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江戸時代の石高制は、wikipedia「石高」には、
「米以外の農作物や海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された」
と説明されています。

1 農作物については、畑地面積と作物で年貢は決められたと思いますが、海産物は、何によって決められたのですか。

2 全国の石高3―4千万石(何を根拠にしているのか知りませんが)に、これらの農産物・海産物の年貢の総量が占める割合は、どのくらいであると推定されているのですか。

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

 江戸時代は米本位制です。

海産物を米に換算する計算はありません。
 したがって海産物やコメ以外の収入があるところは豊かだったと思います。
 有名なのは赤穂藩の塩田でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

質問はWikipediaの一部を抜粋したのですが、前後の文は次のとおりです。

太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。

この中の「一定の計数をかけて」が分かりません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98 

お礼日時:2013/02/21 09:28

詳細な資料は持ちあわせませんが、参考までに。


千葉の有名な寺の「寺領(寺の領地資産)」には「海面〇〇石」というのが有ります。
海産物の取れ高を米換算したものです。
また、別の資料には「畑地〇〇石」ともあります。これも換算したものでしょう。
ただ、大名の石高には幕府公認の表高と畑地・海産物・果実などを換算して足した「実高・取れ高」なるものが存在したということです。
詳細についても結構見つかると思います。面白いですよ。
大名の領地などは、表高と実高(新田開発なども含まれます)が大きく違う(裕福な)土地が多いように感じています。
また、水戸藩などは御三家の一つであり、大大名ながら、新田開発が遅れたとかで表高と実高の差が小さく、苦労した藩だったと聞きました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>千葉の有名な寺の「寺領(寺の領地資産)」には「海面〇〇石」というのが有ります。
海産物の取れ高を米換算したものです。

そうですか!
このような例を探していました。
私は、舟や網の数で決まるのかな、と想像していました。
自分でもっと調べてみます。

お礼日時:2013/02/21 09:39

 江戸時代の石高には、2つの面があります。

第一は幕府と大名の関係で、各藩の石高は家格や役職、さらに土木工事や普請の割り当てに直接関係しています。しかし、この石高は太閤検地のころはともかく、新田開発や殖産興業の成果は反映されることはありませんでした。表高といわれる所以です。

 今ひとつは、藩主(村奉行・代官)と村役人(庄屋とか名主)の関係で使われる石高で、年貢の基礎になる数字です。具体的には村ごとに生産力や特産品を加味した物成高が定められ、それに一定の割合を乗じて年貢が決まりました。凶作や災害があれば、この割合は引き下げられます。年貢は米による物納です。

 特産品があっても、年貢は米に換算されるので、お探しの数字を全国レベルで求めるのは難しそうな気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「年貢は米による物納です」とのことですが、これも疑問です。
想像ですが特産品は、カネに換えて金(両)か銀(匁)で納めたのではないでしょうか。
長持ちしない物や鮮度が要求される物もあったのでは、という疑問です。

お礼日時:2013/02/21 12:46

1 農作物については、畑地面積と作物で年貢は決められたと思いますが、海産物は、何によって決められたのですか。



分類としては物成とか
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …

2 全国の石高3―4千万石(何を根拠にしているのか知りませんが)に、これらの農産物・海産物の年貢の総量が占める割合は、どのくらいであると推定されているのですか。

めちゃくちゃ細かく検地していますので、適当な当てずっぽうではないはず。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zuset …

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …


福井県では福井藩は物成が少なく、小浜藩は物成が大きいという差があります。


http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …

ちなみに、明治維新の段階で、全大名に対して「君んとこ、税収はナンボ?」調査をしており、その税収によって爵位を決めています。(一部の勲功のあった藩を除いて)
つまり、幕末段階では各大名家は細かい収入を補足していた。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「福井県史」は、読むほどに次から次へと疑問点が出てきて、しかも基礎知識が貧弱なので、なかなか読むのが大変でした。
質問1については、よく解りました。

海産物には、(以下、県史から適宜抜粋)
坂井郡の黒目村・白方村など13か村では塩浜の検地が実施され、各村の浜の長さ、塩釜の数が把握され、浜一間につき分銭150文の小物成が定められている。
敦賀郡の江良浦では、塩浜の分米、小物成である塩浜地子・山手米・薪代米・島手の合計21石8斗2升4合が、田畠・屋敷の分米39石4斗2升8合と合わされて村高とされ、村高は61石2斗4升6合となった。
敦賀城主大谷吉継の南条郡・丹生郡・今立郡の領地は、検地前には小成物を加えて2万5673石、検地による出目は小成物を加えて6223石、検地後の領知高は2万9774石であり、4100石余りが加増されている。
「越前府中郡在々高目録」の村高は(略)海成は三か浦とも5倍の10石となり、新たに舟手米が舟数に応じて課せられた。これは大舟一艘につき米3石1斗ずつで、この時池大良・大谷・糠の各浦には4艘、9艘、10艘の大舟があったので、それぞれ12石4斗・27石9斗・31石であった。
(抜粋終わり)

質問2 全国の石高3―4千万石に、農産物・海産物の年貢の総量が占める割合についは、なかなか難しいということが分かりました。
越前・若狭二国だけでも、私の読解力ではこれだけ詳しい資料を見てもはっきりしませんでした。
疑問の発端は「江戸時代後期、農民は米の飯をどのくらい食べることができたのか」を知りたくて、そのヒントを求めて質問しました。
つまり、米麦の確かな生産高を知りたいわけです。

>めちゃくちゃ細かく検地していますので、適当な当てずっぽうではないはず。

これは、私の質問文“何を根拠にしているのか”が不適切でした。
「誰の著書や論文によると、何年ごろの」と書いてあれば納得できます。
また、何千何百万石という単位であれば、ある程度は納得しますが、 “3千万石”と言われても表高なのか内高なのか、大雑把すぎます。
さらに自分で郷土史を読んで調べてみようと思います。

いつも的確な回答を下さって感謝しております。

お礼日時:2013/02/23 10:24

全国の石高



http://www.kyuko.asia/book/b10984.html
幕府主導で全国調査をしております。

http://d.hatena.ne.jp/sampodow/20070321
この方がサンプル画像で出しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「天保郷帳」という用語をよく見ますが、こうして回答を頂くと身近に感じます。
天保郷帳は内高表記らしいです。
それにしても、江戸時代の米の生産高を全国レベルで推定することは、困難であるということがよく分かりました。

お礼日時:2013/02/23 11:44

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