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江戸の長屋の家賃は格安だったそうですが、
江戸時代に家一軒を買うとなるとどれくらいのお金がかかったのでしょうか?
江戸の庶民的な家、地方の家などの値段が知りたいです。
よろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

「庶民的な家」ということで、「町屋普請」「家屋敷の値段」をキーワードで検索しました。



(1)洛中における「家屋敷」の売買例
16世紀末から17世紀末にかけて洛中で売買された家屋敷の事例163件を調べた論文があります。
売買に関する証文から、その家屋敷の場所、間口寸法、裏行寸法、値段、年月は分かりますが、建物の状態(傷み具合)については一切分かりません。
現代でいうところの「中古物件」ですから、とにかく安い物件を選びました。

年    間口寸法    裏行寸法   値段
1664年 2間      9間      代銀20枚(銀1枚=京目43匁)
1676年 2間3尺5寸  8間6尺2寸 銀20枚 (同上) 
1682年 3間      16間0尺7寸 代金10両(金1両=銀60匁)
1697年 2間4尺6寸  7間3尺3寸 金子20両(同上 1693年大坂相場)
注:単位の換算 1間=6尺5寸 (この注の意味は不明です。回答者)

「17世紀京都における家屋敷の値段」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006657362

(2)大坂・三津寺町(一般的な商業地)における「家屋敷」の売買例
文化9年(1812)から文政12年(1829)までの売買例20件から最安値。

1815年(文化12)  間口5間  代銀 7貫
安いと言っても大坂の商業地ですから、庶民にとっては、小商いを始めるのも大変だったでしょう。

「家屋敷売買に見る近世大坂 町の空間」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004133773

(3)天明大火(1788年)直後の京都における町屋普請(建て替え)の場合。
   
18例中、安い事例。間口2間3尺1寸5分、梁行5間で外に約2尺の縁あり。柱は松4寸角。主屋の建坪12.4坪(縁含まず)。付属屋を含む建坪16坪。屋根は瓦。工費(材木,大工手間,屋根,左官,建具など)銀1貫800匁。

「天明大火直後の京都における町屋普請 : 寛政 2, 3 年『注文帳』を中心に」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110003882956

抄録:天明8年(1788年)宮河町から発した火により,京都の市中はその大部分を焼失。その時期に大工近江屋吉兵衛の作成した「注文書」には,約20軒の町屋普請の実態,1)規模(間口,はり行,軒高,天井高などの各部の寸法),2)木寄(所要木材を部位別にその材質,寸法,数量,価格を列挙したもの),3)工費(材木,大工手間,屋根,左官,建具など費目別内訳)が記録され,大変貴重。

この資料(とても面白い)、によれば、
工費に大きな比重を占めるのは、材木費と大工手間で両者で60-70%、大工の手間は30%前後です。
見積り・積算に際して坪当たり工費(標準工費)という指標も用いられていたことが推測されています。
この『注文帳』による普請例では、2階屋に限ると坪当たり工費は、75-150匁/坪に分布しています。

3都以外の地方で、「庶民」が手に入れることができる程度の家を探したのですが、見つけることができませんでした。
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江戸の町方行政の末端で日常の事務を扱う、


五人組という地主、家主の組織があった。

家を売る時は名主と五人組の加判が必要で
その礼金を払う。

寛政ころの文京区の白山あたりの取り決めでは
家を五十両以上で売る場合は、名主へ一両二分
五人組へは一貫文ずつ、書き役へ同額など払う。
四十九両以下はその半分とのこと。

これから見て家(一戸建てと思われる)の売値は
五十~百両位が多かったと推定される。
広さが不明なのは残念だが、一両が20万円として
1000~2000万円となりまあまですか。
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>江戸の長屋の家賃は格安だったそうですが、



まぁ、長屋の立地場所とか状態・所有者によって一概には言えません。
八丁堀同心の場合、副業で拝領した100坪の土地に長屋を建てて家賃収入を得ていました。
この長屋(堀口六左衛門の場合)の家賃ですが、10部屋で月に2両でした。
一両が(米価を元にすれれば)約8万円ですから、家賃は月16000円となります。
大工の日当が、約1000円。(棟梁クラスで、日当3000円)
収入の半分が、家賃となりますよね。
「おう。寒いので、蕎麦でも食うか!」と屋台で蕎麦を食う。一杯16文ですから、約320円。
この場合は、庶民でも高額所得者でないと入居できない一種の高級長屋ですね。
今で言うと、六本木ヒルズでしようか?(笑)

>江戸時代に家一軒を買うとなるとどれくらいのお金がかかったのでしょうか?

弘化4年(1847)。拝領地面に長屋を建てた北町の同心高部安次郎。
俸禄は30俵2人扶持の年収では、生活できないので屋敷内に長屋を立てた。
土地は、幕府からの拝領ですから(所有権は無いが、使用権があり)土地代は無料。
残念ながら、建築費を踏み倒してしまった様です。
甚左衛門町の大工幸助が、南町奉行所「建築費60両と銀5匁を払え!」に訴えをだしてます。
町の大家が長屋を建てる場合は、この費用に「土地代」が必要です。
一戸建ての場合だと、最低100両程度だったようですね。
江戸では、庶民は「一戸建て」は望みません。時代劇でも、庶民は長屋ですよね。
ですから、大店の旦那の離れ(母屋は、店と同じ場所)だと100両以上となります。
地方の場合でも、同様でしよう。
大工・棟梁の日当と建築期間で、質問者さまが計算して下さい。
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家を買うと言うイメージはほとんど無かった様です


江戸で持ち家は大商人だけ
一般の人が家を買うことなど皆無でしょう、家を建てるものがほんのわずかいたかもしれません

家は建てるものです、買うというイメージはここ数十年のもの

現在のイメージは全く当てはまらないでしょう

家賃が安いと言っても長屋です 一戸分九尺二間・三坪、1畳半が土間、土間には水瓶と竈だけ

想像できますか

想像できそうなら、検索してください
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Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

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人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

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Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Qお米1合はご飯何グラムですか?

お米1合(150g)は炊きあがり後の「ご飯」になった時は大体何グラムでしょうか?
また、炊飯ジャーなどで、容量6L等とありますが、このリットルはどの状態の事を差すのでしょうか?(米?ご飯?、容積?)

Aベストアンサー

一合150gのたきあがりは約300gです。ちなみにお茶碗一杯150gおにぎり一個100gすし一貫20gカレー一人前300g弁当一個220gが標準です。

Q遊女はどれくらいの借金がありましたか(江戸時代)

遊女は少額で売られてきて、多額の借金を背負ったと聞いたことがあります。
実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?
借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。
また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1641)頃
太夫=1両
明暦年間(1655~1658)頃
太夫=60匁、格子=26匁、散茶=金1分、局=3匁
元禄年間(1688~1704)頃
太夫=37匁、格子=26匁、局=3~5匁
享保19年(1734)
太夫=74匁、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)
太夫=90匁、格子=60匁

時代により、現在の金銭の換算は変化をしますが、おおむね・・・。
1匁=約1500~2500円。
ただし、寛永18年の太夫=1両=約25万円。
その10%=2万5000円。
酒食のバックマージンがあったとしても、せいぜい、3万円位。
享保19年では、74匁=約19万円
10%=1万9000円。酒食のバックを入れても2万円少々。
太夫でさえそれ位ですから、太夫以下は押して知るべし。
とても、実家などへの「仕送り」などはできませんでした。
そして、15%を借金の返済に取られましたので、まあ、「苦海(苦界)10年」で、何とか、借金を返して、自由の身になれたのです。

>>2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。

3月には「お花見」などで、主に「上野のお山」へ行きました。
「妓楼」単位で「若衆」の見張り付きで行われましたので、途中で「逃げ出す」ことなどはできませんでした。
次のサイトで吉原の「年中行事」が出ています。ご参考までに・・・。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/nenjyuugyouji.htm
馴染みの客とのデート・・・これは、「厳禁」でした。
遊女が、もし、その男と姿をくらましたら、折角の商売道具を取られたようなものですから、これはできませんでした。
もし、妓楼から逃げ出したり、男がそれを手伝ったりした時は、男は殺されました。
また、遊女も「遣手(やりて)」によって、竹刀でさんざんに叩かれたり、一晩立ち木に縛られたり、時には、攻め殺しにあうこともありました。他の遊女への「見せしめ」があったからです。
奉行所も、よほどの「たれこみ」がない限り、出張ることはせず、またもし、出張ったとしても、多額の「わいろ」でもみ消されました。

>>病気になって小石川養生所へ移されるとか。

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

>>3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

これは、自分のものになりました。
しかし、吉原ができた頃は、主に裕福な「武士」を対象としていました。これには、幕府の考えとして、金持ちの大名や武士が居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と、言う理由から、大名や高級武士、豪商などに限られていました。つまり、散財をさせて貧乏にする、と言う政策でした。
庶民が自由に大門を出入りできるようになったのは、元禄年間(1688~1704)頃からでした。
ですから、当初は「太夫」と言う「超エリート」が大名などにもてはやされ、「書」「読」「囲碁」「将棋」などの素養を必要としました。
だが、庶民が出入りするようになってからは、一晩抱くには、余りにも窮屈で、宝暦年間(1751~1764)頃には「太夫」は消滅をし、そこそこの器量で、そこそこの話題についていける「花魁」に変わりました。
しかし、京都や大阪では「太夫」の名称は残りました。
それは、江戸と違い、京や大阪では、「踊り」などの「芸」に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。江戸の「太夫」ほどの教養は必要としなかった。
また、ご祝儀は「自分のもの」になったとはいえ、庶民にとっては、吉原で遊女を揚げるだけで精一杯でしたので、よほど、お大尽でもなければ、「チップ」はもらえませんでしたし、お大尽になれば、「花魁」や「格子」などの格の上位を指名しましたので、それ以下の遊女は、めったに「チップ」はもらえませんでした。
享保時代に実際に?あつた話として、大工が1カ月かけて、銭200文(約6000円)を貯めて、やっと、吉原へ繰り出した、という話もあります。まあ、せいぜい「次」などの下級の遊女でも買ったのでしょうね。

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1...続きを読む

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Qパワーポイントって何ですか?

会社での話題の中でパワーポイントって知らないといったらわらわれてしまいました。そんなに著名なソフトでしょうか?どんな特徴があるのでしょうか?今後ワードとエクセルだけではダメでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。仕事でパワーポイントを活用している一人です。
他の方の回答に便乗するようですが、パワーポイントのなんたるかはご理解いただけたと思います。
そこで、
>今後ワードとエクセルだけではダメでしょうか?
という点ですが、人前(大勢とは限らない)で資料などに基づいた説明を行う機会がなければ、別に覚える必要はないでしょう(パワーポイントがどんなものなのか、は覚えておいてくださいね)。
パワーポイントも単なるソフトウェアに過ぎませんので、限界はあります。
アニメーション機能などがあって、ポイントをわかりやすく強調することは得意ですが、詳細な内容を丁寧に説明していこうと思うと、ページ数ばかりが増えてかえって使いにくくなります。
私はプレゼンの時などにパワーポイント画面に他のソフトウェアへ等のリンクボタンをおき、適宜画面を切り替えながら話を進めています。

もし、仮にあなたが企画書を人前で説明する場合、WORDで作った文書をそのままプロジェクターなどで投影させ、WORDのズーム機能を用いて必要な箇所を拡大すればよいのですから、あらためてパワーポイントなどを使う必要がありません。

大切なのは、パワーポイントというソフトウェアがあることをご理解された上で、ご自分の仕事の中で「役立つか役立たないか」を判断されることです。

コンピュータやソフトウェアなんて、所詮道具に過ぎませんから、自分がやりたいことに関係ないものは無視していきましょう。

ただ、折角の機会ですから、現在どのようなソフトウェアが出ているかということについてWEB等で勉強されるのも良いかもしれません。

こんにちは。仕事でパワーポイントを活用している一人です。
他の方の回答に便乗するようですが、パワーポイントのなんたるかはご理解いただけたと思います。
そこで、
>今後ワードとエクセルだけではダメでしょうか?
という点ですが、人前(大勢とは限らない)で資料などに基づいた説明を行う機会がなければ、別に覚える必要はないでしょう(パワーポイントがどんなものなのか、は覚えておいてくださいね)。
パワーポイントも単なるソフトウェアに過ぎませんので、限界はあります。
アニメーション機能な...続きを読む

Q昭和の初任給と年収

昭和31~32年頃の中卒者の初任給と年収
昭和40年頃の、23~27歳くらいの年収
昭和46年頃の、30歳の年収

いろいろ検索して探しているのですが
なにぶんかなり限定したものなので解決しません。
今回初めて質問する初心者で至らない点はありますが、
どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

(昭和26年物価)はがき:5円、公務員初任給:6,500円、豆腐1丁:10円、入浴料:大人:12円

(昭和35年物価)白米10kg:870円、公務員初任給:12,900円、豆腐1丁:15円、日雇労賃:494円

(昭和40年物価)白米10kg:1,125円、公務員初任給:21,600円、日雇労賃:972円、週刊誌:50円

(昭和55年物価)白米10kg:3,235円、公務員初任給:101,600円、日雇労賃:6,550
円、週刊誌:200円

から推測しますと。

昭和31~32年頃の中卒者の初任給と年収 8千円、10万円くらい。

昭和40年頃の、23~27歳くらいの年収 40~70万円くらい。

昭和46年頃の、30歳の年収 70~100万円くらい。

根拠はありません。
 

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれ...続きを読む

Qお米1合でおにぎり何個?

例えばコンビニで売っている個包装くらいの大きさのおにぎりとして、お米1合で何個作る事が出来ますか?

Aベストアンサー

一合でお茶碗二杯くらいですので、二個くらいではないかと。

Q遊女と間夫の関係について

江戸~明治の吉原文化について調べています。

お客とは別に、「間夫」がいる遊女が多くいたそうで、お金がない間夫を座敷にあげる為に自腹を切っていた…と知りました。
そこで、ちょっとわからなかったのが、高級な花魁になると座敷呼ぶためにはいくつも儀式を通さねばならないとか、客の質をやり手が判断するとか、花魁自身が自由に動けない部分が多かったと思うのですが、そんな中でどうやって間夫と会えたのかな…?と思いました。気に入らない客を拒否することは可能ですが、逆に間夫を自分からすぐ部屋に招き入れることは出来たという事なんでしょうか。
それとも、こっそり人目を忍んで会っていたのか…。

詳しく記した資料がちょっと現在みつからなかったのです。もしご存知の方や、おすすめの資料がありましたら教えてください。

Aベストアンサー

実物がないので、うろおぼえなんですが、「江戸○○」という、小型の本に詳しく出ていたと、思います。
「間夫は、甲斐性」と、認められていたらしいです。
わずかの楽しみを与えれば、逃げたりしないし、仕事?もがんばるからということらしいです。
30歳くらいで、年季があけるらしいのですが、身請けされるつもりがなければ、前借金を精算したということで、この彼氏と結婚することになります。
愛しさで、度々身銭を切って呼べば、いっしょになれる日が先延ばしになるだけです。
外に出る日を夢みて、自重したのでは、ないでしょうか?
年季があけたら、結婚すると約束して、「早くいっしょになりたいから、お金は、払っていってね」と、自分だけが間夫と信じていた単なるお客もずいぶんいると思いますよ。
だから、起請文とかあるんでしょうね。
遊女に真剣な恋人の存在が認められていれば、勘違いするお客だって、いっぱい来るわけですから、こそこそする必要は、ないと思います。

Q甘やかされて育った子供と厳しく育てられた子供の性格は?

甘やかされて育った子供はわがままになると言われますが、本当のところどうなんでしょうかね?
逆に厳しく育てられた子供は、どうなるんでしょう。
単純にわがままの反対はがまんだとおもうので、がまんのできる子に育つと考えていいでしょうか?

みなさんの意見を聞かせてください。
よろしく御願いします。

Aベストアンサー

甘やかされて育つ。皆さんが書かれているように、叱られずに育つということですよね。
甘やかされた子はわがまま、厳しく育った子供は我慢が出来る、でも実際にはそれほど単純ではないんです。

まず、叱ると褒めるが表裏であると言う事をよく考えてみてください。
甘やかされて育つということは、実は叱られずに育つということになり、叱るがないから褒められるがない、つまり本当の意味で褒められた事がないと言えます。

よくあるパタンですが、甘やかされて育った人は、褒められていないので物事に対する達成感がなく(実際には分からない)、どこまでやっても『やり遂げた』という気持ちがあまり具体的にわいてこず、そのうちに『出来ていないんじゃないか』『不十分なんじゃないか』といった不安感に襲われ、やる前から諦めてしまう、さらに悪い状態なら欝になる。

厳しく育てられてきた場合は逆に、厳しい事を聞かなければならないというプレッシャーから、人の顔色を見て育つようになりがちです。求められている事をきちんとこなしているか、これで叱られないだろうか。
なので叱られる事がないようにするために褒められる事もなくなり、結果愛情を求めるようになってしまい傾向があります。

そう考えると、kiccaさんのおっしゃるとおり、やはり叱るべきところはきちんと叱り、その上で甘やかす部分も作ってあげ、そのメリハリをきちんとしてあげるというのが理想だといえますね。

叱る事によって社会のルールをきちんと理解させてあげ、褒める事によってその子のもつ才能を伸ばしてあげる。時には自分の行いを子供の前で反省する事もあってもいいですし、あえて子供を褒めるように料理のお手伝いを頼んでみたり(きれいに切れたね、上手に盛り付けられたね、など)。

それによって、自分自身の『気付き』も生まれてくるものですよ。

子供を育てるのではなく、子供の人生を育てる事が本当の意味での『育児』なんですよ。
自分の経験を見直して、『反面教師』として受け取った事に対しては『私は○○をされて嫌だったから子供にはしない』と考えて、楽しく人生を送る事が出来るように導いてあげてくださいね。

甘やかされて育つ。皆さんが書かれているように、叱られずに育つということですよね。
甘やかされた子はわがまま、厳しく育った子供は我慢が出来る、でも実際にはそれほど単純ではないんです。

まず、叱ると褒めるが表裏であると言う事をよく考えてみてください。
甘やかされて育つということは、実は叱られずに育つということになり、叱るがないから褒められるがない、つまり本当の意味で褒められた事がないと言えます。

よくあるパタンですが、甘やかされて育った人は、褒められていないので物事に対す...続きを読む


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