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(平安時代)宇多→醍醐→村上→円融
(南北朝時代)後宇多→後醍醐→後村上→

平安時代・南北朝時代の天皇の親子関係は以上の通りです。
で、後宇多の息子が「後円融」かと思ったら、その名は南朝ではなく
北朝に天皇に贈られてしまいました。
南朝天皇の名前の流れからすれば、後村上の息子の名前は後円融に
なりそうですが、それを奪い取った北朝の意図とは、もしかして
「南朝への当てつけ」なのでしょうか?
「先に貰ったぜ~ザマァ」みたいな感じですか?

北朝天皇はどうして流れに逆らうかのように「後円融」を名乗ったのでしょうか?

A 回答 (1件)

 南北朝が合一して、ゆるぎない萬世一系の朝廷が復活したこと示すために、


元北朝帝ではあるが当時の今上(後小松)の父である上皇の死後、その諡号を
後円融天皇とし、南朝系天皇との皇統譜上の整合性持たせたというのが
当時の朝臣・幕府首脳の意図でしょう。

 当時は諡号なので、後円融天皇と称されるようになったのは、
後小松に譲位して、将軍義満の助言の元に院政を行い、
南北朝合一の翌年、崩御されてからですから。」

 
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