No.7ベストアンサー
- 回答日時:
大阪夏の陣も収まり、
駿府で余生を楽しみ、数年・・・・・
徳川家康は、日頃から、健康に気を付け、簡素な食事、自ら薬草を煎じ薬を調合などし、73歳まで生きたが、
元和2年(1616年)1月21日、現在の駿河の田中(藤枝市)での鷹狩りの帰路、田中城で、親友の京都の豪商、茶屋四郎次郎と会い、最近、上方では、南蛮料理の鯛の天ぷら(鯛をカヤの油で揚げ、薬味としてニラを細かく刻んだものをかけて食べる、現在では南蛮焼き とされるもの)が流行していると聞き、さっそく 東海の新鮮な鯛で作らせ、皆で食べ、家康公は、お代わりまでして、楽しんだという。
が、油が悪かったのかその晩から腹痛が始まり、田中の城では充分な養生ができないと考えた家康は、急いで隠居所の駿府の城へと戻り、自らの調剤知識を活かした自家調剤の薬での治療に専念します。途中、自己流の治療を侍医が諫めたりもしたのですが、その侍医を信州に流罪にしてまで自らが信じた治療法に専念しています。しかし、高齢という事もあり、体調回復せず、衰弱し持病の胃癌が悪化、四月十七日、死亡したそうです\(^^;)。

No.8
- 回答日時:
家康は関ヶ原の合戦で討ち死にしたと思っていたら、諸説有るんですね。
桶狭間の合戦で暗殺されたとか、大坂夏の陣で殺されたとか。
江戸時代に入ってからも、会津藩の松平容敬(公式には会津藩6代松平容住の子、実際は高須藩主松平義和の子)などのように血縁関係もない赤ちゃんを貰って、藩主のオトシダネと称し跡継ぎとして育てたという現実もあるように、家という物の存続が担保されれば、どこの馬の骨が殿様でもよかったのでは。
No.5
- 回答日時:
信玄との戦で馬上で脱糞して志村けんのダップンダー顔になって顎が外れて死んだのでは?
No.2
- 回答日時:
大阪冬の陣:1614年
大阪夏の陣:1615年
徳川家康死去:1616年4月17日 死亡原因については
・てんぷらの食べすぎ
・サナダ虫
・胃がん
と三つの説あり。
一応定説となっている死亡年月日は冬の陣、夏の陣の後ですから、はっきりさせるならばどちらでもないということになります。一方で家康影武者説や小説などでは本物の家康は夏の陣、はたまたもっと前の関が原で死んだなどという説もありますが、定説ほど広く知られてはいません。
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