A 回答 (21件中1~10件)
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No.21
- 回答日時:
>一般論および共通論でもよいのですが、できれば、あなた自身の考え(個人論)を聞きたいと思います。
「これについて自分自身の考えを」ということですが、私は仏教特に『禅』にふれ、こんな教えに共感というか震撼を覚える程の経験をしましたので、ここに添えてみます。
中国禅宗の第六祖に「慧能禅師」といわれる方がいました。
この方は第五祖「弘忍禅師」のもとで、米つき坊主として修行されていたのですが、ある時、弘忍禅師はたくさんの弟子の中から自分の後継者を選ぶため、「自分の修行して得た境涯を詩偈にしてみよ。」と投げかけました。
そこで数ある修行僧の内、大変学徳見識が高く、又、誰からも敬われている神秀という僧が偈文を書いて張り出しました。
難しいので和文にしますが、『身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し 時々に払拭せよ 塵埃を引かしむること無かれ』その意味は、「この身このからだはお釈迦さまの心(菩提樹)そのものです。心は明るく輝く鏡のようなものです。ですから時々勤めてふき取らねばなりません。心に塵や誇りをつけてはならないのです」という意味です。
それに対して、米をついて修行されていた「慧能禅師」は『菩提もと樹無し 明鏡も又台にあらず 本来無一物 何れの処にか塵埃を引かん』と書いて横に張り出されました。
この「慧能禅師」が中国で禅の教えを確立された僧としてあがめられている方です。
この偈を解釈してみますと「菩提樹(お釈迦さまの心)なんてありません 心の明るい鏡になる物などもとからありません 本来もともと何もありません したがってどこに塵やほこりがつくことがありましょうや?。」と。
難しいですが、心が無くなると云々という問がありましたが、心がある。ここにある。と思い、その心が又自分に取ってはつかみ所が無くて、追いかけ回して又自分自身に帰るような事を繰り返しているのが私たちではないでしょうか?。
「心」なんてもともと存在しないのです。
言うなれば自分で『我』が心であると勘違いしているのですね。
それが証拠に必ず何かに振り回されている自分と、それを客観的に横から見ている自分があるのですから。
どうでもいいことはどうでもいい(自分勝手とは違い、はかるものさしを代えて見るということ)と認識出来るかどうかだと思います。
神秀和尚は心を実在のものと考え、お釈迦さまの心、鏡の如くきれいにして塵やほこりをつけぬように(心を正しく保って乱れないように)という事を説いたのですが、悲しいかな心理学と違って禅、あるいは仏教の根本的な教えには追いつけなかったのです。
参考になりましたでしょうか?。
No.20
- 回答日時:
>一般論および共通論でもよいのですが、できれば、あなた自身の考え(個人論)を聞きたいと思います。
「これについて自分自身の考えを」ということですが、私は仏教特に『禅』にふれ、こんな教えに共感というか震撼を覚える程の経験をしましたので、ここに添えてみます。
中国禅宗の第六祖に「慧能禅師」といわれる方がいました。
この方は第五祖「弘忍禅師」のもとで、米つき坊主として修行されていたのですが、ある時、弘忍禅師はたくさんの弟子の中から自分の後継者を選ぶため、「自分の修行して得た境涯を詩偈にしてみよ。」と投げかけました。
そこで数ある修行僧の内、大変学徳見識が高く、又、誰からも敬われている神秀という僧が偈文を書いて張り出しました。
難しいので和文にしますが、『身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し 時々に払拭せよ 塵埃を引かしむること無かれ』その意味は、「この身このからだはお釈迦さまの心(菩提樹)そのものです。心は明るく輝く鏡のようなものです。ですから時々勤めてふき取らねばなりません。心に塵や誇りをつけてはならないのです」という意味です。
それに対して、米をついて修行されていた「慧能禅師」は『菩提もと樹無し 明鏡も又台にあらず 本来無一物 何れの処にか塵埃を引かん』と書いて横に張り出されました。
この「慧能禅師」が中国で禅の教えを確率された僧としてあがめられている方です。
この偈を解釈してみますと「菩提樹(お釈迦さまの心)なんてありません 心の明るい鏡になる物などもとからありません 本来もともと何もありません したがってどこに塵やほこりがつくことがありましょうや?。」と。
難しいですが、心が無くなると云々という問がありましたが、心がある。ここにある。と思い、その心が又自分に取ってはつかみ所が無くて、追いかけ回して又自分自身に帰るような事を繰り返しているのが私たちではないでしょうか?。
「心」なんてもともと存在しないのです。
言うなれば自分で『我』が心であると勘違いしているのですね。
それが証拠に必ず何かに振り回されている自分と、それを客観的に横から見ている自分があるのですから。
どうでもいいことはどうでもいい(自分勝手とは違い、はかるものさしを代えて見るということ)と認識出来るかどうかだと思います。
神秀和尚は心を実在のものと考え、お釈迦さまの心、鏡の如くきれいにして塵やほこりをつけぬように(心を正しく保って乱れないように)という事を説いたのですが、悲しいかな心理学と違って禅、あるいは仏教の根本的な教えには追いつけなかったのです。
参考になりましたでしょうか?。
No.19
- 回答日時:
こんにちは、もう一度。
私>私にとっての心の支えとは「自分を大切にして生きてよいのだ」という
私>信頼のようなもの。
> 「甘え」というものでしょうか?
このご質問にはびっくりしました。わたしにとって「甘え」とは
他人に対して好意や好意的行動を請うことです。
「自分を大切にして生きてよい」と自分が思うことは、
(その思想の基礎が他人から愛された経験にあることは別として)
すでに支えとして存在した状態では、
自分の心の中の問題なので甘えとは関連しないと思うのです。
No.18
- 回答日時:
心が思考の場であるならば、その心を思考することはできません。
(「心がなくなった」というためには、もう一つ別の心が必要です。)心がなくなればもはや考えられないのではなく、「考える」ということ自体が意味をなさない。
むろん、これは経験命題ではなく日本語の文法に関する命題です。
No.17
- 回答日時:
「心がなくなった状態」の人を介抱した事があります。
突然、身近な人が精神分裂になってしまいました。
(「精神」と「こころ」はどうちがうのか?
とつっこまれるかもしれませんが、私はこの質問に対して
この経験しか思いつかないので細かい事は無視します)
その人は夢の中にいるような感覚だったと思います。
「現実」という実感がなく、というより「現実」や
「自分」というものが何なのかさえわからなく
なってしまっているようでした。
(「わからない」ということさえもわからないでいた)
私のように「心がなくなった」状態を目の当たりに
した人は少ないと思いますが、とても悲しいことです。
その人の存在がなくなるのと同じです。
あれより辛いことはこれから生きていくうえでないと思います。
哲学のカテゴリにお邪魔しておきながらおかしいこといいますが、
質問の答えは、頭で考える事ではなく、感じてわかる事だと思います。
でも、そんな経験はないほうがいいと思います。
No.16
- 回答日時:
これは最後の助言になります。
お礼も見ることが出来ないので、そのつもりで読んでください。いいですか、手を差し伸べれば噛み付く犬の様であってはいけません。私は人間に、話しています。勇気をもってください。>ランチさんがランチさんでいられるとするのは、なぜですか?
ランチと言うのは社会認知のための名前です。自己の考察においては、真っ先に消えるものです。
ですから、「私が私であるのは何故かという問いにこたえます」。これが、独我に堕ち悩む者のヒントになれば幸いです。哲学の問いにこたえはないので、私の答えは、問いを消す答えです。影に光をあてれば消えるようなものです。光を見つけるヒントにでもなれば素敵ですね。難しいでしょうから、よく自分で考えてください。もし人差し指を使うなら、それは必ず自分に向けなさい。
この世界があるのは、私が見ているからです。これが独我論。
では見ている私は何者か?見ている私があるのはなぜか?
一つの契機としていいましょう。
世界があるのは私に見られているからだ。私があるのは同じようにあろう。
つまり、私は何かに見られているからある。何かとは世界ではないことは明白。なぜなら、独我論で語られている世界というのは、私によって現象しているのだから。
私を見ている何かは、私を私たらしめている者なので、私の本質です。
つまり、私の本質は、私より大きい。
世界の本質は私であり、とらえられる世界は私より小さいために、私に見ることができるのです。
しかし、私の本質は私より大きい者であります。ですから、私はその者のぞんざいを知ることが出来ますが、とらえ見ることは出来ません。
あなた方の語る世界は、独我によってとらえられている小さい世界であり、私のいう世界は、私の本質に属する大きい世界です。ですから私は言うのです。
「私はかく小さい者であり、世界を知ったというには知るだけでは足りない。」
次元が違うとはこのことです。あなた方の言う世界と、私のいう世界は次元が違うので、あなた方は私の言う事が解らないのです。私にはあなた方の言う事はわかるのです。ですから、私の言う事をききなさい。
以下の助言は、勇気あるものはきいてください。ないものはきかないほうがいい。勇気あるものは喜んできくが、勇気のないものは、「は?」って感じになります。バカにされている気分になります。もしくは、バカにしたくなります。彼らは、自己からも、わからないものからも、逃避するからです。
あなたがソクラテスのようであるなら、ききなさい。
そうして、世界認識があらたまり、自己の考察ではなく、世界の考察が進むと、無という者がでてきます。無が全性を持ち、純粋きわまる者で、並ぶ者のないものなので、それで、私より大きい私の本質という者を、知ることが出来ます。
そうなると、自己というものは存在しなくなります。そうしてはじめて、慈悲や、慈愛などの、感情が芽生えてきます。コレはナマの自分よりも、その自分の本質に属しているので、ナマよりもナマですし、現実よりも現実です。夢よりも夢であり、本質とはそのようにあります。
自分のないもは、捧げる時に、すべてを捧げます。自分がないので、所有という概念がありません。自分、自分、俺、俺、私、私と言はなくなります。純粋な感情をもつようになり、囚われがなくなります。
つまり、個人が個人を得る(おさめる)と、やがて個人はすべてを得るようになります。
そうして、生死を越えた世界観を得ます。みている範囲はより大きく、みている所はより深くなります。独我の世界はもちろん、別の世界も意識することが出来るようになります。
死なないとはこういうことです。
ですが、あなた方が死ぬので、私も死にます。それが慈悲です。
皆がしんがりとはこういうわけです。
私達が、イエスや釈迦なことを言うのは、彼らと同じ所からきているものだからです。
私の話をきいて、遠い国を連想しておれば、やめてください。
それは、あなたからはかって、距離のないところです。
だから、いつでもともにあること、忘れないでください。
あなた方も、同じ所の者ですから
No.15
- 回答日時:
付け足します。
感情と言うのは感覚を意味しています。
喜怒哀楽はもちろん、その他すべての感覚です。
例えば夢を見たとします。
感覚はその夢すべてをさします。現実でも同じです。理性で説明できないものはすべてあいまいな感覚です。
今だって私がこうやって文章を書いていますけど、この「今」は夢かもしれないし、生きてる事じたい夢かもしれないから。
閑話休題、、、。話がずれましたが、心がなくなるということは「私」の世界すべてが無くなってしまうと言う事です。「私」が感じているこの世界すら、私の心が無くなればうそになるかもしれませんし。
また、おかしい回答をしてごめんなさい。
わかってくれたら嬉しいのですが、、、、。
meinaさん、ありがとうございます。
心がなくなるというのは「無」となることなのでしょうか。それとも「空」となることなのでしょうか。(No.10参照)
この回答では、無のようですが、心がなくなると復活できないものなのでしょうか。
No.14
- 回答日時:
支えについて言うのを忘れました。
人間のあり方は、「支え合い」ではありえません。支え合っているから、トランプのピラミッドのように、ささやき声で崩れます。くずれてもいいというなら、話は別ですが。
支え合いは忘れなさい。
人間のあり方。それは「捧げ合い」です。愛がいい例です。
そういうことから、人間の仕事は、「奉仕」であります。
さて、
なにを捧げるかというと、すべて捧げるのです。余すとこなくです。
なぜなら、すべて捧げてもらっているからです。ありようは捧げ合いですから。
とするとどうなるでしょう?
すべてを捧げない者は、すべてを得ず、すべてを捧げる者はすべてを得ます。
同時存在とはかくありようです。
捧げ合いで倒れる者は誰一人ありませんが、支え合いで倒れる者は皆です。
つまり、支え合う者は、すでに倒れているもの同士、足を引っ張り合っている状態のようで、それを、美だというには程遠い。はっきり言って、だましだまされています。
支え合い、協調しているのは、美しくない。そんなときは皆皆、実際は自分の事しか考えていないからです。きこえのいい、おぞましい言い訳にすぎません。
「地獄にたらされたくもの糸状態」が現状です。
しかし、心配は要らない。皆がしんがりであるから。一人が地獄にいれば、皆がその下にいます。上からきた者が下にいる。なんの心配も要らないとはこのことがあるからです。
安心して捧げればいいのです。それができないなら、
安心して捧げることができる対象を求めるべきです。
注意点は、自分のために捧げるのではありません。対象のために捧げます。
ですから、エゴイスティックな宗教信者の様であってはなりません。
なんのために生きているのかが解らない者は、その対象を求めなさい。
自分のためというのはおもいっきし矛盾します。すべてを自分に捧げる事が出来ますか?自分という器はそのようにはありえません。すべてが自分におさまりきるわけがないのです。また、自分を自分に捧げるというのもおかしい。捧げている自分は自分ではない者、もしくは、捧げられている自分は自分ではない者、どちらかになります。その矛盾を解消できる者は、いるでしょう。それはそれでよい。勘違いでなければよい。
支え合いは忘れてください。
捧げ合いを想い出してください。
ランチさん、ありがとうございます。
>人間のあり方は、「支え合い」ではありえません。支え合っているから、トラン
プのピラミッドのように、ささやき声で崩れます。
何を比較するかで変わると思います。(自論ですね)
>人間のあり方。それは「捧げ合い」です。愛がいい例です。
捧げ合い自体、倒れているようにも思えます。
>自分のためというのはおもいっきし矛盾します。すべてを自分に捧げる事が出来ますか?
すべてなのですか… 何をもってすべてなのでしょうか。
ラブラブな解釈ありがとうございます。
No.13
- 回答日時:
こころは、空に浮かぶ雲のようです。
雲はなにによって支えられているでしょうか?と問うなら、「雲は何故、どういう理由で雲であるか」ということになります。雲は形とどめる事を覚えないので、その理由は形にあるものではありません。
雲は何時、風に吹かれて飛んで行ってしまうので、その理由は場所にありません。
雲は気がつけば消えておりなくなっているので、その理由は意識にあるものでもありません。
では、雲は何故あるのか?という問いに対する答えはなんでしょう?
>私にとって「心」がなくなることは、自分を見失うことだと思います。
では、自分を見失っているその者は、何者なのでしょうか?
>最近、何のために生きているのかわからないのをよく考えます。
何故生きるのかという問いに、ある人はこういいます
「気がつけばそこに、世界があったから」
こういう答えをする者は、隔世的です。自分が、世界の者ではないかのような思考です。しかし、多くの人が同じような思考をした事があるでしょう。
私は、浮雲のようにあるでしょう。隔世的な者は、地に足をつけ、浮雲を見ます。「いいじゃん、浮雲。ずっと君を見てるよ。」
>哲学について。
考える人は、知らないから考えます。知っているものは、考えるということがでてきません。知っているからです。つまり、問いというものは考える者の所のものなので、答えはありません。哲学の問いに答えはないのです。しかし、問いが解消される事はあります。それは、問いの発生する理由を消してしまう事で、問いが消えてしまうのです。それを、私は知るといいましょう。
考える葦は、何も知らないから考える。何故問うのかを問う。疑う事を疑う。理由が事実。がんばって。マジで応援してるから、。
人という字は、歩いている人を横から見た象形文字だって、大昔に習ったような気がする。ま、いいけど。(笑
ランチさん、ありがとうございます。
雲の有無は見た目がはっきりしていてわかりやすいと思います。
>では、自分を見失っているその者は、何者なのでしょうか?
ランチさんは、何だと思いますか?
> 「気がつけばそこに、世界があったから」
結論になっていません。
答えには達すことはできないかもしれませんが、プロセスは重要だと思います。
ランチさんがランチさんでいられるとするのは、なぜですか?
No.12
- 回答日時:
●まごころを説明するために 仏ごころとか慈悲ぶかいこころを想像していただきたいと
思います。仏ごころや慈悲深いこころというのは どこか人間ばなれしている
と感じませんか。つまりナマの自分から抜け出たようなこころのような
感じがします。それにくらべてまごころとはいかにも自分のこころの形容である
と思いませんか?そんなわけで まごころとは ナマの自分のいちばん
きれいなこころを指すことばだと思います。
まごころ以上にきれいなこころを指すことばは 見当たりません。
●わたしにとっての愛とは 人と人とのもっとも純粋で強い関係を指します。
愛で結ばれた人との間にかようのはまごころです。
しかし 愛のある関係の当人たちは 愛も感じないしまごころも
感じません。そのなかにどっぷりと浸かっているからです。
しかし なにか障害が発生すると愛する人のためなら自分は死んでもいいと
思っていることに気が付きます。また きたないこころの人に接するにつけ
愛する人のこころはきれいだなあと 気が付きます。
chihokoさん、ありがとうございます。
きれいとは「純粋」ととらえていいのね。
何を持って「純粋」なのでしょうか。
きっかけはともかく「気持ち」に惚れると言われます。
自己をリンクさせる時点で、利己主義だとは思いませんか。
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