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江戸時代の花魁は、なかなか教養もあったということをNHKなんかで最近やっていました。
それで考えたのは、吉原の苦海に身を沈めた中には、お家お取り潰しになった武家の娘などがいたのではないかということです。
吉原の遊女などの出身階級をご存知の方がいらしたら教えてください。
またそれを調べた研究などはあるのでしょうか。

テレビでは、江戸の花魁は、今のアイドル並かそれ以上のような評価をされていますが、それは、とんでもないことのように思えるのです。

才色兼備の花魁は、お家お取り潰しの武家の娘で、幕府としてはいい見せしめ、町人にとっては、高い身分の出身の娘を自由にできるという魅力もあったのではと考えるのです。

彼女たちは、自分の出身はひた隠しにし、でも噂で、どこどこの武家のお姫様だというようなことがあったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

A 回答 (3件)

<吉原の苦海に身を沈めた中には、お家お取り潰しになった武家の娘などがいたのではないかということです。



さて、実際にはいたのかも知れませんがそんな記録が残るはずもないですね。
そして遊郭のしきたりや仕組みを理解すれば、武家のお姫様として育った女性に務まるようなものではないと考えるのが現実的だと思います。
せいぜい貧しい旗本に生まれ借金のカタに年端も行かぬ幼い頃に売られて来た者が多いでしょう。
花魁まで上りつめる遊女は本当に一握りでしたが、多くは物ごころつくかつかないかの頃から遊郭で下女として働きながら育った女性です。
器量や才覚が見込まれれば幼い頃から唄や踊りや楽器はもちろん茶道や和歌や経済などの学問を仕込まれ一流の客を相手にできる遊女に育てられます。
花魁を育てられる力のあることが遊郭の宣伝にもなり格を上げることにもなったでしょう。
それだけお金や手間暇かけて育てたのだから遊郭の主人としては元が取れるだけ働いてくれないと困ります。
今で言うアイドルやスターのようにプロデュースして評判を呼び花魁の価値をつりあげる策をいろいろ考えました。
その一つが花魁道中だったでしょう。

吉原遊郭の遊女は着るもの食べるものに困らず華やかに暮らすことはできたけど筆舌に尽くしがたい苦労苦難があったわけでそれが苦界と言われる所以です。
若くして病死する者が多かったし、もし運よく身請けでもされて外の世界に出られたとしても遊郭以外のことを何も知らず生きて行く術がありません。
映画やドラマではそんな話もありますが実際はそう上手くは行かなかったでしょう。
遊郭で育った女性が外界で生きるのが困難なのと同じように、犯される前に自害せよと教えられて育った武家の姫君が遊郭で生きて行けたとも思えません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
またこれから先、考えてゆく大きな助けになりました。

お礼日時:2013/02/06 06:56

こんばんわ。


私は、自称「歴史作家」です。

>>吉原の遊女などの出身階級をご存知の方がいらしたら教えてください。

(1)江戸近郷の農家の娘などが、口べらしのために「女衒」(ぜげん=人買い)に売られて、吉原へ連れて来られた場合。

(2)好いた男に騙されて売られた場合。

(3)庶民の娘などで「借金のカタ」に吉原へ売られた場合。

以上の3パターンです。

しかし、幕府は人身売買を禁止していましたので、(1)の場合は女衒が、(2)の場合は男が、(3)の場合には本当の親が、
「親」となって、あくまでも「奉公」という名目で働かせました。

>>テレビでは、江戸の花魁は、今のアイドル並かそれ以上のような評価をされていますが、それは、とんでもないことのように思えるのです。

明暦の大火で吉原は全焼してしまいました。そこで、幕府はお城の近くに遊女屋があるのは「風紀上よろしからず」ということと、江戸府内の人口が急増し手狭になったことで浅草方面の開発を進めていましたので、火事の後、吉原は浅草日本堤へ移転させられました。
以後、「元吉原」と「新吉原」と呼ぶようになりました。

元吉原のころは、大名や江戸詰め留守居役、豪商などしか通うことができませんでした。
これは、大名などで裕福だと幕府転覆を狙わないとも限らないということで散財をさせる目的でした。

その相手をする「太夫」になるに、「容姿」はもちろんのこと、「唄」、「踊り」、「和歌」、「書」、「茶の湯」、「香合」の素養や「源氏物語」や「竹取物語」などを「レ(返り点)」なしに読む、「囲碁」「将棋」なども相手ができるくらいの教養が求められました。

従って、現代のバラエティー番組などに出演するミーハーと違って、遊女としても、江戸の女としても「超エリート」だったのです。

しかし、一晩過ごすだけであると、余りにも「窮屈過ぎる」ということから、宝暦年間(1751~1763)以後は、「太夫」は消滅し、そこそこの「容姿」と、そこそこの「話題についていける」程度の「花魁」が登場しました。

太夫に会えるのは、まず、大門を潜ると「待合茶屋」があり、その店の者を使いとして妓楼へ太夫を呼びに行かせました。
そして、太夫が待合茶屋へ行く時を「花魁道中」と呼びました。

庶民は、こうした華美な行列を見たり、喜多川歌麿などが、主に遊女たちを描いた美人画が市井に評判となり、一度でいいから抱いてみたい・・・と、現代のスター、アイドルのようなものでした。


>>才色兼備の花魁は、お家お取り潰しの武家の娘で、幕府としてはいい見せしめ、町人にとっては、高い身分の出身の娘を自由にできるという魅力もあったのではと考えるのです。
>>彼女たちは、自分の出身はひた隠しにし、でも噂で、どこどこの武家のお姫様だというようなことがあったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

小説としては面白そうですが、正直に言って99%、武家の娘が吉原に売られることはありませんでした。
お取り潰しになった武家の娘は、父方か母方の実家に引き取られました。
また、士農工商の身分制度の中では、武家の娘を人身売買することは厳禁でした。
「痩せても枯れても武士(の娘)は武士(の娘)」。

(よもやま話)
(1)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まり。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。

(2)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。

(3)吉原の歴史:
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人が家康に茶を振舞わせた者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。

(4)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。

(6)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「梅茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。

(7)花魁の由来については、「おいらの姉御」「おいらの」から「おいらん」と転じ「花魁」という漢字が当てはめられました。

(8)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。

(9)なお、吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。

(10)吉原の楼主は「亡八(忘八とも書かれた)」と呼ばれた。これは、中国の古典に「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の8つの節度を失った人面をした「野獣」だと、いうところからきている。
ちなみに、遊女たちは「親方」と呼んでいました。

(11)吉原の遊女は、17~18歳から客を取り始める。その歳よりも幼くして遊郭へ入れられた時は、「禿(かむろ)」として、遊女見習いで、主に「太夫」の世話役をしながら作法や教養を身に着けていった。

(12)年季明けは27~28歳の10年間。「苦海(苦界)10年」と呼ばれた。
ちなみに、「禿」は17~18歳になるまでは、年季明けの10年には数えられなかった。
10年の年季があけると、ある程度「借金」があっても、楼主がこれまで「ぼったくり」をしていましたので、大概は、自由になれました。従って、25~26歳くらいになると将来を共にしてくれる男を真剣に選びました。
行き先のない者は、「遣手(やりて)」として、楼主に代わって遊女たちの管理、監督や指導をしました。
と言うと聞こえは良いのですが、例えば、遊女が足抜けなどをして捕まった場合は、後ろ手に縛り上げて鴨井に吊るしたり、庭の大木に裸にして縛りつけて竹刀で折檻をし、死にいたらしめることもあった。

(13)また、遊女の死亡する年齢は23歳位が多く、10年の年季明けまでは、中々、生きるのが難しかった。
そこには、「瘡(かさ=梅毒)」などで死ぬ者や「労咳(ろうがい=肺結核)」などで死ぬ者が多かった。
遊女が病になると、妓楼でもロクに食事を与えず、ただただ死ぬのを待った。
死んだら、筵(むしろ)に包んで銭200文を付けて投げ込み寺(回向院など)へ投げ込んだ。寺でも「総墓」と呼ばれる穴を掘って埋め、簡単な供養で済ませた。

(14)岡場所とは、幕府が「非公認」の私娼であり、
「湯女(ゆな)」・・・銭湯で働く女が春を売った。(500~1000文)
「比丘尼(びくに)」・・・尼さんの娼婦。(100~299文)
「蹴転(けろこ)」・・・上野の山などを拠点としての娼婦。(200~500文)
「提げ重(さげじゅう)」・・・重箱を手に提げて餅や饅頭を売りながら、春も売った。(1000文)
「船饅頭(ふなまんじゅう)」・・・饅頭を売ることを表向きとして、大川(隅田川)など船の中で春を売った。(32文)
「夜鷹(よたか)」・・・前述。(24文)
金額は「およそ」ですが、「1文=25円位」で計算してみてください。

まだまだ面白い話もありますが、字数の制限があるようですので、このへんで・・・。

http://bungetsu.obunko.com/

私のホームページです。「大江戸編」の「遊女編」を見てください。
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この回答へのお礼

どうも、ご丁寧なご回答ありがとうございます。江戸時代というのは、なかなか楽しい、よい時代であったという印象が一般にあるのですが、私は、このごろどうもそうではないという気がしているのです。
テレビドラマや小説の「大岡越前」とか「銭形平次」「水戸黄門」などをベースに江戸時代の評価が一般になされているように思うのです。最近は藤沢修平でしょうか。

また色々と教えてください。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/02/06 06:50

吉原遊郭の嬢のレベルは天下一と称されたそうですね


遊女にはランクがありました

太夫
格子
散茶
新造
禿

太夫は最高ランクで 吉原にも数人しか居なかったらしいです
むしろ武士の娘より町人の娘だった事のほうが多いとか

格子(こうし)は太夫ほどではなくても個室を与えられ固定客もいたそこそこの売れっ子
武士の娘はこの身分が一番多かった

散茶(さんちゃ)は上級遊女の中では少し格が劣る  しかし安永時代には太夫 格子がいなくなり事実上トップランクに

新造は大部屋で雑居させられていた プレイもみんなと共有で廻し部屋だったそうです

禿(かむろ)は10歳ぐらいの娘で雑用をしながら遊女のなんたるかを学んだ 身売りされてきた娘が多く所属 身分もばらばらだったらしい 

この回答への補足

遊女の中には、武家の娘もいたというのは、文献的には証明可能なのでしょうか?
資料などを教えていただければ幸いです。

補足日時:2013/02/06 08:36
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この回答へのお礼

ご回答、感謝します。

お礼日時:2013/02/06 08:34

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