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この世は仮の宿であり、真の世界ではないと言ったりもする。
この世の全ては幻であり、実在はしないと言ったりもする。
自分だけが存在しないほうが良いと思っているのであろうか。
それともこの世の全てが存在しないほうが良いと考えるからなのであろうか。

なぜ人は無を求めるのか。
いや無ではなく空であると言ったりもする。
無と空の違いさえ知らないにも関わらずである。
座禅を組んで無の境地に浸ろうとする輩もいる。
ところがその座禅を組んだ後、飯を食うのである。
無を求めるならなぜ飯を食う必要があるのか。
食った飯は無なのか有なのか。
あまりに愚かとしか言う以外あるまい。
 

A 回答 (13件中1~10件)

どれが質問なのだろうか。



>この世は仮の宿であり、真の世界ではないと言ったりもする。
>この世の全ては幻であり、実在はしないと言ったりもする。
>自分だけが存在しないほうが良いと思っているのであろうか。
>それともこの世の全てが存在しないほうが良いと考えるからなのであろうか。
誰がでしょうね・・・
まさか人間全体の思考とかいいださないですよね。

>座禅を組んで無の境地に浸ろうとする輩もいる。
>ところがその座禅を組んだ後、飯を食うのである。
無の境地と、食欲を満たす事は一見反してるようにも考えられますが、別に死ぬために座禅組むんじゃないですよね。
つまり貴方の言う無の境地と、無の境地のために座禅をするかたのいう無の境地は別物なのでしょう。

>無と空の違いさえ知らないにも関わらずである。
無と空の定義を、完全にできていると思ってるのなら、貴方は哲学を考える人としてどうなのだろうか。
またそれを人に押し付けるのはどうなのだろうね。

>あまりに愚かとしか言う以外あるまい。
人の価値感、行き方を蔑んでる時点で、貴方も愚かですよ。

この回答への補足

 
やっと、質問らしい質問になりました。
 

補足日時:2013/03/03 06:59
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この回答へのお礼

>どれが質問なのだろうか。

なぜ人は無を求めるのか- これが質問です。
 

お礼日時:2013/03/01 19:17

 何故、人が無、あるいは空を求めるか。


恐らく快楽あるいは、苦痛からの逃避を目指しているのではないでしょうか。
無になることが"目的"ではなく、"手段"だと考えるのです。
例えてみるとそれは睡眠です。私たちは寝ている間、
意識はないはずです。意識がない。つまり苦痛を感じないということです。
 勝手な思い込みかもしれません睡眠を苦痛に感じる人は恐らくいないと
思います。
人は誰しも悩みます。辛いことがあります。私たちはそれから開放されたい
と感じているのではないでしょうか。しかし私達に意識がある以上、
何かしらに感じるものがあります。それらから一切干渉されない手段、
それこそが意識の消滅です。
 だから私たちは無になることを求めているのではないでしょうか。
当然、無は手段であり、目的ではないので飯は食います。
あくまで苦痛からの逃避が目的です。飯を食うことは
苦痛ではありませんから。

 あくまでこれは私の推測です。私にとっての答えであり、
あなたの求める答えではないかもしれません。あくまで参考に
留めていただけると幸いです。
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この回答へのお礼

 
>あくまで苦痛からの逃避が目的です。

苦痛から逃避するために、無を求める。

全てが無であれば、苦痛も無になる。

無を求めれば苦しむことはなくなる。

つまり無を求めることは苦しみが生み出す喘ぎなのか。

苦しいから喘いでいるのか。

おそらくそうに違いない。

無を求める本人はそのことに気付いているのであろうか。
 

 

お礼日時:2013/03/01 17:25

「喪に服する」ということがあります。




曰く「3年間は、喪に服し、、、その間、「寝食もままならず、立ち上がるにも、両側から支えられて、ようやく立つ(程に!喪に服している)」というのが「良い」」、ということだそうで


>「あまりに愚かとしか言う以外あるまい。」

・・・
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この回答へのお礼

・・・

お礼日時:2013/03/01 19:01

>食った飯は無なのか有なのか。



 これが質問なのか?
 食っちまった飯は、もうないぞ。

 あまりに愚かとしか言う以外あるまい。
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この回答へのお礼

 
確かに。

飯は食ったら、もうありません。

やっぱ、これについては東武東上線でも同じだろな。
 

お礼日時:2013/03/01 19:05

大半は、「質量ゼロ」の「無」を求めているわけではないと思います。


「無」を誤解し、愚かだと蔑む・・・あまりにも(以下省略)
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この回答へのお礼

 
>大半は、「質量ゼロ」の「無」を求めているわけではないと思います。


では訊きます。

無と空の違いは何なの。
 

お礼日時:2013/03/01 19:07

無と空とは違います、空とは、からっぽで「「隔てるものがないという事です」」自己対宇宙(自己対他 生対死 過去対現在対未来)



対が有から心が落ち着きません 色即是空、空即是色、自己=宇宙と言う事です  白隠禅師は無想の相といい。

西田幾多郎は絶対矛盾的自己同一といい  鈴木大拙は即非の論理(AはAで非ず故にAである)言いました

同意語ですね

自己と宇宙が溶け込んでるといいますか、自己が宇宙に包まれてると言う事です「隔てるものがない世界です」

自我という分別妄想の囚われから離れた状態で、諸行無常と一体になった状態です、禅でいう悟りです

他力宗では安心(あんじん)と言います、同じことです。
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この回答へのお礼

 
>無と空とは違います、空とは、からっぽで「「隔てるものがないという事です」」自己対宇宙(自己対他 生対死 過去対現在対未来)

ブータン的に言うと、空とは感受表面であるとなります。
 

お礼日時:2013/03/01 19:12

「存在とは何か?」という問いになら、何も無に


帰結する必要はない。
しかし起源についての問いには、無以外のどの
ような答えも、「じゃ、それは何から生まれたの?」
という無限連鎖に陥る。
起源が無であれば、発生は相補分化であり、
「現実」も無に還元されて然るべきである。
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この回答へのお礼

 
>じゃ、それは何から生まれたの?

何故そのようなことを問う必要があるのか。

そのような問いかけは無意味かも知れんのである。

もともと起源には到達不可能かも知れんのである。

なぜ物事に起源があると決めつけるのか。
 

お礼日時:2013/03/01 18:48

人生に於いて湧き上がる疑問は、自分自身に疑いを抱くからです。

知恵が付いた証拠です。こう云う現象を聖書では『失楽園』と表現しています。こう云った疑問を抱かない場合を、天国と書いています。

天国では、人間の疑問や悩みが無い状態という意味と思います。その天国に一番近い存在を『幼子』と書いています。その理由は『人生はなんだろうか?或いは自分は何者か?』という事を思い付かないからです。

目の前の人生が『仮の宿であり、真の世界ではないと言ったりもする。この世の全ては幻であり、、』という風には感じていないからです。

こう云う風に感じている場合では、この疑問自身の中に答えは用意されています。何故なら『如何して疑問に感じているのか?』の中に答えがあるからです。

人間は、自分で問題を作り出して、その問題に苦悩する場合があります。何故人間にはこう云った疑問が湧き上がるのかを、科学的に証明したいと思います。

失楽園の元になる契機は、イチジクの葉で、自分の裸を隠すところからでした、この意味は、知恵が付いて『神に疑いを持つ』という意味合いで書かれていますが、本当の意味は『心の機能が、熟して二つに分かれた事を意味します。』

見ている自分と見られている自分という風にです。大人の脳には『二つの人格が存在する。』事を証明して、ノーベル賞を受けた脳生理学者の記事を、ウイキペデアから紹介します。


『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』


更にこの記事の内容を補強するために、脳卒中になった脳科学者の動画を載せて見ます。よく観察してください。



URL:


この動画で語られている内容は、内在する『己の識られざる神』との出会いです。先の話をもう一度するなら、この疑問自身の中に答えは用意されています。何故なら『如何して疑問に感じているのか?』という話です。

疑問を感じさせている者が『右脳の人格』という言い方も出来ますが、この者自体に疑いを持った事が全ての疑問の元を作っている、という言い方も可能です。

この者との、意識の食い違いを、疑問や悩みとして感じていたからですが、この出会いによって全ての疑問や悩みは『胡散霧消します。』この現象を、見性と禅では書いています。

全ての苦しみや悩みや疑問の元は『自分自身が作っていた事』が分かる瞬間です。意識の根底(脳梁の中)で、不安の基が作られていた事から、この出会いの瞬間に『今まで、緊張の為に体中日からが入っていましたが、一瞬で全ての力が抜け落ちます。すなわち『心身脱落、脱落心身』という現象です。

この体験を、禅では『生死の問題が解決した』と表現しています。
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若い頃に、半年ほど座禅に通ったことがあります。


「作務(庭掃除)」「座禅」「般若心経の読経」

説法を聞くというのはなかったのですが、
座禅の時に、住職さんが「無」という言葉をよく繰り返されてました。

「無」とは何なのか。
哲学的に深く考察したことはないですが・・
座禅は、理論からでなく行為を通して近づいていくといった感じですね。
座禅をしていると、いろいろな雑念がわいてきます。
何も考えずに、ひたすら座るというのは、簡単なようで難しいものです。

無心に近づく時、境界が無くなってくるような感覚はありました。
空気や水や物質、花や木々のざわめき、遠くの星やすべてを包む宇宙。
生きているものは悲劇(生老病死の宿命)を内包していると思うのですが、
宇宙は、楽観的でも悲観的でもなく、ありのまま在る。
言葉では上手く表現できないですが、そんなことを感じたように思います。
「無の境地」とは、また違うでしょうけどね。

「般若心経」の一字一字の意味を深く学んでいけば、もっと気づきがあったかもしれませんが・・若いうちに観念的世界からは遠ざかりましたので。
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そこに有るから

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