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最近武田信玄について他の武将と比較して私利私欲に走った武将とテレビなどで言われている気がするのですが、なぜそのようなイメージにつながったのでしょうか?
信玄の有名な言葉に人は石垣、人は城がありますが、その人民の為に城を築かず、洪水を防ぐために堤防を築いたり、甲州法度次第を制定するなど人民に尽力したのになぜネガティブなイメージがつくようになったのでしょうか?

A 回答 (7件)

忠義に厚い家来どもがたくさんいたから、石垣や城なんかなくても大丈夫ー


とは違いますよね。
正反対のことですよ。
だいたい、下克上に信用、信頼なんか
まずないでしょう。
目標値。
江戸時代の主従関係ではなく
盟主盟友の関係で成りたっていたでしょう。
大企業の系列の中小企業の共同体。
確かに離れては生きていけない が
ゆうこときくのは3回に1回にするかどうか
みんな考えている。
儲けさしてくれる人がいい人。より確かかどうかですよ。

信玄が、やっとこ国衆の信頼を勝ち取ったのは
設楽が原で家康に糞を出させた頃
死ぬちょっと前。苦労したことでしょう。

どの大名もおんなじ。みんなそれなりに 超苦労。
一揆がないように、するのは国力を維持し
飢餓の時代ともいわれる戦国時代で、
(日本農業史に2、3年毎に100年間起きたと記録にある)
ひとたび飢饉が起きた時に、他国のものを略奪する。生きに伸びるためだよね。

信濃へは謙信も、何度も侵入して豊作の黄金色を奪っています。
第何回だったか、川中島紛争戦ときがそうですね。
妻女山に布陣したでしょ。せっせっと刈りとって、帰還するときに
出会い頭の、大乱戦になりましたよね。啄木鳥なんかどうみても
ありません。馬2頭が並んで通れる道はそうそうありませんから
出会う確立は高い状況でしたでしょう。勘助もいたかどうか?

謙信は年末になると、関東に出張り、そこで越冬します。
なんせ助太刀ですので、少々乱暴(略奪)しても目をつぶらします。
兵のおなかは、現地(自国のものは減りません)。
直江の兜の「愛」は戦いの神を祭る愛染明王の愛
義なんてものを だれも信用しないでしょう。
テレビだけのもの


要するに米の取り合い(笑)

甲州の衆は地力が強いようで、利害で団結さえすれば強兵の集団
であったようです。

親父の信虎は、儲け話(他国侵略)を持ちかけては
虎の皮の胸算用が多かったようで、信用を失くして
国外追放になりましたね。

北条氏康も失政で、信用を失くして息子の氏正に家督を
譲らなくてはならなくなりました。

信長の尾張や美濃は、米の大生産地で義元は
それがほしくかつたわけですが、その争奪作戦の第二セクション 西三河の桶狭間という所
で、まさか信長が出張ってきているとはおもわず、
沓掛城への撤収中に挟み撃ちで終わってしまいました。
後世ということばが適正かどうか
この西三河では、信長の締め付けがきつくて、今川は押されぎみ
3万も4万も兵を連れてこれるはずもないし、京へ行く途中で奇襲を受けて(笑) ありえない。
いってみれば西三河の味方の救出作戦(大高城も鳴海城も身動きできなかった)
なんとか味方に兵糧を渡して、帰る途中のことですよ。
巷とは正反対でしょ。

信長は700~800人の親衛隊で国内の統一戦を勝ち抜いていますよね
もちろん、数あわせで合力させる地侍や国衆も寄せ集めますが
基本的には、季節や事情に関係なく いつでも戦えるこの小姓集団の
スピード性が大きい、一人に3、4人の供が付きますから2000から3000
の塊を組織できたことが、他の大名より苦労はすくない。


( なぜネガティブなイメージがつくようになったのでしょうか? )

後世といっても、戦記物や テレビの影響。
実像の本当のところは、わからない。

武田に組織された騎馬衆団(隊という言葉もありません)があったか?
テレビではアラブ、やサラブの馬で 颯爽と駆け抜けて
いきますが、その頃の馬は、スピ-ドがまったくでません。
(山岳に適した後ろ足)一瞬なら35kmぐらいはいけるらしですが
走るなら10kmまででしょう。替え馬がないと、すぐ死ぬでしょう。
それに、高価。

戦う時は、後ろに下げて 敵が逃げたら追いかけるときに乗り
こちらが逃げるときは、徒歩の鎧武者よりは まだ早い。

馬ひとつみても、だいたいこうですから
テレビは大きい。
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>なぜそのようなイメージにつながったのでしょうか?



それは謙信と比較すればそうです。
そして、武田家滅亡と言う結果は家康と対比されます。

つまり、
武田家滅亡は勝頼のせいだけでは無く、信玄にも多々あったと推測されてしまいます。


小笠原長時と村上義清が保護を求めたのですから結論的には
謙信は求心力が高かったと言う結論に到達します。

また、天皇への献上金も多く、
天皇家は毛利の石見銀山からの上納金と謙信の献上金がなければ滅んでいたかもしれません。


武田信玄は若年時の村上義清との敗北いらい生涯無敗で快進撃です。
結果的には川中島も信玄の手中に墜ちていますから、戦略的には勝利しています。

信玄は死ぬまで戦に明け暮れ、領地拡張に努めました。
最後の戦は信長包囲網なのですが、利害が一致したと言われてばそれまでです。


しかし、信玄は自分の寿命は分かっていたはずです。
また、勝手に離脱した朝倉義景に強い叱責状を送り付けるなど、常識を持った人間でした。

自然を守りながら堤防を施した信玄堤も建設省の馬鹿に良く見せてあげたいものです。
木で山を守り、水害を守る方法もいくらでもあるのです。
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ネガティブなイメージは全て後世に捏造されたものです。

特に上杉謙信を美化している人が武田信玄を私利私欲に走った武将と貶めているのです。上杉謙信には武田信玄に比肩できる行政的な事績が何も無いからです。見事に何にも無い。上杉謙信には戦しかありません。しかし武田信玄は武将である前に優秀な政治家でもあったのです。そこを突かれると痛い上杉謙信信者が武田信玄を私利私欲に走った武将と言いふらしているわけです。

甲斐国は、盆地ばかりで大きな平野がありません。おまけに火山灰で痩せた土地で米があまり採れない。だから甲斐国は多角化経営する必要があったのです。甲州八珍果と呼ばれる葡萄、桃、梨、柿、栗、林檎、石榴、銀杏、胡桃などが古い時代から栽培されました。ちなみに日本に古い時代からある果物は全部、漢字で表現することができます。しかし明治以降に海外から移入された果物は漢字が無くてカタカナだけです。例えば、バナナ、メロンなど。それは余談。しかし葡萄園があっても毎日葡萄ばかり食べているわけにはいきません。首都圏から高速道路で観光客が葡萄狩りに来てくれるわけでもない。甲斐国は水運にも海運にも恵まれていないので行商で売りに行くしかないわけです。つまり甲斐国が食べていくには広域経済圏がどうしても必要なのです。自給自足は成り立たない。そういう甲斐国が米どころ越後に対抗できる石高があったというのは大変なことです。信玄は単なる武将でなく殖産興業と富国強兵に努めた先進的感覚を持つ政治家だったのです。
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甲斐は貧しい国でした。

  水はあっても水利は悪く米は
少ししか採れませんでした。  南は強力な今川氏が居り
これとよみを結び、北の米の産地の信濃を侵略しました。
信濃の米を収奪したわけです。
これで強大な軍事力を持ちました。  常々雑穀が主食の
農民たちは米の飯が食えると喜んで、徴兵に応じました。
信濃の農民も同じでしょうが、信玄の配下にされた、小
領主たちにして見れば信玄は侵略者との意識は強く、
今でも引きずっているでしょう。
北関東や飛騨にも侵略の手を広げ、今川義元が討ち死
したのち、三国同盟を一方的に破棄し、長男を殺してまで
してその旧領にも進出しました。
その時松平(徳川)家康と遠江を二分割する協定を結び
ましたが、松平(徳川)家康の遅い行動に乗じて、協定
違反の広い地域を占領し既得権としました。 
筋目を通さず欲しいものはなんとしてでも手に入れる男と
いわれました。

しかし信玄にとってはやむを得ないことでした。
「中原に鹿を得る」京に登り足利将軍を助け、天下平定し
号令するには地の利悪く年を考え急がねばならず、無理
をしたのです。

といっても天下を狙った他の諸大名に比べて、特にひどい
ことをしたとも思えません。

しかし江戸時代信玄の人柄の評価は低いものでした。
ものの本によると儒教の江戸時代は親を敬う心あつく、
父信虎を追放したことが大きく非難されたそうです。
徳川の家臣たちにすれば、先述の遠江侵入、三方原の戦
といい、恨みが残っていたことでしょう。

朝廷に対しても、金山(佐渡相川では無い他の)を持ち、
金銀を献上した上杉謙信や、港の収益で銭を献上した
織田信秀と異なり、良い金山をもちながら、信玄は献上
したことがありません。  けちといわれても、望みを遂げる
ための国力涵養が第一と考えたのです。

江戸衆人と違い、家康は信玄を高く評価しました。
信玄の定めの多くを家康江戸開府で参考にしました。
統治について先生とあおいだのです。
江戸時代2世紀半は信玄のお蔭かも知れません。

筋目を通しかっこいい、上杉謙信と比較されては可哀そう
です。
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他大名と比べて突出して私欲のある人物ではないと思いますよ。



ただ以前まで過大に評価されてたのは間違いないでしょうね。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E4%BB%A3% …

簡単にいえば、1988年以降 大河ドラマの主人公になっていないから。
平均視聴率が39.2%
つまり、日本人の10人に4人が毎週「英雄としての武田信玄」を見るわけです。イメージが良くなるのはあたりませ。
その後主役になっていないので、過剰の好イメージが薄れたというそれだけです。

ご指摘の信玄の業績は、戦国武将という地方に密着した領主であれば基本的には誰でもやっているようなものです。
資料等で見ると、北条家のほうが民政としては進んでいたとも言われています。
ただ、北条家は大河ドラマで主役になったことがないので、好イメージは一般化されていません。
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 好敵手たる上杉謙信が私利私欲が無い義の人というイメージですから・・・。


 (謙信の外征の多くが、自分に助けを求めてきた者の旧領を回復する為だった等。)

 北条氏康の評価だと

   「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。」

 と信玄は、いざとなったら自分の利益の為に約束を破る者だと見てますし…。

 ちなみに私利私欲ないと言う謙信さんですが、ちゃんと蓄財はしてまして、彼が死んだ時点では2万7140両もの財を春日山城に溜め込んでました。
 (まあ、それが可能なくらい国を豊かにしたとも言えるのですが…。)
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