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私は今キリスト教のことを勉強しているのですが、聖書に書いてあることって、なんとな~く、感覚的には分かるのですが、何が言いたいのか、何を伝えたいのか、何を意味しているのかよくわかりません(;_;) そこで、イザヤ書の53.1から5までを今読んだのですが、なんとな~く感じるものはあったのですが、やはりよくわかりません(;_;)どなたか解説してしていただける方がいたら、よろしくお願いします(;_;)

A 回答 (2件)

ただ一人も返事しないのは、貴方の質問が極めて聖経的な質問だからです。

                                                                                                           聖経について質問する人は何章何節を説明して下さいと求めるべきであり、答える人も何章何節と答え無ければなりません。これに反する者は全て偽り者です。「他のものは何故ユダの裏切りに気づかなかったのか?」への返事を読んで下さい。                                                                                                                                   罪を犯した人は地獄に行くのが神様の定めです。                                                                                                                       このような哀れな私達のために、旧約では子羊が罪人の身代わりになって、殺されました。新約ではイエスキリストが私達の罪の身代わりとして処刑されました。詳しくは「原罪」の質問を読んで下さい。                                                                                                                                         イザヤ53はイエスキリストが私達の罪の身代わりになって処刑される事を予言しています。そしてそれが実現されるのがヨハネ福音です。                                                                                                                                   53:1このような事を伝えても誰も信じないと予言しています。貴方は信じますか?                                                                                                 また主の腕が誰に表れたかと言われています。腕は力、能力の意味です。即ち、イエスキリストが自分の罪の身代わりになって処刑されたから自分が受けるべき罪は完璧に無くなったので自分は楽園に行けると信じる人がいるかの意味です。貴方は信じますか?                                                                                                                      53:2、3は主は乾いた地から出た植物のように貧しい生活をし、顔も不細工でした。                                                                                                       それによって人々に蔑視され、顔を背けられました。世の中で一番綺麗な姿で来る事が出来たけれども、世の中で一番貧弱な姿で来られ私みたいな不細工にも気を配ってくれたのに、みなが顔を背けました。                                                                                            53:4罪によって私達が受けるべき苦痛と悲しみの身代わりになっていらっしゃるのに、私たちは主が自らの罪の故に神様から刑罰を受けていると蔑視した。                                                                                                                      53:5しかい、主が受けた刑罰は実は私達が受けるべき刑罰だった。                                                                                                           53:6私たちは道に迷った羊のように各々自分の道を歩みながら罪を犯すけれども、それでも神様は私達みなの罪悪を主に担わせた。                                                                                                                                53章の予言は全てマタイ福音からヨハネ福音まで実現されます。                                                                                                              53章は聖経の基本の基本です。これを信じない人は神様の子供ではなく、世の中の支配者の子供です「ルカ4:5」。                                                                                                                                     53章を信じる人をキリスト人だと言います。                                                                                                                        自称キリスト人は多いけれども、真のキリスト人は極めて少ないです。これが彼らが貴方の質問に尻尾を隠し返事しなかった理由です。もし貴方がイザヤ53章1-6の説明を求めず、どうしたら救われますか?と質問したならば、大勢の人々が騒ぎ出し彼らの神の事を言ったはずであります。                                                                                                                                 旧約聖経はユダヤ人に、新約聖書はキリスト人に宛てられた神様の御言葉です。                                                                                                                                 キリスト人ではないと聖書を読んでもその意味を分かる事は出来ません。                                                                                                        だから、勉強しても無駄です。                                                                                                                                    キリスト人でも無いのに神学校に入学し、キリスト人でもない教授に教われ牧師になった人が大勢います。                                                                                            しかし、貴方が53章を信じキリスト人になれば、100年聖書を勉強した彼らよりも短時間の内に彼らより聖経について詳しく分かるようになります。                                                                                                                       貴方にそれを教える方は聖霊様だからです。                                                                                                                        貴方はイエスキリストが貴方の全ての罪を担い処刑され、三日後に復活された事を信じますか?
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こんにちは


新共同訳の聖書を教会において来てしまって、いのちのことば社の聖書を開けています。
ご指摘の部分は預言者イザヤによるメシヤが語られている部分です。

イザヤによるメシヤ像{イエスキリスト」の預言であるとされています。
私達。>これまでの預言者とイザヤを通して神のメッセージを聞いた人

若枝>メシヤの例えで、砂漠の地から出る根で今にも枯れてしまいそうな様子を云う
人々から捨てられるメシヤの描写。
メシヤの受難はキリストの十字架を指す。彼の受難によって、罪深い我々は、
神とのあるべき関係が修復される。
大まかに言いましたが、哲学のカテに牧師でいらっしゃるpastorさんが回答をつけておられるので
そちらでも質問されたらいかがでしょうか。

彼は多くの人の罪を負い背いた人のためにとりなしをする。
キリスト者が神との和解人との和解、和解の僕であると言われる根拠はイエスキリストの十字架と
復活にあると言われています。
イエスキリストを信ずる信仰によって義とされる。
あなたはもう招かれ導かれていらっしゃるのでしょう。
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