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周りに信者がおらず宗教知識もなくどの宗教が良いのかわかりません

そもそも入信理由で最も多いのはなんでしょうか?

私は障害者で非常に強いコンプレックスがあり生きる事がとてもつらく、悲観しやすく、人くじけやすい性格でうまく生きる事が出来ないので、助けてほしいという思いで、そこでただ入信がひらめきました。今のままでは死にそうなので入信したいと。 入信の理由にならないでしょうか。

また、入信するのにどのように宗教を選べば良いでしょうか

誰か教えてください。

A 回答 (13件中1~10件)

遅くなってしまいました。

すみません。
No.7で回答したものです。

ご両親に反対される場合でも信心は出来ます。
ご家族が同居の場合は隠すことは難しいかと思います。入会時の決まり事に同居の家族がいる場合は承諾がいることが定められていたと記憶します。
「御本尊を御安置し、その御本尊に対して題目を唱えていく」ということが信仰の根本になりますが、同居家族、もしくは同居人に承諾なく御本尊を御安置すると、反対した家族が御本尊に対し不敬をしてしまうことがあるかもしれないので同居人の承諾が必要、ということだと思います。

ただし御本尊は創価学会の会館にも御安置されていますし、その他なんらかの形で御本尊に向き合うことは出来ますので内々に信仰をすることは出来ます。

どのような形にせよ、信仰に挑戦してみることに関してはおすすめいたします。

どのようなキッカケであれ、信仰を続けていくことで入会時の思いからは想像もつかないような境遇にまで自らを変えていくことができます。

日蓮は「発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し」(ほっしんしんじつならざるものもしょうきょうにえんすればくどくなおおおし)と教えています。
発心(信心をしようという動機)がどのようなものであれ、正境(妙法蓮華経の御本尊)に縁をするならば(題目を唱えるならば)功徳は大きい、という意味です。

「悩む」ということは、そこに何らかの「生きる意味」があるということではないでしょうか。
「悩み」から出発して、その「悩み」に向き合っていった先には「生きる意味」、つまり自らの「使命」や「幸福」、「目的」が涌き上ってきます。

そのことを仏法では「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)といい、日蓮は「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」と教えています。

はじめは難しく聞こえるかと思いますが、実際に信仰することでそのことを体感できます。

参考URL:http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/1 …
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No.10です。



>回答者様は創価学会で何か変わったのでしょうか?

先ず、人間的心理を学ぶことで、生き方・ものの考え方が大きく変わりました。

当然、そういった根本的な思考や概念が変わるのですから、生き方も変わってきます。

自身に対してもそうですが、他人に対しても深い慈しみの気持ちが持てるようになりましたよ。
何ていうか、人間が愛おしく、可愛く見えるのです。私の実生活の周りにも、こうしたサイトの中にも、色々な悩みを抱えて生きていらっしゃる方は少なくないと思います。そういった方が、人間の心理を知り、前向きに考え・行動できるようになることは、とても嬉しく思えることなのです。一人として、この世での人間的使命の無い方はいないのですよ。

少し前に、私は、仏様の深い慈悲の元に、“法”に縁させていただいて、人間として生きている事に最大の喜びを感じました。
そして、その喜びを人に伝えて生きることを、自身の生涯の使命として決意いたしました。

ですから、貴方にも他人の為に祈り、他人の喜びの為に行動できる、歓喜の人生を歩んでほしいと思い回答したしだいです。
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私は生きる希望を失くした時、何かに(又は誰かに)依存してでも生きるべきだとは思います。


しかし、それは応急処置であり、一時的であるべきです。宗教は依存するものではないし、希望や目標とするものではないからです。本当に強い人というのは、夢や希望など無くても平気で生きていられる人のことです。

人は何かに向かって頑張っている時が、一番輝いているように見えるし、生き生きしています。例えば、車のレースで言えば、トップを走るより二番目を走っている方が圧倒的に楽なのです。目の前に一位という目標があるからです。
トップを走る人は自分との戦いであり、「これでいいのだろうか?」という不安が常にあります。

今はネット上に、ありがたい教えは沢山あります。もちろん、それは他の事と同様、いい加減で危険な情報もあり、結局は自分で選ばなくてはなりませんから自己責任となります。
どのような教えが自分に合うのかも人それぞれ違います。
例えばですが、、、
http://shogongja.seesaa.net/
もし、これを読んで少しでも面白いと感じたら、何度も何度も読んでみることをお勧めします。難しいし、人生経験が無ければ理解できないかもしれませんが、日本にある多くのインチキ宗教に間違って入信してしまうくらいなら、何百倍ためになるはずです。

私達人間の最大の疑問は「なぜ生きるのか?」つまり「存在の理由」です。心を扱う宗教は指導を間違うと非常に危険なものとなります。信者を殺すことも殺人鬼にすることもできてしまいます。だから、誰でも指導者になれるようなものではないのです。しかし、現実は違います。宗教法人の認可についても非常に問題があります。
くれぐれも、答えを簡単に差し出すインチキ宗教には気をつけてください。
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創価学会 壮年部の者です。



もちろん、『創価学会』に入会する事をお勧めいたします。


>私は障害者で非常に強いコンプレックスがあり生きる事がとてもつらく、悲観しやすく、人くじけやすい性格でうまく生きる事が出来ないので、助けてほしいという思いで、そこでただ入信がひらめきました。今のままでは死にそうなので入信したいと。 入信の理由にならないでしょうか。

入信に至る動機は、人様々です。
「現在の自分自身を変えたい」、「自身の宿命を転換し、幸せな人生を送りたい」等等、色々とあります。

先ずは、近くの創価学会の方や(公明党のポスターが貼ってあるとか)、創価学会の会館があれば行って相談して下さい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確認してみます。回答者様は創価学会で何か変わったのでしょうか?

お礼日時:2012/07/31 03:50

どうしても何処かの宗教に入信したいのなら、信者になる時に「辞めたくなったらいつでも辞められますか?」


「辞める時にトラブルはありませんか?」「お金はかからないのでしょうか?」などと、脱会したくな
った時の説明を受けた方が良いです。一番大変なのは、脱会する時です。脱会する時にトラブル
が起きます。

内容証明郵便とかの事を教えている書き込みもあります。

入信する時には、ちやほやしますが、脱会する時は手の平を返したように豹変する宗教も多々
見受けられます。

転ばぬ先の杖です・・・

出来れば、書面で・・・
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そこまで考えが及びませんでした。

お礼日時:2012/07/31 03:47

入信という言葉は元々、『以信得入(いしんとくにゅう』という仏教用語から来ているのですが、これは「信を以ってして入り得せしむる」ということで、本来どこかの教団や宗派に属することを意味するものではなく、元々は老若男女、万民誰もがその自身の内奥にすばらしい能力というか途方もないエネルギーが存在していて、これを自在に活用するためには、先ずはそのことを『信じる』という手立てが必ず必要であり、それによって自身の持つ価値ある力を存分に発揮できるようになるのですが、つまり、信こそが仏教の要諦と言うことで、これを分かりやすく例えれば、もし自分の所有する土地の地下奥に油田や金鉱脈があったとしても、そのことを信じて掘り出さない限り、何の価値もなく、つまり、先ずは、そこにはとてつもなく価値有るものがあると信じてこそ、それを掘り出そうと一生懸命になるのであって、いわば『信』が原動力となって気付かなかった大変価値あるものを獲得できるのです。



ところで、その眠っていた資源の存在をその所有者に教えた者がいるように、我々の持つ大変価値ある資質の存在を我々に教えた者がいたのですが、それが釈迦であり、その手引書が法華経ということです。ところが法華経をいきなり説いても仏教のぶの字も知らない当時の人々にとってはチンプンカンプンなため、仏教のいろはから教えざるおえず、それで人々の機根(理解する力)を徐々に高めていき最終的に法華経を説いたのですが、それでそれまでに説いた様々な教説、華厳経や阿含経、無量寿経や阿弥陀経、般若心経や大日経等々は化導と言って、一時的に方便として仮に説いたものであり法華経が説かれたら本来捨て去るべきものであったのが、後世に残ってしまい多宗派乱立の元凶となってしまったのです。

ですから本来、仏教といえば法華経のみであり、この題号は妙法蓮華経を略したもので、つまりは南無妙法蓮華経というキーワードの解説書みたいなもので、そのキーワードの要点やその作用、効力等が説かれていて、その自身に隠されていた大変価値ある資質の開発が可能となるのです。ともかく、当時は宗派などというものはなくて、法華経によってその自身にある卓越したすばらしい能力の存在と開発方法を知り、実践して行ったのであり、ですから、本来の入信、つまり、自分の内奥には卓越したすばらしい能力があることを信じて南無妙法蓮華経というキーワードで掘り起こして行ってはいかがでしょうか。これはどこにも属さなくても充分可能かと思われますが、もちろん、法華経を拠り所とする創価学会を尋ねたり、ネットで調べたりしてみて法華経に対する理解を深めて行ってもよいかとも思われますが。

ところでメーテルリンクの物語にチルチルミチルの青い鳥というものがありますが、これは幸せをもたらすという青い鳥を探しにいろいろと旅して捜し歩いたが、それはどこにおいても得ることができず、結局は自分の家に居たという話で、つまり、我々はとかく幸福というか真に価値あるものがすぐ身近にあってもなかなか気が付かないという教訓めいた話なのですが、いわゆる、この『灯台もと暗し』的話も、我々誰もがその内奥に秘めたすばらしい力の存在を気づかないでいるということを示唆というか暗示しているように思えてなりませんが。
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この回答へのお礼

教えてくださりありがとうございます。
私には人生の先生が必要と強く思いました。社会人なのでやはり宗教が良いのかもしれません

お礼日時:2012/07/31 03:46

私は比較的熱心に信心をしている創価学会員であることを断った上で回答させていただきます。



宗教はおそろしいものであることを認識せよ、と言っている学者さんがいました。
宗教の教義云々の以前に宗教にはそれ相応の覚悟が必要という意味です。一生消えないものを背負うくらいの覚悟がいると。

宗教を持つことは自らのなかにひとつの社会を形成することになります。宗教によって繋がる人脈を持つわけです。

自分の気持ちを大事にすればいいと思います。
タトゥー入れると色々支障もあるけど入れたいから入れた、と同じことです。そのうえでお風呂行けなかろうと何かあろうと自己責任です。そういう社会におけるマイノリティーとしての要素を含めて考えてもやりたいかどうかです。

他の宗教はよくわかりませんが、創価学会が実践する日蓮の解き明かした仏法は端的に表現するなら自分教とも言えます。生命(つまり自分のことでもあるわけです)を尊敬する宗教です。

生命を敬おうと思ったら感じられるのは、まず自分の生命ですね。
他者にも生命があることはもちろんですが、極論すれば実感できるのはまず自分の生命です。
その自分の生命を尊敬する宗教です。というとイメージわかないかもしれませんが、そのあたりの実践法を日蓮という方が完成させています。

自分のことがどうしても嫌いならやってみてもいいと思います。

自分の存在に感謝ができるようになり、自分の長所を伸ばしていけたら成功だと思います。
その過程で自然と他者の生命、他者の存在の有り難さにも感謝や感動が湧いてきますし。

ただ大事なのは教義とかはうやむやにしないでちゃんと学ぶことです。わけわからなくなりますし、人の言うことに左右されて混乱しかねません。そのあたりが面倒なくらいなら宗教は難しいのかなぁ、とも思います。

ネットとかで見てると池田先生を崇拝する宗教みたいに見られてますけど、そのあたりは仏法(仏教)に通じてくると有り得ないことがわかります。中途半端な仏教観だとそういう認識になります。仏法の生命観と日蓮の説く実践とその心構えはそれはそれは見事なものです。ちゃんとやればの話ですが。

ま、宗教を持とうと思えば、誤解されたり変な評価されたりというくらいの障害はあるのでそれに負けないくらいの根気は無いと出来ません。あと根気だけでもダメなんで冷静な判断力や自分を客観的に正視する努力も必要ですかね。

うーん。そう考えると確かに宗教っておそろしい。

ま、そもそも人生そのものがおそろしいくらいの奇跡の連続ですからね。
前進されますことを。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

同居の両親に反対される場合は、会員として続けていく事は難しいのでしょうか。隠す事は可能でしょうか。

お礼日時:2012/07/31 03:41

修行の厳しい宗教を選択するのがコツだよ。


裸一貫でインドで乞食になるのだ理想だ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
実現が難しそうと感じました。

お礼日時:2012/07/30 23:48

私もコンプレックスのかたまりみたいな人生を送っています。


しかし、宗教に入信するのは思い止まった方がいいです。

どうしてもと仰るのなら、お寺周りとかしてみては如何でしょうか?
または、命の電話などに掛けてみるのも一法です。

結局、癒しが欲しいんですよね?
励まして欲しいんですよね?
それなら、短絡的に宗教と決めつけずに色々と調べてみては
どうでしょう?

宗教は、問題が多い(特に新興)ですから、入信はお勧めできません。
瀬戸内寂聴さんの法話でも聞いてみては?
DVDなども販売されていると思います。
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プロテスタントのクリスチャンです。

エホバの証人、統一教会、モルモン教とは一切関係がございません。むかしマルチンルターという人が「聖書に帰ろう」という運動を始めましたが、その流れの中にあるものです。私どもは聖書の一字一句が非常に重要と考えております。

>周りに信者がおらず宗教知識もなくどの宗教が良いのかわかりません。

ご質問の答えが聖書に記載されています。

15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやってくるが、うちは貪欲な狼です。16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。 (マタイ7・15~20)

解説をするまでもないと思うのですが、その教団の働きの結果から見分けることができると思います。しかしはじめは羊の優しさで近づいてきますので、善し悪しの見分けは極めて難しいとは思います。

また私どもプロテスタントのクリスチャンはキリスト教を宗教とは考えておりません。儀式やその他の決まり事みたいな事柄は重要ではありません。ただ一つ重要なことは聖書を通して語られた「イエスを知ること」またはご自分の友達にすることがクリスチャンつまり「キリストに属する者」となるということです。この出来事の前に教会もその組織もまた教会にいる他のクリスチャンの存在などもたいした意味を持ちません。

教会にはたしかに牧師がおりますが、牧師が私ども一般のクリスチャンの上に君臨しているわけではございません。むしろ牧師は他のクリスチャンに仕えるためにその職にあります。何を言いたいかと申しますと、プロテスタントの教会に属することはそこからイエスについて学ぶチャンスを与えてくれるという意味では重要ですが、実は個人個人がイエスと直接の関係を持つことが最も重要であると申し上げたいのです。

イエスキリストを知り、他人の評価や、他人に依存しないご自分を確立してください。教会では聖書に詳しい牧師が通常常駐しておりますので、訪ねてみてください。歓迎してくれると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

他人に依存しない自分の確立、それが必要と思ってました

答えを出すきっかけになれば良いと思っています
ありがとうございます。

お礼日時:2012/07/30 23:46

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