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あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。
それを考える上でおいて1+1=?の時これが数学の問題だと過去と照合しますが「それはなぜですか?」と聞かれれば「そう感じたから」でしょう
そして計算する際もなぜ計算したかと聞かれれば「そう感じたから」でしょう。
実際の計算のプロセスは機械と変わりありません。

こうやって並べてみると人間の精神とは「そう感じたから」と「計算」と「ミス」の組み合わせ以外の何物でもないと思ってしまいます。(ミクロの世界の影響もあるならば+「ランダム」ですかね)


自由意志とはどの部分なんでしょう。私に選択する余地はあるのでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

ご質問の前半部分は、不完全性定理が答えています。


通常、論理的に正しい(完全な公理系)事と、事実である
(無矛盾である(Aと非Aを同時に導かない))事は、両立
し得るものであると考えられていますが、それが実は
不可能である事が“証明”されています。
つまり、公理系が無矛盾であるためには、それ自身の
内では証明も否定もできない、ある意味、任意の公理が
必要なのです。

それは、決定性を記述する物理学の果てに、それが
実体であるためには、不確定性原理が必要であった
事に射影しています。
存在は、不完全なもの(階層現象的表面性の経験的な
定性化)として生じている以上、この宇宙(空間的広がり
=空間軸)自体が自我仮説=時間的流れ=時間軸
と相補分化しており、「宇宙はあなたが存在するための
必要」だと言えるのです。
ただし、物理的根源にまで遡った「必要(相補)」なので、
現象(肉体)的“自我”の思い通りにはならず、自己認識
の低さによる自己矛盾として、環境(物質)とぶつかる
のです。
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この回答へのお礼

まったくもって意味が理解できません。もう少しわかりやすくなりませんか。


ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/03 20:45

自由意志について私はこんなことを考えます。

精神活動はすべて模倣だと考えています。つまり直接でも間接でも以前の経験に基づいて現在の課題に対応するということです。どんな人でも、あるいはどんな場合でも選択の範囲は必ず有限です。有限という意味では自由意志の自由にも限界があります。ただこの有限性は自分の能力の不足として意識されることはあっても、課題の選択にも同じ原理の制限があることに気がつかなければ、いわゆる自由意志があると思ってしまうのではないかと思います。
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>あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。


>数学の問題だと過去と照合しますが「それはなぜですか?」と聞かれれば「そう感じたから」でしょう

仰ることがしっかり理解できないのですが、コンピュータと人間との差はないとおっしゃっておられるのですから、わたしなりに上記を解釈して、

コンピュータは外部からキイインとかの刺激を受けて計算を開始する。
人間も他人から「この計算をやってくれ」という命令(刺激)を受けて行動(思考)を開始する。

上記の意味で同じだといえます。人間は外部刺激の反射によって動かされている生体機械なのです。

いったん動き出した後のCPUとメモリーとの無数の対話で最適の行動が完了しますが、その途次におけるAかBかという選択肢に(生体の場合)わずかなはばの自由意思が存在するとかんがえられなくもありませんが、それは個人のメモリーの内容の差、価値観というサブプログラムの内容の差に起因するだけだと思われます。
よって

自由意思というものは基本的には存在しないと思われます。
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この回答へのお礼

>コンピュータと人間との差はない
そのようなことは申しておりません。
人間を分割して一つの「計算」という特性を捉えてみるとそれがコンピュータと変わらないと申しているだけです。

>よって
私もだいたい同じ意見ですがどっちなんですかね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/03 20:49

 こんにちは。



 他人(ひと)にゆづる。
 あるいは 言われたことをこばむ。

 こういった選択は 自由意志によるものと考えられます。

 ゆづらないや こばまない という選択肢があると考えられるからです。

 どちらも 《そう感じたから》であっても えらぶという意志行為があると見られるからです。


 あるいは 指示や命令にしたがった場合でも 一方で 途中でやめることはこばむに入りましょうが 他方で わざとまちがいやあやまちを犯したりするという選択もあると考えられ それは 自由意志のなせるわざではないでしょうか?
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この回答へのお礼

主観的に見ればそのように自由意志が存在するように思えます。

ですがそれらはすべて外部的刺激とランダムによって決定され、そこに自由意志というものの入る余地がないんじゃないかということです。
つまり思考実験として全く同じ状況を経験してきた人間を100人用意して同じ場面に置けば同じ行為を行うのではないですか。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 00:03

( →_→)ジロ! だれが天邪鬼だって?ひとぎきの悪い…プン



o(^-^(-_-(-_-;(・_・(・o・(^~^; ジィ~

おっと、気にしない~♪気にしない~♪

ひとり言、ひとり言、ちょうどこんなかんじ

(〃 ̄∇)」やっほ~♪ / ̄\∞ ←富士山

そそ、こだま、こだま、ヒカリじゃないよ。

「メガネの自由意志論――
小生がメガネを愛し、メガネもまた小生を愛する関係――」
http://d.hatena.ne.jp/yamada-no-oboegaki/20100119

これツボ!

読むのも読まないのもご自由に。
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この回答へのお礼

哲学的とはいえないように思えます。
論理的でもありません。

お礼日時:2012/07/04 00:05

 こないだはどうも、また副次的な専門の方面からお話させてください。



>>自由意志の有無について
 まず、「自由意志」てのは何かってことなんですけど、定義とか言うと難しくなっちゃうんで、大雑把な感じで行こうと思います(細かく説明できない言い訳なんですけど)。「お昼ごはんに何を食べるかってことを決めること」くらいの意味で考えていきましょう。

>>あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。
(中略)
>>実際の計算のプロセスは機械と変わりありません。
 確か『東京アンダーグラウンド』って漫画で、敵の科学者が味方の獣人の女の子を科学物質を注入するだか、電気刺激を送るだかで操作して仲間に襲い掛からせようとしたときに、
「感情なんてものは脳の化学反応に過ぎない。フハハハハハ。」
みたいな台詞をいってましたが、少年誌でございますから案の定仲間を思う心で、それに打ち勝っちゃうんですよね。
 けど、二十年位前(もっと前かな)から脳科学のり主流となった「随伴現象説」によれば、敵の科学者のおっしゃるとおりなわけですわ。ご存知の上での質問とは思いますが、いちお随伴現象説を説明しますと「私達が意識や精神・心と呼んでいるようなものは脳の物理的な活動に由来するもので、意識や精神・心が脳の物理現象に影響を与えることがない」って考え方ですね。例えとしては車とスピ-ドメーターの関係がで説明すると分かりやすいと思います。車のスピードが上がればメーターは動きますが、メーターを指で動かしたからといって車のスピードが上がるわけではないという事で、脳が車で意識や精神・心がスピードメーターという関係になります。
 そういったことを証明した有名な実験が生理学者ベンジャミンリベット氏の実験です。リベット氏は被験者に手首をたたく瞬間を任意で選択させるという実験をおこないました。その時、運動準備電位で分かる脳の中の活動は、意識的な意思決定が下されるより、平均0,55秒早いという事を証明しました。明らかにこれは、意識的な意思決定は脳の活動に随伴して出現するという事がいえます。
 
>>こうやって並べてみると人間の精神とは「そう感じたから」と「計算」と「ミス」の組み合わせ以外の何物でもないと思ってしまいます。(ミクロの世界の影響もあるならば+「ランダム」ですかね)
 上記のようなのような随伴現象説によれば、私達に自由意志は存在しないことになるそうです。「お昼ごはんに何を食べるかってことを決めること」についても、ラーメンを食べると決めようが、牛丼を食べる・カレーを食べる・そばを食べると決めようが、その意思決定より先に脳がそれを選択させるような化学反応を起こしていることになります。
 もちろん、()の中でおっしゃっているように、量子論のレベルまで持っていくと不確定性によって「ランダム」が加味されるのでしょうが、脳の最小単位は一応ニューロンですから、そこを基準に考えれば、やっぱり自由意志は存在しないって事になっちゃうんですよね。

>>自由意志とはどの部分なんでしょう。私に選択する余地はあるのでしょうか。
 上記のことを読んでいくと「そうかなー」って思っちゃうんですけど、そうは問屋がおろさないというのが現在の脳科学なんですね。随伴現象説は確かにいろいろ説明しやすいし、唯物論的な物理学とも相性は悪くないし、心身二元論とも心身同一論とも比較的仲たがいしないでいられるようないい回答なんですが、この随伴現象説では説明できないような実験結果もでているですね。
 神経学者ジェームズ・オースティン氏の説によれば、視覚空間的な仕事に注意を集中することを決めたとします。注意の集中に要する電気ポテンシャルが脳に届くまで、80~130ミリ秒という時間がかかるそうです。要するに、このような場合意識的な意思決定より前に脳の活動の方が先にくることはなく、心の方が先に生じていることになります。こうなると随伴現象説の中だけでは説明がつかないんですよね。もちろん、神経学者はこのデータに異議を唱え、心の哲学等の哲学者たちはデータの解釈に異議を唱えておりますから、結局のところ未だ未解決のままなんですよね。

>>自由意志の有無について
 私もいろいろな資料を読んで、脳と意識や精神・心の「相互関係」については認めざるをえないのですが、脳の物理現象と心のような心理現象がまったく同一のものとは考えられません。随伴現象説もそれらしいのですが、オースティン氏の説に対して回答が出されていない以上、決定打に欠けます。少年誌好きの私としては仲間を思う気持ちが脳内の物理現象に打ち勝つみたいに、物理現象と心理現象の間に自由意志というのが介在する可能性はまだあるように考えているのですが、未だ研究待ちというところでしょうか。(少年誌の読みすぎかもしれませんが・・・)

 これだけ長々書いて結論は「分からない」という、大変ありがちな駄文・・・申し訳ないです。せっかく書きましたので、参考程度にお読み下さい。誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

>量子論のレベルまで持っていくと不確定性によって「ランダム」が加味されるのでしょうが、脳の最小単位は一応ニューロンですから、そこを基準に考えれば、やっぱり自由意志は存在しないって事になっちゃうんですよね。

量子力学などが古典力学などに与える影響はわかりませんから可能性として残しておきました。
ランダムと自由意志は関係ないと思いますので、どちらにしろ存在しなさそうですね。


>80~130ミリ秒という時間がかかるそうです。要するに、このような場合意識的な意思決定より前に脳の活動の方が先にくることはなく、心の方が先に生じていることになります。

ジェームズオースティンが調べても見つかりません。
詳しい実験条件を見ないとなんとも言えないので参考にURLか解説をお願いできませんか。

また、注意の集中のタイミングを知ることができるのが本人である以上それは主観的な主張に思うのです。
そうなるとそれは反証可能性の点から言って科学とは言えず、意味が無いと思うのですが。。。 具体的な実験内容を読んでみないとなんとも言えませんが。


相変わらず非常に詳しい科学的根拠のある説明感謝します。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 00:17

自由意志というのは無意識的なものでなければなりませんよ。

動機に計算が入っちゃだめですから。ですから自由意志という概念は、それ自体矛盾しているんですよ。
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この回答へのお礼

(数学の問題だと定義するための過去との照合=そう感じたから)→(計算しようという思い!=そう感じたから)→計算というプロセスのつもりで言ったのですが問題がありましたかね。

上に書いたようでしたら矛盾しませんよね?
わかりにくく申し訳ありません。

ところで自由意志というのが無意識的でならないというのはなぜか教えて欲しいです。


ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 00:25

>あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。



あらゆる大河も、結局のところ源泉まで遡って行くと、小さな湧水となります。

ですから、ガンジス河も揚子江も、アマゾン川も同じなんでしょうかね???
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この回答へのお礼

回答となる含みのある言葉なのかもしれませんが私にはよくわかりません。

もう少し直接的に自由意志の有無について考えることを教えていただけると助かります。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/04 00:26

ま、その、実際にありそうなのは、自発的意志と自由な選択ですかね。



これらを組み合わせて、自由意志とよんじゃうから訳がわらなくなるじゃありませんかね。

私から見れば、あなたの選択は、自由意志と言えます。
でも、あなたから見て、あなたの中に自由意志があるかというと、見あたらないでしょうね、おそらく。


でも、自由ってのも、自分ってのも拡大するとやっぱり自由意志ってのはあることにしておけます。
自分の中にいる自発的な意志をもつ他人も自分だと言うことにすればですけどね。
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 自由意思の有無を語る上では、「リベットの実験」に触れなければなりません。

『自分の好きなタイミングで手首を曲げてくださいネ』と被験者に言っておき、脳波(準備電位)を測るものです。
   http://www.geocities.jp/tillich1965/Performance5 …
 な、な、なんと、意志よりも先に、運動の信号が発火されていたのです。私たちが「自分の意志」と思っていたものが、実はあと付けだった…ということでしょうか?。だけど、曲げようと思えばいつでも自分の手首を曲げられるという現実。この矛盾をどう理解すればいいのでしょう。

 アイデアが浮かんだり、衝動が湧きおこったりするのは無意識であって、そこに自由意思の入り込む余地はないと考えます。ですが、意識の俎上に上った瞬間から、それを拒否するという形の自由意思はあると考えます。無意識は文字通り無意識であって、そういう脳活動があった事さえ気がつかないことを言います。

   http://gitanez.seesaa.net/article/34158290.html
 自由があれば、その裏で責任が発生します。『こんな大きな津波が来るなんて、意識していなかった!』と言えば、責任から逃れられるのでしょうか。そこで法律は便宜的に誰かに責任を取らせる仕組みになっているのです。うっかり交通事故を起こした人も、法律を知らずに破った人も、法律は許してくれません。

 話を戻しましょう。私たちが今まで「意志」と呼んでいたものには、無意識が前段階で含まれていて、「心」と呼ぶ非物質的な概念には物質的な反応が含まれている。そう考えねば、説明がつかないのではないでしょうか。つまり、“括り方”に無理があり、便宜的な括りに囚われているから矛盾が生じる、というのが僕の結論です。

 絶対的な神の目線から見れば、人間が自分の意志や信念と思ってやっていることも、ただの反応に過ぎないのでしょう。神から見れば、人間の考えたりやったりしている事はみんな“無意識”に見えるでしょう。だから、神は人間に『責任を取れ!』とは言わないはずです。『責任を取れ』と言うのは、もっぱら人間が人間に対してだけです。
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