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 (1) わび・さびとは何か? これを知ることもさることながら どうしてそれらが 美として起こるようになったか? これが知りたい。

 (2) ことばとそれを使う生活態度に着目して考えたい。

 (3) まづ辞典の定義を見てみる。語義の歴史的な推移に沿って何となくその美意識への変化をたどる様子が分かるようにも思われる。

 ○ さび【荒び・寂び】 ~~~~
  ・原義:生気・活気が衰え 元の力や姿が傷つき いたみ 失われるの意。

   1. 荒れる。荒涼たるさまになる。殺風景になる。
     ・ささなみの国つみ神の心(うら)サビて荒れたる都
     見れば悲しも(万葉集33)
   2. ふるくなる。ふるびてゆく。
   3. 心が荒涼となる。心にさびしく思う。
   4.【錆び】 金属などが錆びる。
   5.色などがあせる。
   6. 古びて趣がある。
   7. 修練を重ねて 俗気がなく清らかな精神になる。
   8.〔歌論用語〕 物さびれた境地である。

 ○ わび【侘び・詫び】 ~~~~~
  ・原義:失意・失望・困惑の情を態度・動作にあらわす意。

   1. 気落ちした様子を外に示す。落胆した様子を見せる。
     ・吾無しと なワビ わが背子 ほととぎす鳴かむ五月は
    玉を貫かさね(万葉集3997)
      (私がいないからとて侘びしく思われるな わが友よ。
    ほととぎすが来鳴く五月には 花橘を玉として緒に通して
    ください。――中西進訳)
   2. 困りきった気持ちを示す。
   3. 淋しく心細い様子をする。たよりながる。
   4. つらがって嘆く。
   5. 不如意な生活をする。貧しく暮らす。
   6. 世俗を遠ざかって淋しく貧しい暮らしに安んずる。閑寂を楽しむ。
   7. 困惑のさまを示して 赦しを乞う。あやまる。
   8.(動詞連用形について)・・・する気力を失う。・・・する力が抜ける。

   (以上 大野晋:古語辞典 1990補訂版)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (4) さらに焦点としてここで知りたいことは  ワビの語義の《6. 世俗を遠ざかって淋しく貧しい暮らしに安んずる。閑寂を楽しむ》や サビの語義の《6. 古びて趣がある。 / 7. 修練を重ねて 俗気がなく清らかな精神になる。》というとき それは 誰がそのように考えたのか?
 つまり《心がさびしく荒涼となり /  不如意な生活を重ねたのち 世俗を遠ざかって貧しく暮らし やがて閑寂をたのしむようになる》というその人びとは なぜ そうしたのか? なぜそうなったのか? である。

 (5) 《生気や活気が失われ 気落ちする》なら それは 一般的に見られるような生活の状態や情況が 剥げ落ちて行くことを意味すると思われるが だとしたら それは言わば《生活現象についてうわべのものごとを削ぎ落とし 言ってみれば本質を見ようとする》という意味で 現象学的還元であり エポケーであると考えられる。
 誰が この思索をこころみたのか? どのようにそのワビ・サビの思想(白紙に還元されたような生活態度)を編み出したのか?

 (6) どこの誰だれだと言って特定しないとしても それは社会人として出発したあと どのような事情や経過をたどって そういう境遇になったのか? 質問者の関心は そのような人は 社会からエポケーされた・つまり除け者とされてしまったのではないか? というところにある。

 (7) そしてこう問います。現代においても ワビ・サビの達人は 人知れず わんさといるのではないか? 人間社会は それでよいのか? 哲学は これに どう答えるか? わび・さびは 今でも うつくしいか?

A 回答 (37件中1~10件)

お久しぶりです。


お元気でなによりと存じます。

つい最近ですが、京都市内や洛北を巡ってきました。
いつも感じるのは京都はきれいだという事です。
観光都市なので当たり前なのですが
私のような田舎者には、きれいすぎて馴染みずらいといった感じすらあります。
日本的な洗練された美の凝縮の連続に、やや息苦しささえあるような気がします・・・

本題についてですが
わび・さびは、豪華絢爛な美しさの裏側を飾るものではないでしょうか。
裏側を飾るにふさわしい美です。
きれいわび、きれいさび、といわれる純化された美しさには
豪華さに一歩もひけをとらない対照的な美の世界の演出といったものが感じられます。

豪華さという片面貼りの美しさだけでは、日本人の感性を満たすことができなかったのかもしれません。
しかし、それらが本来のわび・さび、というものなのかについては疑問があります。
裏千家の露地を覗いてきましたが
「樫の葉のもみじぬからに散り積もる奥山寺の道のさみしさ」
といった風情の演出ではあっても、その寂寥感からはほど遠い、きれいすぎるものに感じられます。
おおよそですが、一般大衆に受け入れられる表現での、わび・さびの美が形造られてきた面があるのではないでしょうか。
日本人の感性に合致した、無常の美の演出なのでしょう。
そうした美しさへのこだわりが今も京都には残されていると思います。

本来のわび・さびとは
無常の中の未完成の美しさとか、無常に晒されたことの重味とか
滅びゆくものの美しさ、とか、壊れて欠けたものの美しさ、とかいったものではないでしょうか。
きれいわび、きれいさび、とは、そこから抽出された一部の美しさのような気がします。
日本人の心の中に無常感がある限り、わび・さびの美の世界もあり続けるように思います。
また、人それぞれに無常感を味わう境涯と共に、わび・さびの浅深もあるように思います。
無常の中の存在感が、わび・さびなのでしょう。
きれいに言えば・・・
無常の中の煌めき、無常と滅びざるもの・・・
そんな感じです。
それではお元気で、失礼します。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まづ最初の反応として ふたつあります。
 《きれいわび、きれいさび》や利休のうたについて検索をしていたら あなたの質問に出会いました。

  【Q:未完成の価値と無常】

 今年の五月に質問をもうけておられます。
 これがひとつですが その中身に触れて思ったことが もうひとつです。

 趣旨説明にかなり明らかにしているかとも思いますが 美について問う質問であるにもかかわらず 焦点は そこにあるのではないと 気づいたことです。
 まるで変なことを言い始めていますが どうもわび・さびが到達した地点と言いますか そこにおける美のあり方といった内容を主題とはしていない。このことに いまさらですが 気づいたのでした。

 回答者の方にきわめて失礼な言い分を述べているのですが 茶道から俳諧から建築から家のたたずまいなどなど そのような広い意味での芸術やその作品について その美のあり方を語れという方面は ほとんど関心がなかったということになります。
 でもこのことは いちどこう述べるにとどめます。

 ★★ (上記ご質問の趣旨説明欄) ~~~
 完成されたものは壊れてゆくのみであるが、未完成なるものには壊れるという事がない。
 故に、未完成とは無常の中においての一種の完成である。
 また、完成とは無常の中においての一種の未完成である。
 もし、未完成なるものの価値が、完成なるものの価値をも凌ぐものであったとしたならば、それは全てが無常である事によって与えられたものなのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そしてそう言えば この趣旨を読んだことがあると思い出しました。つまりは言いかえると そのとき読んで わたし自身の関心が うすいと言うよりは どこかその段階が違うなといった事情を覚えたということもあったわけです。段階というのは その作品としての美について批評するという言わば最終段階と そしてそのような美と認められるまでの創出されつつある前段階とであり わたしの関心は 後者にある。こういうことでした。

     *

 すでに未完成としても美なるものとして完成させた対象についてでしたら――つまり頑張ってこの点についても触れ得るところがあるとしたならですが―― わたしも京都は よく行きましたし その風情はなじめます。きれいわび・きれいさびでも それはそれとして たのしめるかも知れません。

 でも そうですね。大和 奈良ですね。三輪・纏向・山の辺の道 あるいは 飛鳥あたり。いまでは観光観光していますが それでも昔の面影をしのべば けっきょくほとんど何もないところに 古代の人びとの生活があったということは かなりワビ・サビに触れ得た気分になります。
 たぶん 文字通り 京都と奈良とは 時代の違いを写しているように思われます。

 ★ ~~~~
 日本人の感性に合致した、無常の美の演出なのでしょう。
 そうした美しさへのこだわりが今も京都には残されていると思います。
 ~~~~~~ 
 ☆ こういった演出すらない姿を 多少は想像することが出来るように感じます 大和は。

     *

 さて わび・さびについては 《無常感》から捉えるということのようですね。
 ★ ~~~~
 本来のわび・さびとは
 無常の中の未完成の美しさとか、無常に晒されたことの重味とか
 滅びゆくものの美しさ、とか、壊れて欠けたものの美しさ、とかいったものではないでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ おそらく 質問者の思い入れ(趣旨説明における推測)を交えれば わび・さびの境地に到った人間も 当然のごとく無常感に大いにかかわっていることでしょう。

 しかもそれにもかかわらず どこか違う感覚も わたしには芽生えました。正直に述べますが
 ★ ~~~~
 無常の中の存在感が、わび・さびなのでしょう。
 きれいに言えば・・・
 無常の中の煌めき、無常と滅びざるもの・・・
 そんな感じです。
 ~~~~~~~
 ☆ この見方は 先の《最終段階における美》を対象として言っておられる。その《前段階として わび・さびの境地に到る人間の具体的な過程》 この視点から行けば どこか動きが感じられないというような・やはり完成された美のことをおっしゃっている。未完成のものでさえ 最終段階にすでにおかれているといった感じを持ちました。よって動きがない。と。

 おそらくこの無常を感じざるを得ない状態に 生活世界の中でどういうわけか 追いやられ しかもその状態からも もはや社会生命を断たれるようにまで追い払われてしまったという人間の存在。
 悪いことをおこなったというよりも たぶん人びととの折り合いがわるかったのだろうと思われます。総じて言って そういう事情から 社会の周縁に追い払われた。いっそのこと出家するという場合もあると思われるようにです。
 このような人間が やがてそのどん底に見たもの これが わび・さびとして結実する心の境地でもある美の感覚だったのではないか?
 こんなことを漠然と思っていたというのが 実際です。
 これを明らかにしたい。という問い求めです。

 
 ★ 日本人の心の中に無常感がある限り、わび・さびの美の世界もあり続けるように思います。
 ☆ これは すでに一度完成した状態に達したわけだと思われますので そこからの展開になろうかとは思います。
 別の見方をすれば 社会からその周縁に追いやられるといった現象がなくなれば どうなるか? といった疑いも出るかも知れません。いや そのときにこそ かえってますますワビ・サビの境地は共感も同感をも呼び込んで あたらしい美の創造が生まれるかも知れない。こうも考えられます。

 つまりは
 ★ また、人それぞれに無常感を味わう境涯と共に、わび・さびの浅深もあるように思います。
 ☆ というときの無常感は 社会における人びととのきづなに不安を感じるゆえのものではなく 人間という限られた時間を生きる生き物であることにより感じるものだと思われるからです。そこにおける美の表現なら 言わばあたたかい無常感であるかも知れない。いづれにしましても あたらしいワビ・サビの境地の自己表現になるかと考えられます。
 触発されて こんなことを考えました。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/07 01:22

わび・さびを美しいと思える心があることが先なのではないでしょうか。

一種の余裕というように思います。たとえば万事おかねの時代にお金がなくとも生きていけるというのは相当の能力ですが、さらにそれを楽しむというのはなかなかできません。周囲からは負け惜しみといわれるでしょうし、排除されてしまうでしょう。
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この回答へのお礼

 かいたら1さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。短いので復唱もせずに いきなり 尋ね返しますが:

 ★ わび・さびを美しいと思える心があることが先なのではないでしょうか。
 ☆ これは たぶんワビ・サビがすでにその完成度をあらわした段階で言えることではないでしょうか?

 すなわちワビやサビという言葉を はじめから美意識の意味には使っていなかったのですから。

 ○ わび【侘び・詫び】 ~~~~~
  ・原義:失意・失望・困惑の情を態度・動作にあらわす意。

   1. 気落ちした様子を外に示す。落胆した様子を見せる。

 ○ さび【荒び・寂び】 ~~~~~
  ・原義:生気・活気が衰え 元の力や姿が傷つき いたみ 失われるの意。

   1. 荒れる。荒涼たるさまになる。殺風景になる。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~

 このような意味で使っていたときに 《わび・さびを美しいと思える心があることが先なのではないでしょうか》とは言えないでしょう。
 《誰ともつながりがなくなり 独り落ち込んでいるそのさま》に・もしくはそのときその心象と響きあうような風景に 美を感じるというのは 一足飛びにそうなったとは思えません。

 こころの中でみづからを見つめ直し その侘びしく寂しい状態の最中(さなか)からも あなたがおっしゃるように なお
 ★ 一種の余裕
 ☆ としての力が泉のごとく湧いて来た。こういった体験をもとに――つまりは その湧いて来た力を受け留めてみたら まわりの景色も きわめてうつくしい と感じ直すようになったという体験をもとにして―― やがてワビ・サビの美という感性および或る種の仕方で思想(生活態度)が 芽生えこれを培って来た。こういう順序による歴史があったのではないでしょうか?



 そうして今度は このようなワビ・サビをうつくしいと思う余裕を持つときその人は ではどうして
 ★ 周囲からは負け惜しみといわれるでしょうし、排除されてしまうでしょう。
 ☆ という事態になってしまうのか?
 こういう問題が 派生して来ましょう。現にそこここで起きていましょう。
 果てさて これをどうしましょう? という問いでもあります。

お礼日時:2011/11/07 07:49

美というのは、生命感情が高揚するときに


発生するのではないでようか。

燃えるように高揚するときには、豪華絢爛たる美
が発生します。

しかし、人間の生命は有限です。将来必ず死
にます。

そういう人間の虚しさ、寂しさ、死を感じるときにも
生命感情が高揚する場合がある。

ワビとかサビの美というのは、そういう類の
美ではないかと思っています。
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この回答へのお礼

 へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ そういう〔* その人生の有限さを持つところの〕人間の虚しさ、寂しさ、死を感じるときにも / 生命感情が高揚する場合がある。
 ☆ No.1のへたのすけさんのご回答にある《無常感》 これにかかわるというご見解と受け取りました。

 あるいはまた No.2のかいたら1さんのご見解とのやり取りの中で 《孤独の極致 寂寥をきわめたところで ふと我れに還り われと周囲を見つめなおすそのとき 侘びにも寂びにも うつくしいと感じるものが
あった》というように捉えたそのことを おそらく
 ★ 美というのは、生命感情が高揚するときに / 発生するのではないでしょうか。
 ☆ とおっしゃったのだと捉えました。《泉のごとく湧き出るわが生命の息吹き みづみづしいちから》のことだと考えます。

 つまりおそらく へきゆさんがまとめた形で表現なさった内容というのは――質問者の捉えたところでは―― そこに言わば《どんでん返し》がある。こういうことではないかと思いました。
 だって 《孤独の極致》から言わばこの現実に生還するのは 並大抵なことではないと推し測られます。ですから 美の前に・美に先立って 何らかの人間のちからが それまで押さえに押さえられていたものが 押し返して来た こういう事件が心の内に起こった。のではないでしょうか?



 ちなみに例の《三夕の歌》について見てみようと思います。寂寥感の中からその底を突き抜けて来るような泉のごときちからが湧いて来ているといったふうに感じられましょうか?

 ▼ (三夕の歌 または 秋の夕暮れ) ~~~~

 ( A ) さびしさは その色としも なかりけり
      槙立つ山の 秋の夕暮  
              (寂蓮『新古今和歌集』秋上・361)

 ( B ) こころなき 身にもあはれは しられけり
      鴫立つ沢の 秋の夕暮
              (西行 同上・362)

 ( C ) 見渡せば 花ももみぢも なかりけり
      浦の苫屋の 秋の夕暮
              (藤原定家 同上・363)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしは いづれにも内面のうごきがあると感じますが なかでも( B )が 内面のうごきに底からの突き上げのような――ただし 静かなですが――ちからを感じさせるように思います。つまりこれは 感想程度の雑談ですが いかがでしょう?

お礼日時:2011/11/07 08:18

質問に答えているかどうかは分りませんけど・・千部は書けないので一部だけ書きます。



辞書というのは必ずしも、真の意味を捉えては居ません。ワビサビはその典型で、要するに使用例や状況から後付された定義です。

私はワビサビの基本は利休にあると考えています。
つまり殺風景の中の一輪の花に凝縮された華やかさを意味します。彼らの時代には多くが僧門に入った為に仏教=ワビサビと考えがちですが、殆どの仏閣は建立当初はきらびやかなものでした。
これもまた殺風景な社会の中に輝く極楽浄土を現したものなのです。時を経るに従って金箔は落ち、色を失って今のような状況になり、それをまた「サビ」と呼んで尊んだことから仏教=サビサビとなってきたということです。(もっと要因はあるようですけど)

真のワビサビは利休の如く、華やかな中の黒一点、或いは闇の中の一灯という対比にあります。これはつまり緊張と緩和、新に対する古、複雑に対する単純、社会に対する孤立という事にもなります。

ワビサビが美しいかどうかではなく調和なんです。
昔の一般庶民の色の少ない時代だからこそ、寺社の華やかさが調和を持ちましたが、現代のように色鮮やかな社会では調和を取れません。逆に歴史を感じさせるとかモノトーンが調和を取れるのです。本来はその調和の妙を「美しい」と表現すべき所ですが、現在では古ければ、地味であればなんでも「美しい」と表現しているに過ぎません。要するにうまいものを何でも甘いと表現したり、逆に甘いものをうまいとしか表現できない現代人の表現力の乏しさでもあるか。

隠遁生活もそれ自体がワビでもサビでもありません。また阻害されているわけでもありません。
それらの感情は全て、乱雑で色が溢れている現代社会、或いはそれを是としている者が起こす感情に過ぎないのです。
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この回答へのお礼

 みかえるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 これまでまだ三つのご回答を受けただけですが ひととおり質問者じしんの姿勢と言いますか意図と言いますかの中身は はっきりして来ましたので――つまりそのことはそれぞれのお礼欄にてお応えして来ていますので―― すでにいきなり 尋ね返す仕儀になりますが よろしくお受け取りくださればさいわいです。

 次の一点に絞られるのではないでしょうか?
 ★ 辞書というのは必ずしも、真の意味を捉えては居ません。ワビサビはその典型で、要するに使用例や状況から後付された定義です。
 ☆ この見方じたいに反対ではありませんが――つまり明らかに《後付け》に過ぎないということですが―― いまの問い求めにかんしては 辞書における語義の変遷をたしかめておくことは 意義がある。こう反論せねばならないと考えます。

 すなわち 
 ★ 使用例
 ☆ は 全部が把握され 時代別にきちんと整理されていると受け取ってよいはずです。(用例は文献のすべてにわたって把握されているというまでに 研究はすすんでいます)。わづかに問題は のこるとすれば その使用例の――文脈を含めての――解釈例の妥当性いかんにあるとは これも言わなければならない。言いかえると 解釈例という言い方をしたように ほかにも解釈例はありうると考えられるからです。
 ですが 時代を追って整理された語義の変遷から判断して その妥当性が大きく外れるとは このいまの場合 思えません。
 そのことについて みかえるさんからは 説明がありません。

 そして それにかかわってもう一点としては やはり――ほかのご回答に対するお応えでも触れていますが―― ワビ・サビがすでにその美意識としての完成度を作り上げたそのあとの段階に立って 議論を展開しておられる。こういうことになっていないでしょうか?

 すなわち兎にも角にも ワビやサビという言葉は はじめから美意識の意味に使っているということはなかったのですから。

 ○ わび【侘び・詫び】 ~~~~~
  ・原義:失意・失望・困惑の情を態度・動作にあらわす意。

   1. 気落ちした様子を外に示す。落胆した様子を見せる。

 ○ さび【荒び・寂び】 ~~~~~
  ・原義:生気・活気が衰え 元の力や姿が傷つき いたみ 失われるの意。

   1. 荒れる。荒涼たるさまになる。殺風景になる。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~

 もしたとえば
 ★ ワビサビが美しいかどうかではなく調和なんです。
 ☆ という見方なのでしたら 上にかかげた――おそらく妥当性のある――原義が 社会生活の全体や人間の心のあり方の全体にとって どのように位置づけられた結果 うつくしいという語義をもあたえられ その全体としての調和に一役買ったのか? その事情や経過をいまは知りたい。こういう問い求めです。

 ★ 逆に歴史を感じさせるとかモノトーンが調和を取れるのです。
 ☆ もしこうであれば この《歴史を感じさせる》なり《モノトーン》なりのことを どうしてワビやサビという言葉で表わしたか? これです。
 ワビ・サビは 上記の辞典の編纂者である大野晋の研究結果によれば 《気力が抜けたり 気落ちしたりする》という人の側の心の情景のほうから意義が出て来ています。初源の意味がたとえそうでなかったとしても たしかにワビシイ・サビシイという心の風景を表わす用法に成っています。
 この言葉が どのようにして《調和》を表わすようになったか? が知りたいのです。


 ★ 真のワビサビは利休の如く、華やかな中の黒一点、或いは闇の中の一灯という対比にあります。これはつまり緊張と緩和、新に対する古、複雑に対する単純、社会に対する孤立という事にもなります。
 ☆ この見方も 総じては ワビサビがすでに美意識として完成を見たあとの視点に立っていると考えます。
 ただし その中でわづかに一点
 ★ 社会に対する孤立
 ☆ という切り口が指し示されました。これは 質問者の推測においては 美意識の完成に到る以前のその自己形成の過程において かかわっていた事情なのではないか? と思う見方です。

 かんたんに言えば 世の中から除け者にされた――そういう意味で社会からエポケーされた――その結果のその人の人生過程が見出した美〔のひとつのかたち〕なのではないか? こういう問いです。

 
 西行は 漂泊の人です。自分から自分をエポケーしてしまったのかも分かりませんが 社会から或る種の仕方で離れ そのような身分と位置にあって 侘びと寂びにおいて美を――というより その美の感覚に先立っては おのれの心象風景においてわが身の中から湧き出る泉のごとき力を感受して 周りの環境にもそれが呼応してそこにも美を――感じた。
 こういう仮説をも漠然と持ってはいました。

 そのつてでもっと分かりやすいかたちで言うとすれば おそらく芭蕉も 漂泊の人であって 言わゆる世の中のシガラミからみづからをエポケーして生きる道を思った。旅の人として 実際にもその道をえらんだ。
 ただし 芭蕉は 連歌という場(人びととの――うたなる思想の表明における――つながりのかたち)を前提にしていたとは言え 俳諧はけっきょくあまりにもエポケーのし過ぎであった。のではないか? 
 世界の本質を見ようとしつつ その本質の直観があまりにも あいまいである。と見ざるを得ない表現に終わってしまう。自己満足はあるだろうけれど そしてその十七文字を解説するなら これはまた解説や評論として別の文学ないし思想の表現になって話が別だとも思われるけれど 俳句という芸術形態では そのワビ・サビの良さも ただ混沌としているだけに終わる。
 こういう問題もありはしないか?


 ですから 茶道にしても庭園術にしてもあるいは俳諧にしても 完成されたあとのワビサビについてあれこれさらに議論している。といったうらみを 人びとは持つのではないか? あいまいであってよいのだ。あいまいであってこそ 美なのだ。という安易な見方が はびこっていませんか?

 繰り返しになりますが 確認しておきます。
 ★ 真のワビサビは利休の如く、華やかな中の黒一点、或いは闇の中の一灯という対比にあります。
 ☆ この定義は 明らかにすでに完成したあとの見方だと思われます。

 ★ これはつまり緊張と緩和、新に対する古、複雑に対する単純、社会に対する孤立という事にもなります。
 ★ ワビサビが美しいかどうかではなく調和なんです。
 ★ 歴史を感じさせるとかモノトーンが調和を取れるのです。本来はその調和の妙を「美しい」と表現すべき所です。
 ☆ 《調和》という説明は あたらしい見方に映りましたが まだその歴史的な推移が どうであったかについては分かりかねます。
 わづかに《社会に対する孤立》という切り口が なぜ侘びや寂びという言葉が この美意識を表わすようになったかの歴史をたどる糸口を提供してくれるかも分からない。と考えました。

 果たして どうでしょう?

お礼日時:2011/11/07 11:24

kaitara1ですが、経過のことではなく順序の意味でわびさびを美しいと感じることが先ではないかと思ったわけです。

普通人はあまり前提を意識しないでいろいろなことをやっています。前提が問われるというのは自分の存在の根拠も問われていることになり只事ではないわけです。
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この回答へのお礼

 かいたら1さん さらなるご説明をありがとうございます。

 そうですね。
 たぶん こういうことでしょうか? つまり
 ★ 普通人はあまり前提を意識しないでいろいろなことをやっています。
 ☆ というとき この《前提》が ではワビサビについては どうか? こういう問いから出発したご議論だったでしょうか?

 それなら
 ★ 〔* 歴史的にどのような事情と〕経過〔* をとおして芽生え発達してきたか〕のことではなく順序〔* つまりは どういう前提において美意識が生じるか〕の意味でわびさびを美しいと感じることが先ではないかと思ったわけです。
 ☆ すなわち たとえば(1) 絢爛豪華に対する或る種の反措定(アンチテーゼ)として 質素が注目されたからとか (2)人生や世の移り変わりについての無常感から生まれたとか そういう捉え方をするよりも まづは――人間存在の大前提としてのごとく――われわれ人間には いまワビサビと言っている美の感覚というものが もともとあったというその自然本性に注目すべきだと。つまりは ワビサビに美を感じる感性能力は 生まれつき備わっていたのだと。

 すなわち このように――存在論そのものから出発するかたちにおいて――
 ★ 前提が問われるというのは自分の存在の根拠も問われていることになり只事ではないわけです。
 ☆ と。
 おそらく これはこれで そのとおりだと考えます。後天的な性質ではなく 先天的な能力(資質)であると思われますから。

 ということでよろしいでしょうか?


 しかし あなたが提出された問いは ただちに答え得ないとしても いまいちど かかげておきたいと思います。
 ☆☆(回答No.2お礼欄) ~~~~~~
  そうして今度は このようなワビ・サビをうつくしいと思う余裕を持つときその人は ではどうして

 ★ 周囲からは負け惜しみといわれるでしょうし、排除されてしまうでしょう。
 ☆ という事態になってしまうのか?

 こういう問題が 派生して来ましょう。現にそこここで起きていましょう。
 果てさて これをどうしましょう? という問いでもあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 単純には 余裕を持つことへの《ねたみ》でしょうけれど その余裕が いま上で見て来たように 誰もが自然本性として備えている美の感覚であるはずなのに 人によっては発揮できないでいる。どうしたものか? という問いにもなると思います。
 おそらく現代人のこころの問題になっているのだと思いますから。
 ですよね?

お礼日時:2011/11/07 16:44

こんばんは、私はどこかで聞いたことですが、本来中世日本はビンボーが基本としてあって、その中でなんとか最大限に人生を楽しみたい、そういったさもしいあるいはなみだぐましい考え方が本来歪んだ失敗作の陶器とか、かけた茶碗とかを逆に負け惜しみで「これはいいぞ!」といいだしたのが時の権力者がまんまと騙されて権威づけしてしまったという、そんな面もあるのかと思ったりします。



仏像なんかも、本来ならさびたりくすんだりしたら、金を掛けてまた金箔を貼り直したりするはずなんですが、それができなかった。私はそういったくすんで黒くむらむらになった古い仏像を見るたびにちょっと落胆するのですが、それがいいんだ!というひとが主流のようです。よくわからないですね。東大寺の大仏も最初は豪勢にきんきらだったそうですし、今でもそうだったら、どんなにいいだろう、各地の神社仏閣も極彩色になっていたらもっともっと世界から観光客がたくさん来るのではないか。日本のそういったわびしい美意識は世界的にはひどく異様なものだと私は思っています。
戦国武将たちの派手で見事な甲冑、特に信長が愛したきらびやかな西洋の衣装やら美術品、江戸でかぶきものが異様な風体で街をのしあるいた、そんなわびさびとは180度違う美意識が本来のまっとうな美というものではないでしょうか。
きんきらはいずれ飽きる、そのあとにはお茶づけが最高になるというのでしょうがこじつけではないでしょうか。あるいは日本人の体力やら精力がきんきらをとことんまで追求しきれなかったのかもしれません。私は寂しい山端の苫屋というものがどうして美に通じるのか(おそろしく住まうには不愉快だと思いますし)、そのあたりをしっかり説明したものを知らないのですが、やはり私は勉強不足なのでしょう。
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この回答へのお礼

 こまあすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ご趣旨は 鮮明でわかりよいです。
 
 ○ 美を追求しこれを表わすには その芸術家は思うぞんぶんにみづからの力を発揮し その努力を惜しまないものである。その結果創作されたものが 美の主流である。

 ☆ キンキンキラキラがその同じく主流であるかどうか わたし自身の感覚では微妙であってにわかには判定しかねていますが それはともかく 美意識ないし美学には 保守本流があるはずだというご見解であるかと思います。

 じつは この質問は そのように正面から美について議論することとは 微妙にですが違っておりその微妙な違いによってじつは基本的に問いそのものが 異なったものになっています。
 これも舌足らずだったとすれば おわびしなければなりませんが 美とは何か? ではなく わび・さびが美しいと感じられるのは どうしてか? なのです。

 ということは こまあすさんのご見解では 《わび・さびは 本来(?) 美の対象ではない》となりましょうか?

 でも わびさびの美が取り上げられたというその経緯についても触れておられます。
 ★ ~~~~~
 私はどこかで聞いたことですが、本来中世日本はビンボーが基本としてあって、その中でなんとか最大限に人生を楽しみたい、そういったさもしいあるいはなみだぐましい考え方が本来歪んだ失敗作の陶器とか、かけた茶碗とかを逆に負け惜しみで「これはいいぞ!」といいだしたのが時の権力者がまんまと騙されて権威づけしてしまったという、そんな面もあるのかと思ったりします。
 ~~~~~~~ 
 ☆ そうですね。この史実についてわたしは明るくないので 割り引いて聞いてもらわねばなりませんが  たぶんこのときには 《失敗作のゆがんだ陶器》の場合と《欠けた茶碗》の場合とでは 事情が違うのではないかと考えました。
 《時の権力者がまんまと騙されて権威づけしてしまったという、そんな面もあるのかと思ったりします》といった事情については さもありなんとは思いますが 《欠けた茶碗》の場合は まづないのではないか? 単純にこう思いますが いかがでしょう?
 《失敗作》であっても そして《ゆがんだ》ものであっても そこに或る種のうつくしさを感じるというのは 大いにありうると考えます。《欠けたもの》に美を見るのは 屁理屈であるように思います。

 あまり大したことは言えていないわけですが そこで問題は ではどうしてこの脇道から出て来たような美意識が わび・さびという言葉で呼ばれるのか? つまりそのようなビンボー生活の開き直りから出発しさらに作品創作にあたって《負け惜しみ》から出たような美の感覚が わび・さびと名づけられたのか?

 わびしくさびしい生活から開き直ったのなら 侘びとも寂びとも名づけなかったのではないか?

 この疑問は 半分ほど いやいや そう名づけてもおかしくないという答えを持ちつつの疑問ではありますが つまりはその命名についても開き直ったという見方が考えられるわけです。ただしその見方も どうも そのまんま過ぎるようにも思われます。(これは 何とも分かりません。専門的な研究が知れればよいのですが)。



 ★ 私は寂しい山端の苫屋というものがどうして美に通じるのか(おそろしく住まうには不愉快だと思いますし)、そのあたりをしっかり説明したものを知らないのですが
 ☆ このあたり わびさびの起源にかかわっているようにも感じました。すなわちわたくしの勝手な解釈ですが こうです。

   わざわざ山の中に入って 苫屋に住まわなければならなかった人間が
  いた。その人間にとっては そこでの侘びしく寂しい心とまわりの風情
  といった情況から 或る日ふとわが心にうつくしさの感覚がよみがえっ
  た。これは 何だろう? ・・・

 ここらあたりから 出発しているのではあるまいか? どうでしょう?

お礼日時:2011/11/07 20:18

すみません。


NO・6 です。
大部なご返事頂き冷や汗を書いております。
ありがとうございました。
改めてご質問を読み返し、おっしゃるとおり回答にはなっていないことを確認いたしました。
申し訳ありません。それで

もうすこし書かせていただきます。

なんであれ、美というのはきわめて個人的な価値観ねんである場合が多々ありますし、先だっての小主張も成り立たないことはないわけです。ただこうやってわびさびが日本のひとつの美意識の代表格になって権威を持っている現在、ただのこじつけという論理は成り立たないことは承知しております。しかし、それが日本中世の貧乏と関係しているだろうことも私は真面目に考えております。また中世の仏教的無常観とも連携しているだろうことも定説として尊重したいと思います。
その方面から行けば、やはりわびさびの美は滅びゆくものの美、弱いものの美、ほのかに一瞬光って消え去るものの一発芸的芸術美と言えなくもないと思います。日本人はそういったいたいけない愛らしいものを昔から尊重したのでしょう。ゆがんだもの、偶然現れた窯変的美、そして冗談とお取りになられたかもしれませんが欠けた茶碗だって日本ではひとつの美となる可能性はあるわけです。現に、割れた昔の茶碗をうるしなどでつなぎ合わせたものが国宝になっている場合があるのではないでしょうか。これも冗談と取ってもらいたくないのですが、うちの近くの公立美術館でマネだかモネだか忘れましたが、たしかに真筆には違いないにせよその重要な部分が破損している半端絵画が大枚で購入されただけでなく、館内に堂々と飾られているのですから、その美もやはり崩れゆく美としてそこの館員には認定されているのでしょう。これが日本人の美意識なのです。これはわびさびとは無関係でしょうか?私だったら恥ずかしくて(資料的に保管するのは勝手ですが)とてもひと様にはみせられないものでしょう。閑話休題


こころなき 身にもあはれは しられけり
      鴫立つ沢の 秋の夕暮
              (西行 同上・362)
印象批評家の小林秀雄も褒めたことで有名ですが、私も好きな歌です。どんな朴念仁でもこの美しさに感動しないものはいないだろうなあ、という世捨て人の絶唱ですね。


 ( C ) 見渡せば 花ももみぢも なかりけり
      浦の苫屋の 秋の夕暮
まこれをみれば別に苫屋が特に美しいと言っているのでもないようです。秋の夕暮れでそんな崩れかけた陋屋すらも一瞬の美に浮き立ってみえることよ、その美の前には花ももみじも色あせて見えるんだなあ、という技能的な詠嘆でしょうか。
でも、こういった言語世界の美しさはわびともサビとも無関係に思えるのですがどうでしょうか。
              
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この回答へのお礼

 こまあすさん お早うございます。

 質問者として初めの思い入れとして述べた趣旨説明の内容は どうも浅はかであったようだと気づきました。それは こまあすさんの《本来の美観》という見方に接してのことです。
 言いかえますと――これは へたのすけさんや ほかの方々からも指摘されていたようなんですけれど―― どうも二種類の美のあり方を前提していたほうがよさそうだと考えました。

 華やかな美と枯れた美です。

 まづは 次の写真を見てください。
 ▼ 五色塚古墳
  http://www.geocities.co.jp/Berkeley/8776/gosiki. …

 西暦400年ごろの古墳で 出来るだけ当初の姿に復元したものです。つまり葺石を置き あとは埴輪を並べただけですが その幾何学模様だけとしても ひと言で言って《枯れた美》ではありません。古墳は一般にその後は草木の茂り放題であるわけですが 当初はまるきり違っていたと知られます。
 古代人も 言ってみれば華やかなほうの美を知っていたし 求めていた。
 もっともこれが 主流であったとしても 同時に枯れた美の感覚も 人びとにあったであろうとは考えます。潜在性としてでもあったであろうと。

 次の絵模様は どうでしょう?
 ▼ 装飾古墳 (6世紀を中心にして古墳時代のもの)
  (トップ) http://kyuhaku.jmc.or.jp/
  (文様一覧) http://kyuhaku.jmc.or.jp/index.php/1/-/-/-/-/-/- …

 《文様を復元する》をクリックすると 鮮やかな絵模様が浮かび上がります。

 こうだとすると こまあすさんに頭が上がりません。
 強いて負け惜しみ――ここから 枯れた美の系統が生まれたのでしょうか?――を言うとすれば やはり《華やかな美》のほうは 目立ちたがり屋にそのファンが多いのではないか? 実際に沿って言えば 社会の階段を登って行ったお二階さんたちの好むところではないのか? とはうたがいます。
 つまりは もっと悪口を言うなら 華やかな美は ひけらかしであると。権力や権威を示そうとする意図があるはずだと。古墳の被葬者は どう考えても 庶民ではなく お二階さんとしての豪族でしょう。
 もっともそのようにたとえヒケラカシであっても その威力があるとしたら 庶民の中にもその系統の美を好む者が やはり多かったとも考えねばなりません。
 よって 世の中には ふたつの系統の美が 同時に好まれているであろうと。

  *

 ただし 枯れた美の系統については 隠れていたとしても根強くあるということは さらにもっと示さねばならないかも知れません。
 主流ではないということ ひょっとしてその美のよさが分からないといううったえも少なくないかも知れないことから その美の中身を明らかにしておかねばなりません。(この質問は そろそろおしまいかと思っていましたのに とほほ 緒に就いたばかりとなってしまいました)。

 次のくだりを取り上げましょう。
 ★ ~~~~~

   こころなき 身にもあはれは しられけり
       鴫立つ沢の 秋の夕暮
               (西行 同上・362)

 印象批評家の小林秀雄も褒めたことで有名ですが、私も好きな歌です。どんな朴念仁でもこの美しさに感動しないものはいないだろうなあ、という世捨て人の絶唱ですね。
 ~~~~~~
 ☆ 好きな歌だとおっしゃっていますので それが
 ★ でも、こういった言語世界の美しさはわびともサビとも無関係に思えるのですがどうでしょうか。
 ☆ だとしても まづは 枯れた美の系譜があるということだけは 確認できました。
 おそらく問題は 
 ★ 世捨て人の絶唱ですね。
 ☆ この捉え方にあるでしょうね。《絶唱》でもなければ この際――世捨て人がうたったとしても そうでない人びとから好かれるからには――《世捨て人》の問題でもない。こう捉え直す必要がありはしないか?

 ○ 鴫が何羽か飛び立ってがさがさと音を立てているし それでもわが心はいつものように沈んでいるのだけれども そこから妙にみづみづしくてしかもあたたかいものが湧き上がって来る。これが 世界だ。これが 人間である。

 ☆ とその瞬間をうたったのではないか? 世の中で寄る辺なく気落ちしてしまった者にとっても つまり人びと一般にとっても その静かな力の湧き起こるうつくしさが 作者西行と同じようになって 感じ取れるのではあるまいか?
 《気落ちし 沈み込んでいる》状態は 侘び・寂びなのだと思われます。

    *

 もうひとつ行きます。
 ★ ~~~~~~~
  ( C ) 見渡せば 花ももみぢも なかりけり
          浦の苫屋の 秋の夕暮

 まこれをみれば別に苫屋が特に美しいと言っているのでもないようです。秋の夕暮れでそんな崩れかけた陋屋すらも一瞬の美に浮き立ってみえることよ、その美の前には花ももみじも色あせて見えるんだなあ、という技能的な詠嘆でしょうか。
 ~~~~~~~~
 ☆ 検索でいくつかの解釈を拾い読みしましたが
 ★ その美の前には花ももみじも色あせて見えるんだなあ、という技能的な詠嘆でしょうか。
 ☆ は あたらしい視点だと思いました。《花ももみぢも》の華やかな美の系統と 《浦の苫屋》の枯れた美の系統とが 照らし合わされていましょうか。たぶん こまあすさんは ご自身の好みをゆづってでも 後者に軍配を上げた。ただしそれは どうもまったく自然の振る舞いとも思えない。ゆえに《技能的な》と言わねばならなかったのかも知れません。

 おそらくこうなると いのちの息吹き これを――美の要素だと仮りにしますと これを――どちらに感じるか? ここが分かれ目なのでしょうか? 華やかな《花やもみぢ》のほうか 枯れた《苫屋》のほうか。

 ということは これら二つの種類が 同時に並び立つということではないか?

 一気に結論づけましたが どうでしょう?

     *

 ★ 欠けた茶碗 / 破損した絵画
 ☆ これらは 修復してそのあとに 元のものに備わっていた美を感じるということではないですか? 
 もしそのままでも美としての価値があるとすれば おそらくそれはすでに市場価値と言いますか 売り買いの対象として考えられていませんか? 自然の第一次の美とは別物になって――と言っても そこから二次的に派生してくるのでしょうけれど――いませんか?

 ★ しかし、それ(=わびさびの美)が日本中世の貧乏と関係しているだろうことも私は真面目に考えております。
 ☆ 実際に生活――世捨て人の生活――から生まれたとすれば 貧乏の問題であろうと思われます。そして 貧乏でない人にとっても 想像力の問題において 同じ主題であろうと考えられます。つまり 一般性があるであろうと。

 ★ また中世の仏教的無常観とも連携しているだろうことも定説として尊重したいと思います。
 ☆ なのですが――そうなのでしょうが―― ブディズムのおしえやつまりは無常感が先にあって わびさびに美を感じるようになったとは とうてい思われません。という但し書きは 必要だと見ます。湧き上がるみづみづしい息吹き これが どこからか 現われた。この事件が先だと見ます。ヒラメキですね。

 ★ その方面から行けば、やはりわびさびの美は滅びゆくものの美、弱いものの美、ほのかに一瞬光って消え去るものの一発芸的芸術美と言えなくもないと思います。
 ☆ と見られましょうが それが 起こりではない。こう見ます。《ほろびゆく・弱いもの》が見つけた美でしょうが やはり人間という存在にとって普遍的な心的現象をかたちづくるであろうと見ます。しかも たしかにその湧き起こる泉のごとき静かなちからは その《一瞬》のことに過ぎませんが 《ほのかに一瞬光って消え去るものの一発芸的芸術美》という捉え方とは どこか違うなと思います。
 その事件としての《瞬間》が消え去っても その赤き血の流れのごときあたたかな炎(または 燠(おき))は消えません。心の燈心に火がともされたなら この火の持続性は いちどそのワビサビの美を味わったところには 一生続きましょう。そしてそのことが 誰にとっても当てはまるという普遍性を持ちましょう。



 この日本人の見いだしたうつくしさは これが世界であり これが人間であるとなりませんか?
 つまり世界のどこに出しても ひけを取らない美学ではないでしょうか?

お礼日時:2011/11/08 11:17

こんばんは


わ美もさ美も自然なので美しいのだと思います。
自然なものはもっとも美しく具体がもつあらゆる側面が含まれ発揮されている。人を含め自然は古びほころび老いてゆくなら、そういう崩壊を美でないとみなしてしまうと、自らも生きて老いる人間としては自己否定になりますから、現実に時とともにゆっくりと生命力が減ることを受け入れれば静かな気持ちになります。

よく湿り雪もふり風の吹く日本の風土に適する自然の木々はゆがんでいますし、やなぎや松や年寄りの背や、そういうものは仲間なので、秋も冬も老いも夜もあるこのくにでむかしの人もいまも

虚勢としての虚飾は不自然で、みずからのイメージを実際のていどにまで去勢すると精神性における成熟へ向かうとか

神は完全であってひとは不完全だというつつしみから、たぶんどの神社の鳥居も石段もみなどこか欠けています

不完全な人間でしかないということと、老いて滅びてゆくものであるということとを受け入れると、まっさらなぴかぴかの玉などより、ゆっくり朽ちてゆく虫のしかばねなんかの方に親近感が湧き、美を感じるというか、仲間意識が湧くのだと思います。
はげた箸やせみのからや梅干しや三本あしのくもや痩せたからすなどに

この回答への補足

 余計です。

 キブツ志向が 純粋志向であり 無垢自然への片向きというところでしょう。

 まったくの自給自足の共同生活でなければ ほかの資本主義の世界と――特に経済生活としての――交通が避けられません。
 いわゆる NPO や慈善団体にしても すべて営利目的の企業や個人の経済活動と同じ空気を吸って生きています。自分たちが 営利目的ではないと言っても まったく同じことをおこなっていることになります。そう見ないとすれば それは おばけです。
 キブツも――詳しくは知りませんが―― 同じことでしょう。

 あのあほから賛同を得たからと言って 軽挙妄動に走らないようにというのが 質問者の考えです。
 余計でした。

補足日時:2011/11/08 16:02
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この回答へのお礼

 しーとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 総じて言って 自然ないし純粋自然のほうに片向きすぎてはいないでしょうか?

 まづかんたんなところから:
 ★ 神は完全であってひとは不完全だというつつしみから、たぶんどの神社の鳥居も石段もみなどこか欠けています
 ☆ これは初めからそのように作ったのでしょうか? そうでないとすれば 話が違うはずです。
 あるいは もし神が完全であるとすれば それに合わせてきちんとその佇まいとしての神域はつくるという考えもありえます。のではないでしょうか?

 質問者としてながらわたしが言いたいのは 人はその自然本性から――その本性を保ちつつも――逸れるという意志による選択も どういうわけか しでかしてしまいます。不完全と言えば そういうところでしょう。
 ですから
 ★ 自然なものはもっとも美しく具体がもつあらゆる側面が含まれ発揮されている。
 ☆ という命題には 生まれながらの自然本性としての存在(また行為能力)のあり方が含まれると同時に それだけではなく この自然の力を おのが意志によって発揮するという文化(思考)行為つまり非自然も含まれています。
 むろんこの思考と判断は 自然本性に対して決してへそを曲げないという道をつらぬくということも 理論的には ありえますが 実際にはそういう人間はいないでしょう。

 そうだとすると《自然》を どういう中身として捉えるかが問題になります。
 《へそを曲げる前の赤子のごとき無垢自然》か それとも《へそを曲げたことから自己への帰還を得たうえで もともとの自然本性をあらためて活かそうとする人間自然(もしくは 文化自然)》かです。
 と言っても けっきょく 選択の余地はありません。後者でしかありません。


 ところが 世の中には《純粋》が三度の飯よりも好物な人たちがいて どうしても無垢自然であるとか――つまり聖母マリア崇拝など――あるいは 自我や我執を消滅させた至純なる境地であるとかが一番だと言って聞かず そのあとは何から何まで口から出まかせをそのあやまちに一生涯気づかずに吠え続けるという場合も出て来るようなのです。
 所謂る権力の側は 人びとがそういうまぼろしにうつつを抜かしていてくれるほどありがたいことはないのですから 権力とそのインチキ宗教とは 理の当然・事の必然として つるむことになります。
 
 今回のあなたのご回答は どうでしょうか? そのような宗教と政治の側に加担していませんか?
 たぶんどっぷりとは漬かっていないでしょうが それでもあやしい影はひそんでいるようでもあります。




 あるいは
 ★ 虚勢としての虚飾は不自然で、みずからのイメージを実際のていどにまで去勢すると精神性における成熟へ向かうとか
 ☆ この場合などは どうなのでしょう? 無垢自然にまでは白紙還元しないのだと言っていましょうか?
 ★ みずからのイメージを実際のていどにまで〔去勢すると精神性における成熟へ向かうとか〕
 ☆ ということは 中道を行くということでしょうか? 人間自然(つまり文化=非自然 と自然との総合)というところでしょうか?

 ★ 不完全な人間でしかないということと、老いて滅びてゆくものであるということとを受け入れると、まっさらなぴかぴかの玉などより、ゆっくり朽ちてゆく虫のしかばねなんかの方に親近感が湧き、美を感じるというか、仲間意識が湧くのだと思います。
 ☆ たぶん この考え方だと 敗北主義に落ち入る可能性が大きいのではないでしょうか?
 からだは朽ちて行きますが 《人間》はますます元気になることだってありえます。屍に親近感をなぜいだかなければならないのか?
 それだけだったら わび・さびが 美の問題だということが見失われていませんか?

 美が ちからだということを。
 そうでなければ 神社をつくり鳥居も石段も仲間たちの思いにしたがって 神をまつるにふさわしい場とするというその美も むなしい。神へのきよらかなおそれにもとづき その庭をうつくしくしつらえることが むなしい。
 このおそれは まさしく人間にとっての自然なのではなかったか?


 ★ 現実に時とともにゆっくりと生命力が減ることを受け入れれば静かな気持ちになります。
 ☆ からだは言うことを聞かなくなっていきますが 生命力は老いてますますさかんということもあり得ます。それが 美の問題ではなかったか? あなたの専門ぢゃなかったか?

 ★ はげた箸やせみのからや梅干しや三本あしのくもや痩せたからすなどに
 ☆ 生命力を付与するのだというくらいに 描いてください。へへっ。
 

お礼日時:2011/11/08 14:18

再度失礼します。


わび・さびの実例を取り上げておきたいと思います。
ご自由に解釈なさってください。

さび、の実例です。
私の家には祖父が作った四枚の襖があります。
正確にいうと、そこに字を書いた習字の先生との共作の代物です。
かなり古びて痛んでしまったので、以前に父が表具師に頼んで直そうとした事がありました。
表具師がそれを見に来ましたが
これは、このままの方がいい、古色があって張替や作り直しはしない方がいい・・・という意見でした。
で、現在もそのままになっているのですが
その襖の上の方には祖父の似顔絵も飾ってあり、何となく釣り合っている感じもするので、これでいいのかもしれません。
字を書いた習字の先生のご子息も見に来たことがあります。
一字だけどうしても読めないとか、一字米一俵の値打ちがあるとか言っていました。
ですが、私にとってはそうした値打ちはどうでもいいのです。
祖父の形身として今もあるという事が貴重なのです。
薄汚れて、少し擦り切れているところもあります。
端の方には、私が子供の頃に飼っていた猫のおしっこの痕もあります。
こんな汚い襖でも、専門家が見て古色があっていいというのですから不思議なものです。
私にとっては、いわゆる「さび」の価値ではなく、祖父の遺品としての価値のあるものなのです。
猫のおしっこの痕も含めて、そこには遠い昔の時間が凝縮されているようにも思います。
その時間の内容を知らない人には、単なる「さび」としか映らないのでしょう。
時間がもたらす変化の妙麗さという客観のみがあるように思います。
美意識による評価とは客観的に確かではあっても、その反面虚しくもあるように思います。
「さび」に込められた時間の中に踏み入るとき、「さび」は美しさではなく、人それぞれに生きた証として見えてくるような感じがします。
美しさではなく、時の重味です。
美しさとして取り上げることも自由でしょう。
自由だからこそ「さび」という美が生まれたのかもしれません。

次は「わび」です。
私が昔よく行っていた旧家で出会った風景です。
旧家といっても豪邸ではなく小じんまりしたお家でしたが
中庭があって、その入口には小さな数寄屋門がありました。
明治中期の頃に造られたお庭で、低い築山が部分的にあるだけの平庭といった感じでした。
庭木もみな古い木ばかりで、地面には苔が沢山生えて、中々趣のある庭でした。
私はこの庭が好きで、よく見に行っていました。
土蔵住まいの廊下に座って、この庭を眺めていると自然と気持ちが落ち着く感じがしました。
ある時でしたが
いつものように廊下に腰をかけて庭を見ていた時です。
苔一色の深い緑の中に目を惹くものがありました。
それは桔梗でした。
紫色の花が幾つか、傾いた茎の先に咲いていました。
一株の桔梗でしたが、その鮮やかさが強烈に感じられたものです。
茎は立ってはいないのです、乱れて傾いて地面に届きそうなのもあれば、少し地面から離れているものもありました。
苔の中に咲いている紫色の花が余りにも見事な感じがしました。
その時感じたのは
この庭の中には、桔梗の花しかない、という不思議な感覚でした。
あとは真空のようなもので、あるようでいて無いに等しいもの・・・といった感じでした。
時間の流れも止まっているかのような感じさえしたものです。
幾つかの桔梗の花以外には何も無い、といった感じです。
私はこの時「わび」という言葉さえ思いつきませんでした。
尾形光琳の杜若図の解説の一つに、群青色の花以外は真空である、というものがあります。
真空に咲くもののみがあるという世界です。
これを「わび」と呼ぶのならば
「わび」とは全てを占めるもの、時の流れさえ止めてしまうものなのかもしれません。
また、そこに立ち会った一期一会は忘れ難いものです。
私が見たこの庭も、今は荒れて廃園のようになってしまい、昔の面影はなくなってしまいました。
思い出せば、時の移ろいの中の一瞬の煌めきのような風景でした。
仮に、毎年のようにこの眺めを見ていたとしたら印象には残らなかったと思います。
一度きりの花の輝きに出会ったという「わび」だったのだと思います。

人それぞれ体験的には違うものがあると思います。
これが「わび」「さび」だといっても、絶対は無いような気もします。
ただ、近い感覚はあるのではないでしょうか。
ご参考にしてください。
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この回答へのお礼

 へたのすけさん 気遣っていただいてさらなるご説明をたまわり たいへんありがとうございます。

 つぎのこまあすさんからの同じくていねいなご説明を受けて合わせて かなり考えました。今回は 大野晋のことばの歴史についての解説――『日本語の年輪』(1966)・その《美》の事項の中の《さびしい(プラスわびしい)》の項目――よりほかは参照せずにひとり考えていたのですが どうもまづはわたしの推測による仮説は 単なる思い入れであるようだということが分かりました。
 言いかえると たぶんですが 日本人の美の歴史にかんして わびさびと言えば 言わば世の中に流通したもの(作品など)について扱っているらしいということ。その流通――つまり発端から流行するに到りしかも 広く行き渡ってひとつの思潮を形成するようになるといった流れ――についての歴史は 扱うが その《発端》ないし《起源》についての詳しいことは 必ずしも明らかにしない。特にその文学表現にしてもあるいはましてや思想内容については あまり深くは詮索しないのだと。

 へたのすけさんが 今回サビとワビの具体的な事例について述べられていることは 自嘲気味といっ趣きも感じられないのでもないのですが・つまりは もっと深い美の感覚を それがあっても むしろ言わない(言葉で言ってどうなるものでもないと捉えている)ということかなとも思われるのですが もしその表面上の(言葉で表現しうるかぎりでの)中身を取り出すならば きわめて簡単なことになると考えます。



 ワビサビの要素を 乱暴に取り出してみます。

 (1) 《うつくしさ》とは何かにかかわるその何か。【第一次の美】

 ★ ~~~~
 ・・・
 苔一色の深い緑の中に目を惹くものがありました。
 それは桔梗でした。
 紫色の花が幾つか、傾いた茎の先に咲いていました。
 一株の桔梗でしたが、その鮮やかさが強烈に感じられたものです。
 ・・・
 ~~~~~
 ☆ 自己流の定義でしかありませんので おぎなっていただきたいのですが おそらく:

  (あ) わが視界に映ったものごとの言わば構成というもの。(ほかに聴覚の場合があるらしい)。

  (い) つまりは全体としても部分としてもその色かたちなどなど互いの配置具合いないし対比関係。

  (う) しかもその視像がわが心の悩みや悲しみやの傾き(もしくは傾きのない秩序としてのやすらかさ)と響き合うような構成であること。

  (え) (う)を基礎として全体を捉え合わせると こうなります。《わたし》を含めた《世界》の成り立ちについてまで その美の対象が そのうつくしいという感覚となって言わばニュートリノのごとくわたしの過去と現在とをつらぬいて 見えるようにさせ わたしと世界とを分からせてくれること。


 
 (2) わたしが 美を感じるそのものごととどう係わってきているか。《わたし》との交わりの歴史。【美をめぐる背景】

 ★ ~~~~~
 「さび」に込められた時間の中に踏み入るとき、「さび」は美しさではなく、人それぞれに生きた証として見えてくるような感じがします。
 美しさではなく、時の重味です。
 ★ ~~~~~
 祖父の形身として今もあるという事が貴重なのです。
 私にとっては、いわゆる「さび」の価値ではなく、祖父の遺品としての価値のあるものなのです。
 ~~~~~~~



 (3) 社会における評価の問題。特に経済的価値にかかわるそれ。【第二次の美】

 ★ ~~~~
 字を書いた習字の先生のご子息も見に来たことがあります。
 一字だけどうしても読めないとか、一字米一俵の値打ちがあるとか言っていました。
 ★ ~~~~
 表具師がそれを見に来ましたが
 これは、このままの方がいい、古色があって張替や作り直しはしない方がいい・・・という意見でした。
 ~~~~~~

     *

 さて話を端折るかも知れませんが ワビサビについての教科書的な説明としては これら三つを全般的に扱うかとも思いますが たぶん(1)の(う)の言わば心象風景については あまり深追いはしないのではないかと思います。それを取り扱う場合には (2)の美の作者や鑑賞者の歴史――《生きられた時間》と言うと少しは しゃれていましょうか――のほうに重点を置いて見ようとするのではないか。
 というのも ほかでもなく質問者がその趣旨説明で漠然とそしてまた思い入れのごとくに触れようとしていたことは (1)の(え)のけっきょく世界観としての問題なのでした。(1)の(う)をそれとして扱う場合も この(1)の(え)の思想(生活態度)の徹底的な究明としてはもう取り上げないのではないかと思われました。
 つまり へたのすけさんや こまあすさん あるいはけっきょく ほかの皆さん方が――レチサンスとして言わずもがなのままに置いておくという意味合いを別とすれば――異口同音に説明しておられるワビサビの内容だということになります。



 さてさて 額面どおりに失礼して 話を端折ります。
 次のこまあすさんへのお応えで この続きを考えてみます。



 (1)の(え)は――絵や音楽なる芸術が その美をとおして わが心と呼応し ついには時と所を飲み込んだごとくに世界を見渡せしめ わたしにわが世界観を得せしめるという美のあり方 これは―― いかんせん まぼろしであったか? これを考えます。

 考えてみれば へたのすけさんと渡り合うようにしてまでやり取りした《ヒラメキ》問題 ここにけっきょくたどり着くという見方も 出来なくもありません。
 《桔梗》のうつくしさは いったいぜんたい へたのすけさんご自身にとって どうだったのでしょう? 
 これが たとえ徒労に終わろうとも いま少し問い求めてみておきたい主題です。

 ここで端折る失礼については くれぐれも おゆるしあれ。



 * 【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6797352.html

お礼日時:2011/11/09 11:54

こんばんは。


また長いご返事をいただき、何らかのお答えをせねばならない立場に追い込まれているようです。
もともと不肖わたしが本来のブラジュロンさんのご質問設定をかき乱した責任がありますので、わたしなりに落とし前を付けておきたいということもございます。

美が(本流であれ傍流であれ)いのちの息吹きであるとおっしゃるその卓見についてはまことにそのとおりであると私も思います。そこで、なぜわびしいさびしいという本来の生命力の反対のようなところに日本のひとつの重要な美が生じたのかという疑問が出るのは当然ですね。それを解く鍵が日本中世の貧乏であり、当時流行した仏教の末法思想ではないだろうかというのがひとつの考え方としてあるわけです。
どんな考えも最初誰かが思い浮かべるところから始まり、それが一般化するには何らかの権威づけがなければなりません。
西行法師はもともとエリートでしたから、出家しても俗世間からは相当ちやほやされていたようです。西行だけではなく、その当時は上流の人間が出家をして歩き回ったり、山野に侘住居してなんとなく生きるというようなことが流行したようです。そういったひとたちの貧乏暮らしはもちろん宮廷でのくらしとは比べられないでしょうが、それでも当時一般の農民たちの貧乏暮らしなどとは異なって、それなりの余裕ある生き方だったのではないかと思われます。ですから彼らは貧乏の中でも自然をゆったり眺めることができ、その中で思考し、美的なものを楽しむ生活の中から生まれた感覚がわび、さびという価値観になったのでしょう。そこでは贅沢はできないのできらきらしい家具は扱えない、彼らのなけなしの財力のなかで、近くの窯元へ行って売れ残った出来損ないの茶碗のなかからこれは!というものを選んで持ち帰り、磨いているうちにそれを見た権力につながる友人の噂でそれが次第に共感を生み人気を呼んだ、ということではなかろうかと思うわけです。侘住居する人たちのなかには結構な、中央がないがしろにできない文化人が多かったのではないでしょうか。西行、兼好、長明、他にもいらっしゃりますよね。
一応ご質問にまともにお答えしたように思います。かならずしも除け者にされたひとたちがそういった文化を見出したのではなく、そこそこ権力者に近い、しかしちょっと変わり者がそういうことを言い出し、権力者たちもそれなりの文化人ですから、「おお、そういう考えも面白いぞよ(わしもあまり金がないから、その方が良い)それで行こう」ということになったのでしょうか。
最後に
>(7) そしてこう問います。現代においても ワビ・サビの達人は 人知れず わんさといるのではないか? 人間社会は それでよいのか? 哲学は これに どう答えるか? わび・さびは 今でも うつくしいか?

それはそのとおりでしょう。ちょっとものを斜に見るひょうげものはいつの世にもいるということですね。

ご参考になれば。
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この回答へのお礼

 ふうーっとまづは 一息つきまして。

 こまあすさん たいへん有益なご説明をいただきありがとうございます。
 このスレ全体がかかわっていますが 特には直前のへたのすけさんとのやり取りを参照していただくと 話が分かりやすいと思います。つながっています。

 § 1 とは言うものの やはり話の前提を掲げることから入ります。

 ☆☆(No.18お礼欄) ~~~~~
 
 ワビサビの美としての要素を 乱暴に取り出してみます。

 (1) 《うつくしさ》とは何かにかかわるその何か。【第一次の美】

  (あ) わが視界に映ったものごとの言わば構成というもの。(ほかに聴覚の場合があるらしい)。

  (い) つまりは全体としても部分としてもその色かたちなどなど互いの配置具合いないしそれらの対比関係。

  (う) しかもその視像がわが心の悩みや悲しみやの傾き(もしくは傾きのない秩序としてのやすらかさ)と響き合うような構成であること。

  (え) (う)を基礎として全体を捉え合わせると こうなります。《わたし》を含めた《世界》の成り立ちについてまで その美の対象が そのうつくしいという感覚となって言わばニュートリノのごとくわたしの過去と現在とをつらぬいて 見えるようにさせ わたしと世界とを分からせてくれるということ。


 
 (2) わたしが 美を感じるそのものごととどう係わってきているか。わたしの《生きられた時間》がどうであるか。《わたし》と――ほかの人びとをも交えた情況や環境における――美の対象との交わりの歴史。【美をめぐる背景】


 (3) 社会における評価の問題。特に経済的価値にかかわるそれ。【第二次の美】
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 § 2 ワビサビとしての美は 負け惜しみから生まれた。

 貧乏(ワビ)になり孤独(サビ)になった言わば没落貴族が 負け惜しみのごとくに そのような生活条件のなかにあっても見い出し作り出した風流である。
 わづかに孤立をまぬかれたとすればその昔のつてを伝って 権力の側に近づき その力と権威を拠り所にして自分たちの風流の美を世に広めようとした。
 
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 ・・・ですから彼らは貧乏の中でも自然をゆったり眺めることができ、その中で思考し、美的なものを楽しむ生活の中から生まれた感覚がわび、さびという価値観になったのでしょう。
 そこでは贅沢はできないのできらきらしい家具は扱えない、彼らのなけなしの財力のなかで、近くの窯元へ行って売れ残った出来損ないの茶碗のなかからこれは!というものを選んで持ち帰り、磨いているうちにそれを見た権力につながる友人の噂でそれが次第に共感を生み人気を呼んだ、ということではなかろうかと思うわけです。・・・
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 § 3 美とは《みづみづしい息吹き》か

 ★ 美が(本流であれ傍流であれ)いのちの息吹きであるとおっしゃるその卓見についてはまことにそのとおりであると私も思います。
 ☆ もしこうだとするならば § 2の負け惜しみから生まれた美は どうなのか? すなわち

 ★ そこで、なぜわびしいさびしいという本来の生命力の反対のようなところに日本のひとつの重要な美が生じたのかという疑問が出るのは当然ですね。
 ☆ こまあすさんは 次のような視点から解こうとしておられますが そして少なくとも情況証拠としては そのとおりだと考えますが 質問者としましては この《美とは〈みづみづしい息吹き〉か》の観点を第一の条件に推し立てようとしています。
 ★ それを解く鍵が日本中世の貧乏であり、当時流行した仏教の末法思想ではないだろうかというのがひとつの考え方としてあるわけです。

 ☆ すなわち 問い求めの焦点は こうです。
 ○ 没落貴族の負け惜しみ族は わびさびの美としたその自然の風景や人為的な作品に《みづみづしい息吹き》を 果たして見い出したのか? 


 § 4 日本人の見つけ出したワビサビの美は 人為的な想像〔力〕や認識〔力〕を超えた言わばヒラメキ(インスピレーション)を宿すことが出来たか

 どうでしょう? どうなんでしょう?
 ☆☆(No.16お礼欄) ~~~~~

   こころ
   なき身にも
   あはれは
   知られけり

   鴫立つ沢の秋の
   夕暮れ
    (西行 新古今和歌集・秋上・362)

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  鴫が何羽か飛び立ってがさがさと音を立てている。それでもわが心はいつものように沈んでいる。
  いつものことなのだけれども いまふと そこから妙にみづみづしくてしかもあたたかいものが湧き上がって来る。
  ひょっとして これが 世界か? これが わたしなのか? これが 人間というものか。
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 ☆ この解釈によれば たとえ負け惜しみであっても そこには天与のとも言うべきヒラメキがおとづれたと言おうとしています。§ 1の(1)(え)の世界観――ものの見えたること――の問題です。
 これが あったかなかったか。ここに美の問題としては――§ 1の【第一次の美】の主題にかんしては―― すべてがかかっているのではないでしょうか?

 ヒラメキを ブディズムのさとりにかかわらせても構わないでしょうが それはたとえば無常感が先にあってそれゆえにさとりを得たという順序では捉えていません。無常感をつねにと言うほど感じていてもよいのですが その観念を持つゆえに さとりを得たとは考えません。もしそうだとすれば そこら中にさとりの達人がいることになります。

 § 5 古代人の美を考えることをとおして 《ものの見えたる》境地をとらえる

 じつはわたしは 中世や近世についてさして明るくなく 西行にしてもこれだけ取り上げていながら 決して詳しくはありません。
 そこで古代史に事例を取ります。そこから 言わば観自在菩薩のヒラメキが 日本人にも起きたか? これを探ります。

 まづ次の――必ずしも史実だとは言えないようですが――挿話を掲げます。
 ○ (あだ討ちの気持ちを回転させるオホケ・ヲケ兄弟の物語)~~~

 昔昔 やまとの国では 市長(もしくは大君)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。
 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって暗殺されました。その野原にともにいたオシハの息子兄弟(双子)は 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて 身を長らえることにしました。

 ところが オシハの血筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ 二人はともに続いて首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。

 暗殺者の雄略ワカタケルは もう死んでいました。
 弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で かれが先に位に就くことを譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。
 仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して戻ると その旨を伝えました。弟もすんなり これを了承しました。
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 § 6 あだ討ちの心を回転させることは そこに理性による思考や人為の努力を超えたヒラメキが介在したのではないか 

 という話です。これは われわれ日本人のこころを表わしているのではないか。
 《ゆづる》という精神です。ここには 二人だけではなく 日本人一般のこころにおいて 革命が生じたと言っていいのではないか。
 これは さらには 《ゆづる》精神というよりは 《なにものか大自然への畏れ》といった思想であるかとも捉えられます。その意味で 美ではないかと。

 首長の位に昇れなくなっただけではなく 血筋からも離れてしまったとき・その隠れ家としての播磨の土地で もし仮りに二人が うたを詠んだり陶器を作ったりしてその作品を世にうったえ これが仮りに受け容れられたとしたら それは孤立(サビ)し貧乏(ワビ)になった人間の芸術として ワビサビの美だということになるだろうか? と考えてみた場合 どういうことが言えるか? 
 のちに首長の位に返り咲いたときの復讐心の乗り越えと同じ心構えにおいて作った美術は ワビサビを表わしていると言えるか? 
 たぶん 返り咲きする前においては それは《負け惜しみ》による美だとは言われてしまうでしょうね。そのツテでは ワビサビだとも呼ばれ得ましょう。
 ただし その美の中身は 何なのか? § 1の美の要素分析に照らして どうなのか? 世界を自在に観るという観自在菩薩(または観音菩薩)としてのはたらきを そのインスピレーションにおいて 持ち得なかったか? こういう問いに代えることが出来ると思います。
 
 言いかえると にわかには答えが出ないでしょうから 問題提起になると思います。

 § 7 復讐回避の物語(イチノヘノオシハ事件)の後日談を添えます。

 ○ 暗殺された野原の近くに 或る老婆が住んでいて じつはそのひとむかし前まだ若かったときに 暗殺の現場と その後イチノヘノオシハが埋められるところを見ていて その場所を覚えていたそうです。
 じっさい果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさ という物語です。

お礼日時:2011/11/09 15:05
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