等で疲れておりまして、以下の語彙についてご説明させていただくのみで、本日はお許しくださいませ。


地平(後期フッサールの概念;”受動の現象学”の一面が伺われるかと存じます)
 例えば、目の前のリンゴを見ていても、背面では蛇口からぽたぽたと水が漏れており、 台所の窓を通して私は遊んでいる子供達の声を聞く。リンゴにかかわるとき、 私は多かれ少なかれその周りにあるものについても共に意識しており、 現実に知覚されているものと、共に意識されている周りのものの両方が、 漠然とした未規定の地平に関係することによって貫かれている。 われわれはここで無尽蔵の、 けっして完全には主題化することができない世界地平に直面しているのである。」
 フッサールは、最初は現前しているリンゴにかなり偏って論じようとしたのですが (『イデーン』『デカルト的省察』の頃のフッサール)、 しかしもっと後になると、 レモンを見ている時にもレモン以外のものが同時に意識に入り込んでいるという、 その部分を問題にし始めました。 簡単に言えば、これが<地平>です。


 後は、レアレルゲン様のご批判を仰ぎたいと、そう願ってございます。


 お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。

この回答への補足

 おぎないます。
 §1 真善美は一致しているという見解にひとつの説明を与えます。 

 §2 その基本的な考えのもとに それらの一致するところの言わば《わたし〔の自然本性における記憶なる秩序作用〕》の中で 特には美的経験の内容が 人によって逆転し対極にさえなってしまっているといった現象――醜悪にも美があるといったひとつの見方が現われていること―― これについて その事情を説明します。




 §1 あえて今 《真善美の一致》という主題について 

   (【Q:現代における審美の可能性】その回答No.16より)
    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

 大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《〔社会ないし人類の〕全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。

 人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。

 その程度ですが そのように傾向として決まったと思われるような美(美群)は その美をめぐる個人の志向性として・またはその美じたいが指向するその先の何ものかとして おそらく人びとの黙契としてはたらくような善悪判断にかかる善と一致すると見ます。

 そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。

 さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。

 人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実とふたつの真実》を含むと捉えます。

 《美》は 見た目ということであればそれとしてのほんの一片の知覚であり しかもヒラメキとしてなら認識し得ない真実として非思考の庭がわが心に成るという意味での真理(したがって ほとんど まぼろし)に近い直感であるとも見ています。

 このことをも――ただしこれは ほとんど論証のむつかしいことだと思いますが――いま述べて進めることとしました。


 §2 美の構成力に内部変化および錯綜や倒錯が起きうるということ

 (【Q:われらが審美眼は 劣化したか】No.42お礼欄) 
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html

  生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。

 さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。
 われわれは記憶の中からあれこれを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときむしろ精神の秩序作用としての記憶に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりすると われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。

 これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。

 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。しかも 基本的なかたちで 《うそ・いつわりを言わない》が善であり《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。



 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。
 《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞と連れ立った)動きだと考えます。

 実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。



 けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか?
 それは 生きた過程としてのその人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてなぞの美ないし真理〕を求めているかが違って来ます。審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程に沿ってあらたに作られていくと見ます。

 一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。
 そして どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが 千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。

 これが 理論です。理論どおりに行くかどうかの分かれ目を説明しています。簡単に言えば へその曲がり具合いによって その人の美学が そのつど おのれの姿(もしくは心)をあらわすかのように決まって来るものと考えます。
 ~~~~~~~~~~~~

補足日時:2011/10/16 11:14
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ★ 少なくともカントにおきましては、フッサール風に申しますと、「美のイデアル」といったものかもしれません。
 ☆ 《美のイデアル》についておしえていただければ さいわいです。検索では 何やら数学の用語が出てくるのですが。

 ★ ~~~~~
  ☆ ・・・天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか?


 原則、形而上学的なものを排除しようとしたカントにとりましては、直接の関わりを持たせたいとは考えていなかったと思われます。
 ~~~~~~~
 ☆ 確認しました。

 ★ ~~~~~
   ☆ 真善美の一致という見方・・・

 カントもそのように考えていたかと推察しております。この判断力批判も純粋理性批判と実践理性批判(発表順序は異なりますが)の架け橋の役割を持たせたかったというのもその理由かと考えております。
 ~~~~~~~
 ☆ これは ただし れあれるげんさんから異見が出されるかも分かりません。


 ★ ~~~~
 上述の黄金比率や、昔の純正律(現代のバッハ演奏では主軸となっております)が今日までも、魅力を保っているのを鑑みますと・・・
 ただ、比率のあり方が逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないのか? という問いにつきましては、根本的には、挫折(停滞) → 新たな展開(実権)といった経緯で進んできたものと考えております。
 ~~~~~~
 ☆ 比率のあり方が 錯綜し倒錯したかたちになるというのは 現代にまで至るそのようなひとつの傾向を言っていますが ただし美の基本は 倒錯にはならないのだということについて触れ忘れていました。
 ★ ですが、そんなややこしいところ(不協和音の嵐等)から、わざわざ美を持って来なくても・・・というのが愚見でございます。
 ☆ というようにです。
 《実権》というのは あらたな展開が社会的な思潮として有力になるということでしょうか?


 ★ 地平(後期フッサールの概念;”受動の現象学”の一面が伺われるかと存じます)
 ☆ その説明内容の引用を省きましたが そういう内実ですか。超越論的反省をくわえて本質へと練り上げていくという作業と似ているように思いました。《地平》の場合は むしろ広がっていきますが。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/16 05:51

もありがとうございました。




> ★ 最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。

 ☆ この《構成力》は 比率と表象喚起作用ということでしょうか? 《多様な直観を――統合する前にも――呼び起こす》というように。

 ★ [フィボナッチ数(1202年)]
/ [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)] / [音律]
 


 実を申しますと、愚生にはわかりません。もしかしますと、そもそも、これらの比率等は、自然に由来するもののため、人類の歴史以前から存在するものかと推察されます。従いまして、これら比率等から、安定感を感ずるというのは、アプリオリなるものなのかもしれません。


> ★ この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。

 ☆ たぶん 美の体験について話し合うということでしょうね。うつくしいかそうでないか どこがよいかなどについて・ということは 共通感覚について 話し合うでしょうね。


 はい、一般論と致しましては、愚生もそのように考えております。自分がその美しさに魅せられたならば、他人ともその美を分かち合いたいという衝動が出てくるというのは、自然と思うからでございます。


> そこには素朴なかたちですでに審美眼の問題も始まっているように思われます。

 ただし 審美眼についてやら あるいは審美眼をどう人ははたらかせるのかやらを すでに一つの別の――第二次としての――主題として探究するのは むろんそれは美学であるということでしょうが 例によってふたつのあり方に分かれるのでしょうか? すなわち 人生のための芸術と 芸術のための芸術とに。


 愚生は分かれるものと解してございます。
 例えば、カントの言葉を借りますと、あえて、こちらからの積極的な美の探究心を持たずとも、美はやってくるのに対しまして、後者は、むしろ、積極的に、分析を試みる作業であるからでございます。


> では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?


 19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。

 
> ★ 「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。

 ☆ というとき 《経験と共に》認識が始まるのは 一般であるように思います。《それ以上のものではない》という見方が どうなのかということでしょうか? 概念・イデア・観念は 抽象されて来るけれども そしてその認識は別のあらたな経験の前にすでに蓄積されて来るけれども それだけの話だということでしょうか?


 ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。


 
> ○ 芸術が死んだかのように 美の感じ方が さまよっているという現象。
 についてさらに話を伸ばします。あるいは

 ○ 構成力としての良さ。その配置されたかたちどうしの全体としての成り立ち。あるいは そこからさらに美や何か真なる求めるものの表象を喚起する力。――この美の力としての中身が まるでさ迷ったかのように ついに 一般に醜悪だと思われる(思われていた)ものにまで求められるようになった。その原因もしくは事情は どういうことか?


 ▼ (マタイによる福音 6:19-21) ~~~ 

 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ イエスの言葉ですが ここから類型を取り出すようにして 次の命題としてまとめます。



 かなり、端折りましたが、1から8までは当然のことと考えております。そして、以降の問題でございますが、


>  9.そうなれば もし仮りに醜悪なものに美を感じるとすれば そこにナゾの無根拠であるキリスト・イエスがいるというからには そのものをやはり醜悪だと――エポケー作業をしつつ・白紙において――人は見止めることが出来る。(既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る)。

 10.これもそれも やはり 主観内の体験に属する。そして もし人びとに共通感覚があるとすれば このそれぞれの美についての主観体験は 互いに交じわることをとおして互いに練り直されて行く。現象学的・超越論的反省が行なわれる。

 11.この単純な推理とその薄い根拠にもとづき こう言えまいか?
 
 うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーされ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰ることとなる。

 ~~~~~~~~~~~~~


 これらの問題につきましては、形而上学的問いが含まれておりますが、突き詰めますと、どうしましても、形而上学的なものも含まれてくるように考えております。
 「既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る」、意見を等しく致します。さらに申しますと、本当に美と感ずるものは、既成概念や先入見を飛び越えて人に訴えかけてくるものと考えております。そして、これは、もちろん、主観内での受け止めでございます。10に関しましては、評論等の第二次作業もふくまれるかもしれませんが、内なる心において、さらに深化されることは当然ありうることかと考えております。


> 《わたしがわたしであること》。
 《最もわたくしなるものは おほやけに通じる》か?

 普遍的”美”に至ことはないかもしれません。しかし、少し基準を緩和させ、「ほぼ美しいとされるもの」につきましては、おおやけに通じる可能性はじゅうぶんにあろうかと推察してございます。




> つねにあやまち得るスサノヲ人間語は そのむしろ自己の中心なるところで アマテラス科学語およびアマテラス人格語に通底してゆくか?
 アマテラス普遍性は 真善美につながっていると見てよいか?
 


 アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。
 もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。
 そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。



> エポケーについて 白紙還元という説明は あまりしないのでしょうか?
 タブラ・ラサという言い回しも あるようですが。

 愚生が知らないだけかもしれません。ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。





> ☆ 《美のイデアル》についておしえていただければ さいわいです。検索では 何やら数学の用語が出てくるのですが。



 実を申しますと、”美”を、フッサールのイデア視したもの、という単純なものでございました。申し訳ございませんでした。




> ☆ 比率のあり方が 錯綜し倒錯したかたちになるというのは 現代にまで至るそのようなひとつの傾向を言っていますが ただし美の基本は 倒錯にはならないのだということについて触れ忘れていました。


 そうでございましたか。了解致しました。



> 《実権》というのは あらたな展開が社会的な思潮として有力になるということでしょうか?


 これは、”実験”の変換ミスによるものでございました。深くお詫び申し上げます。



 以降、続きを述べさせていただきます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 次のNo.41のご回答のほうでは この上ないお褒めをいただいたと言ってもよいように思うのですが こちらでは 基礎についての認識でおおむね一致し 応用編ではまだまだ 考えを練って行かねばならないと思いました。

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 次の表現によくないところがあったと思います。

 ☆☆(No.38補足欄) ~~~
 7. たとえば 次のように命題を書き直したら どうか?
    
     《あなたの宝(また美)があるところに わたしはいる。》
     とイエスは言う。

  ・・・
 11. この単純な推理とその薄い根拠〔* つまりは イエスなるナゾの無根拠の問題〕にもとづき こう言えまいか?

    うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が
   大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知
   覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向
   性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーさ
   れ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰るこ
   ととなる。

 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 人びとが《わが宝あるいは美》へとおもむくところに 《わが心》があり そこには キリスト・イエスがいるというのは そこでわれは 神に出会うという意味です。
 むろん 主観内の ヒラメキとしての――マボロシのような――直感および直観においてという意味ですから 明証性はないのですが それでも 当人にしてみれば その《出遭い》によって――マボロシのうちに―― その美が わが心にかなうものだと確認できたり いや それは美でも宝でもなく むしろ醜悪であり負債であるとさとることが出来たりする。のではないか?
 この話のキモは 《美を見るところに わが心があり わが心があるところには キリスト・イエスがいる》ということ つまりは 《ほんとうにわが心にかなった美であるかどうかは 初めは分からないが たとえ醜悪な対象を見て美と思っていたとしても はっきりそこにわが心が―― 一時的に――あるとすれば むしろそこで神とも出遭える。出遭えたならば 心が白紙に還元されて もし醜悪なものであったなら そのように見直すことが出来るようになる》にあります。

 なにやら 同行二人のようになってしまいました。イエスに出遭えるというところを ご同朋つまり人間としてもよいようにも思えます。
 おそらく 現象学プロパーとしては あくまで一人のわたしとしての主観の内部でそのような気づきや見直しや練り直しが 反省の繰り返しとしておこなわれると主張するかとは思われます。
 ただ 一人のひとの能力は限られているとすれば そして出遭う相手は神でもなく仏でもなく同朋でもないとすれば ちょうどまだ湯気が立っているところの・《地平》という概念装置をおそわったように 環境における何らかの事物や事象が まだ見えていなかったのに見えて来るというかたちにおいて きっかけになるのではないか? こう考えました。
 (それを ふるめかしい言い方では そこにイエスがいて ひとはかれに出遭うのだと――あぁ 抹香臭いですね―― 言っていました)。


 ★ ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。
 ☆ この用語は もうあまり伸展性はありませんか? どうでしょう? エポケーとかけ離れているわけではないと思われるものですから。



 ★ ~~~~~
  アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。
 もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。
 そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。
 ~~~~~~~
 ☆ お叱りを受けました。
 つまりもし未練があるとすれば 例のブディズムに出てくる蓮の花のたとえのように あやまち得る自由にしてむしろ自由奔放なるスサノヲ人間語の中から その根としては アマテラス科学語およびアマテラス人格語が 生じてくるのではないか? こういう見通しを持てないかというものでした。
 ぎゃくに言いかえると スサノヲ人間語に根を張らないから アマテラス人格語も科学語も とんでもない陥穽が作られてしまうのではないか? (科学語は どうなのでしょう? 根を張る必要はないでしょうか?)


 ★ ~~~
  ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。

 ~~~~~
 ☆ 確認しました。


 ★ ~~~
  > では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?


 19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。
 ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。
 そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。
 ~~~~~
 ☆ なるほどですね。文芸評論でしたら 評論とそれが対象とする作品と 両者とも 文芸であると思われます。音楽評論は 作品じたいの評価と 作品の再現(演奏)についての評価とに分かれるのですね。同じ曲についてピアノかバイオリンかといった楽器の違いによっても 評価が別のものになりましょうか?



 比率などについて 美と感じるアプリオリなものがあったとしたら――つまりそれが 科学によって分かったなら―― おもしろいかも知れません。

お礼日時:2011/10/17 14:44

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