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D.ヒュームとカントの美学論について、質問です。
どっちもいまいちよくわかってないうえ、ヒュームは本が手元にないので、日本語がおかしかったらごめんなさい。

まず二人の議論に対する自分の理解を書きます。
ヒュームの美学論においては(@「趣味の標準について」)、美は感情に属するものだとされています。
そして、美とは事物に属するのではなく、観察者の頭の中で形作られる主観的なものということになります。(美の懐疑論?って感じがします)
しかしこのままだと美は相対的なものになってしまうと(私は)思います。

ヒュームの懐疑論を土台にして、カントは議論を展開しました。
美学においては、ヒュームの議論における美の相対性を克服するために、主観的普遍妥当性という考えを持ち出します。
そしてカントは趣味判断は悟性には基づかないが普遍性を持つ、と言いました。(@「判断力批判」)

質問は
(1)このヒュームとカントの美学論の理解は妥当ですか?
(2)ヒュームの美学論が持つ、相対主義の可能性を克服するような議論はありますか?あるとしたらどのような考え方でしょうか?
(3)ヒュームは道徳論の方で、感情は他者と共感することによって普遍的妥当性を持つと言っていたと思うのですが、これを美学の方に適用して、共感によって美は普遍性を持つという捉え方をヒュームはしていたのでしょうか?
(4)もし(3)がYESならば、共感されない美のセンス(感情)を持つ人は、はみ出し者ということになってしまいますよね?ということはやっぱりヒュームの美学論は相対主義の枠から抜け出すことはできないのでしょうか?

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A 回答 (5件)

(承前)



「私」という〈形式〉が同じだから、趣味やものに対する判断も同じだろう、全員が「私」と同じ判断力を有しているにちがいない、と(これが共通感覚)。

> 2. カントの議論は、趣味判断は快不快に依るものであるから主観的なものである、しかし美に関する趣味判断においては(主観的個人的なものである快不快に対する)判断を、誰もが共通してアプリオリに与えられている共通感覚に照らし合わせることで、それが他の人にとっても当て嵌まる(美である)ことを確認できる

と考えてしまうんです。

でも、>よって美の判断は主観的であるが普遍的な妥当性をもつ

わけではない、とも。これはつぎのこととも関連してきます。

> 3. 第22節の最後の方でカントは、趣味はa.「根源的な自然的能力」なのか、そ
> れとも趣味はb.「人為的能力の単なる理念」にすぎず、趣味判断は普遍的な同意
> を要求するが実は理性の要求に過ぎないのか、という疑問を立てています。そし
> て第41・42節を読むと、なんとなくですがカントはbだと考えているように思わ
> れます。

そういうことです。ここらへんはもうかなり話があっちやこっちや行って頭が痛いのですが、美に「一定の概念」が伴うかどうか、ということの結論は、つぎの第二篇、57に至ってようやく出てきます。美に関して、趣味判断は「一定の概念」に基づくのか。
そうではない、「一定」ではないけれど、「不定の概念」に基づくのだ、客観的に認識もされないし、証明もできないけれど、「自然の主観的合目性」に基づく、と。
結局、美の普遍性というのは、主観的なものなのだ、ということです(まとめすぎか)。

> 共通感覚と、悟性、理性との関係性がいまいちつかめません。第5節を読むと、
> 美に関する趣味判断は、理性とは別の枠組み(?)に属しているように思われる
> のですが…。

人間の感性、悟性、理性というのは、上述した「私」という〈形式〉のことです。
そうして、共通感覚というのは、美的判断を表明する側が参照するものであって、認知に関する普遍的な価値はありません。

認識一般において、わたしたちがあるものを認識しようとするとき、その外見は感性をとおしてもたらされ、悟性によって分類していき、理性(カントにおける理性というのは、推論の能力です)のはたらきによって外見の背後にあるものを見つけ出そうとします。

けれどもたとえば音楽を聴くとき、拍数を数えたりコードの進行を見極めたりすることなく、外見の背後にあるものを、直接とらえてしまいます。ほぼ感性のみのときもあるし、悟性のはたらきが必要な場合もあるけれど、わたしたちは音楽の側から働きかけられ、直接、美を知覚すると同時に理解することができます。

だから「自由に働く構想力が悟性を喚びさまし、こうして悟性が概念を用いずに構想力と規則に適った遊びを始める」(第40節)ということになる。

> 美に関する趣味判断は、理性とは別の枠組み(?)に属しているように思われる
> のですが…。

というのは、そういうことです。

何かもう長くて、自分で読み返すのもいやになってきたんですが、まあだいたいそんなところで。

文学とか美学とかからカントに入る人は、わたしもそうだったんですが、たいてい『判断力批判』から入るしかなくて、出てくるおびただしい用語に涙を流すことになります。私の場合は結局どうにもわからなくて、『純粋理性批判』の講読ゼミに入ったりしてずっぽりはまったんですが、どこまでやるかはその人の判断です(環境にもよるしね)。でも、カントをしっかり勉強しておくと、たいていの本を読んでいく基礎体力はつくので、筋トレでもするつもりで、しっかり食いついていってください。
あと、ヒュームはおもしろいよね。わたしは最初やったころ、助けを求めると、余計、泥沼にはまるという議論の進め方にうんざりしていたのですが、最近になってやっとおもしろさがわかるようになってきた。
時間はかかるし、不良債権への道を進むことになるかもしれませんが(笑)、かならず新しい世界が開けていきます。だからがんばって。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答をいただきまして、本当にありがとうございました。
追加の質問にも答えていただくという余計な手数をお掛けしたこともあって、ghostbusterさんの回答をベストアンサーに選ばせていただきました。

このような哲学の本はなかなか一人で読んで理解するのが難しくて、ガイドしていただけて助かります。
自分の興味とは違うから…と美学は避けていましたが、ちょっとずつでも理解を深めたいです。
純粋理性批判の方も敬遠していましたが、やはり基礎体力をつけるために、読んでみようと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/30 22:51

申し訳ないです。

気になってはいたのだけれど、どうにも忙しくて、まとまった時間を取ることができませんでした。最後まで行けるかどうかわかんないんですけど、ともかく、どんどん行きましょう。

ヒュームの考え方の根本にあるのが〈わたしたちが直接手に入れることができるのは、わたしたち自身の経験だけである〉という考え方です。あたりまえのことのようにも思えるのですが、ことは見かけほど簡単ではありません。これはのちのカントにも通じていく非常に大切な考え方なんです。

ヒュームから半世紀ばかりさかのぼってみましょう。
ジョン・ロックはある物体の色や音、においや味といった性質は、その物体を知覚する主体なくしては成立できない、と考えます。こうした人間による経験と無関係に成立し得ない性質を「第二性質」と呼びます。そうして、主体に知覚されるか否かにかかわらず、物体そのものに備わっている性質(固体か液体か、とか、時間や空間の中での動きや、体積や重量や成分構成など)の「第一性質」と区別しました。

けれども、ロックに50年ほど遅れて登場するバークリは、この「第一性質」(大きさや位置や形状)というのも、直接与えられているのではなく、わたしたちの判断の結果作りだされているものであり、その判断が素早いから、「直接見ている」というふうに思えるだけではないか、として、第一性質、第二性質という区別そのものを否定し、〈存在とは知覚されるということである〉という有名なテーゼを引き出します。

そうしてヒュームです。こうしたイギリス経験論の流れにあるヒュームにとって、「美」が〈対象そのもの〉が持つ性質ではないことはいうまでもありません。当然〈美〉という「何ものか」がどこかにある、と考えていたはずがない。

>ヒュームは「美そのもの」についてはどう考えていたのでしょうか?

「美そのもの」というのは、「真の美」ということもできるかと思いますが前回引用した『道徳、政治、文学に関するエッセイ』のI.XXIII.8の続きにはこのような文章があります。

To seek the real beauty, or real deformity, is as fruitless an enquiry, as to pretend to ascertain the real sweet or real bitter. According to the disposition of the organs, the same object may be both sweet and bitter; and the proverb has justly determined it to be fruitless to dispute concerning tastes.

「真の美、あるいは醜を追求することは、真の甘さや真の苦さを確かめられると主張するのと同様、無益な試みである。器官の傾向に従えば、同一の対象は甘くも苦くもある。そうしてことわざが正確に規定しているように、味覚に関する議論は無益なのである」

これが質問者さんの問いに対する答えとなるでしょう。

> 彼の議論は人がどうして美を感じるかについてだけであって、事物が美そのもの(もしくは人に美の印象を与える力)を有しているか否かについては触れていないように思われます。

17を見てください。

Though it be certain, that beauty and deformity, more than sweet and bitter, are not qualities in objects, but belong entirely to the sentiment, internal or external; it must be allowed, that there are certain qualities in objects, which are fitted by nature to produce those particular feelings.

「美や醜は…まったく感情に属している」けれども「対象の中に、そのような特別な感情を生み出すのに適したある種の性質を認めなくてはならない」と言っています。

つまり、美という感情を喚起するある種の性質は、わずかではあるけれども〈もの〉の側に備わっている、というのです。つまり、主観ばかりではなく、美しいと評価されるものには一定の要素がある、と。そうして、ある種の人はその要素を知覚できる。まるで料理を口に含んだとたん、使われている素材や調味料をすべてわかってしまうような海原雄山(ってわかるかなあ)のように。

Where the organs are so fine, as to allow nothing to escape them; and at the same time so exact as to perceive every ingredient in the composition: This we call delicacy of taste, whether we employ these terms in the literal or metaphorical sense.

「どんなものも見逃さないほど繊細で、同時に構造の中のあらゆる要素を知覚できるほど精密である場合、わたしたちはそれを繊細な味覚と呼ぶ。これは文字通りの味覚であるときもあれば、比喩的な意味でのこともあるが。」

海原雄山のように delicacy of taste のもちぬしが「これは!」と感じたものは、より感覚の鈍い副部長にも「うまい!」と感じさせる。つまり、それを知覚するわたしたちに「美しい」と思わせるものには、主観的ではなく、客観的な特徴もある、と考えたのです。だから

> 「人が勝手に事物に美を感じているだけで、美そのものは存在しない。美とは思いこみの産物である」

ということではない。

さて、ここでもう一度

> 彼の議論は人がどうして美を感じるかについてだけ

という問いに戻ります。
ヒューム自身はそのことに答えていません。「どうして美の感情を喚起させるものを見ても、それを感じない人がいるのか」ということは15節にはこう書かれています。

One obvious cause, why many feel not the proper sentiment of beauty, is the want of that delicacy of imagination, which is requisite to convey a sensibility of those finer emotions. This delicacy every one pretends to: Every one talks of it; and would reduce every kind of taste or sentiment to its standard.

このように、その原因を「想像力の繊細さ」に求めているのだけれど、逆に言うとその delicacy of imagination のどういう働きが、〈美〉の感情を起こさせるのか、についてはふれていないのです。

どうしてか。ヒュームはその主著“A Treatise of Human Nature”の中で、こんなことを言っています。
http://www.wutsamada.com/alma/modern/humepid.htm

"Pain and pleasure, grief and joy, passions and sensations succeed each other, and never all exist at the same time. It cannot therefore be from any of these impressions, or from any other, that the idea of self is derived; and consequently there is no such idea."

これはどういうことかというと、わたしたちに知ることができるのは、苦痛であるとか喜びであるとかといった経験の内容だけであって、経験の〈形式〉(つまり経験をもつ〈自我〉)は存在しない、と言っているわけです。つまり、ヒュームにとって「美しい」という感動の〈内容〉をわたしたちは知ることができるけれど、それを起こさせる〈self〉という〈形式〉については考えることができない、と。

〈内容〉と〈形式〉、これはカントに通じていく重要な点です。

もう一度、素朴な疑問から。
わたしたちはある音楽を聴いて、これはいいなあ、と思ったら「Arcade Fireっていいよね」と人に言ったりします。どうしてそんなことをするのか。

それは、大きく言ってしまえば、人間はすべて「私」という仕組みを持っていることを知っているからです。誰もが「私」である。だからこそ人に向かって話ができるのであり、何かを書いたり、歌を歌ったり、音楽を聴いたりすることもできるのです。「私」の向こうにも「私」がいることをわたしたちは知っている。それは個々に違う「私」の〈内容〉を知っているのではなく、「私」という〈形式〉が同じであることを知っているからです。

(つぎにつづく)
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>美は感情に属するものだとされています。


> そして、美とは事物に属するのではなく、観察者の頭の中で形作られる主観的なものということになります。
> しかしこのままだと美は相対的なものになってしまう

これは
"Essays, Moral, Political, and Literary"(http://www.econlib.org/library/LFBooks/Hume/hmMP …)
の中の

I.XXIII.8
Beauty is no quality in things themselves: It exists merely in the mind which contemplates them; and each mind perceives a different beauty. One person may even perceive deformity, where another is sensible of beauty; and every individual ought to acquiesce in his own sentiment, without pretending to regulate those of others.

この箇所を指しておられるのですね。
基本的に上記の理解で大丈夫です。
ただ、この考え方は、ヒュームの独創によるものではなく、「イデアとしての単独で超越的な美」というプラトンの美の概念から、中世、近世を経て、17世紀末から18世紀には、美はもはや客観的存在でも、「対象に内在する性質」でもなく、また客観的存在でもなく、美の基盤は私たち人間の感情や情緒、精神の反応のうちに見られるものだ、という考え方の延長上にあります。

一例をあげると18世紀前半のFrancis Hutchesonの"The origin of our ideas of beauty, order, harmony, design"には、"‘the sense of beauty’ to name our power of receiving this idea."(1-9)という記述が見られており(http://www.earlymoderntexts.com/pdfbits/hbeau1.pdf)、ヒュームの考え方はこうした主観的アプローチの極端な形態であるといえます。

こう考えていくと、ヒューム以降の人びとに残された課題は、

> 美の相対性を克服する

というよりも、ヒュームが明らかにし得なかった「人間がどうしてあるものを美しいと感じるのか、どうしてある人が美しいと感じるものに対して、別の人は何も感じないのか、美の感受性はいったいどのようにして獲得されるか」という問いに答えを出すことだった。そうして、それを引き継いだのがカントであると考えた方が良いように思います。

『判断力批判』の第31節から第38節あたりを読み直してみてほしいのですが、第32節にはこのような文章があります。

「趣味判断は、その対象を主観の適意に関して(美として)規定する、そしてその場合に、あたかも客観的判断であるかのように、すべての人の同意を要求するのである」(第32節)

ここでカントが問題にするのは、何かを美しいと感受する情緒的判断が、各個人の主観的な感情にかかわるにすぎないものであるにもかかわらず、どうして〈普遍的妥当性〉を要求できるのか、ということです。

ざっくり言ってしまうと、その答えは結局〈構想力〉と〈悟性〉との調和ということになります。

> そしてカントは趣味判断は悟性には基づかないが普遍性を持つ、と言いました。(@「判断力批判」)

これは正確ではありません。ここらへんはかなりやっかいなところなんですが。

ある対象の形式が、これを表彰するわたしたちの主観のうちに〈快〉の感情を生じさせるとき、この対象は〈美〉と呼ばれます。さらにこの〈快〉によって対象を判定する能力が〈趣味判断〉です。

この〈趣味判断〉が基づくのは、さきほども言ったように、〈快〉という主観的な感情です。けれども、にもかかわらずそれが普遍妥当性を主張しうるのは、この〈快〉の感情が誰の心にも生得的に備わっている〈共通感覚〉に基づく、と考えたのです。

あるものを前にして、なぜ人のうちに〈快〉の感情が起こってくるか。そのためにはいったいどんな条件が必要なのか。

「自由に働く構想力が悟性を喚びさまし、こうして悟性が概念を用いずに構想力と規則に適った遊びを始める」(第40節)

ここでいう〈構想力〉とは、多様な感覚所与を一つの表象へと統合し、一つの像を形成する働きです。
認識判断の場合、「これは花だ、合弁花で薄ピンクでバラ科に分類され、通常サクラと呼ばれる」というように、得られた表象に対応する概念を悟性が規定していきます。
けれども、「ああ、きれいだなあ」とサクラを見て、なんともいえないうれしい気持ちになってくる、それをカントは「悟性と構想力の自由な遊び」と呼ぶのです。

それゆえ、美的な〈快〉というのは、わたしたち誰もにア・プリオリに与えられている能力の調和に基づいているのですから、〈趣味判断〉は、それが〈美〉と判定する対象を「すべての人に例外なく同意を要求する」(第19節)ことができるのです。

カントは、対象がわたしたちの内側によびおこす主観の状態としての〈快〉の感情として問題をたてていき、結局は対象の〈美〉そのものを問題とはしていきませんでした。そうして、そのことはシラー以降の人びとに受け継がれていきます。

> (2)ヒュームの美学論が持つ、相対主義の可能性を克服するような議論はありますか?あるとしたらどのような考え方でしょうか?

ヘーゲルです。ヘーゲルはふたたび〈客観的かつ明確な美の存在〉という概念を導入しようとします。

> (3)これを美学の方に適用して、共感によって美は普遍性を持つという捉え方をヒュームはしていたのでしょうか?
> 共感されない美のセンス(感情)を持つ人は、はみ出し者ということになってしまいますよね。

上記"Essays..."の引用箇所では、「他人の情緒を規制するようなことはせず、自分自身のそれを黙認しなければならない」と言っているわけですから、この「はみ出し者」というのは少しちがうのではないでしょうか。

あれやこれや書きましたが、参考になるところがあれば幸いです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。申し訳ありません。
ご回答、ありがとうございます。

不勉強で、ハチソンが美に関してエッセイを書いていたことを知りませんでした。この辺りの時代(のイギリス)は、倫理学も美学も人の内面から生まれる「感情」との関連で議論されていたのですね。

申し訳ないのですが、いくつか質問を重ねさせてください。
ヒュームの理論は、人がどのように美を事物に見出すかについてを語っていて、その仕組みは人間の感情に依る。なので同じものを見ても人によって美を感じたり感じなかったりする事実に関して説明をしていない、と思うのですが

1. ヒュームは「美そのもの」についてはどう考えていたのでしょうか?彼の議論は人がどうして美を感じるかについてだけであって、事物が美そのもの(もしくは人に美の印象を与える力)を有しているか否かについては触れていないように思われます。
これは「人が勝手に事物に美を感じているだけで、美そのものは存在しない。美とは思いこみの産物である」という受け取り方もできますが…。

2. カントの議論は、趣味判断は快不快に依るものであるから主観的なものである、しかし美に関する趣味判断においては(主観的個人的なものである快不快に対する)判断を、誰もが共通してアプリオリに与えられている共通感覚に照らし合わせることで、それが他の人にとっても当て嵌まる(美である)ことを確認できる、よって美の判断は主観的であるが普遍的な妥当性をもつ、という筋で良いでしょうか?

3. 第22節の最後の方でカントは、趣味はa.「根源的な自然的能力」なのか、それとも趣味はb.「人為的能力の単なる理念」にすぎず、趣味判断は普遍的な同意を要求するが実は理性の要求に過ぎないのか、という疑問を立てています。そして第41・42節を読むと、なんとなくですがカントはbだと考えているように思われます。
共通感覚と、悟性、理性との関係性がいまいちつかめません。第5節を読むと、美に関する趣味判断は、理性とは別の枠組み(?)に属しているように思われるのですが…。

お礼日時:2011/10/24 20:28

西洋文化の影響で、現代人は、美的、調和的、知的、論理的に脳を刺激する物が、美しい芸術と思われています。

これを論理思考芸術といいます。これに対して日本の伝統文化、和風文化は、情緒があるのが美しいと思われています。これを情緒思考文化といいます。情緒は、人の心を癒します。論理思考文化は、脳を刺激するので、心がストレスになります。茶道、和食、和室、着物、雅楽、能、文楽、日舞、落語、浮世絵、和歌、俳句、浄瑠璃節、浪花節、長唄、小唄、、源氏物語、演歌、歌舞伎などの、伝統文化、伝統芸能、和風文化は、日本を、日本人を救う、救世主です。現代の日本は、社会生活が、過剰に、脳を刺激するストレス社会です。だから今、日本人に必要なのは、脳を休めて心を癒す、情緒がある伝統文化です。現代演劇、現代美術、現代音楽、現代の娯楽は、自己表現、自己主張が過剰で、脳を刺激するものばかりで、気分が高まる、テンションが高まるものばかりです。だから心は、ストレスになります。現代人は、脳を刺激する薬物依存症と同じ状態です。リラックス出来ないです。逆に興奮します。現代は、脳を刺激するのが、芸術や娯楽だと思われています。これが、間違いです。これを、脳を刺激して、脳で感動して、脳で理解する論理思考文化といいます。昔の日本人は、生活に間や情緒を入れて、脳を休ませる工夫をしていました。娯楽や芸術も、脳の思考を無くして情緒を多くするため、様式化、ワンパターン化、非現実化して、間が多く情緒が溢れて、人の心を癒していました。これを、情緒に感動して癒され、心で理解する情緒思考文化といいます。情緒を多くするためには、脳の思考を休む必要があります。理由は、脳の自己表現と情緒は、対立していて反比例の関係だからです。日本の伝統文化だけが、情緒思考文化です。だから現代の芸術は、自己表現が強調された結果、論理思考芸術になっています。しかし芸術、文化、娯楽の本来の目的は、人の心を癒す事だと思います。情緒思考芸術が本当の文化です。情緒は、人の心を癒し、育て、社会を調和に導きます。日本人は、和風文化で情緒に目覚めましょう。脳の論理思考の時代は、終わりました。新しい時代は、情緒の時代です。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。申し訳ありません。
ご回答、ありがとうございます。

私はそれほど芸術には明るくないのですが、西洋的な美の捉え方は、日本の美の捉え方とは確かに雰囲気が異なるなと感じることがあります。
自分が日本人であるからか、情緒的な日本の美は、まさしく感じるもののように思われます。理論的に体系づけるのは難しそうですね。

お礼日時:2011/10/24 20:27

>(1)わたしのヒューム+カント美学論の理解は妥当ですか?


「ヒュームの美学は 相対的なもの ということになってしまうのでしょうか」と いう趣旨の 質問と 言い換えることができるようです。

ヒュームは、言語表現の限界に非常に敏感な人だったようです。 つまり言えないことは書き表さなかった ということです。

私が見ている赤と 質問者様が見ている赤というのが同じであるということは、ほぼ不可能です。

赤い もの と赤くない もの の識別は似たようなやり方で できては います でしょう。

しかし、色調のパラメータという観点から見てみると、質問者様のモニタ/私のモニタ 

さらに グラフィックカードの差異という点を挙げるまでもなく どういう赤の表現をしているのか

ハードウエアレベルで一致することは不可能です。

相対論ではありません。

我(i)や自身(myself)というものが ない ということが 彼の議論の骨子です。

自己さえ存在しないのであるから、相対論は存在しません。相対論であるようなイメージがあるということです。

>(2)ヒュームの美学論が持つ、相対主義の可能性を克服するような議論はありますか?
>あるとしたらどのような考え方でしょうか?

ヒューム自体は 議論していなかったと思いますが、共感というものが解決の糸口になるでしょう。

人性論の中の「神秘主義」項目の延長という感じでしか説明できないと思います。

人ではなく 人間 が存在するという立場です。 関係性こそが存在し、個と全体は存在しないという立場に 
その可能性があるといえるでしょう。


>(3)ヒュームは道徳論の方で、感情は他者と共感することによって普遍的妥当性を持つ
>と言っていたと思うのですが、これを美学の方に適用して、共感によって美は普遍性を持
>つという捉え方をヒュームはしていたのでしょうか?

普遍性が『ある』と 言及しないのが 彼です。共感は存在するのです。

「普遍性があると思う」

そういう 確信を伝えることはできると考えているのではないでしょうか。 


あるあるある という「評判」が 関係性としての感性的基礎になっているということしか言っていないと思います。

>(4)もし(3)がYESならば、共感されない美のセンス(感情)を持つ人は、
>はみ出し者ということになってしまいますよね?ということは
>やっぱりヒュームの美学論は相対主義の枠から抜け出すことはできないのでしょうか?

相対主義の基礎は 主観重視の立場です。 ヒュームはそういう意味で 厳密に「かれは 相対主義である」と 評価するためには、 その文化的文脈を前提として からでなくては 議論に組み入れることはできません。

俺は民主主義だ! と叫んでから 我儘放大+嘘八百を言う人 が 現代人であるとするなら、
ヒュームは謙虚な昔風の人=戦前派だったのでしょう。

俺はキリスト教である! と叫んでから 独善的な迷信を 宣伝し 友愛であると名づけるというように 虚言をなすの は たやすいことかもしれませんが、真実は どこかほかの ところに息づいているということです。

ヒューム的アプローチでは 
美学的には 得るものは少ないのかもしれません。 言葉と芸術的美は ほとんど関係のないものですから。 

愛と美とが どうこじつけようと互いに関係がないものであるのと同じです。「この二つの橋渡しをするのが感情である」と述べるのが
ヒューム的であるということは できますけど。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。申し訳ありません。
ご回答、ありがとうございます。

うーん、難しいですね…。ヒュームの道徳論はまだ理解できたのですが、美学の方に関してはお恥ずかしながら、未だに正直かなりぼんやりです。
ヒュームが美は相対的なものであると考えていなかった、というのが私の理解ですが、いまいちその辺りの理由付けに関しては理解が難しいです。

お礼日時:2011/10/24 20:27

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