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No.2
- 回答日時:
侵攻軍の最高指揮官であるイベリア知事
アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーが
戦死したためではないでしょうか。
イスラム軍は弓兵歩兵騎兵などを組み合わせた軍団だったようですが、
フランク王国軍は重装歩兵中心の編成に偏っていました。
なんだかローマの匂いがしますね。
それまでフランクには馬の鐙がなかったというのもローマっぽいです。
この偏った編成が結果的に勝利を呼び込んだのではないでしょうか?
両軍は一週間の対峙の後激突しますが、まずイスラム軍が弓で攻撃し、
これに対抗する手段の無いフランク軍はひたすら密集陣形で盾を並べて耐えます。
フランク軍が崩れないと見たイスラム軍は得意の騎兵突撃を行いますが、
これにもフランク軍は密集陣形を組んで耐えようとします。
何しろ、古臭い重装歩兵ですからほかに手段がないんです。
一進一退しているうちイスラム側の最高指揮官が戦死してしまいます。
イスラムもそうですが、当時の戦は大将が討たれたらそれで負けです。
第一日目の戦いが終わった後、大将を失ったイスラム軍は一気に崩壊。
夜のうちに戦場を離脱して退却。
勝ったフランク軍にも何で自分たちが勝ったのか、分らなかったかもしれません。
No.1
- 回答日時:
質問者さんが疑問に思うようにイスラム軍敗退の実態は全く明らかになっていない。
しかしトゥール・ポワティエ間の戦いのわずか18年後にウマイヤ朝が滅亡した事実を考慮すれば実態は想像がつくのだ。いうまでもないがトゥール・ポワティエ間の戦いでの敗退がウマイヤ朝の致命傷になった訳ではない。どういうことかといえば、イスラム軍の内実は指揮官だけが威勢が良くても、兵士は厭戦気分が蔓延していて、いやいやながら指揮官についてきただけというのがピレネー山脈を超えたイスラム軍の実態だった筈なのだ。ウマイヤ朝は決して国民国家ではない。諸民族を飲み込んだ帝国であったが、末期は瓦解寸前の求心力を失った状態であった。軍事的には強大であっても、内実は脆弱な軍でもあったのだ。
イスラム軍は指揮官アル・ガーフィキーの戦死によって統制がとれなくなり、これ以上戦う理由も見失ったということだ。戦う理由が無いなら引き上げる他に選択の余地は無い。
現代とちがって詳細な戦記が文書で残っている時代ではないから、以上は想像するしかないことだが、そう考える他あるまい。
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