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仏教では、あらゆるものへの執着を断ち切るようにと言われますが、執着を断ち切るのは中々容易ではありません。
そこで、どのようにすれば、執着心を断ち切れるのか、具体的方法があればお教え戴けると幸いです。

素人なりに考えると、例えば、世の中の無常性を深く深く、繰り返し心に刻み込めば、どんなに執着していてもその執着の対象はいずれ消滅してしまうことに思い当たり、ある意味、諦めの心境が心の中に出来上がり、それが執着心を克服する唯一の方法かな、と思ったりしていますが、これは正しいのでしょうか?

どなたかご教示の程、よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (17件中11~17件)

優勝が掛かった一打を打つ心境に似ています。

メンタル面の強化方法に似ています。人生でより良く、より自由になれる方法を会得する事に通じいます。

本来的には『方法は無い』事を知る事かと思います。

簡単な例を挙げるなら、『優勝が掛かった一打を打つ心境に似ています。』の場合では、一番遠い存在が、上がり症や、神経症になっている場合です。『意識する自分が』生きる邪魔をしています、

『メンタル面の強化方法に似ています。』の場合では、一番遠い存在が、やっぱり上がり症や、神経症になっている場合です。『意識する自分が』生きる邪魔をしています。

『執着心』を詳しく分析すると『意識する自分が生きる邪魔をしている事』が分ります。

人間が死を恐がる場合も同じです。人生にはいつか死が訪れます。死によって全てだったものが、全て無に帰ってしまいます。

これ等の元が全て執着心からと言う事で、貴方は『執着心を断ち切る方法 』を尋ねています。

答えは『全て受容れる事』の中にあります。嫌な事を受容れる事の中にあります。死を受容できる態度の完成が『悟り』です。その結果は『生死の問題が解決する。』です。

人間が死を恐がる理由は、自分自身の受け入れを拒否しているからです。自分自身には『有限の身で、何時か朽ち果てる自分』が存在しています。

この自分を『本当の自分』と勘違いしているからです。心が騒がしくなっている場合の『自我と対立している者』のいうことが聞けなくなっている場合です。

人間が死を恐がっている場合では『恐がっている相手は、自分自身の、永遠の存在を疑っている事を意味します。』その恐怖心は『心の矛盾』を苦しんでいると言う意味です。

人間も動物も植物も昆虫でさえも、滅びない命が備わっています。命の働きです。この者に対して『我を去れ』と言っています。

釈迦もキリストも同じ事を言っています。自己の中の『その者に対して、我を去れ』です。人間の苦しみは『自己の心同士の主導権争いです。』

『我』がその争いに負けた場合、二度と『我』は主導権の争いに加わろうとしなくなります。この姿を、神と和解すると表現します。そうして『命の働き』に、全てをゆだねる場合『神の僕となる』と表現します。

脳内の二つの意識の間に『ホットラインが構築された事を意味します。』是が悟りです。

心の争いが終結した事を意味します、言い換えるなら『心の矛盾の解消です。』

心はいかなる時にも静寂を保っている事を意味します。是が『涅槃』です。

命の働きを釈迦の場合は『仏性』キリストの場合では『神』と表現しています。意識の根底での出会いの事です。脳科学的な発言方法なら『意識の根底=脳梁の回路の中』です。

右脳の意識との出会いです。右脳の意識は『自我意識が出ていない時に出ています。』自我意識が出ていた場合には出れなくなっています。自我意識が出ている場面と、出これなくなった場面が、脳の障害によってはっきりと表現されている動画を紹介します。

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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

>答えは『全て受容れる事』の中にあります。嫌な事を受容れる事の中にあります。死を受容できる態度の完成が『悟り』です。その結果は『生死の問題が解決する。』です。
⇒全てを受け入れる、ということの素晴らしさは、分かるような気が致します。

>人間も動物も植物も昆虫でさえも、滅びない命が備わっています。命の働きです。

昔読んだ本の中に、私という個は個としてあるのではなく、宇宙の大きな一つの命に繋がっていて、その命の一つの表現形式に過ぎず、従って、私も貴方も彼も彼女も、根本では同じ一つの命であって、本当は皆同一であって、皆同じなのだ、というようなことを読んだ覚えがあります。

教えて頂いたサイトを見ると、その事は科学的にも言えそうなので、とても興味深く感じました。

興味深いサイトまで教えて戴き、ありがとうございました。

まだまだ、人間存在は奥が深く、もっと勉強してみる必要があると感じました。

お礼日時:2012/06/09 11:22

断ち切るのは無理だと思います。


そんなに簡単にできるなら、皆
やっているでしょう。

じゃあ、薄くできるか、という
問題じゃないでしょうか。
そして、薄くするのも難しいですね。
無常を繰り返し叩き込む、というのは
結局自己洗脳ですよね。
そういう観念だけの洗脳だと、
何かの加減ですぐぶり返すんで
ないですか。

つまり、自分を騙しているだけ、という
気がします。
あきらめるのも、同じ類いでしょう。
諦めたつもりでも、チャンスを目にしたら
すぐに復活してしまうように思えます。

”あらゆるものへの執着を断ち切るように”
   ↑
こういう、出来もしないこと、数億人に一人
ぐらいしかできないことをやれ、てのは
どういう神経しているんですかね。
本気で、救おうて気がないんじゃないですか。
それに、あらゆるものへの終着を断ち切ったら
喜びも無くなるでしょう。
石やガラスと同じ人間ができあがるだけです。
文明、文化、人間社会の崩壊です。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

私も、貴方様と同じように感じることもあります。

執着を完全に断ち切るなんて出来るわけがない、と思う時もあれば、でも、断ち切れるものなら断ち切りたいと思う時もあります。
どっちがどうなのでしょうねえ。

生きて行くというのは悩みが尽きないものですね。

お礼日時:2012/06/09 11:28

 No.5ですが。



 ★ どのようにすれば、執着心を断ち切れるのか
 ☆ すべてが仮りのものごとであるというのですから このイマシメ(ないしオシエ)も 仮りのこと(無我)です。
 それには ふたつの見方があるようです。
 ひとつは 筏のたとえによる方法。
 つまり さとりを得たなら そのように向こう岸にまで渡ったその筏は もう要らないと見る場合。そのようにして やはりオシエ自体も仮りのものだったという場合。

 もうひとつには いますぐ ここで このわたしにおいて このイマシメもあのオシエもただちに仮りのものであると見る。
 つまりは 《執着心をどのように断ち切るか》というオシエについて執着心を持たない。いま・ここで・わたしが そうするし そう成るということ。(即身成仏ですね)。

 もしわたしたち一人ひとりが ブッダであるとすれば 後者の場合が手っ取り早いです。
 ★ ある意味、諦めの心境が心の中に出来上がり、それが執着心を克服する唯一の方法かな、と思ったりしていますが、これは正しいのでしょうか?
 ☆ このようにおっしゃる場合と どちらが手っ取り早いでしょうか?

 要するに 日本復興のための具体的な仕事にかかれということではないでしょうか? そのとき 執着心など どこ吹く風ではないでしょうか。仏教ということ自体が 屁の河童です。すでにブッダであるのですから。
 という解釈が なぜ主流とならないのでしょう?
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執着心が無くなる、というのは結果だと思います。


その事を目標にしても無くならないと思います。
結果の世界の一文があります。

行々として円寂に至り
去々として原初に帰る
三界は客舎のごとし
一心は是れ本居なり

円寂は円寂の相、すべてを見終わって、という意味でしょう。
三界は客舎のごとし
すべての執着を離れて、という意味でしょう。
原初に帰る
悟りでしょう。

解釈としては
悟りにおいて執着は消滅する、といったことだと思います。
換言すれば
悟りを得ずして執着の消滅はない、となるのではないでしょうか。

無常観という悟りの入口に立つだけでは執着心は無くならないと思います。
(真言に限らない)禅定体験が必要なのではないでしょうか。
如来への信心に徹して、という一般向きの方法もあるにはあります。
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この回答へのお礼

>悟りを得ずして執着の消滅はない、となるのではないでしょうか。
>無常観という悟りの入口に立つだけでは執着心は無くならないと思います。
>禅定体験が必要なのではないでしょうか。

「禅定体験」が必要なのですね。
よく分かりました。

座禅は、これまでも、やるほうが良いと思いつつ、怠慢の心ゆえに、やらずに来ましたが、なんとか、座禅に取り組んでみようと思います。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/12 11:14

人生良いことも悪いこともあります。


どちらかというと辛いこと、期待しすぎて外れて
苦し紛れに?「いい勉強になった、いい経験をした」といいます。

過去の自分と決別するには自分に「借りを作る」なんてどうだろう。

未来の私が感謝して恩を返してくれるかどうか確信はされませんが、
「この借りは次の機会に」とでもいい何とか埋め合わせのチャンスを作る。

その時が来たなら「あの時は助かりました。ありがとう」
これでもう過去の自分に頼る必要がなくなる。
次の可能性を見つけやすくなる。

自分の利権でも名誉でも、愛しい人への想いでも
感謝すれば楽になる。相手も楽になる。
そのことが自分を一層楽にする理由になり、断ち切れるようになると思います。


何もせずとも簡単なのは飽きる、面倒になる、無関心に至って「成長」を遂げることで、
これは理性の問題ではないようです。

本能的なことは命一杯堪能しつくすこと。
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この回答へのお礼

>感謝すれば楽になる。相手も楽になる。

この言葉、戴きます。

「感謝」。
とても大切な事ですね!

ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/12 11:20

それもひとつの修行法ですが、執着心というものは良い執着であるという自分の判断の上にあるものです。


言葉を換えれば、自分の判断が正しいと思わない者は執着できないということです。
自分の判断が正しいと思わない者は必ず相手に確認します。
なぜなら相手は迷惑をかけられたと感じていないかもしれませんから。
また、たとえそう思われていても
悶々と一方的後悔を無執着を達成した者はしません。
なぜなら、迷惑をかけた償いを相手に尋ねるからです。

人間関係の修復においては、相手の気持ちが事実に準ずるものであり
そこには一片の自己の勝手な判断というものは必要ではありません。

ひたすら気づくだけのものであり思う暇がない状態が無執着の状態でしょう。

生きとし生けるものが幸せでありますように
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

>悶々と一方的後悔を無執着を達成した者はしません。なぜなら、迷惑をかけた償いを相手に尋ねるからです。
>人間関係の修復においては、相手の気持ちが事実に準ずるものでありそこには一片の自己の勝手な判断というものは必要ではありません。

人間関係における執着について、参考にさせて戴きます。

お礼日時:2012/06/14 10:07

あらゆるものへの執着を断ち切るということは仏教の本意ではありません。



最終的には執着や欲というものを活かしていくことを説いています。

つまり執着があるから生きられるし、執着があるから求道心も出てきます。
煩悩と悟りは常に隣り合わせであり、煩悩があるから前に進めます。

なので執着心や欲は排斥せず、うまく付き合っていくことに主眼が置かれています。

執着に振り回されてしまえば不幸でありますが、執着を充分に活かしていけば成長や幸せの原動力となるという見方が仏教の知恵です。

わが心本来の仏なり。
究極の自己肯定が仏教の説いた幸福の境地です。
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この回答へのお礼

>あらゆるものへの執着を断ち切るということは仏教の本意ではありません。
最終的には執着や欲というものを活かしていくことを説いています。
なので執着心や欲は排斥せず、うまく付き合っていくことに主眼が置かれています。

⇒そうなんですか。少し、心が軽くなりました。

>執着に振り回されてしまえば不幸でありますが、執着を充分に活かしていけば成長や幸せの原動力となるという見方が仏教の知恵です。
>わが心本来の仏なり。
究極の自己肯定が仏教の説いた幸福の境地です。

とても心が軽くなるお話、ありがとうございました。
仏教の教えを、もう一度、よく勉強し直したいと思います。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/21 08:48

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