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大相撲の千秋楽の「これより三役」で、勝ち名乗りを受けるときに
「役相撲にかなう」に言って矢などを渡していますね。

以前は「小結にかなう」「関脇にかなう」…と呼んでいたと思うのですが、
何年何月場所から変更になったのでしょうか。
(また、以前は結びの相撲でも弓を受け取っていたような気がしますが、
どうだったか忘れました)

時期の他にどういった経緯があって変更になったのかも教えて頂ければ嬉しいです。

A 回答 (1件)

かつては確かに「小結にかなう」で矢を、「関脇にかなう」で弦を、「大関にかなう」で弓を渡していました。

現在の「役相撲にかなう」になった経緯は実はいくつかあって、一番分かりやすいのは、

「これより三役を「横綱込み」にしたこと。」

本来のこの所作は、矢・弦・弓を組み合わせて一張の弓矢を作り上げ、千秋楽結び、つまり本場所最後の一番を終えたあとに、(本来は勝った横綱自らでしたが)現在では弓取所作を心得た幕下以下の力士に完成した弓(名目上。実際は弓のみで弦も矢もありません)を渡し、それで弓取式を行う、という一連の流れでした。

本来の三役とは、大関・関脇・小結の三役です。しかし、俗に「これより三役」というのは、東西それぞれ「結びを含め最後の3番を取る力士3人ずつ」ということになりました。そしてこの頃から、弓を省いて矢と弦のみ勝ち力士に与え、弓はといえば「結びの一番に勝った力士の部屋の”弓取式担当力士”」が土俵に上がり(これを弓を与える所作の代行としたのでしょう)、改めて行司より勝ち名乗りを受け(例えば勝ち名乗りは「白鵬代~祥鳳~」※今は確か伊勢ヶ濱部屋の聡ノ富士だったはずですが)、弓を持った弓取力士が一連の弓取式を行う、という流れになっています。

この辺りの切り替えは曖昧なのですが、一説には、

「横綱(大関が最高位だった時代は大関)で弓取の所作をこなせるのがいなくなったから。」

という、何とも情けない理由も1つだと言われています。質問者様も書いていましたが、本来は結びの一番で勝った力士が弓を受け取り、その場で弓取の舞を見せる、というのが元々弓取の所作でした。その弓取式の所作自体は横綱や大関など階級に関係なく、力士としての嗜みの1つされるほど、実は普通に部屋で親方に教えを受けていた作法です。しかし、横綱になっても千秋楽の弓取がうまく出来ない(考えてみれば未だに土俵入りさえミスる横綱がいるくらいです、弓取を失念するのは予想の範囲内?)、これは興行として非常にまずい。そこで、主に本場所最高位(横綱がいるなら東正横綱)のいる部屋の幕下以下の力士に弓取式を代行させるようになりました。

「大関にかなう」で弓を受け取っていたのは、かつての相撲の最高位は「大関」であったことの名残だとされます。前述の通り、元々は結びの一番を取り終えた勝った大関が受け取った弓で一差し舞うものでした。それが横綱位が定められ、今度は結びの一番は横綱が取るものになり、弓取式も横綱が行うようになりました。しかし、弓取式もそれなりに難しい(弓を落とした際の所作を間違えたのが、結び力士が直接弓取式をしなくなった原因という説もあります。弓取式で厳禁なのは、落とした弓を決して「手で取ってはいけない」。土俵に手を付くことがどれほど不浄か、お分かりだと思います。よって、何が何でも足だけで落とした弓は拾い上げなければなりません。弓の下に足先を入れ一気に蹴り上げてキャッチ、が所作のようです。その際や弓取の最中で土俵下に弓をすっ飛ばした場合に限り、土俵下の呼び出しが(これは土俵下なので可)飛ばした弓を手で取り、弓取の力士に渡すことが許されます)。

呼び名が切り替わった時期は正確には不明ですが(おそらくは1994年の「張出」表記の廃止からだと思われます。それまではとりあえず三役相撲では平幕力士でも小結に~とか関脇に~と呼ばれていたようなので)、結びの力士が弓取式をしなくなったのは明治時代にはすでに確認されているので、前述の通り相撲の最高位が大関だった時代まで遡らないと直接弓取を行うのは出てこないかもしれません。

この回答への補足

経緯は大変分かりやすい説明なのですが、肝心の時期については分からないのですね。
私の方でも回答頂いてからいろいろ調べてみましたが、1993年の映像でも「役相撲にかなう」って言ってますね。1980年代の初期は「小結にかなう」って言っていたように記憶しているので、昭和50年代の後半から平成の初期のどこかの時点なのでしょうけど、その辺りの正確な時期は分かりませんでしょうか。

補足日時:2013/07/16 23:29
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