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人間による環境破壊などもマントル対流や太陽の活動性に比べれば無きに等しいと思います。マントル対流が止まってしまえば地球は火星のようになってしまうでしょうし、太陽の活動が低下すればアイスボールになってしまいます。ここに神の概念はないと思いますが、いわゆる科学的理解に基づく恐れ方は何か宗教的な感じがします。科学的であるには恐れあるいは畏れは捨てるべきなのでしょうか。一種のあきらめのような納得が唯一の結論なのでしょうか。

A 回答 (7件)

科学的態度とは判らないことを判らないこととして容認・共存します。



宗教的態度とは判らないことさえもちゃんと説明してくれることです。

科学的であるために畏れなどの感情を捨てる必要はありません。混同さえしなければ問題ありません。
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この回答へのお礼

混同しなければというのは、一人の人間のなかに両者が並立できるということでしょうか。ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/02 14:43

太陽活動の予測に対する知識が不足で、不安を感じる


というのは、知識欲につながるものであって、自分より
権力を持つ自由意志への祈りにつながる宗教とは、
別物です(信仰は好奇心ではなく思考停止=常識の
延長に世界観を求める)。

もちろん、祈ったり、供え物をする事で、その結果を左右
する事ができると考えるならば、それは宗教ですが、
その、物理的に明確になっていない因果関係に依存する
行動は、科学的ではありません。
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この回答へのお礼

ご教示を吟味させていただきます。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/06/02 07:38

ええ、それは宗教的概念だと思います。


いや、自然現象に対する恐れは人間全てにあるものですよ? ええ、間違いなく。
科学的解説というのは、あくまで結果に至るまでのプロセスに過ぎません。有名な遺伝学博士のフランシス・コリンズ教授もおっしゃっているのですが、科学というのは「どのようにそうなるのか」という質問しか答えてくれません。「なぜそれが存在するのか」は、神様の領域です。

科学とは違うのですが、その昔、村田栄次郎というプロボクサーがいました。
この人はとにかく強かった!WBAとWBCの両方で一位にランクインしたほどの選手で、世界挑戦を5回も経験し、しかもそのうちの2回引き分けています。
でも、世界チャンピオンになれませんでした。
それについて村田さんのトレーナーだったエディ・タウンゼントさんは、
「神様とはネ、ケンカできないノ」
という言葉を残しています。
つまり、これが「自然への恐れ」なのです。
村田さんが「どのようにその試合を戦ったのか」というのは、誰だって解説できます。しかし「なぜ村田選手はチャンピオンになれなかったのか」ということを解説できる人はいません。
だって、それは運命としか言いようがないから。
その運命の源泉は神の業、というのが私個人の見解です。もちろん、それをあなたに押し付ける気はないですよ。クリスチャンだろうと仏教徒だろうと無神論者だろうと、そんなのは各人の見解に過ぎませんから。
ともかく一つ言えるのは、科学や自然に対する恐れを無理やりかなぐり捨てようとは思わないこと。「恐れ」は言い換えれば「謙虚」です。

人間による環境破壊などもマントル対流や太陽の活動性に比べれば無きに等しいと思います。

そう考えている限り、あなたはスターリンや毛沢東やポル・ポトみたいな人間になることはまずない。
別に悩まなくともよろしい、ということです。
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この回答へのお礼

お話を繰り返し読んでみたいと思います。ご丁寧なご説明をいただきありがとうございました。

お礼日時:2012/06/02 02:45

まず、信仰と宗教は違います。

恐れと畏れは違います。
信仰や畏れはキリスト教などの独善的なものではなく、自然崇拝という部類の信仰形態です。
最も身近な神道がこれに当たります。

科学信奉者がどう考えるかは興味ありません。
科学万能と言っても実際には科学が証明している自然現象など1%にも至りませんからね。
畏れ感謝する心こそ大切だと考えています。
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この回答へのお礼

宗教と科学が対立概念かどうかもはっきりしませんが、ご意見をお聞かせいただき感謝いたします。どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/06/02 02:42

人間の本質として理解できない事にも何らかの理屈を付けて安心する、人間の力ではどうにも出来ない事柄に出くわした時も同様に何らかの結論を出したい、そこで神が必要になるのかも知れませんね。


実際日常の暮らしには神は不要ですが本人にとって非常に困った事、解決困難な事に襲われた場合“困った時の神頼み”となります。

科学的に考えようとしても所詮人間ですからいざという時の為に神は用意しておくと安心できます、まあ現実逃避ですが。
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>いわゆる科学的理解に基づく恐れ方は何か宗教的な感じがします。

科学的であるには恐れあるいは畏れは捨てるべきなのでしょうか。一種のあきらめのような納得が唯一の結論なのでしょうか。

○科学に基づく恐れとは、未知への怖れでしょうね。未知というのはわからないということの裏返しですね。
宗教であれ科学であれ、わからないから恐れがあるのでしょうね。
太陽は銀河の一部ですから、太陽が銀河を一周する間には様々なエネルギー空間を通過するわけですから
太陽にも活動期や非活動期はあるものですね。ただ人間の寿命や歴史的な観測記録は少なすぎて全体はわからないということだけでしょう。でも氷河期が周期的にあったことは事実ですから、氷河期が到来すれば植物の発育、生産性からして、人類は減るしかありませんね。ここ数百年は暖かくなる活動期でしたから、人類も60億にもなりましたが氷河期になれば、おそらく数分の1ぐらいしか生存できませんね。これは地上で生きる全ての生き物に共通のことですから、知っていれば恐れることはありませんね。なんとか多くを維持しようとすれば地上を暖かくするしかないのですが、何故か炭酸ガスについては否定的ですね。炭酸ガスが増えれば暖かくなりますし、植物も繁茂しますので人類の食料も確保できますね。科学者が正しい知識さえあれば、人類ももっと楽な未来があるのですね。科学者が諦めるということは科学は役に立たないということになるのですね。これは、宗教であれ科学であれ同じですね。自らの無知こ素恥じて、諦めてはいけませんね。
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この回答へのお礼

基本的にはできることをやって最善を尽くすということでしょうか。ご教示に感謝いたします。

お礼日時:2012/06/02 02:37

 難しい話はわからないんですが。


 
 太陽に対する畏れは、原始的かつ、本能的な恐怖とだと思います。
 知識を深めても、現在、ひとは太陽をどうこうする術を持っていないわけですから、惧れを無理に捨てる必要を私は感じません。
 自然への畏怖=非科学的な考えという構図は、ナンセンスで、科学の傲りだと思います。
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この回答へのお礼

とても納得がいくご教示です。どうもありがとうございます。

お礼日時:2012/06/02 02:35

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