
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
「ただ仁王と我れとあるのみと云う態度」は、一般的には見物人を無視していることになります。
通常であれば不満を感じるはずですが、この男は「見物人である自分たちなんか無視して当然なのだ、芸術のためなのだから」という意味で運慶をむしろ「天晴れ」であると誉めています。
野次馬のような見物人の中からこうした論理的で冷静な見解が出たことを漱石は興味深く感じた、ということなのでしょう。
「面白い」は#1さんご指摘のように、fun というより interesting と解釈するほうが自然です。
No.3
- 回答日時:
> 何故漱石は「面白い」と思ったのですか?
まず、作中で「自分」と言っているのはあくまでも「語り手」であって、「語り手≠作者」です。作者漱石が「面白い」と思ったといっているのではなく、語り手である「自分」が「面白いと思った」とのだいうことを、きちんと押さえておいてください。そこを混同してしまうと、以下の読解もおかしなことになってしまいます。
さて、この『夢十夜』という作品のいくつかは「こんな夢を見た。」という書き出しで始まっていますが、第六夜に関しては、こんな書き出しで始まっています。
「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。」
この冒頭は「今」にいるはずのない「運慶」が突然に出現し、そのことを不思議とも思わず「と云う評判だから、散歩ながら」見に行くという日常の反応を示すことによって、あり得ないことを日常の感覚で消化する「夢」特有の構造を提示するものであることがわかります。つまり、この導入部は「夢を見た」と言わずに、わたしたちを直接、日常にはあり得ない世界に誘う、作者の仕掛けなのです。
さて、作中の語り手が行ってみると、護国寺の山門は鎌倉時代らしいのに、見物人たちは明治時代の人のようです。同一空間に〈護国寺、山門、仁王、運慶〉の鎌倉時代と、見物人や「自分」の生きる明治時代がパラレルに出現しているのです。「夢」の中だからこそ成立しうる構造です。
このパラレルな構造は、なおも続いていきます。
一心に掘る運慶。
それを見ながら、ただしゃべっているだけの見物人。
さらに見物人の中にもパラレルな関係が存在します。
「大きなもんだなあ」「強そうですね」と、見ればわかるようなことを言っている人びと。「昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊よりも強いんだってえからね」という言葉に至っては、本来「人」ではない金剛力士像と、古代神話の「日本武尊」を比較するという、およそ筋の通らないものです。これらの発言は、冒頭の「下馬評」という言葉に対応していますね。
さて、見ている人の中に、それとはまったくちがう感想を述べる人物がいる。それが「一人の若い男」です。
> 「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」
この感想は、運慶の超越性を指摘しており、先に述べたような見たままのコメントやとんちんかんな発言と際だった対比を見せています。
この二種類の感想に対して、「自分」はどのように感じているか。
筋の通らない発言に対して「よほど無教養」と軽蔑しています。そうして「おもしろい」というのが、「若い男」に対する評価なのです。
重ねて言いますが、作者漱石が「無教養」と軽蔑しているわけでも、「若い男」の発言を「おもしろい」と考えているわけでもありません。運慶を眺める人の中に、「無教養」な「下馬評」と「おもしろい」見方というパラレルな構造があるのです。
鎌倉-明治という二重の構造、運慶-見物人という二重の構造、下馬評―おもしろい見方という二重の構造、これがやがて第六夜の結末を導いていきます。
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