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 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?


 ほかの人からの評価についても 知りたいです。
 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。
 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。

 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

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A 回答 (66件中61~66件)

 こんばんは、ひどっち でございます。

ご返答いただきましてどうもありがとうございました。


> ○ 還元して得られた本質 ~~~~
 
4.その概念=形相=理念に 普遍性を求めるばあい。

  
 ・ これは 論理的な明証性を必ずしも求めないという説明と
  
  どう折り合いをつけましょうか?

   明証性を必ずしも問わない場合は 
   別様に 次のように
    とらえましょうか?


 ご質問の趣旨が愚生にはわかりづらかったのですが、明証性につきまして、フッサールは以下のように述べております。

[明証性の定義] 
「明証とはすべて、存在するものあるいはある様態で存在するものを、「それ自身」という様相において、それゆえ、どのような疑いも排除するような完全な確実性において、そのもの自身をとらえることである。だからと言ってそれは、明証的なものが“後になって”疑わしいものとなる、あるいは、感覚的な経験の例で分かるように、存在すると思われていたものが仮象と判明することになる、といった可能性を排除するものではない。このように、明証を持っていたにもかかわらず、疑わしいものになるとか存在しないかもしれないとか、そうした事態になる可能性が開かれていることは、”明証の働きへの批判的な反省”によって、いつでもあらかじめ認識することができる。」
「デカルト的省察」第一省察 p.39からです

 ですが、いつまでたっても辿りつくことがないという疑念が持たれます。ここで最終行にある”明証の働きへの批判的な反省”が重要になり、より確かで普遍的な、学を基礎づけうる明証(真理という意味ではございません)の可能性を示唆しています。
 しかし、フッサールは学の基礎付けとして世界存在の明証は不十分である、と述べてもいます(後述)。世界はあくまで「感性的経験の持つ明証において」与えられているのであって、「存在すると思われていたものが仮象であることが判明することもありうる」とも述べています。

 上記のことから、ANo.5のお礼欄のご質問(1-2)に繋がるものと考えられます。
 つまり、「可能性として疑わしくもなる」、と解せられます。

 そこで、世界よりもさらに根源的な(誰もがそうだと言わざるを得ない)明証として何が考えられるのか。それこそがデカルトのコギトである、という訳です。世界の存在がたとえ仮象であったとしても、それは私が持つ現象として存在している。すなわち。その「私」は疑いえないであろう、という訳でございます。

「客観的世界の全体は私にとって存在し、まだにそれが私にとってあるがままに存在するようになるのは、この意識の生においてであり、この意識の生を通じてなのである。世界内部のすべてのもの、すべての時空的な存在が私にとって存在するとは、私にとって通用している、ということを意味している。しかもそれは、私がそれらを経験し、知覚し、想起し、なんらかの仕方で思考し、判断し、価値づけをし、欲求し、等々をすることによってなのである。これらすべてをデカルトは、周知のように、我思う(コギト)という名称で呼んだ。世界とは、私にとって、そもそもそのような我思う(コギト)において意識され、私にとって通用しているような世界以外のなにものでもない。世界は、その普遍的なおよび特殊的な意味と存在の効力全体を、もっぱらそのような、思うことから得ている。 <中略> 私がこの生の全体を眺め渡す地点に立ち、直進的に世界を存在するものと捉える存在信念の遂行をすべて差し控え、眼差しをもっぱらこの生そのもの、世界についての意識へと向けるとき、私は自分を思うことの純粋な流れを伴った純粋な我(エゴ)として捉えることになる。」
「デカルト的省察」第一省察 p.49からです

 
> 6.★ ただ経験を超えたアプリオリへの一種の経験として、
 ☆ これは 先験的な概念をもあつかいましょうか? 《もの自体》? 

 おそらく、この文章での意味合いとしましては、例えば、ヒュームにより衝撃を受けたカントが、如何にして経験を超えたアプリオリなものを求めたのと類似しているものと考えております。それは、経験(論)のみとしますと、普遍的科学の可能性が否定されかねないからでございます。従いまして、ここでは、単に”アプリオリ”に重点がおかれているものと思われます。

> 7.★ 第二段階としての「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」
 ☆ これは 明らかに先験的な《非経験のなぞ あるいは 無根拠》をも視野に入れていましょうか?

 8.この第二段階の還元では 究極においてはたとえば《宇宙霊魂 プシュケー・コスムー / 世界霊魂 アニマ・ムンディ》といったイデアにまで突き抜けるのでしょうか?

 9.ちなみに 宇宙霊魂なら 梵我一如と同じ構図になると考えます。あるいは 仏性なり神の霊なりと かたちとしては(類型において) 同じだと見なされると思います。

 10.(7)あたりからは 特に(9)に到れば すでに非経験との対峙としての非思考つまり信仰に入って行くものと考えますが そこまでは フッサールは言っていないのですよね?

 「超越論的還元=超越的還元」ではないため、視野には入れていないと考えられます。
 元来、フッサール自身は、形而上学的なものは極力除外して、 厳密に学問的な理性批判の唯一可能な目標を追求していったことからも、それが示唆されます。


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 以下、差し出がましいのは承知の上で、回答させていただきます。もちろん、皆様のご批判をも慎んでお受けしたいと、そう思っております。
 アマガッパ様は愚生よりも知識に富み、さらに頭脳も明晰であるため、不必要かと思いましたが、あくまで、ご参考として、述べさせていただきました。


> (2) 現象学的還元によって得られる〔意識ないし志向性をおびた〕本質とは けっきょくわが主観において持たれるヱクトルとしての言葉(=概念=理念=イデア)のことか?

 少々、異なるかもしれません。
 現象学的還元の基本としまして、例えば赤くて丸いものが一定の形で自分の意識に生じている場合には、だれでも、リンゴが自分の前に存在することを確信せざるをえなく、自分もそうだし、ほかのひともきっとそうに違いない(絶対的な確証は存在しくてもです)、そして単に自分の確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを適切に取り出していくことにあります。


> (2-2) 《分かる》ということにもすでに 心の動き・志向性が含まれると見たほうがよいでしょうか?

 はい、そうのように考えられます。本質”直観”とは申しますが、方法的操作性を含むので、つまり過程性を含むため、把握・理解(《分かる》)といった方が適切かと思われます。そう鑑みますと、すでに《分かる》といった時点には、心の動き・志向性が含まれていると考えられます。

> ★★( c ) こうした経験〔=( a )および( b )〕に構造を見出していこうという学問です。
 ☆ おそらく
 (1-3) 普遍性ないし類が類であることの中身 けっきょくこれは――経験科学であるからには―― 主観の共同性としての 一般性を言うものとは考えます。それでよいか? (人間の能力による限り そこまでのことで満足せざるを得ないと考えられる)。

 少々、異なるものと考えております。間主観性のことを仰っておられるかと推察しておりますが、あくまで、一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを取得していくことにとどまるからでございます。


 それでは、どうも失礼致しました。
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この回答へのお礼

 ★ ですが、いつまでたっても辿りつくことがないという疑念が持たれます。ここで最終行にある”明証の働きへの批判的な反省”が重要になり、より確かで普遍的な、学を基礎づけうる明証(真理という意味ではございません)の可能性を示唆しています。
 ☆ 《明証性》の定義そのものを明らかにしていただきました。そのくだりは引用しませんでしたが こういうことでしたら 還元した先の本質とは 決してつねに普遍性をもった類概念だとは限らないという結論がみちびかれるはずです。
 言いかえると 普遍性を明らかに証拠立て論理立てる根拠は あくまでその人の主観に持たれる範囲内でのものごとに限られる。言いかえると 極端に言えば でたらめでもよい。こうなります。
 なるほどその人の主観としての心にとっては混じり気のない《純粋意識》であり得ましょうが それはけっきょくのところ どうでもよい純粋だとなります。

 このあとデカルトのコギトがみちびかれていますが まづは ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 こんな内容で よくも現象学などとあたらしい学が立てられたものだと あきれるのは まだ素人なのでしょうか?

 ★ そこで、世界よりもさらに根源的な(誰もがそうだと言わざるを得ない)明証として何が考えられるのか。それこそがデカルトのコギトである、という訳です。世界の存在がたとえ仮象であったとしても、それは私が持つ現象として存在している。すなわち。その「私」は疑いえないであろう、という訳でございます。
 ☆ けれどもこのコギトあるいはその行為主体としての《わたし》なる存在 これも 移ろい行かないとは限りません。わが身とあるいはしばしばわが心も 朽ちて行きます。(《これぢゃ 心がくさってしまう》とか《いや お前よ そんなにくさるな》とか言ったりします)。
 思惟について言うなら それはつねにあやまちを侵し得る内容を考えつく程度のものと見ざるを得ないほどです。
 その思惟という行為じたいが 疑い得ないものだと言っても この思惟が 永遠につづくわけではありません。

 《われあやまつなら われあり(シ ファロール スム)》とアウグスティヌスが言ったことから デカルトはコギトの命題をみちびいたと言われていますが もともとは《あやまちに気づいた〈わたし〉は わたしがそれ以上を疑い得ない》と言おうとしたと思います。また あやまちに気づくというときの あやまちをあやまちと認識し得て気づきにみちびくための思惟を デカルトは 突出させた。そういう事情だと見ます。(あやまちに気づくというときには 認識や知解の行為だけではなく 判断としての意志行為が さいごのひと触れを担っているとも考えますが)。

 けれども これとても 経験存在なる人間の経験思考という範囲にとどまります。また《わたし》の《わたし》なる存在(それは 動態)についての気づきは それをもうそれ以上はこの世界において疑い得ないと言うわけでしょうが それでもわれわれ人間はじゅうぶんに こすからく――つまり 自由意志を持ちこれの使用をほしいままにしており―― 我れに還った我れの心や思惟に背くことも いともかんたんに行なえるようです。

 このような人間としての存在論が いったいどこでこのように退歩してしまったのでしょう? そうではないでしょうか? 現象学について わたくしの早とちりでしょうか?

 ▲ (★ 「デカルト的省察」第一省察 p.49からです)~~~
 私がこの生の全体を眺め渡す地点に立ち、直進的に世界を存在するものと捉える存在信念の遂行をすべて差し控え、眼差しをもっぱらこの生そのもの、世界についての意識へと向けるとき、私は自分を思うことの純粋な流れを伴った純粋な我(エゴ)として捉えることになる。」
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 何をほざくか? と言いたいです。このくだりの意味を汲んで 《われ われを思う。ゆえにわれあり( Je ME pense. donc je suis.≒ I think of myself, therefore I am. )》とその後まとめたのは P.ワ゛レリだったということなのでしょうが(史実かどうかを別として そう推し測られるという意味ですが) これも《われあやまつなら われあり》にそのまま連なっていると思われます。退歩でなくとも 同じ地点での足踏みです。(いちいち《純粋》などと言わねばならないことは インチキくさいです)。

 志向性を言うならば 《あやまちの気づき》は 大いに主題として明らかにすべきでしょう。認識のための認識という行為を志向しているだけだよなどと弁明するとは 思えません。考えられません。シェーラーが 倫理学を交える観点からフッサールの批判的な承継をしたともおそわりましたが(この点についての評言は 残念ながら 遅れていますとお詫びしますが) とにもかくにも どこが現象学なのでしょう? どこが 学なのでしょう?

 とわざと いまの段階で 早とちりを大々的に侵しておきたい気分になりました。


 


 反省を述べます。
 ひどっちさんからおそわった・科学の論拠(論拠とせざるを得ない弱い根拠)の一つとしての《人間原理》が からまっているとは思います。すべては人間の経験することがらを扱うしかないのだという条件。しかもそれを人間の能力とその努力において捉えなければならないという人間の条件。
 言いかえると 未経験あるいは経験すべからざること これらについてもその想像は出来るわけで その想像行為は経験であり扱う対象に入るという条件。
 
 この人間原理が 例の量子論における命題すなわち 《すべてはその世界が 人間の・そしてわれの認識によって始まる》という命題とどう同じでどう違うか これはあらためておしえていただかなければなりませんが いづれにしましても 人間が経験する世界についての学問であるなら 《コギト(つまりむしろ われ考えるのわれ のほう)》を誰もが疑い得ないことだという前提を置かざるを得ないかも知れません。
 わが思惟は 個体としてのわが存在が朽ち果てるとも 類として・つまりは人類としては 人類の存在が続く限りで――人類の発生の以前についても―― いわば世界行為について限りなく探究しこの探究を及ぼしつづけるのだと 人間原理において 言い得るかと思われるからです。これが 反省点です。






 ★ 《分かる》〔が 志向性に属するということ〕
 ☆ 了解しました。

 ★ 《間主観性》〔と言えども わが主観の内にとどまる内容を言うのみだということ〕
 ☆ これも 項目を別に立てて説明をいただきました。おおむね――少々横着ですが―― 普遍性や類概念性の論点にふくまれるかと考えます。つまり明証性が ほんとうの明証性ではない。ほんとうの明証性ではなくとも コギトないし人間原理という或る種の公理にもとづき その主観の内容は どこまでも主観にとどまっても・または人間の一人ひとりの主観であるからこそ 現象学は 科学として問い求めるのだと。
 そしてこれは 量子論による認識論ないし存在論と どのように切り結びするのか? (そう言えば ここから ブディズムの議論とも絡み合おうかというところなのでしょうか?)

 


 ここまで書いて来て 最後にひょっとして大きな論点になるかも知れないことを説明してもらっているのに気づきました。
 ★ 間主観性のことを仰っておられるかと推察しておりますが、あくまで、一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを取得していくことにとどまるからでございます。
 ☆ つまり
 ★ 一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを
 ☆ つまり
 ★ 確信の構造(イデア”的”なもの)だけを
 ☆ つまり 
 ★ 構造だけ
 ☆ という論点です。
 
 純粋意識や概念=形相=イデアと言えば  その概念内容を意識し志向していると受け取りがちですが――いまのいままで そのように堅く信じていましたが―― 問題は中身のことではなく どのような中身を容れるかにかかわらずその精神の仕組みとしてのような構造のほうこそが それなのだと。
 ううーん。だけれど これは 人間という存在(その自然本性)としては みな互いに同じだという前提がありますよね? それとも 自然本性としての神経細胞からさらに 一人ひとりがおのれの自己表現を積み重ねることをとおして おのれにふさわしい神経組織に作り変えそれに即した《確信の構造》をかたちづくるということでしょうか?
 この構造に還元されるということは それでは どういうことなのか? 一人ひとり違っているということなのか?
 神経組織を言っては いけないか? なぜなら 
 ★ 確信の構造(イデア”的”なもの)だけを
 ☆ だから。


 このあとを よろしくお願いいたします。

お礼日時:2011/09/30 11:31

> 類・種・特殊・個の分類じたいにつていは 明証性をどこまでも求めるのかも知れませんから。

分類された一つひとつの概念が 実際にそのものごととどのように対応しているのか これについては 触れないということですから 明証性を問わない。<

すくなくとも現象学の流れでは「明証」は心の中の問題です。外の世界に関わる問題ではありません。意味志向(ノエシス)と充てがわれる意味との統一作用のこと、つまり、意識の流れの上の現出から導きだしたとりあえずの類的なぶれなさ=「理性定立」が可能であることを、意味しています。

だから、類・種・特殊・個の分類をおこなう心による志向的な判断プロセスの結果が、すなわち「明証」です。

お引き写しの文献に関する探究なら、アリストテレスとプラトンの相違について質問を立てられるのが建設的だと思います。アリストテレスがプラトンのイデアをどう扱うのか、ご親切な方が居たら学ぶ機会になるのではないでしょうか。


> リンゴは赤く丸いというとき――揚げ足取りっぽい議論になりますが―― 丸くないリンゴはないでしょうけれど 赤くないリンゴ たとえば王林のように熟したあとでも薄い緑のリンゴもありますから 現象学的還元には ポルピュりオスらのカテゴリア分類論は 必要であるように思うのですが これはいぢの悪い見方でしょうか?<

必要だと話してきた挙句に、これは何かの間違いですか。
リンゴは赤く丸い、赤く丸いはリンゴ、などということの見かけ自体を現象学的還元と考えてしまわないようにと願ってわたしはすでに解説を寄せてあります。
緑やら四角やらということでカテゴリーをくぐり抜けてリンゴの形相たるものに辿りつけるなら辿りついてみたらよろしかろう。
てなことで#2に転載したとおりです。わかりやすくまとめますと以下のとおりです。

経験
↓現出の同一性
↓現出の同一性における相関関係の志向性
↓現出の同一性における相関関係の獲得
↓類概念の理性定立(明証)
形相の受け取り(本質観取・本質直観)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 あまがっぱさん。ですが ますます分からなくなりました。今回はその疑問をぶつけるかたちになります。

 今回の焦点は ふたつです。
 (1) 一方で 類的概念というからには 普遍性を目指しているはず。ただし他方では その明証性は 主観内面にとどまると言う。この両者のあいだの絡み具合いは どうなっているか?

 (1-1) 事実としての証拠や論理としての根拠を どこまで求めて 普遍性を目指すというのか?

 (1-2) すべては主観にまかせられているのか。だとしたら それは 類概念であるかどうかは 可能性としてつねに うたがわしくなるが それでよいのか?


 (2) 現象学的還元によって得られる〔意識ないし志向性をおびた〕本質とは けっきょくわが主観において持たれるヱクトルとしての言葉(=概念=理念=イデア)のことか?

 (2-1) ただしそれなら つまらない。その果実をリンゴと言うから 《リンゴ》という言葉が リンゴの形相であり それへの向きや力(ないし動き)を帯びた純粋意識だということになる。のではないか?

    *

 ★★(回答No.2)( a ) 【現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。
 ☆ ですね。そうして

 (2-2) 《分かる》ということにもすでに 心の動き・志向性が含まれると見たほうがよいでしょうか?

 (2-3) ただしそうだとしても すでに《リンゴ》という言葉は存在している。そのリンゴという言葉が 類概念だというのであれば 自同律であり 学的推論としては堂々巡りのようでもある。

 ★★( b ) それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。
 ☆ ここにも疑念が湧いて来ます。

 (2-4) 《リンゴという物の現出》が 《同一性を保つ》とはどういうことか?

 (2-4-1) 時間的にだとしたら それはわづかの時間でしかない。それとも腐って来ても それは 大きく同一性の中の小さな変化だと見ましょうか?

 (2-4-2) たとえば《リンゴの木に成る実》という内容が 同一性か? だとしたらそれは その木を《リンゴ》と呼ぶという言葉の存在(およびその使用慣習)からみちびき出している議論であるに過ぎない。

 (2-4-3) すでに触れましたが 丸いかたちが おおむね同一性を持つと見られましょうが 色は 赤いのも薄緑のも黄色いのもありますから 色での識別は無理。つまり言いかえると 色がいろいろであるのに 類概念を――同一性の持続として――成り立たせるものは 何か?

 ★★( c ) こうした経験〔=( a )および( b )〕に構造を見出していこうという学問です。
 ☆ おそらく

 (1-3) 普遍性ないし類が類であることの中身 けっきょくこれは――経験科学であるからには―― 主観の共同性としての 一般性を言うものとは考えます。それでよいか? (人間の能力による限り そこまでのことで満足せざるを得ないと考えられる)。


 ★★( d ) 微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。
 ☆ 分かりません。ここまでの(1)と(2)およびその系の質問が持たれます。

 ★★( e ) ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】
 ★( f )~~~~~
 すくなくとも現象学の流れでは「明証」は心の中の問題です。外の世界に関わる問題ではありません。意味志向(ノエシス)と充てがわれる意味との統一作用のこと、つまり、意識の流れの上の現出から導きだしたとりあえずの類的なぶれなさ=「理性定立」が可能であることを、意味しています。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 次は おねだりの問いになります。

 (3) ノエシスは 人間の知覚作用として 大きくは《記憶》という精神のはたらきに属すと思うのですが それに《意志》のはたらきをも加味していましょうか?

 (3-1) つまり《意味志向》は ひとつに《意味の認識》としてすでに《知解》という精神の第二のはたらきにもかかわっているようですが それはひとまづ措いておいて 《志向》というからには すでに心つもり・心指し(志)として意志行為でもある。こうでしょうか?

 (3-2) つまり《理性定立》という判断をともなう意志行為にまで ノエシスが及んでいましょうか? これはいくらかおかしく思いますので 確認をお願いしたいと思います。(つまり つづく問いです)。

 ★( f-1 ) 意味志向(ノエシス)と充てがわれる意味との統一作用のこと

 (2-5) この意味志向の《意味》も充てがわれる意味の《意味》も それは一般にことばで表わされると見ますが それは 一般に言う《定義》のことを言うのか? それともただ単に《リンゴ》ならリンゴとしての《言葉》のことか?

 (2-6)=(3-3) たとえば《リンゴの木に成る果実》だと言うとしたら それは確かに《意味志向》であるが これをもノエシスと言うのか? 言いかえると ノエマで考えるなら 丸いかたちや 色や 食べたときの感触などなどが ノエマでありそのときの知覚作用を ノエシスと言うのではないか?

 (2-7) 言いかえると この意味志向と意味とを統一する作用が必要だとすると それはすでに《知解》というはたらきにおける認識行為であるのではないか? 意味を確定させるのなら すでに《意志》というはたらきにおける判断行為でもあるはずだ。ノエシス・ノエマは そこまで範囲が広げられているのか?

 (2-8) つまり上の(2)の命題が肯定されるのなら 現象学という別個の学を立てる意味はまだ見いだせない。つまり
 ★( f-2 )とりあえずの類的なぶれなさ=「理性定立」
 ☆ という場合には これは 学としてでなくとも 誰もが認識や意味の確定の作業においておこなっているふつうの過程である。ではないか?

 ★( f-3 )すくなくとも現象学の流れでは「明証」は心の中の問題です。外の世界に関わる問題ではありません。
 ☆ 《外の世界に関わる・関わらない》というときの中身が 定かには つかみかねます。

 (1-4) いくら《心の中の問題》だとしても 類概念として捉えようというからには ほかの人の心の中とも共通のものがあることが 必須です。感性や精神において何ものかが互いに通底しているとか あるいは持たれた主観内容がほかの人びとと共同化しうる(常識となりうる)とかいうことが 必要でしょう。これっていうのは 《外の世界とかかわっている》のではないですか?

 (1-5) つまり 《言葉》とは そういうものです。人びとの心を――或る程度の同一性を持ったものとして――つらぬく共有物です。つまり
 ★( g ) アリストテレスとプラトンの相違 / アリストテレスがプラトンのイデアをどう扱うのか
 ☆ の問題は この概念=形相=ことば からすれば 別件ではなく イデアそのものが主題になっていると推し測られるのだけれど そうではないのか? 


   *

 なお問いを残しますが 何から何までを一挙にというわけにも行きませんから ここまでをお尋ねしたいと思います。

 なお回答No.3に あまがっぱさんへの呼びかけが書き込まれています。質問者としてMCであるとするなら――つまり 主観の志向性を最小限にとどめて類概念において振る舞おうとすれば―― そのことにいちど触れて お伝えの仲人になることまでは 成すべきエチケットだと見ました。

お礼日時:2011/09/29 10:33

ポルピュリオスのことは知りませんが、お書きのことはアリストテレスのカテゴリー論の焼き直しでしょう。



アリストテレス(b.c.382-b.c.322)は形式論理学をうちたてる過程で概念における包摂-被包摂関係を洗い出し、類概念とそれに属す種概念を説いています。そして、類のほうが種よりもintensionが小さいことにも注目しています。どのようなものであるかの徴表があれこれ多様に存在しなくなるために小さくなるわけです。たとえば、「円はなめらかな図形である」と言う場合、円が種概念、図形が類概念、なめらかなが種差ですが、種概念=類概念+種差という構成になっているので、情報内容量として、種概念のほうがintensionが大きいわけです。人間と動物なら人間のほうがそのようになります。それで、アリストテレスは、intensionの小さい類を指して「本質」をあらわすとみなすのです。

ブラジュロンヌさんがおっしゃりたいのは、フッサールがアリストテレスを確認してみせないで論述を始めたか?ということですか?それは無理でしょう。 
フッサールはアリストテレス研究から心的現象の研究に入ったブレンターノを継承する弟子です。また、フッサールの踏み台にはカント解釈・批判があり、カントはアリストテレスから存在論や認識論を前に進めています。

こまごまとフッサールの『論理学研究』とか『イデーン』とかを開いてさしあげたいのはやまやまですが、あいにくわたしは哲学の講義ではなく精神分析学の講義に出ていた人間です。フッサールを学ぶことが目的だったことはなく、フッサールに情熱を注いだこともありません。わたし自身のためでなしに哲学書を開く気が露ほどもありません。
他の疑問についてはまた後日書き込みましょう。とりあえず部分的にお答えまで。
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この回答へのお礼

 あまがっぱさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 いやぁ ますますむつかしくなってまいりました。

 ★ ポルピュリオスのことは知りませんが、お書きのことはアリストテレスのカテゴリー論の焼き直しでしょう。
 ☆ あぁ そのような事情を知っていたなら まさにアリストテレスを出すことができたことでしょう。


 いま 現象学についてわたしが抱くことになった素描は こうです。

 1. 必ずしも明証性を求めないが・したがって主観の内で ものごとについての類的概念ないし普遍性〔としてのイデア?〕を問い求めるということ。

 2. ポルピュリオスのイサゴーゲーは 心的現象(たとえば特に志向性)などを考慮に入れずに 概念整理として分類論をかいつまんで述べている。

 3. ただし このカテゴリア論は アリストテレスにおいてすでに成されている。そこから カントあるいはブレンターノを経て フッサールの仕事がある。

 4. 現象についての本質を見究めるというとき そのものへの意識ないし志向性を前提とするが むしろこの志向性のより少ない内容(意識?)をもって 普遍性ないし類としての概念と捉える。(これが 純粋意識?)

   *


 情けないことにわたくしは アリストテレスについては ほとんどが解説書からの知識です。
 
 イデアがらみだとしますと プラトンの系譜もかかわって来ますし 何だかえらいことになりそうな。



 《本質》をこのように――つまり 形而上学としてのように〔も〕――問い求める現象学から サルトルの実存主義は出たのでしょうか?
 すみません。初歩的な疑問なのだと思います。
 本質を追い求めつつ しかも現象――ないし人間としては 現実存在――について 見つめ続けるといった学的態度もしくは生活態度なのでしょうか? 


 フッサール論が ご自身の主題であるのではないとのこと 了解しました。
 わたくしは 自慢ではありませんが エポケーにつきましては それを応用することに強い関心を示してきましたが そのほかのことについて ついぞよくは知っていません。という事情です。

 ブディズムとの関連につきましても さらに明らかになればとわたくしも願っています。

お礼日時:2011/09/28 11:33

 こんばんは、ひどっち でござます。




 愚生も今から約25年程前でございますが、竹田青嗣氏の著書に接しました。

 早速、本題に移らせていただきます。
 ”本質取得”と申しますと、どうしましてもイデアとの関連が想起されるものと推察されます。下記の新田氏の文言にもございますような「”相対的” な意識作用から“普遍的”な”イデア的”対象を構築する」という概念が愚生にはございます。
 
 ざっくり申し上げますと、「心的作用から、”理論に先立つ普遍的なイデア的対象”をつかみ取る」といったところかもしれません。

「 形相的還元とよんだ方法とは、 <中略> 「論理学的研究」で説かれた本質直感とともに、伝統的プラトン的イデア視とあまり変わるところがなかった。ただ経験を超えたアプリオリへの一種の経験として、もっぱら本質対象の志向的対象性としての性格が志向的相関関係において強調されているにすぎない。また形相的還元という名称は「イデーン」期以降ではほとんど使用されていない。」
新田義弘著「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として」 p.81からです。


形相的還元(eidetische Reduktion)について
 現象学的還元の一つです。因に、現象学の第一段階に位置し、「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」が第二段階となります。
 具体的には、個々の事実も、知覚や想像の「自由変更」によって経験的普遍性から本質的普遍性に高められ、経験の影響を受けない本質を明らかにしていきます。このような操作・作業のことをいいます。また、別名「イデア視(Ideation)」とも呼ばれるように、「理念化」することでもあり、文字通り「形相=本質=理念(ほぼ同義でございます)」へ「還元する」ことでもあります。なお、私の個人的な世界での還元を「自我論的還元」とよばれています。

 因に、シェーラー(Max Scheler; 1874-1928)でございますが、フッサールから影響を受け現象学を研究し、現象学を倫理学に応用した人物として知られています。

参考:
http://en.wikipedia.org/wiki/Max_Scheler 
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/scheler_ant … 

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 以下の欄、勝手ながら使用させていただきたく存じます。


ANo.2のご回答者様 アマガッパ様へ

先日は、愚見にご心象を害するような表現が入ってしまい、誠に 申し訳 ございませんでした。その心つもりは愚生にはございませんでした。この点 この場をお借りし、深くお詫び申し上げたいと存じます。 

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 何かしらの参考になりましたら、幸甚に存じます。

この回答への補足

 § シェーラーの現象学
  http://en.wikipedia.org/wiki/Max_Scheler

 1. フッサールの規定する現象学に 見解を同じくはしなかった。
  
 2. フッサールは 現象学を 厳密な意味で《方法》であると規定したが これに同意せず 思考では得られえない(その意味での霊感としてヒラメキを得る)直観( spiritual seeing )の境位であると見た。

 3. 現象一般に限ることなく 《原体験ないし根源的経験 original experience 》なる現象をも想定する。あるいは《経験に先立つものごと( essences or values as a priori )》が 人間に所与として・動態として そなわると。つまりは 経験科学ないし哲学がもとづく経験合理性なる判断基準によって把握される現象に明らかに先立つものごとの領野を想定している。

    * ヒラメキ直観より以前の・ただし同じくインスピレー
    ションに属するイメージ直感をも視野に入れているのかも
    分からない。

 4. この根源的な体験なる現象は 経験であるからには その行為主体がいるが その対象としての現象 もしくは 経験じたいは その現象もしくは経験がおのづから起きると見ている。その自然の生起を人は待つのみ。

 5. 原体験の起こるのを待つ人間の態度としては 自己が日常に慣わす生活態度( a moral attitude )のことである。また それのみである。と同時に この生活日常の姿勢は――おそらく 他者の存在が想定されることから―― 基本的に《かかわり( love )》と言ってもよい。

 6. あらゆる現象との遭遇(仕合わせ)や他者との交通(まじわり)が 世界をかたちづくっているが その世界においてわが人間存在の根底における根源的経験は カカワリ(相互主観性)を基礎とする生活態度において その直感および直観として生起し その現象じたいのほうからわが主観にやってくる。
  
   *意訳しました。英訳文:
    Scheler describes the essence of philosophical
   thinking as "a love-determined movement of the
   inmost personal self of a finite being toward
   participation in the essential reality of all
   possibles."

 7. プラトンのイデアに倣って 原本質( Urwesen / primal essennces of all essences )が想定されるかも知れない。シェーラーのばあいは カカワリ(愛)の問題であるようだ。

 8. ただし 概念として認識の対象となって把握しうるというようなモノやコトではないらしい。むしろ 理性は お呼びでないと言ったほうがよい。

 9. 原体験を得て それが愛(カカワリ)にもとづくと自覚したあと おそらくやっと 理性や論理がそのことを認識する。それとしてなら 哲学知としても言葉で表わし得る。

 10. (勝手に自説を交じえます): 愛に対する概念として 憎しみ( hatred )が立てられているが これは おもしろくない。愛が カカワリなら むしろその対極は 無関心であるはずだ。

 11. 言いかえると 憎悪は カカワリを絶やさないなら 大きく《愛》である。敵対関係は 大きく 愛の関係である。なぜなら おそらくそこで人は原体験をあじわうであろうから。

 12. けれども カカワリの放棄としての無関心は 端的に言って 死である。もはやそこでは 人間にとっての根源的体験は 得られないと思われる。この死の固定した状態(固定した死の状態)は 一般に悪魔と呼ばれる。そういう人間存在がいるということではなく そういうハタラキが想定されるものと思われる。

 ・・・

補足日時:2011/10/12 14:14
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ イデア
 ☆ が入って来るのですか。ややこしくなるような予感がします。

 ★ ”本質取得”と申しますと、どうしましてもイデアとの関連が想起されるものと推察されます。
 ★ 「”相対的” な意識作用から“普遍的”な”イデア的”対象を構築する」という概念
 ★ 「心的作用から、”理論に先立つ普遍的なイデア的対象”をつかみ取る」

 ☆ さらに
 ★ 形相的還元(eidetische Reduktion)〔が〕・・・現象学の第一段階に位置し、「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」が第二段階となります。
 ☆ ですか。

 ★ 別名「イデア視(Ideation)」とも呼ばれるように、「理念化」することでもあり、文字通り「形相=本質=理念(ほぼ同義でございます)」へ「還元する」ことでもあります。
 ☆ なのですね。

 ○ 還元して得られた本質 ~~~~
 1. ごくふつうの概念としての ことば=意味。

 2. 形相と言ってみるばあい。

 3. そこに 理念をも捉えるばあい。

 4. その概念=形相=理念に 普遍性を求めるばあい。

   ・ これは 論理的な明証性を必ずしも求めないという説明と
    どう折り合いをつけましょうか?
     明証性を必ずしも問わない場合は 別様に 次のように
    とらえましょうか?

 5. ★ なお、私の個人的な世界での還元を「自我論的還元」とよばれています。

 6. ★ ただ経験を超えたアプリオリへの一種の経験として、
 ☆ これは 先験的な概念をもあつかいましょうか? 《もの自体》? 

 7. ★ 第二段階としての「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」
 ☆ これは 明らかに先験的な《非経験のなぞ あるいは 無根拠》をも視野に入れていましょうか?

 8. この第二段階の還元では 究極においてはたとえば《宇宙霊魂 プシュケー・コスムー / 世界霊魂 アニマ・ムンディ》といったイデアにまで突き抜けるのでしょうか?

 9. ちなみに 宇宙霊魂なら 梵我一如と同じ構図になると考えます。あるいは 仏性なり神の霊なりと かたちとしては(類型において) 同じだと見なされると思います。

 10. (7)あたりからは 特に(9)に到れば すでに非経験との対峙としての非思考つまり信仰に入って行くものと考えますが そこまでは フッサールは言っていないのですよね?

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ No.2のやり取りでは ポルピュリオスないしプロティノスらの新プラトン主義が出て来ましたが こうやって《イデア》を持ち出しての説明を受けますと ますますプラトンに近づくのですが そういった親縁性はあると見てよいのでしょうか?


 ★ 因に、シェーラー(Max Scheler; 1874-1928)でございますが、フッサールから影響を受け現象学を研究し、現象学を倫理学に応用した人物として知られています。
 ☆ 別途 参考サイトを読んでみます。補足欄にてお応えもうしあげます。

お礼日時:2011/09/27 22:42

以下叩き台としてご利用ください。


フッサール、シェラー、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスの読者からの反応は考察のお役に立つと思います。
それから、竹田の学生や読者がどういう反応を示されるのか楽しみです。

手抜きですみませんが、愚拙の設問のお礼欄で複数回書きましたので転載させていただきます。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7011950.html

【「事物があると経験できる」から「経験すると事物があらしめられる」へ切り替えるときに(還元)、何かを意識するのではなく流れそのものである意識が志向性を保っていたり同一性の定立を目指していたりするという特質をもって何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】

【現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。こうした経験に構造を見出していこうという学問です。
微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】

【現象学って経験しかみつめないんです。それで、時間をみつめることになったり、志向性そのものを見つめることになったり、意識や認識をみつめることになってしまうんです。】

【赤は色覚だから見る体験ですが、例えば熟し実や夕焼けや花を見て経験するカテゴリに関連付けされ、見ている意識の持続においてぶれなく現出してくるので、存在として認識した像を結ぶことができるんでしょうね。初めにあったものごとのことなんてわかりませんでしょう、現象学では。】

【知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず、経験の対象について一個別的なものにとどめず、総称的な全体概念を把握できるということなんです。】

【たとえば、シャツのボタンが、あなたの知っているボタンの具体物一つ一つであることを棚上げして、
ボタンという形相と結びついているということ、
あなたの知らないボタンがどれほど無数にあるか知れないのに、存在するボタンの全てを一つずつ確かめなくても、ボタンをわかっていること、
これが、全体の明証性を問わずにいられる本質観取という出来事です。
そして、さらに言えば、経験において時間の過程であるボタンの現出がずっと同一のボタンでありつづけるための志向性があること、これが本質観取という、明証なき実在の知覚の事態です。】

この回答への補足

 すみません 不勉強を省みず――もしくは 不勉強であるゆえに―― 大胆な尋ね返しをおこないます。

 ご説明にしたがうならば その内容は 例のプロティノスの弟子であったポルピュリオス(234~305以前)の書いた『イサゴーゲー』における分類論(カテゴリア論)と同じであるように思ってしまうのですが いかがでしょう? (新プラトン主義の系譜ですね)。

 ▲ (ポルピュりオス:イサゴーゲー) ~~~~~
  類とは何か 差異とは何か 種とは何か 特性とは何か 付帯性とは何かを知ることは・・・定義を下すためにも また総じて区分と論証の仕事に対して これら(五つのもの)の考察は有益でありますから・・・手短に いわば入門書(イサゴーゲー)風に・・・試みましょう。
  ・・・

 1 類(ゲノス)について
 ・・・
 種を異にする複数のものに対して 何であるか〔という問いに対する答え〕の中で 述べ帰せられるものが 類である。例えば 動物がそうであると。

 というのは 述べ帰せられるもののうちで あるものは一つのものだけについて述べられる。例えば ソクラテスやこの人やこのものなどだけについて述べられる。

 しかし他のものは 複数のものについて述べられる。例えば類や種や差異や特性や付帯性は 特定の何かにではなく 〔多数のものに〕共通的に帰せられる。
 類とは例えば《動物》 種とは例えば《人間》 差異とは例えば《理性的》 特性とは例えば《笑える》 付帯性とは例えば《白い》《黒い》《坐っている》である。


 このように類は一方において 複数のものに帰属せしめられ述べ帰せられるという点で ただ一つのものだけに対して述べ帰せられるものとは異なるものであるし
 他方において 複数のものに対して述べ帰せられるものに比較するならば
 まづ種とは なるほど種も複数のものに対して述べ帰せられるのではあるが しかし種において異なるものにではなく数(* 個・個体)において異なるものに対して述べ帰せられるという点で 異なっている。

 例えば人間は種であって ソクラテスやプラトンに述べ帰せられるが この両者は種において相互に異なるのではなく 数において異なるのである。
 また動物は類であって 人間や牛や馬に述べ帰せられるが これらは単に数においてだけでなく 種においても相互に異なっている。


 次に特性と比較すると 特性はただ一つの種――つまり特性がそれの特性であるところの種――と この種の下の個に対して述べ帰せられる。〔例えば《笑える》は人間という種だけと 個々の人間に対して述べ帰せられる〕のに反して
 類は一つの種にではなく 複数の異なる種に対して述べ帰せられるという点で 類は特性と異なる。


 さらにまた差異および共通的付帯性と比較するならば この二者が種を異にする複数のものに対して述べ帰せられるけれども しかし《何であるか》〔という問いへの答え〕の中で述べられるのではないという点で 類はこの二者とも異なる。
 というのは この二者が述べ帰せられる当のものが――今言ったように――《何であるか》の中でではなく むしろ《どのようなものであるか》の中で 述べられるからである。例えば《人間とはどのようなものであるか》という問いに対して 《理性的な》とわれわれは答えるし また《からすはどのようなものか》に対して《黒い》と答える。
 このばあい《理性的》は差異で 《黒い》は付帯性である。他方《人間とは何であるか》と問われたばあいは 《動物》とわれわれは答える。動物は人間の類であった。


 かくして類は 複数のものについて述べられるという点で ただ一つの個体だけに述べ帰せられるものから区別され 
 また種を異にする複数のものに述べ帰せられるという点で 種としてあるいは特性として述べ帰せられるものから区別され 
 さらに《何であるか》の中で述べ帰せられるという点で 差異および共通的付帯性から区別される。
 この両者は 両者が述べ帰せられるところのそれぞれのものが《何であるか》の中でではなく 《どんなものであるか》 あるいは《どのような状態のものであるか》の中で述べ帰せられるのである。
 したがって 上であたえられた類の粗描は 少しも余計なものを含まず また欠けたところもないのである。

  2. 種(エイドス)について
  ・・・
 
  (水地宗明訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ ~~~
 【現象学では・・・
 微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】
 ~~~~~
 ☆ というようですと 知覚をも引きこんで本質観取すると考えられますが その点ではポルピュりオスの場合 イサゴーゲーなる小冊子では そのことに無頓着のようです。

 ▲ (ポルピュリオス 前掲書・まえがき) ~~~~
 例えばそもそも 類と種に関して 
 1. それらが客観的に存在するのか それとも単に虚しい(対応する実物のない)観念としてのみあるのか 
 2. また存在するとしても 物体であるのか非物体的なものであるのか また〔非物体的であるならば〕離在可能な〔物質から独立して存在しうる〕ものなのか
 3. それとも感覚対象の内に これらに依存しつつ存在するのか
 という問題については 私は論じることを回避するでしょう。このような仕事はきわめて深遠で もっと大きな探究を必要とするからです。
 ~~~~~~~~~~~



 ★ ・・・何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】
 ☆ ポルピュりオスらは この純粋意識と呼ぶこともなく 概念整理のために類・種・特殊・個といった分類論を得ているのでしょうね。

 次の知覚の問題にも触れないということのようです。
 ★ ・・・ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】
 ★ 明証なき実在の知覚の事態
 ★ 知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず

 ☆ この中で 《明証性》の問題については 議論が分かれましょうか?
 類・種・特殊・個の分類じたいにつていは 明証性をどこまでも求めるのかも知れませんから。分類された一つひとつの概念が 実際にそのものごととどのように対応しているのか これについては 触れないということですから 明証性を問わない。



 リンゴは赤く丸いというとき――揚げ足取りっぽい議論になりますが―― 丸くないリンゴはないでしょうけれど 赤くないリンゴ たとえば王林のように熟したあとでも薄い緑のリンゴもありますから 現象学的還元には ポルピュりオスらのカテゴリア分類論は 必要であるように思うのですが これはいぢの悪い見方でしょうか?
 もし詳しく細かくみれば フッサールもこうした分類理論についてとうぜん触れているということでしたら どうぞお見逃しのほどをお願いいたします。




 * 何だか このような《返り討ち》をねらって ご回答を要請したかたちになったかにさえ見えます。

 * 《志向性》が扱われることは おおきな違いでしょうか?

 * 《直観》というよりは ふつうの概念整理であるように捉えられます。それゆえにも《観取》といった表現を用いるのでしょうか?

 * せっかくの修復にふたたび傷が入るようでしたら 削除しようかとも思いましたが すべては学問のため ひいては日本の復興のためとお考えいただくわけにはまいりますまいか? (でもわたしのこの物言いは すでにいやというほど浴びせられているのでしょうね。わたしが知らないだけで。だとしたら その辺のことをご説明願えるかとも)。

 * あぁ 最後の決断としまして 清水の舞台から飛び降りましょう。
 

補足日時:2011/09/27 07:54
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この回答へのお礼

 催促してしまってすみません。ご回答をありがとうございます。


 竹田青嗣が そんなにかかわっているのですか。

 シェラーという名が ヰキぺには見られない名ですね。


 いちど目を通しているご文章ですが あらためてまなびますので まづは前もってのお礼の言葉を申し述べるまでとします。
 ありがとうございます。

お礼日時:2011/09/27 00:28

素人にも大変わかりやすい竹田さんの本によると、どんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される、という。


これはどういうことかと言えば、例えば、私がいま聞いているこの音は「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在である」。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音一般」といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものである。この音の前者の側面をわれわれは事実と呼び、後者の側面をその本質と呼ぶ。もっとわかりやすく言えば、私がある個物を見る。この個物はそれを私が今ここで経験しているものとしては事実である。ところがこの個物はある言葉で呼ばれうる、電車の音とかピアノの音とか。この言葉それ自体が含む普遍的規性、それが「本質」であると。
要するに現象学でいう「本質」とは言葉(それによって形成される何らかの理念)のいみのことであると。
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この回答へのお礼

 あさひさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~
 ○ どんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される、という。

 ○ 〔事実があって そこに本質がある〕。

 ○ 要するに現象学でいう「本質」とは言葉(それによって形成される何らかの理念)のいみのことであると。
 ~~~~~~~~


 ヰキぺを参照しても 《本質直観》の項目はまだなく 《現象学》についても フッサールについての項目は 部分的な記述があるのみです。

 ▲ (ヰキぺ:現象学) ~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1% …
 
 § フッサールの現象学

   フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる先入観、形而上学的独断にも囚われずに存在者に接近する方法をフッサールは求めたのである。その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールを活動時期によって1.前期 2.中期と 3.後期の3つに分け、各々の時期に考案された主要な概念を取り上げて叙述する。

 §1 前期(記述的現象学)~『イデーン』前まで~

  1900年前後のヨーロッパにおいては、学問が自己の整合性・論理性のみから展開していく一方で、特に数学・論理学の領域で、心理学主義・生物学主義的な、心理的現象から論理を基礎付けようとする思想が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる対象の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。数学の研究者から出発したフッサールの関心も、心理学から、論理・数学を基礎付けようとするものであった。

 フッサールは、大学で約2年間師事したフランツ・ブレンターノの「志向性」(独: Intentionalität) の概念を継承したとされる。ブレンターノにおいて、「志向性」とは「意識」が必ず相関者(対象)を指し示すこと、言い換えると「意識」とは例外なく「何かについての」意識であることを意味する。ブレンターノ自身は、志向性の概念を心理作用の分類に用いただけであったが、フッサールは、「意識」がまず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と相関者(対象)が常に相関関係にあるという志向性の特徴に着目した。

 §2 純粋経験=志向的体験

 §3 現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)

  日常的に、私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っている。この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。

  1.認識の対象の意味と存在を自明的としていること
  2.世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること
  3.世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却

 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。

 §4 超越論的主観性

 §5 ノエマ/ノエシス

 §6 後期(発生的現象学)

 §7 生活世界

 §8 キネステーゼ(運動感覚)
 ~~~~~~~~~~~



 ☆ 本質とは ことばの意味のことだという場合には それほど難解ではなく またほかの哲学との違いもあまりないように見受けられます。
 よって もう少し質問を開いていようと思います。あしからずご了承ください。

お礼日時:2011/09/26 23:57

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よろしくお願いします。

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簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)あるカメは水棲である。
単称的:「この」SはPである。
(例)このネコは水の中に入るのを好む。

「質のカテゴリー」
肯定的:SはPで「ある」
(例)信号は青である。
否定的:SはPで「ない」
(例)信号は赤ではない。
無限的:Sは「非Pである」
(例):青信号は赤ではないほうの信号である。

「関係のカテゴリー」
定言的:SはP「である」
(例)本日は晴天である。
仮言的:「Xならば」、SはPである
(例)日が照っていれば、本日は晴天である。
選言的:Sは「PかQかのいずれかである」
(例)降水量ゼロというのは晴れているか曇っているかのどちらかだ。

「様相のカテゴリー」
蓋然的:SはP「であろう」
(例)明日の天気は晴れでしょう。
実然的:SはP「である」
(例)現在の気象状態は晴れである。
確然的:Sは「必ずPでなければならない」
(例)晴天は降水量が1ミリ未満でなければならない。

人間はまず外部からの刺激をまず感覚器官で受けとります。それは「空間と時間の形式」(ものの大きさや形状、前かあとか、など)にあてはめて受けとられるのですが、それだけでは認識にはいたりません。そこから直観として得られた対象を、悟性が上記の形式において判断する、それによって認識が成立する、とカントは考えたわけです。

簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
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