
先祖の調査をしようと本家に行きました。
お墓と位牌を見てきましたが、わからない事だらけです。
以下の調査結果から農民だっと思うのですが、どんな暮し(身分の)農民だったのでしょうか。
1.位牌は沢山出てきましたが、一番古いのは寛文三年 戒名は 禅定門と禅定尼
2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。
3.墓で一番古いのは(判明できるのは)正徳です。
4.場所は栃木県です。
5.菩提寺はもともと城で、戦国時代後期に落城。その後死者を弔うために建立されました。
まったくの素人なのである程度詳しい方の意見や実際に調べている方の意見など頂けると幸いです。
上記と直接関係があるかわかりませんが、以下についても記します。
5.実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。しかし状態が悪く、ほとんど書いてあることが読めない。
6.上記位牌は菩提寺の住職が読める範囲で書き直したらしい。
7.古い掟では、正月飾りをしてはならぬ、節分や節句、祝い事、祭りごとなど目立つことはしてはならぬ。とあったそうです。 とにかく目立つことはしてはいけないと。
8.昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?
よろしくお願いします。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
中々の銘家と推察いたします。
>>2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。
「禅定門」「禅定尼」は基本的には、禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)寺院での戒名と考えて良いかと思います。
もし、現在禅宗寺院を菩提寺としていない場合は、先祖の誰かが改宗したものと考えます。
また、武士階級や商人でも藩に関わる仕事をしていた方に「禅定門」「禅定尼」の戒名が付けられることが多く見受けられます。
従って、昔、城があった・・・と言うことですので、武士・・・それも徴兵された百姓などのように「にわか武士」ではなく、城主に仕える身分だったのかもしれません。
ただ、蔵があった・・・と言うことから考えると、城への出入りを許された商人のような気もします。こちらの方が強いかな?
>>4.場所は栃木県です。
>>5.実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。
栃木県には足利氏の荘園が幾つも存在し、貞和四年(1348)と言うことは、足利尊氏が征夷大将軍を務めていた時代ですから、栃木県は足利氏の影響力が非常に強かった時代です。
その頃、あなたのご先祖さまは足利氏に直接、または、その家臣たちに取り立てられて、次第に大商人となり、活躍していた可能性が考えられます。
>>7.古い掟では、正月飾りをしてはならぬ、節分や節句、祝い事、祭りごとなど目立つことはしてはならぬ。とあったそうです。 とにかく目立つことはしてはいけないと。
これには2つの考え方ができます。
1.大商人であったから、他人にみせびらかすような派手な行為を慎むと同時に「節約を旨とすべし」のような家訓があった。
2.何かの失態があって、他人(ひと)さまに顔向けができない。そこで、全ての行事は内々に内輪だけで執り行うようになった。
>>8.昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?
昔は、現代のように「恋愛結婚」などは、特に、大商人や地主、武士などもそうですが、絶対的にありませんでした。
全て、親が、相手の家格や財力などを基に嫁などは決めていましたので、あなたのご先祖さまも大商人で、当然、それに見合った嫁選びをしたことと思います。
従って、長持ちの中には代々のお嫁さんが実家で用意してくれた衣装などが入っていたと考えられます。
また、他の位牌については、なぜ蔵にあったのか疑問ですが、或いは、母屋も焼失してしまったのかも含めて、貞和四年(1348)から、いきなり、寛文三年(1663)まで、約300年間が飛んでしまっていますので、その間の位牌ではないかと考えます。
総合的に判断すると、城へ出入りを許された「大商人」の家系のように思われます。
余談になりますが、
私の実家は本家は古くは、やはり、平安時代にまで遡ることができますが、江戸時代の宝暦年間(1751~)に、佐渡奉行所が財政難になった時、当時、庄屋であった夘兵衛という者が近隣の庄屋四人に声をかけて資金集めをし、佐渡奉行所へ300両(約3,000~4,500万円)を寄付したことから、佐渡奉行より「○○家を名乗るように」と姓を授かりました。
そして、その夘兵衛の四男が分家をし「△△家」」を起こしたのが私の家です。
ただし、あくまでも農家でした。
回答ありがとうございます。
商人ですか。意外な回答でした。ずっと農民だと思っていたので。
戒名:
謎です。お寺は真言宗なので、改宗したのかもしれません。
蔵:
商人説がやや有力かもしれません。
祖母に連絡したところ、祖母の祖父の代(おそらく江戸後期から明治初期)に蔵があり、燃えてしまったようです。
また祖母の母の実家は商人で家に奉公人がいたそうです。子供女学校に行っていたり、祖母の母の父は趣味で鉄砲狩りをしていたそうです。その祖母の母と父(本件の家系)が婚姻したのですから、同じくらいの家柄だったのだと想像できます。
No.7
- 回答日時:
近所の日本史家にきいたらどうかとおもいますが。
蔵については、燃えないのが蔵ですので、おっしゃることの意味がよくわかりません。
納屋のことでしょうか。
お寺の立地についていえば、城のあとにはあまりたてないかと思いますが、住所
がどこの何というお寺ですか。
いずれにせよ、本家にいったのなら、本家のひとにきくのが一番では?
回答ありがとうございます。
残念ながら蔵が燃えたのを誰も見ていません。ただ、蔵は燃え難いだけで、燃えないものではないと思います。土と木でできているものですから。
寺名は伏せておきますが、間違いなく元城です。市の史跡に認定せれてて、土塁なども残っております。
No.6
- 回答日時:
こんにちは。
相当古くから続いている御家のようですね。
戒名と仰っている「禅定門」(男性)「禅定尼」(女性)は戒名ではありません。
浄土真宗や禅宗の信者が没した時につける戒名の前の記号とも言うべきものです。
例えばお寺で戒名を付けて頂く時、現在の浄土真宗では「釈****」女性の場合は「釈尼****」とつけますね。
御布施が多いと「院号」(**院***居士と云う風に)を付けて頂けますよね。
これらの「釈、釈尼」や「**院」に当たるものが「前定門、前定尼」(ぜんじょうもん、ぜんじょうに)です。
又、戒名の前に付ける禅定門、禅定尼は熱心な仏門帰依者(浄土真宗或いは禅宗)である事が多いようですね。
従ってその後に戒名が書かれているはずなのですが、消えているのか、或いは全く書かれていなかったのか、或いは前もって用意されていた位牌なのかは判りませんが、字が書かれた痕跡すら無いのであれば逝去された人のものでは無く前もって用意されていた位牌であろうかと思います。
質問でお書きになった・・・7.古い掟では、正月飾りをしてはなら・・・から独断と偏見で推測しますと古い御家柄の落ち武者の家系で表立った目立った行為を避けたのを戒めとして一族の家訓になさったか、或いは鎌倉時代に親鸞によって始められた浄土真宗(当時は異端とされたことがあります)に帰依されたので、表向きその事が判ると色々な差し障りが出るのでそう云う戒めを伝えられたのかもしれません。
武士は元々農民ですから、鍬を刀や槍に持ち替えて戦うと云うこともあったのですから一概に農民の・・・と云う訳でもないと思います。
古いご一族のお墓があるのでしょうからそのお墓の何処か、有るいはいずれかの墓石に家紋が彫られていないでしょうか?
若し家紋でなく「梵字」であり傘を冠ったような石塔などの墓石であれば間違いなく武家の一族で、事情があって表立った暮らしをしてはならない(例えば幕府に楯突いていたなどの)とされたのだと思います。
土地を支配した様な豪農であれば墓石は普通でしょうが、そうでない農民なら墓石などは無く目印の石を置くだけですね。
又、昭和30年頃までは地方へ行くと普通に見られたのは家を囲む垣内(かいと:石などで敷地を囲む)に井戸、代々のお墓(無論土葬ですが、武家以外では墓石は珍しく、普通は握り拳大の石を沢山積み上げる形)が一緒に並んでいる光景でした。
菩提寺が落城の後に立てられたとお書きになっているのでまず間違いなく武家の出自でしょう。
家紋から出自を結構見つけられます。
又、空襲に会っていない土地ならば、役所で父方の祖父、曽祖父の除籍謄本を見ることによって慶応位まで遡れます。(祖父の名前欄の脇にその父母の名前が書かれていますから3代前の方の名前も判りますよ)
私事で恐縮ですが10年ほど前ネット友達に頼まれ、その方が住んでおられた九州の某都市に一軒しかない苗字だったのを家紋から遡り(珍しい苗字でしたが)福島県に同姓を十数軒見つけ、其処へ会いに行かれてなんとその村の菩提寺にあった古文書から5代前に出て行かれたと言う先祖が判り、泣いて喜ばれたこともあります。(一門同じ家紋でした)
一度身近なところから手を御付けになればと思います。
又、過去を調べるのにお寺に目を向けがちですが、お住みになっている地区に鎮守社があれば意外に古文書が残っている事もあるものです。
回答ありがとうございます。
大変詳しい説明、ありがとうございます。
お墓といっても1mぐらいの高さで、石を長方形に削ったものです。ハの字型の屋根はついていますが、表はまったく読めません。風化したのかと当初思っていましたが、削ったようにも思えます。なので梵字や家紋は分かりません。
宗教にとても詳しいお方ですね。
大変勉強になりました。
新たな情報も得ましたが、新たな謎も出てきました。
やはり現地調査が必要ですね。
No.5
- 回答日時:
法務局に行って、本家のある地域(村)の旧土地台帳を確認しましょう。
地租改正後の土地の台帳です。土地の値段、地租、面積、そして所有者がわかります。
そこから明治初期のご先祖様の名前を片っ端から見つけていくのです。
明治期に突然急成長を遂げた家でなければ、多くの場合江戸時代から継続して所有している土地を示します。
他の家と所有地を比較すれば、どの程度の家であったかは判明します。
法務局にある(役場・公民館にもある場合あり)、和紙の公図を撮影、印刷してその上に落としていくと面白い傾向をすることができるかも知れません。
あとは、検地帳や宗門人別改帳が役場などに保管されていないか調べてみては如何でしょう?あれば江戸期の身分が判明したりします。ただ取り扱いには十分ご注意を。
貞和四年だけ異常に古いですね。何が書かれていたのか気になるところです。
No.4
- 回答日時:
質問者さんにお伺いしたいのですが
===
(1)「昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?」
というのは、どのような情報なのでしょうか?何か証拠は残っているのですか?
仮に本当であれば、「蔵を持っていた」ということだけで、「裕福な家だった」という根拠になるでしょう。
===
(2) 質問者さんのご本家のお墓は菩提寺の墓地にあるのでしょうが、どこにあるのか、で、暮らしぶりがある程度推定できます。菩提寺の墓地の中には、「お寺の歴代住職・その家族の墓」があります。檀家としての格は「お寺の歴代住職・その家族の墓との距離」が近いほど高いと考えるべきのようです。
===
(3) 質問者さんのお身内で、記憶がはっきりしている最年長の方は何歳くらいですか?そういう方は、
「戦争の前に、質問者さんのご先祖が、何を職業として、どこに住んで、どんな生活をしていたか」
を知っているでしょう。質問者さんのご先祖が武士であった場合を除き、江戸時代に裕福な暮らしをしていた家は、昭和戦前期まで同程度の暮らしを保っていた例が多いようです。
仮に質問者さんの先祖が武士であったとすれば、どの武士も明治維新によって家禄を失った=失業したことに違いはなく、スムーズに「官吏」「教師」などに移行できた人を除き、江戸時代より貧しくなっていることが多いです。
ただし、「武士の子孫の家には、『ウチは金沢前田家に仕える武士だった』といった情報が伝わっており、大筋では正しいことが多い」と言いますので、「質問者さんのご先祖が武士だったという言い伝えが存在しないなら、平民だったのでしょう」
===
さて、他の情報は、質問者さんのご先祖の「暮らしぶり」について知る手がかりとしてはさほど役に立たないと思います。
「菩提寺はもともと城で、戦国時代後期に落城。その後死者を弔うために建立されました」
これは、質問者さんのご先祖の暮らし向きとは関係なさそうです。
「位牌はたくさん出てきた」「上記位牌は菩提寺の住職が読める範囲で書き直したらしい」
現在見ることができる位牌は、菩提寺の「今のご住職」が書き直したもの、ということでしょうか?私の知る範囲で、位牌というのは保存状態が悪くない限り何百年経っても読めるので、何で書き直しが必要だったのか良く分かりません。位牌が、ご本家の仏壇の中にたくさん入っていて、蝋燭のススで真っ黒になっていたとかでしょうか?
また、「たくさん存在する位牌が、質問者さんのご先祖のものである」というのは確かなのでしょうか?
位牌はどこにあったのでしょう?菩提寺の位牌堂ですか?ご本家の仏壇の中ですか?
「たくさん存在する位牌」が、質問者さんのご先祖のものであるのが確かであり、位牌が1600年代半ばの寛文まで遡れ、お墓が1700年代はじめの正徳まで遡れるのでしたら、「貧乏ではなかった」とは言えるでしょうね。平民であっても、そこまで先祖を遡れる家というのは、他の方も言っておられますが「きちんとした生活基盤を有しているために、家系を続けることができた家」と判断する材料になります。
ただ、その場合は、先述したように、少なくとも
「昭和の戦前期に、質問者さんのご先祖が、何を職業にして、どこに住んで、どんな生活をしていたか」
が伝わっていないと変です。
また、栃木県にご本家があり、少なくとも菩提寺は戦災を受けていないようですね。戦災で財産を焼失したのでなければ、「位牌」以外にも様々な古いものが残っているのではないでしょうか?
「系図」はあてになりませんが、江戸~明治・大正・昭和戦前期に裕福な暮らしをしていたのなら、古いものがいろいろ残っているはずです。
残っていないのなら「裕福な暮らしとは言えなかった」という傍証になるでしょう。
「戒名は 禅定門と禅定尼」
これについては、仏教に詳しい方がフォローして下さると有り難いのですが、「戒名から何かを判断出来る」というほどの情報ではないように思えます。
「実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。しかし状態が悪く、ほとんど書いてあることが読めない」
『ほとんど書いてあることが読めない』位牌と、質問者さんのご先祖の関係はどのようにして分かるのでしょう?書いてあることが読めないのなら、その位牌は
「辛うじて、南北朝時代の年号が読める、正体不明の位牌」
以上でも以下でもなさそうです。
この回答への補足
補足させて頂きます。
1.蔵
蔵はあったそうですが、祖母の祖父の代に火事で燃えたそうです。今はその残りが別の蔵にあります。
2.墓
今回の墓は残念ながら自宅の敷地にあります。それ以前は調べてみないとわかりません。
3.近年の暮らし
武士ではないと思います。質問時に書いた通り農民だと思っていました。年長者が私の祖母になり、年は90近くになります。祖母以外にも兄弟が沢山いるので、聞いてみたところ、詳しい職業を誰も知りませんでした。ただ、祖母の祖父の代に投資に失敗し、暮らし向きが悪くなったようです。また祖母の祖父の代(おそらく江戸後期から明治初期)に蔵があり、燃えてしまったようです。
また祖母の母の実家は商人で家に奉公人がいたそうです。子供は女学校に行っていたり、祖母の母の父は趣味で鉄砲狩りをしていたそうです。その祖母の母と父(本件の家系)が婚姻したのですから、同じくらいの家柄だったのではと思います。
4.その他
先祖代々同じ土地に住んでいます。また位牌は間違いなく当家のものです。別の人が調べたときに過去帳を見たようです。
位牌を書き直したのは今の住職なのか不明です。書き直した理由は読めなくなってきたので、読めるうちに書き直したそうです。読めなかった位牌は書き写せず、まとめて1とつの位牌にしたようです。一番古い貞和の位牌だけはなぜか残していたようです。
No.2
- 回答日時:
どんな暮し(身分の)農民
↓
いい暮らし、あるいは上層農民とか
17世紀の人口バブル(100年で二倍)以外の時代は、子孫を残すのは大変なことでした。
上層=子孫を拡大できる
中層=現状維持、ただし飢饉などの時には破綻の可能性が高い
下層=現状維持が難しい、飢饉などの時には破綻しやすい
経済要因のない 日本人の名字の統計解析(全員が中層というような仮定)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110003502725
1世代で6300種類の名字が消滅しているそうです、このように、名字の多様性が減少することを、逆の言い方をすると
みんなの先祖はほぼ一緒
であり、子孫を残すことに関して経済要因の強かった近世以前においては、先祖はみんな上層農民であったと推測されます。
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