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手書きで文字を書いていると、ふとした瞬間に文字に違和感を覚えることはありませんか?例えば「あ」という文字が、「あ」に感じなくなる。どうしてこの形で「あ」なのかわからなくなる。「あ」という文字が「あ」で正しいのか分からなくなるときです。つまり、「あ」という文字が「あ」として認識されない状態です。そういうことありませんか?
心理学ではこの現象をどのように捉えているのでしょうか?
書字スリップに同じ文字を書き続けると似た文字を間違って書いてしまう現象があります。例えば「あ」を何度も書いていると「お」を書いてしまうことです。それとは違います。
「あ」が「あ」として認識されなくなるのはどうしてでしょうか?教えてください。

A 回答 (5件)

 


No.2 の回答者の方が、「ゲシュタルト崩壊」という言葉を示していますので、補足します。

「あ」という文字が「あ」として認識できるのは、言うまでもなく、個々の線のパーツが、全体として、「あ」という文字のゲシュタルトを構成しているからです。ロールシャッハテストの場合も、aster 氏の説明を使えば、ある人は、「羽根を広げた蝶」と見る模様を、別の人は、「こうもりの顔」だと見る場合、これは、二人の人で別々の「ゲシュタルト構成」をしていることになります。

しかし、aster 氏が、「ここでは、知覚の場のゲシュタルト構造から来る「錯視」などとは違う、高次水準の了解心理機構だということです」と補足的に述べているように、パターン認識とか、意味了解というのは、遙かに複雑な認識構造を持っているのです。

「「あ」が「あ」として認識できなくなった、というのはゲシュタルト崩壊です」というのは何を言っているかというと、「ゲシュタルト崩壊」とは何かというのが、「あるまとまった全体パターンが、その全体的まとまりとして把握できなくなる」という事態のことなのですから、「「あ」が「あ」として認識できなくなったのは、「あ」を「あ」として認識する脳の機能が、何かの理由で機能しなくなったので、「あ」が「あ」に認識できなくなったのです」と述べていることで、これは同義反復になっています。

「あ」が「ひらがなの《あ》」ではなく、「何か分からない模様」に見えるというのは、ゲシュタルト崩壊だと言えるのですが、しかし、その「何か分からない模様」が、「よく知っているひらがな」の文字だというゲシュタルト認識も同時にあるのです(それがなくなれば、そもそも、何か意味のない模様に見えるという認識が起こりませんし、「あ」という文字を書き続けることもできなくなります)。

前者の意識状態と、後者の意識状態の二つが並列して、ずれが存在しないと、「何か分からない模様に、「あ」が見える」という認識・自覚は生まれないのです。

「あ」が何か分からない模様に思えたときは、単に、「あ」のゲシュタルトについて、崩壊が起こっているのではなく、もっと広い範囲で、意識の認識様式に変容が起こっているのです。この認識様式の変容の結果、「あ」という文字のパターン把握の了解困難が起こるので、そんな「あ」という文字だけに都合良く、ゲシュタルト崩壊が起こっているのではないのです。

わたしたちは、世界や自分自身を、何かの「まとまり・秩序」ある全体として認識しており、それは広い言い方では、世界のゲシュタルト構成ということになります。しかし、色々な原因で、普段とは違う状態が起こることがあり、それは「普段のゲシュタルトの乱れ・崩壊」ですが、その原因や理由については色々なものがあるのです。

つまり、質問者の挙げている事例では、「あ」を「あ」という文字として把握するゲシュタルト認識は成立しているが、「あ」という文字がどういう意味脈絡のなかにあるのか、普段の連想システムが起動しない結果、「意味了解できなくなって」、何か分からない模様に感じられる、ということかも知れないのです。

(知覚の場でのゲシュタルト構成というのは、錯視図形や曖昧図形の認知実験で確認できます。しかし、「あ」が意味不明な模様に見えるというような場合は、「意味了解」や「意味解釈」などの高次精神機能が関係して来ているので、単純に、「ゲシュタルト崩壊」と言って納得できる話ではないのです。……とりあえず、記すことだけはします。質問者がよく考えてみて、何を妥当とするかは自由です)。
 

この回答への補足

さっそく回答ありがとうございます。
単にゲシュタルト崩壊しているわけじゃないということはわかりました。
>「意味了解できなくなって」
そこはよくわかるようなきがします。つまり形は認識できても、意味が伴わないということでしょうか。
記憶に意味記憶というのがありますが、それとは関係ないのでしょうか?回答がもらえたら嬉しいです。

補足日時:2004/04/05 02:38
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心理ではなく、脳でご説明しますと、例えば、



「でつ」

これは「で」と「つ」ですが、ジット見ているとスヌーピーに見えます。
見えませんか?(笑)

「見える」というメカニズムは、脳の神経細胞が、そのものに反応するから「見える」になるんです。つまり逆に言うと、脳梗塞等で視覚に関する神経細胞が死んでしまいますと、視力が正常でも「見えない」「なんだか分からない」という現象がおきます。

で、文字、図形に専門に反応する神経細胞もあるそうで、「あ」も、その図形に反応する神経細胞が反応して、始めて「あ」に成りえるんです。

しかし当然、脳にはいろいろな神経細胞がありますから、ジット見ることや、別の意識によって認識することで、他の神経細胞が働かせることが出来ますので、「あ」が「あ」でなくなったり、「でつ」がスヌーピーになったりするんだと思います。

「あ」を構成している黒い線だけに着目したり、空間に着目したり、人の顔を当てはめてみたり、いろいろな見方が出来るのもいろいろな神経細胞を働かす事が出来るからなんです。

実際にはもっともっと複雑怪奇な、頭が痛くなるようなメカニズムを経て「見える」になっているんですが、大筋では間違っていないと思います。
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  No.1 の maris 氏の回答で十分な回答になっています。これ以上に付け加えることはないのではないでしょうか(別の回答があるという方は、その回答を述べられれば良いでしょう)。念のため、「補足」に付いて、maris 氏の代わりに、私見を記します。

  >> 認知的?知覚的?なものではないかという意見があります。

  誰の意見でしょうか。またどういう内容の意見でしょうか。その内容が、「「あ」という文字が「あ」という模様ないし絵のように見えてくる……」ということなのでしたら、それは錯覚です。つまり、別の回答や考えにはなっていません。

  ロールシャッハ投影テストは、「意味のないインクの模様」を使っているのではありません。「インクの染みで偶然にできた、多義的模様を示しています」。二次元の紙の上あるいは何かの材料の上の線画や、彩色画が、何かの具象的な事物などの「絵」であるというのは、線画あるいは模様画が、何かの「表象」だという「了解解釈」を行う「心の機構」が人間の意識にはあるからです。

  つまり、「認知的・知覚的」水準の話ではなく、もっと高次な意味了解の心の機能の働きです。(「認知」というのは、実は、高次な意味了解機能も含むので、ここでは、知覚の場のゲシュタルト構造から来る「錯視」などとは違う、高次水準の了解心理機構だということです)。

  ロールシャッハテストは、模様をどのような図形の表象として連想了解するか、という「連想試験・心理投射試験」で、何かの模様に見えるか見えないかなどを、「意図して造ったのではありません」が、人の心が、自分の内部にあるイメージや表象を投影・了解して、意味を見てしまうのです。

  自然のなかにある、何かの連想を引き出す二次元模様や三次元模様(つまり、柳の木などが、薄暗いところで見ると、髪の長い女性が後ろ向きに立っているように思える場合や、自然に削られた岩の表に、人の顔の模様が見えたりする場合)と同様、「模様の意味」は、それを見る人の心が投影しているのです。

  一般に、ロールシャッハ試験で使う紙の模様は、「コウモリの顔」だとか、「羽根をひろげた蝶」というような答えになるのですが、これは、自然界で、動物の顔や、蝶などの羽根は、「左右対称」になっっているからです。意図して、「羽根を開いた蝶」の絵などを、造ったのではないのですが、紙にインクを落として、折り畳んで開いた結果、「左右対称模様」が自然に出来るので、そういう見え方が可能なのです。

  >> つまり、「あ」には意味があることを知っているのですが、それがただの意味のない模様に見えてしまうのではないか?

  maris 氏が例にあげている自分自身の経験では、「どこか知らない街」に思えたのです。それは、「街であって、人間の街で、日本の街、道路」だということは分かっているのです。それと似ていて、「あ」という文字が「日本語のひらがなの文字」だということは「分かっている」が、そこに、「見慣れない・何か分からない」という「違和感(広義の現実感喪失感覚)」があるので、「奇妙な体験」として認識されるのです。

  「あ」について、「日本語のひらがなの文字」という認識もなくなれば、「意味が分からなくなった・理解できななくなった・「あ」とは見えなくなった」という「自覚意識」も出てきません。

  小石などの表の模様を見て、「綺麗な模様」だとしか思わなかった場合や、本のページを開いて、読めない文字がぎっしり書いてあるとき、「読めない文字で書かれた本」だと思えば、何も「奇妙さ・違和感・意味が分からない」という自覚は起こりません。

  広い認識では「知っていることは分かっている」が、しかし同時に、「見慣れない・分からない・知らない」ものに思える・見えるので、違和感・現実喪失感覚になるのです。(ここでは、普通の了解を行う意識の状態があり、他方、同時にその意識と並列して、別の了解を行う意識の位相があるので、両者の不一致が、違和感・奇妙さとして感じられるのです)。
  

この回答への補足

詳しい説明ありがとうございます。
「あ」が模様に見えるのは錯覚ですか。説明が悪いのでしょうか?ある人は「ら」が模様のように感じ文字に感じなかったようなのですが、それは錯覚なのでしょうか?もしそうなら錯覚はどうして起こるのでしょうか?それは現実感喪失のせいなのでしょうか?もしそれを実験的に証明するとなるとどんな実験になるのでしょうか?
あとゲシュタルト崩壊についてはどう思われますか?

補足日時:2004/04/04 23:48
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 ゲシュタルト崩壊という奴ですね。


 ゲシュタルトというのはドイツ語で、全体性とか統合されたものとかを意味します。「あ」という文字はいくつかのパーツの組み合わせで構成されており、私たちは通常、その全体(ゲシュタルト)を「あ」という文字として認識します。けれども認識を司る脳神経に興奮などの異常が発生すると、全体を全体としてそのまま把握することが困難になり、ばらばらのパーツが無意味に組み合わされたように感じられます。この状態がゲシュタルト崩壊です。
 この言葉でネットで検索すると、いろいろ情報が出てきますよ。
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この回答へのお礼

ゲシュタルトが関係しているのでは?と私も考えました。もし実験的に証明するとしたらどうなるんでしょうね。もしアイデアがお有りでしたら聞かせてください。回答ありがとうございます。

お礼日時:2004/04/04 23:47

 


>つまり、「あ」という文字が「あ」として認識されない状態です。そういうことありませんか?

そういうことはあります。また多くの人は意識していない、またはあまり気にかけることがないのですぐに忘却するので、体験記憶として残っていないだけで、かなり普通に起こっている心理状態だと思います。

次の参考URLの「離人症障害」のなかの「現実感喪失」という項目の説明を見てください。

>離人症性障害
http://dissociative-disorder.kdn.jp/survivor/dis …

>現実感喪失は
>「外的世界の知覚または体験が変化して、それが奇妙に、または非現実的に見えること」と定義されます。

これは、精神障害または人格障害としての「離人症」に付随して起こる症状ですが、「現実感喪失」感覚というのは、正常な人でも、疲労している場合とか、単調なことをしているときとか、新しい場所に行ったときとか、何か未知の経験に直面した場合などに生じます。

意識の状態は、覚醒水準以外にも、ある場面に対応した自我状態・自我の位相的構成というものがあります。ある自我状態から、何かのきっかけで、ふと別の自我位相にずれたとき、自分自身とか、外界の様子とかが、見知らぬ何か、または奇妙な何かに感じられることがあります。

こういう「ずれ」の発生はある程度普通に起こっていると考えられるのですが、すぐに補正されるので、意識にあまり昇らないのです。また「勘違いした」というのは、このずれの結果起こるのですが、「勘違い」という了解カテゴリーに収まると、別に奇妙なことではなくなるのです。

わたし個人の経験の一つで、よく歩いている道を考えごとをしながら歩いていて、普段は曲がる角を曲がらないまっすぐに歩いたとき、二、三十メートル歩いてから、ふと立ち止まると、「ここはどこなのか?」と周りを見回して奇妙な感じに襲われたことがあります。

いつの間にか、「知らない街」にいる自分を見出したのです。不可解なので、考えてみると、いままでまっすぐに歩いていた記憶があるので、単純に元来た道を戻り始めると、十メートルと歩かないうちに、街が見慣れたものになり、普段曲がっている角を曲がらないで、まっすぐ歩いたので、意図していた場所に進まなかったので、奇妙に感じただけだと理解できました。

「あ」をたくさん書いていると、意識が一種の軽い「トランス状態(変容意識状態)」になるのだと思います。このとき、あらためて「あ」という文字を認識しようとすると、そのときに、自我状態の「ずれ」が生まれるのです。

催眠術をかけるとき、振り子を振って、これを目で追わせます。機械的周期的な運動を追随していると、意識が軽いトランス状態に入り、このとき、催眠誘導者が、適切なタイミングで暗示の言葉を語ると、もっと深いトランス状態へと入って行きます。

単純なことの反復や単調な繰り返しを行っていると、意識状態が軽いトランスに入り、自我の状態もずれてきます。高速道路などでは、道路が単調なデザインだと、運転者が、時速100キロとかで運転していながら、軽いトランス状態になり、現実感がずれて、運転事故が起こる可能性があるので(つまり、時速100キロの意味が分からなくなり、危険な運転をしてしまうので)、単調さを破るための刺激を準備するよう設計します。

多くの人は、ずれによる軽い現実感喪失を急激に忘れてしまったり、また特に気にしないので、問題として捉えないだけで、一般的なことです。
 

参考URL:http://dissociative-disorder.kdn.jp/survivor/dis …

この回答への補足

認知的?知覚的?なものではないかという意見があります。「あ」という文字が「あ」という模様ないし絵のように見えてくる。例えばロールシャッハテストでは意味のないインクの模様が何か意味のあるものに見えてくることがあげられていますが、それとは逆の現象ではないかと思うのです。つまり、「あ」には意味があることを知っているのですが、それがただの意味のない模様に見えてしまうのではないか?この意見についてはどう思われますか?

補足日時:2004/04/04 19:26
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