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高校世界史の教科書によると、19世紀はじめのシリアで、アラブ人のキリスト教知識人が、アラブ文化の復興運動をおこしたそうです。

これって、具体的にはどういうことですか?
アラブ人の中にも昔からキリスト教徒がいたのは知っていますが、そうだとしても、非イスラムの立場から一体アラブの何を復興したんでしょう?

A 回答 (2件)

アラビア語の復興です。

大きな意味ではアラブ人の意識です。

19世紀はじめのシリアなどのアラブ地域のかなりの範囲は、オスマン・トルコ帝国の支配下にありました。
そこでの公用語はオスマン・トルコ語です。
当初、オスマン・トルコ帝国は必ずしも支配地域の各民族にオスマン・トルコ語を強制する事はせず、使用する言語は自由にさせていました。
布告を出す場合は、オスマン・トルコ語の布告が各地の言語に翻訳され告示されていました。
そうした中で、オスマン・トルコ帝国内で暮らすアラブ人社会で、オスマン・トルコ語を学び官吏になろうという風潮が生まれ、オスマン・トルコ語教育が流行しました。
その為、アラビア語は宗教儀礼上の言葉という扱いでしか見ない人々も出てきて、アラビア語は衰退します。

しかし、19世紀になると西洋文明の流入とともに入ってきたヨーロッパの民族主義思想にシリアのアラブ知識人が刺激されました。
そうした刺激を受けたキリスト教知識人達が行ったのがアラブ文芸復興などとも訳される復興運動で、宗教、宗派を超えてアラビア語を絆としてアラブ民族の連帯を説きました。
アラビア語を学ぶ学校を作り、アラビア語教育の推進を図った他に、聖書のアラビア語翻訳なども行われています。
アラブ文芸家協会やシリア芸術科学協会などが誕生しアラブ人独自の文芸活動が盛んになり、そうした中でアラブ民族意識の形成も成されていきます。

ただ、民族主義思想はオスマン・トルコ帝国にも芽生え、アラビア語の使用制限やオスマン・トルコ語の公用語としての使用を支配地に押し付けようともします。
しかし、アラブ文芸復興などの影響からアラブ民族意識が形成されてきていたアラブ社会はこれを拒否し、逆にアラブ州でのアラビア語公用化を帝国に求めるまでになりました。
オスマン・トルコ帝国のアラブ州でのアラビア語公用化運動はアラブ人連帯の大きな具体的な目標の一つとなり、アラブ連帯の絆の一つとなりました。
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