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老子荘子を読んでいると「なまじ才能があると人に酷使されて不幸になる」というテーマが
繰り返し現れますが、これはなぜなのでしょうか?

また現代日本の世情に照らし合わせて、みなさんこのテーマをどう思われますか?

A 回答 (13件中11~13件)

>なまじ才能があると人に酷使されて不幸になる



 美しい毛皮が採れる動物は乱獲されるということ。
 そうじゃない動物は見向きもされないから生きながらえる。

 老壮思想は奥が深いけれど、才能なんかない方が、役に立つ仕事をしない方ことが最高に幸せだと思いたがる怠惰なニート思想に変貌しやすい。

 つまるところ、ことばを受ける側がどう料理するかで、幸せにもなり不幸にもなる。
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この回答へのお礼

いわゆる老荘の毒というやつですね。
儒教が出世主義や官僚主義に転化しやすいのと、
対を成していると感じます。

お礼日時:2013/08/05 10:03

 神の手を持つという脳外科のドクターが、60歳過ぎてもろくに寝ないで働いて、病院で仮眠を取り、ゴハンはカップラーメンでした。



 生死をさまよっている患者が山のように待っていますから、休むワケにもいかず…という所でしょうか。

 デザイナーとかでもそうですが、出来る人の所に仕事が集中しますので、断りきれないとオーバーワークになって自分が倒れてしまう…という所でしょうか。

 それが幸せというヒトもあるので何とも言えませんが。。。
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この回答へのお礼

私が見たのは、ビル・ゲイツが机の下の寝袋で寝ながらコードを書いてるやつで
(さすがに今はそんな生活してないでしょうが)、悲惨な生活してるんだなぁ・・・と感じました。
頑張るのはいいですが、身体壊したら元も子もないですよね

お礼日時:2013/08/05 10:08

例えば、努力と才能で「英語がとても上手くて、同時通訳もおまかせ!」っていう方がいたとして、その才能が注目されて、英語力を生かすような仕事をまかされたとします。


本人は嬉しいでしょうけど、それは「専門職」としてのポジションです。代わりとなる人材を得ることも可能。
いくら努力しても、それは専門家たちの世界での話であり、その努力によって、企業の中で、役員とか社長などにはなれない。

まあ、「(英語の)専門家」であったことで満足している人ならいいですけど、それ以上を狙っていた人が専門職で終わってしまうなら、その人にとっては「不幸」と感じるのではないでしょうか?老子や荘子はそういうことを言いたかったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

専門職と総合職という視点は面白いと思いました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/08/05 10:08

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