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本能寺の変の後 明智光秀は親交のあった諸大名に 味方につくように書状を送っています
娘婿の細川忠興はそっこー拒否しましたが 友人の筒井順慶は筒井城から軍勢を率いて出陣
男山まで来たところで突然行軍を止めました…
ここから 洞ヶ峠を決め込む という言葉が生まれたように順慶は迷っていたのでしょうか?
どちらにつくか決めかねるなら出陣しなければよかったのにと思います

しかも軍勢を率いて出陣したのなら秀吉が摂津に到着する前に光秀を見限って それこそこっちが細川に呼びかけて 挟み撃ちにでもすれば討ち取ることもできたのでは?と思うのですが…

どうでしょうか

A 回答 (3件)

「順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。

その後も評定を重ね、一度河内へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。11日には、順慶が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。

光秀は親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている[7]。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、所謂洞ヶ峠の故事が生まれた。これは日和見主義の代名詞として引用されることが多いが、明白な誤謬である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95% …
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この回答へのお礼

詳しくてわかりやすいです ありがとうございました

お礼日時:2012/07/27 12:34

実家が奈良で順慶は地元の武将です。



順慶は洞ヶ峠には行ってません。
実際は郡山城に立てこもり動いていませんでした。

最初から日和見を決め込んで勝った(勝ちそうな?)方に
見方するつもりだったようです。

おかげで息子の定次の代に伊賀に転封。その後筒井家滅亡。
天王山で手柄があったなら多少は恩恵もあったろうに・・・。
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この回答へのお礼

定次は暴君だったので転封されちやいましたね…

お礼日時:2012/07/26 21:51

筒井順慶は洞が峠に行っていないから、洞が峠で悩むこともなかったし、山崎の合戦の様子も肉眼で見ることができなかった。

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この回答へのお礼

行ってないんですね…

お礼日時:2012/07/26 21:17

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